“万能な”、もしくは“普遍的な”細胞

--- 2008年06月08日

 僕は繰り返し述べているように、「万能細胞」という言葉に強い違和感を持っている。
 では、この「万能細胞」という言葉は、いつごろから使われ始めたのか。
 ES細胞もまた、「万能細胞」と呼ばれていたはずだが、記憶に自信がないので、先日、新聞記事のデータベースを検索してみたところ、少なくとも『朝日新聞』と『毎日新聞』は、ヒトでのES細胞の樹立成功を伝える初報から「万能細胞」を見出しに掲げていたことがわかった。

・(無署名)「臓器つくる万能細胞 米ウィスコンシン大など培養に成功」、『朝日新聞』1998年11月7日 朝刊2社〔第2社会面?〕
・(無署名)「どんな臓器も作れる可能性−−米国の医師ら、"万能細胞"増産に成功」、『毎日新聞』1998年11月6日医東京夕刊12頁社会

『読売新聞』は、初報ではこの言葉を使っていない。しかしもう少し後になってから、ES細胞研究への規制をめぐる審議会での議論を伝える記事のなかで、「万能細胞」という言葉を使い始めている。
 最近のiPS細胞の動向を伝える記事を注意深く読むと、ES細胞は「“従来の”万能細胞」、iPS細胞のは「“新型”万能細胞」と、使い分けられている場合もある。両方をまとめて、「万能細胞」と書かれることもあるようだ。
 ようするに、「万能細胞」とは、「多能性幹細胞」のことらしい。ならばそう書けばいいのではないか。
 また、ES細胞は「胚性幹細胞」、iPS細胞は「人工多能性幹細胞」が定訳になっているようだが、それぞれ何に由来するのかを区別できるような言葉にできないか。たとえば前者を「胚性多能性幹細胞=embyonic pluripotent stem cell=EPS細胞」、後者を「体性多能性幹細胞=somatic pluripotent stem cell=SPS細胞」と表現すれば、わかりやすく区別できると思う。
 なお英語圏では、ES細胞もiPS細胞も、「幹細胞(stem cell)」という枠組みで議論されることが多い。
 また、いうまでもなく「幹細胞」という場合、それは必ずしも、ES細胞やiPS細胞ほど幅広い「多能性」を持っているものだとは限らない。たとえば造血幹細胞は、まぎれもなく幹細胞ではあるが、血液を構成する細胞には分化するが、通常、それら以外の細胞に分化することはできない。
 英語圏で「万能細胞」に相当するような言葉が使われているかどうか、拙い記憶をたどってみたところ、ダートマス大学のロナルド・M・グリーンの書いた論文を思い出した。そのタイトルは「Can we develop ethically universal embryonic stem-cell?」(『ネイチャー・レビュー・ジェネティクス』2007年6月号)というもので、僕は最初、これを「私たちは倫理的に万能なES細胞をつくることができるのか?」と訳していた。「万能な」というのは、一種のアイロニーだろう、と。しかし、この論文を読んでみると、「universal」は、「万能な」というよりも「普遍的な」という意味で使われているらしいことがわかった。
 というわけで、僕はいまだに、英語のメディアで、日本語の「万能細胞」に相当する言葉を発見していない。
 そのこととは別に、グリーンの論文は重要な示唆を含むものなので、その要点をまとめた、ダートマス大学のプレスリリースを訳出しておく。08.6.8
 

ダートマス〔大学〕の教授、倫理的に普遍的な〔universal 万能な?〕幹細胞株を分析
Dartmouth professor makes case for ethically universal stem cell lines

ダートマス大学広報局 プレスリリース
07年6月7日投稿 スーザン・ナップ  (603) 646-3661

 生物学的に白紙状態の、とても若い細胞であるヒト胚性幹細胞(hESC〔ヒトES細胞〕)は、より特定化され、幅広い種類の臓器や組織の機能に貢献する能力を持つ。パーキンソン病のような疾患を治療するその能力は、ヒト胚性幹細胞を得ること、ヒト胚性幹細胞株の誘導と呼ばれるプロセスをめぐる、継続中の倫理的論争のため、実現されるには時間がかかる。さらには、それは、アメリカでは政治的に加熱した問題である。というのは、それは連邦の研究予算とかかわるからだ。
 ダートマス〔大学〕のロナルド・M・グリーン教授が最近発表した論文は、生きているヒト胚の破壊を避ける方法でのヒト胚性幹細胞株を誘導することについて、道徳的疑問と科学的実現可能性を精査している。『ネイチャー・レビュー・ジェネティクス』2007年6月号で公表されたこの論文は、現存ずる6種類のアプローチを検討している。すなわち、改変された〔体細胞の〕核移植altered nuclear transfer、単為発生〔処女生殖〕parthenogenesis、単一割球生検single-blastomere biopsy、体細胞の脱分化somatic-cell dedifferentiation、“死んだ”胚の利用the use of "dead" embryos、異常な胚の利用the use of abnormal embryos、である。この論文で述べられたグリーンの目的は、「普遍的にuniversally〔万能に?〕受け入れ可能に近い、ヒト胚性幹細胞研究を強く促進すること」である。
「私は、私たちはヒト胚性幹細胞の研究を追求でき、また、私たちの同胞の感受性を尊重できる、と思います。両方を行なうことは不可能ではありません」とグリーン教授は言う。彼は、倫理および人間の価値研究the Study of Ethics and Human Valuesのための「ユーニス・アンド・ジュリアン・コーエンthe Eunice and Julian Cohen」教授であり、ダートマス倫理研究所の学科長である。現在の論争を解決することに加えて、そうした代替案が、倫理的に普遍的なuniversal〔万能な?〕ヒト胚性幹細胞株を可能にしうる、と彼は主張する。「これらは、普遍的なuniversal〔万能な?〕O型の血液集団に類似している。すなわち、胚の道徳的地位についてのその倫理的見解にかかわらず、誰にでも使われうる〔細胞〕株である」
 ダートマス医科大学のコミュニティおよび家族医療community and family medicineの非常勤教授でもあるグリーンは、次のように言う。「この6種類のアプローチは、技術において異なります。最も直接的には、胚盤胞がつくられる方法において、です」。ヒト胚性幹細胞が見つかる、この胚盤胞は、まだ子宮には着床していない、3〜5日齢の胚である。「多くの人々が通常のヒト胚盤胞を、道徳的に保護されるに値するものとみなしているので、この試みは、胚盤胞を損なったり傷つけたりすることなく、かつ、そもそも初めの段階で通常の胚盤胞の利用を避けて、ヒト胚性幹細胞を誘導する方法を見つけることなのです」
 この論文は、この6種類のアプローチの背後にある科学を説明し、未来の幹細胞研究において、それらを有用なものにするために、克服されるべきハードルを記述している。そうした選択肢のどれもが、科学的難問や倫理的・政治的問題から自由ではないとしても、私たちはいま、それらを、現存するヒト胚性幹細胞誘導方法の“追加supplement”として----“置き換えreplacement”ではなく----開発しなければならない、とグリーンは考えている。(粥川準二仮訳)

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