「倫理的な幹細胞」論文への批判

--- 2007年01月25日

 昨年8月、アメリカの研究者らが着床前診断の技術を応用して、胚を壊すことなく、それらから取り出した細胞(割球)からES細胞株を樹立することに成功した、と発表し、英語圏では「倫理的な幹細胞ethical stem cell」などと呼ばれながら報道された。しかし、この研究は、ファン・ウソックたちのような「捏造」とまでは言われないものの、その伝えられ方には大きな誤解を生じる表現があったらしく、ずいぶんと議論になったようだ。

 その論文が掲載された『ネイチャー』誌自身のニュース欄が、この問題を自省的に振り返っている。科学ジャーナリズムとして誠実な態度だと思う。
 

『ネイチャー』
オンライン公表:2006年11月6日; | doi:10.1038/443012a
「倫理的な」幹細胞論文に風当たり
'Ethical' stem-cell paper under attack
『ネイチャー』における研究、透明度の不足で非難される。
Study in Nature berated for lack of clarity.

アリソン・アボット

「私たちがまず行なったことは、胚それ自体を壊すことなく、実際に、ヒト胚性幹細胞〔ES細胞〕をつくることでした」
〔2006年〕8月23日付け『ネイチャー』ポッドキャストで、ロバート・ランザはそう述べている。彼のグループの研究論文----同じ成果を意味するその要約----がオンラインで公表されたときのことだ (I. Klimanskaya et al. Nature doi:10.1038/nature05142; 2006)。この論文は、世界的なメディアの興奮をもたらした。とくにドイツにおいては、なおさらであったようだ。ドイツでは法律が、研究者たちが新しく樹立されたヒト胚性幹細胞株を使って研究することを妨げている。マサチューセッツ州ウースターにあるランザの会社アドバンスド・セル・テクノロジーAdvanced Cell Technologies(ACT)の株は、わずか10時間のあいだに、5倍の価格に跳ね上がった。
 しかしこのことは、この研究において16個の胚すべてが壊されたと明らかになったとき、すぐに反発に遭った。たとえばドイツの新聞は、結果を誇大宣伝したとして、ランザに加えて『ネイチャー』をも非難した。
「この論文についてあまりに多くのこと、そして、それがどのように公表されたのかが不明確なのです」と、幹細胞研究者であり、ドイツのミュンスターにあるマックス・プランク分子生物医学研究所Max Planck Institute for Molecular Biomedicineのハンス・シェーラーは不満をもらす。シェーラーは、黄禹錫〔ファン・ウソック〕のスキャンダルのすぐ後に、このような混乱がこの分野を曇らせたことに失望した、と言う。そのスキャンダルでは、韓国の科学者がヒトクローン胚から胚性幹細胞株をつくったと偽って主張した。
 ランザの論文が何らかのかたちで科学的に誤っているとは、誰も指摘していない。しかしこの分野における多くの者が、シェーラーと同じく、その全体的な似姿を嫌っている。「たぶん“言葉の鍛冶屋word-smithy”というのが正しい表現でしょう」とハーバード幹細胞研究所のジョージ・デーリーはコメントした。
 ポッドキャストにおけるコメントと同様、この論文の要約もまた、ACT社の科学者たちが、胚を壊すことなく幹細胞株をつくり出したとほのめかした。曰く、「新しい幹細胞をつくる能力と、胚を壊すことのない治療は、多くの倫理的懸念を解決する」。『ネイチャー』のプレスリリースもまた、それぞれの胚からただ1つの細胞が取り出された、と述べていた。これは、その後のニュースで繰り返された誤解である。
 しかしながら論文それ自体は、ヒト胚性幹細胞株が、8〜10個の細胞からなる最も初期の胚に由来する、1つの細胞つまり割球からつくられうるという原理の唯一の証拠を示している。〔研究に〕使われた胚はいずれも生き残らなかった。『ネイチャー』の論文の詳細と「補足情報」は、すべての胚は破壊されたことを明らかにしており、16個の胚に由来する91個の細胞が使われたことを述べている。わずか2株の幹細胞がつくられ、それゆえ、このプロセスの効率----わずか2パーセント----は、一見したところよりもずっと低い。
