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●バブル野郎殺すにゃ刃物は要らぬ 『下流社会』をぶっつぶせばよい その1
年末年始スペシャルとして、気づいたら50万部も売れてしまったらしい(仮に印税を10%とすれば、78円×50万か……)『下流社会』の批判を何回かにわたってやりたい思います。
まず最初に書いておくと、この本の批判はあまりにも簡単です。この本に頻出する「数値」のデタラメを暴けばいいだけです。しかも面倒な計算も必要ありません。すごい表層的なところにあまりにも杜撰なモノが書き連ねてあります。
けれども、本当の問題はこの本が50万部も売れてしまって、しかもこの本を評価している人がかなりいるということです。
そういう人たちは、まともに図表を読むだけの数的リテラシーがないのと同時に、そうした事を無視してでも、若い人を罵倒して、自分たちがさも「努力の人」であったかのように自慢したいと考えているのでしょう。本当は単に好景気の時代に生まれただけのくせに。
今回の文章は、『下流社会』を批判しつつ、下流社会を誉めるスタンスをもつ連中に対しても非難を加えるものにしたい。そう考えています。
あと、文章の形式は、各章ごとに批判していくという形式です。
前書きはこんなもので十分でしょうか? では、ここからはじまりはじまりー。
・はじめに
三浦展(みうらあつし)は、この本で論じる対象を「下層」ではなく「下流」だと論じている。
三浦展の論によれば、下層とは「働いても働いても豊かになれない貧乏人」、下流とは「中流であることに対する意欲のない人」なのだという。
その上で三浦展は世代論を持ち出し、「団塊ジュニア世代は、著しい貧富の差を見たことの無いまま、それを当たり前として下層に落ちるとも考えることなく育った。しかし、社会全体の上昇が終わり、意欲のある者だけが上昇し、それがないものが下降して行く」として、団塊ジュニア世代の「意欲」を問題としている。これがこの『下流社会』全体を貫ぬく、大まかな論点である。
だが、それは単純に世代論として適応させられる性質のものだろうか?
三浦展も認識しているように、バブル期、すなわち「かつて」においては、中流であることに対する意欲がなくとも、市場経済の上昇気流によって、日本人は自然と中流であることができた。
だが、現在は市場経済が停滞し、中流である意欲を持たなければ、中流であることができなくなった。
ならば、それは日本全体の問題であって、決して世代論的に団塊ジュニアがだらしないなどと論じてよい問題ではないだろう。
世代論ではなくて、日本人全体がバブルにより「上昇する意欲」を失い、経済が停滞している今現在も、その意欲を取り戻せずにいるという問題意識なら、わざわざ団塊ジュニアだけをことさら批判する必要はない。
三浦展は「若者は著しい貧富の差を見たことがなく、下に落ちるという恐怖心がないから、「下流でいい」と考えるのだ」と、団塊ジュニアを批判する。
だが、かつて1992年に『清貧の思想(著 中野孝次)』という本がブームになったときに、この本を支持したのは、著しい貧富の差を見たことがあるはずの年配の方々だった。バブル経済の崩壊が一般庶民にも明らかになり、経済成長を精神の支えとして錦の御旗に仕立て上げてきた日本人にとって、「清貧」というのは非常に受け入れやすいパラダイムシフトとして作用した。
そしてこの清貧の思想はまさしく「下流」の思想である。「カネやモノに囲まれた暮らしではなく、貧しくとも精神的に充実した暮らしを送ろう」という思想が、三浦展の言う「下流」でなくてなんだというのだろう。
単純に上昇意欲だけを問題に、それの欠如を「下流」というなら、現在、上層や中層の人たちすらも、上昇意欲がなければそれを下流と論じて構わないはずである。すなわち、既存の金銭的余裕を「層」、金銭的意識を「流」と定義し、この両者を別個の意味として扱えば、この問題定義はスッキリと明確なものになる。
ところが三浦展は、決して「層と流の違い」に触れることなく、経済的に下層に近い状態にある団塊ジュニアだけを指して、下流と言う言葉をあてはめる。
