テレビ標本箱

【著者】 小田嶋 隆
【出版社】 中公新書ラクレ
【出版年】 2006/11
【読書会幹事】 宮田清彦
読書会開催日:1月17日

芸能人・コメンテーター・その他大勢……。われわれの日常感覚からすると想定外の巨額が動き回り、巣食う者どもが右往左往する。視聴率とクライアントの意向に牛耳られた人々の標本箱、それがテレビだ。この現代最大のマスメディアには、誰もが疑問に思っているのに、誰も口にできない矛盾の数々が宿っている。そんなみなさんの思いを、ナンシー関のバトンを受けた当代随一の辛口コラムニスト、オダジマがたったひとりで代弁します! 討ち死に覚悟の場外乱闘の数々が繰り広げられる、今日もっとも危険な批評の本の登場。猛毒注意!
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『テレビ標本箱』についてのレビュー,ディスカッション

できた方は順次アップしてください。
ちなみに、当方は、今回手書きで持っていこうと思っています。

また、下記に連絡がありますので、ご覧下さい。
http://8820.teacup.com/jc/bbs

 「もしもナンシー関が生きていれば、日本社会はここ
まで右傾化しなかったのではないか?」と、かつて私は
本気で考えたことがある。
 ナンシー関が死去したのがちょうど日韓ワールドカッ
プの最中で、日本自体もその時期を境に右傾化したとい
う結果論からの話ではなく、ナンシー関こそが日本のア
イロニーのありようを提示してくれていたのではないの
か?という話だ。
 テレビ画面の中で行なわれていることを、そのままに
受け取るのでもなく、かといって、ただ真逆に反論する
のでもなく、「テレビの中で与えられた役柄をこなして
いく芸能人の意味を文章化し、笑いに転嫁していく」と
いうスタンスのありようこそが、ナンシー関の何者にも
変えがたい存在意義であり、だからこそナンシー関のテ
レビ批評は社会に広く受け入れられたのではないか。
 しかし、ナンシー関亡き後のテレビ批評は、もはや週
刊誌のページを埋めるだけの刺し身のツマに成り下がっ
た。小田嶋は雑誌のテレビ批評が「猛烈な勢いでレベル
ダウンしている」と気づいているが、果たして「何がレ
ベルダウンか」ということに気づいているだろうか?
 そんなことを思いながら読んで見たのだが、どうも気
づいていないように思われる。

 テレビ批評がアイロニー的であったのは、テレビ自体
が権力を持っていた頃の話だ。
 しかし今やテレビは「マスメディアの一端」に過ぎず、
権力は既にテレビを視聴するほうに移ってしまった。
 その権力が集約しやすい場所の1つが2ちゃんねるで
あろう。
 小田嶋は本書の中で2ちゃんねるとテレビの関係にお
いて「匿名の正義というものもある」のだと言う。そし
てテレビはその厄介な独り善がりの正義と付き合ってい
かねばならないのだという。
 私は、じゃあそこまで分かっている小田嶋は、どうし
て2ちゃんねる批評をしないのだろうか? と思ってし
まうのだ。
 かつてテレビという実名の正義というか、ふてぶてし
さを批評していたのがナンシー関なら、匿名の正義の厚
かましさを批評するのが、ナンシー関の後を継ぐものの
使命だろ。
 小田嶋は急いでそこに向かうべきだ。テレビ批評なん
かペリー荻野に丸投げしておけばいい。そこにはもうナ
ンシー関はいない。

(907字)

赤木智弘

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