 この警告 caveat はとても深いところに隠された、と感じている者もいる。ヒト胚性幹細胞生物学を発展させるための欧州連合のプログラム、ESTOOLSの共同代表で、イギリスのシェフィールド大学のピーター・アンドリュースは、ジャーナリストたちだけでなく科学者たちも騙された、と言う。「ESTOOLSのキックオフ・ミーティングでは、2日後、多くの研究者がその原稿をいち早く読み、ランザらはほんとうにただ1つの細胞を取り出し、そして胚が生き延びたという印象を抱きました」
 その論文が生きているgoing live数分のあいだ、『ネイチャー』のプレス・オフィスはそのプレスリリースを、ランザの実験はいくつかの胚を破壊した、と述べるよう訂正した。2日後、すべての胚が破壊されたという2番目の覚え書きが明らかになった。「『ネイチャー』は、そのプレスリリースにおける問題の責任を取り、私はそれを謝罪します」と、『ネイチャー』編集長のフィリップ・キャンベルは言う。彼は、『ネイチャー』のポッドキャストの隅に釈明を載せ、その論文もまた釈明されることになるだろう、と付け加えた。
 ランザは、自分は1つの原理を証明したこと、そして論文の反応に驚いたこと以上のことを言おうとは、決してしていない、と言う。すでに確立されている着床前診断の手順----そこではただ1つの細胞が遺伝的診断のために抽出される----が、1個の割球が取り除かれた胚が生き残ることをすでに示している、と彼は付け加えた。「私たちはそのことを知っていました。だから私たちは、それぞれの胚から、無駄にならないように複数の細胞を取り出したのです」と彼は言う。
『ネイチャー』の論文は、ランザの方法は「移植された着床前診断胚PGD embryosから生まれた子どもたちやきょうだいにマッチした組織の生産をもたらす」だろう、と述べており、また、彼はいま、クリニックとの研究を計画しているという。彼は、この方法論が、アメリカの法律に適合する幹細胞の供給源をもたらすことを希望している。アメリカの法律は、胚の消費expenseによって樹立された、新しい胚性幹細胞株の研究への公的資金の支出を禁じている。
 多くの幹細胞研究者たちは、ランザの論文における科学を、予備的なものであるならば、興味深いものだと述べている。「あなたがヒト幹細胞生物学について学んでいることはどんなことでも、手助けになるでしょう。あなたが新しい細胞株を樹立することを望む、どんな方法であれ」とデーリーはコメントする。しかし、このアプローチを着床前診断胚に応用することが倫理的な懸念を解決するかどうかは、まだはっきりとしない(Nature 442, 858; 2006を参照)。日本で唯一、ヒト胚性幹細胞株を樹立した、京都大学の中辻憲夫は、このプロセスは赤ちゃんに小さなリスクをもたらすことを指摘する。「私たちは、このことが法的にはどのように解釈されるのかを知りません」と、アメリカ国立衛生研究所(NIH)の幹細胞特別作業班の議長ジェームズ・バティーは付け加える。「NIHはテストケースを必要とするでしょう」
 たとえばイギリス、スウェーデン、そして日本のように、細胞株が、体外受精で廃棄された胚から法的に樹立されているような国々の科学者たちもまた、ただ政治的規制を回避するだけのために研究を実施するという考え方に反対する。「どういうかたちであれ破壊されることになっている胚で研究することのほうがずっと倫理的です」とアンドリュースは言う。「もしあなたが法律を回避するという目的で科学を行なえば、物事は悪くなります。科学は不誠実なものに見えてしまいます」

 また9月には、スペインの研究者らが、「死んだ胚」からES細胞を樹立することに成功した、と発表した。このアイディア自体は下記の記事中にもあるように、すでにアメリカの研究者によって提案されていたものである。いわば、「脳死」ならぬ「胚死」概念の導入である。しかしこのアプローチに対しても、科学、生命倫理の双方から批判があるようだ。
 

科学者たちは、すでに死んだ胚から幹細胞をつくる
Scientists Create Stem Cell Line From Already Dead Embryo