自ら「下流」という言葉を定義しておきながら、その実は「層」と「流」の区分は決して明確ではなく、逆に層と流の関係をごちゃまぜにしながら、「下層に近づいているのは、その人が下流であるから」という、根拠無き自己責任論を展開しているに過ぎない。そして、本の中で最後まで、中層が本当に中流志向であるか、上層が本当に上流志向であるかという点を証明することは無いのである。
ところで、「はじめに」の最後に「調査の概要」という項目があって、その中に必ず「調査企画プロデュース・総合分析:カルチャースタディーズ研究所」という名前が出てくることに気づいただろうか? 本全体をめくって行くと、ほとんどのグラフや図表に、この名前が書かれている。
実はこの研究所、三浦展が主宰する個人研究所なのである。
つまり、決して客観的意図による調査結果が既にあって、その結果を三浦展が分析しているのではなく、この問題点を論じるために、三浦展自らがこれらの調査を企画し、発注しているのである。
もちろん、筆者自ら調査資料を作成するという行為自体になにか問題があるわけではないし、資料そのものが捏造だ! などと主張するつもりもない。
だが、少なくともこれらの資料は、三浦展の都合によって集められた資料であることは、しっかりと認識しておく必要がある。特にこの本においては、グラフや図表に多くの罠が仕掛けられているのだから。
●「世に倦む日日」の哀れな教育観 おじいちゃん、もうやめて(笑)
現代日本がなかなかうまくいかないのは、天に唾する不安ベース社会と経済不振(投機ブームなんて、パチンコブームと一緒や)にあるわけですが、世の中にはどうしてもそれを若者否定にしないと不満な方々がいっぱいいるようです。
最近では左派を名乗る人すらもそうで、保坂展人までもが不安ベース社会を煽ったりと、「昔は良かった」が口癖の団塊おじいちゃんたちの機嫌取りに必死な状況になっています。社民は今だに自社連立をやってるつもりなんですかね?
そんな中で「世に倦む日日」の「文藝春秋1月号の誌面から - 日本人の知性劣化と「呪術の園」」と題された文章では、まさに年寄りが若者を目の前にした時に、知性などあっけなく崩壊することが、明確に記されています。
まず、パッと見て明確なツッコミ所はここですね。
日本人は勉強しなさすぎ、働かなさすぎの自己認識に至らない。二十年前の電車の中では、皆、必死にDOS入門とかEXCEL入門のマニュアル本と格闘していた。
ゲラゲラゲラ。DOSやExcelの入門本を読むことが「知性」って(爆笑)。
DOS入門ってのは今に置き換えると「Windows入門」ですが、こんなもん電車の中で読んでいたら、ただのバカです。もう時代は移り変わって「Windowsぐらいは、使えて当然」なのです。
Excelの場合はテクニカルな部分があるので、読んでてもおかしくは無いですが、それほど自慢することではありません。これもやっぱり使えて当然で、電車の中ではなく、自宅のパソコンでこっそり勉強する類のものです。
また、当時は個人でパソコンを持っている人も少なく、DOSやExcelに触れる機会が会社しか無い場合が多く、こうした入門書がビジネスバッグの中に入っててもおかしくはなかったし、会社のパソコンでお勉強もできたけど、現代の会社でパソコン使ってExcelの勉強なんかしていたら「そんなの家でやれ」と怒られるのがオチです。長年続いた不況で、人員が極端に削減された若い社員の立場では、実務に追われて、そんな初歩的な勉強をしているヒマはありません。
20年前にこの程度のことを勉強と見なしていたのは、バブルの好景気で会社員全体がヒマだったからでしょう。
しかも、経済が絶好調でしたから、この程度のことで給料がすぐに上がったという現実があったからでしょう。
人間は社会の中に生きているのですから、人間は社会によって規定されます。
資本主義社会においては、人は金を稼ぐために生きています。これは単純に「金になることはやるけど、金にならないことはやらない」ということです。名誉であるとか社会的承認であるとかは、これを補完するものとして働きます。
そういうシステムである以上、社会が勉強することに金を払わない以上は当然勉強なんかする必然性がないのです。
勉強しない若者を批判するんなら、勉強に対して金を出さない社会を批判するのが、当然のスジなのです。
そしてもう一つ、重大なツッコミ所がここですね。
だから、私はブロガー同盟という運動をネットで提唱して推進しようとしているのだけれど、発起においては、それは単なる数集めの政治運動だけではなく、内実として、日本のこれ以上の知性劣化に歯止めをかけたいという文化運動の意味と目的もあった。日本人の大脳皮質を薄くしよう薄くしようと仕掛けてくる米国と政権と資本の側のメディア戦略に対して、それにプロテストして、二十年前、三十年前の日本人の知的水準を回復しようじゃないかという知性主義復興(ルネサンス)の側面もあった。
さまざまな人から、そのスタンスを疑問視され、また内部においても各種のゴタゴタを抱えていた「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」ですが、とうとう主犯みずから、そのねじくれ曲がったファシズム志向を暴露してしまいました。こんなんじゃ知性とかを気にしていない小泉政権の方が、よっぽど反ファシズム的じゃないか。
そもそも、私は「ブロガー」という言葉に反発を感じてまして、だからこそこの運動に参加しなかった経緯があります。そして、実際発起人自体がこうした思想の持ち主であったことは、この「ブロガー」という言葉と無関係ではないと考えます。
では、なぜこの同盟は「ブロガー同盟」であって「市民同盟」ではなかったのでしょうか?
「ブロガー」という言葉は、単純には「Blogツールを使って、日記などを書いている人」という意味です。
しかし、生きている言葉というのは、決して単純な意味に留まることなく、さまざまな付加的な意味をくっつけながら生きています。
Blogに特徴的なのは、記事に直接付属する形になる「コメント欄」と、相互リンクを自動的に行う「トラックバック」で、この両者の存在が単なる「日記生成のためのツール」という域を越えて、高次のコミュニケーションツールとして機能しています。
そう考えた時に「ブロガー」という言葉は、Webに日記を書いている人という意味から、「Web上で高次のコミュニケーションを取る人」という意味に変質していきます。
するとこのときに「ブロガー」に対してなんらかを期待するというのは、「コミュニケーション」に対する期待なのです。
先日書いた、Willcomファンサイトの件にしても、Willcom側は彼を「飲ませる」ことによって、何に期待しているかといえば、Willcomコミュニティーの維持、拡大です。
他にも「自民党」や「民主党」などの開いた懇談会も、要は高次なコミュニティーを用いた宣伝の意図です。
つまり「ブロガー」という言葉には、常に宣伝の意図が透けて見えるのです。
宣伝というのは、決して「意見交換」ではありません。宣伝は一方的に喧伝され、通達されるものです。
「改革ファシズムを止めるブロガー同盟」についても、決して共同体的な意図ではなく、「世に倦む日日」の思想の宣伝をしようと意図したからこその「ブロガー同盟」なのです。だから連帯を意味する「市民同盟」などの別の言葉ではなかったのです。
念のため記しておきますが、私は「宣伝はいけない」とはまったく思っていません。
ただ、それに賛同するにせよ批判するにせよ、そのことに対して自覚的であるべきです。
なんとなくこうした宣伝活動になんとなく参加して、なんとなく「こんなことがあるよ」とブログに書いてしまうような無自覚さこそ、批判されるべきでしょう。
#次回予告
「我々はニュースソースではない」の巻
●「RULE of ROSE(ルール・オブ・ローズ)」が大変面白げだ。
制作はラブデリック系の、「ちゅうりっぷ」なんかを開発した「パンチライン」なので、非常に期待できます。少なくともCGの美麗さにかまけることは無いでしょう。
●自虐史観に負けるな友よ