2006年9月22日(金)
AP通信

 科学者たちは、自分たちは、自然に発生をやめ、それゆえ死んでいると考えられるヒト胚からES細胞をつくった、と言った。そのような胚を使うことは、そのような細胞をつくることをめぐる倫理的懸念を少なくするに違いない、と彼らは指摘する。
 ある専門家は、この技術は幹細胞の採取を、臓器移植と同じくらい倫理的に問題のないものにする、と言う。しかしそれは科学的、倫理的な問題をはらむものだと言う者もいる。
 科学者たちは、疾患を研究し、たとえば糖尿病やパーキンソン病といった病いを治療するための移植用組織をつくるために、ヒト胚性幹細胞を使いたがっている。そのような細胞は2、3日齢のヒト胚から採取される。採取の過程は胚を破壊する。このことは倫理的反発を引き起こしている。
 この新しい研究は木曜日〔2006年9月21日〕、『幹細胞』誌でオンライン公表され、スペインのヴァレンシアにあるプリンス・フェリペ研究センターのミオドラグ・ストイコビッチと、同地やイギリスにおける〔彼の〕同僚らによってもたらされた。
 彼らは、患者の同意を得て、体外受精クリニックから提供された胚を研究した。その研究の一部は、132個の「〔分裂を〕停止したarrested」胚に焦点をあてた。それらはさまざまな発生段階にたどり着いた後、24時間もしくは48時間、分裂をストップしたものである。
 これらのうち13の胚は、そのほかのものよりも発生し、細胞分裂が止まるまでに16〜24細胞に到達した。科学者たちは、そうした胚のうちわずか1つから、1つの細胞株をつくることができた。
 これらの幹細胞は一連の検査において正常にふるまった、とストイコビッチは電話インタビューで言った。
 この結果が胚性幹細胞をめぐる倫理的懸念の解決を意味するかどうかは自分にはわからない、と彼は言った。この研究のポイントは、そのような胚が、どんなものであれ何らかの競争をつくり出すということではなく、健康な胚のほかにも、さらなる細胞の供給源をもたらすことだ、と彼は言う。どちらの供給源も使われるべきだ、と彼は言う。
 ニューヨークにあるコロンビア大学医科センターの実験治療部門長ドナルド・W・ランドリーは、2004年、停止した胚から幹細胞を得るというアイディアを提案し、この研究を、この分野における重要な一歩と呼んだ。
「あなたが胚の人間性personhoodについてどのように感じていようとも、もし胚が死んでいるのならば、人間性の問題は解決されます」とランドリーは言う。
「だからこのことは、ヒト胚性幹細胞の創出の倫理を、いわば、臓器移植の倫理へと低減するのです。それゆえいま、あなたはまさにこう言っている。『私たちは、死んだ患者から生きた臓器を採る方法で、死んだ胚から生きた細胞を採れるのですか』と」
 ランドリーは、このアプローチを追求しているコンソーシアムの一員である。
 しかし、このアプローチは倫理的問題を解決し損ねている、と言う者もいる。
 もし〔分裂を〕停止した胚が培養皿ではなく女性の子宮に置かれたとき、それが分裂をやめていることを証明する方法はない、と、ロンドンにある医学研究会議の国立医学研究所のロビン・ラベルバッジは言う。それゆえこのことは、それらの成長をとめたのは実験環境であるという可能性を開いたままにする、と彼は言う。
 フィラデルフィアにある国立カソリック生命倫理センターの教育部門長タッド・パチョルシジクPacholczyk牧師は、もし個々の細胞が生きていて、幹細胞株をつくることができるのであれば、胚は死んではいないと思う、と言う。
 もしその細胞が、1つの有機体=生命体organismとして機能するよう、ともに働くことをやめたのならば、胚は死んでいる、とランドリーは言う。しかしこの定義の下においてでさえも、あるもの〔胚〕がほんとうに死んだときを見分けるために、科学者たちが初期胚について知っていることはあまりに少ない、とパチョルシジクは言う。
 ハーバード幹細胞研究のジョージ・デーリー博士は、この新しい論文のアプローチはまた、科学的な懸念を引き起こす、と言う。つまり、〔分裂を〕停止した胚から得られた幹細胞は、ある種の未知の障害というリスクをもたらすかもしれない。
「もし胚に、それ〔分裂〕を停止させた何か悪いものがあれば、そうした細胞に何か悪いものはないのでしょうか」。このことはその利用に問題をもたらしうるのでは、と彼は問う。「私たちにはわかりません」


 以上、いずれもすでに旧聞に属することではあるが、ご参考までに。07.1.25

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