中学生ぐらいの頃かな。父親が多分電車の中で読むであろう、ビックコミック(オリジナルだとおもうけど、スペリオールと区別が付かないので分かんね)を持って帰ってきていた。私はそれをみると、必ずめくって西岸良平の「三丁目の夕日」を読んでいた。
昭和初期の牧歌的な世界と人間観は、幼心に心地の良いものであったし、時はまさに少年ジャンプ全盛期で、「友情・努力・勝利」と冠される、極めて熱く、そしてなにやら薄ら寒い少年漫画が身の回りにあふれる中で、西岸の漫画はそれとは違った漫画のありようを伝えてくれる箸休め的な作品で、素直にとても大好きだった。
けれども、それはあくまでも「漫画の中の世界」だった。私はあくまでも西岸漫画を「失ったものへの郷愁」と理解したし、漫画界的にも西岸は佳作作品を多く生み出す漫画家として扱われており、決して大々的に取り上げられるような存在ではなかった。
そして、西岸漫画の世界は、あくまでも「仮想」であった。あの頃の漫画界は仮装と現実をしっかりと区別していた。
時は過ぎて現在。
知ってのとおり、あの「美しい幻想」に過ぎなかった三丁目の夕日は、なんかへんな英語名を付けられて、映画になった。
そして、その映画を観た人が感想を言う類のCMだったか、映画特集の1シーンだったか忘れたけど、若い人がこの映画を見て「昔は、人々が生きるという事に対して、真剣だったような気がします」と発言していたのを見た。
「ねぇ、それは映画ですよ? 脚本家が脚本書いて、演出家が演出して、役者が演技をして、大道具や小道具がセットを組んで作り上げた仮想の世界ですよ?」
第2日本テレビの中に1964年(昭和39年)の東京の映像がありますが、煙に被われてとてもキレイなどと一言でも出てくるような空ではありません。
念のため、環境白書を調べてみると、昭和44年頃からになるが、長期のグラフのある「窒素酸化物」「粒子状物質」「硫黄酸化物」「一酸化炭素」、このいずれにおいても、グラフは右肩下がりであって、映画の中で映し出されるであろう「美しい空」など昭和30年代にはとても望めなかったであろう現実が見受けられる。(そして当然撮影は現在なのですから、あの空は現在のもの)
思い出は常に美しいものだし、それを単独で美化することに文句をいうような野暮はしない。
けれども、そうして作り上げた仮想現実と、現在を比較して「昔のほうが良かった」などというなら話は別。
ましてや、このようなメディア利用の上で若い人たちに、さも「昔の人たちは偉かった」と思わせるようなことをするのなら、当然徹底的に反論させてもらう。
若い人たちが、自分たちの事を卑下することのないように、それこそ若い人たちが生きた歴史を否定する本当の意味での「自虐史観」に陥らないようにしたい。
そう、自虐の「自」は「自分」の自であって、決して「自国」などという意味不明の単語に読み替えてはならない。
自分を守れ! 自分の今生きている世界を守れ!! それこそが現実だ。
#次回予告
「「世に倦む日日」の哀れな教育観 おじいちゃん、もうやめて(笑)」の
●変な話をするけどさ、わたくし赤木智弘は、東天王ヨブに憧れているわけですよ。
ね、変な話でしょ。東天王ヨブは、赤木智弘のハンドルじゃねーかと。ナルシズムですか? みたいな。
でも、本名の自分の無味乾燥とした生活と、そこに貶められて、抜け出すことの努力すらできない自身の不甲斐なさを認識する中で、東天王ヨブのように自説をはっきりと表明し、社会に対して強気でいられる人格というのは、まさに理想なんですよ。
「これからは本名でやる」といいながら、今だに「赤木智弘(=東天王ヨブ)」という書き方しかできないのは、この両者が自分の中でイコールになっていないからで、本当は本名一本でやりたいんですよね。
けれども、それにはWebを現実に変換しなければならない。その手段がまったく分からない。
ここで書いているそのものが生活の手段、すなわちお金になることでしか、それはなし得ないと思うのだけれど、その手段が全く分からない。
そして、いざ自分の文章をお金と見比べた時に、それに値するものであるという自信が全くない。
なぜなら、お金という「生活」を見つめるのは東天王ヨブではなくて、社会とロクに対峙できない赤木智弘としての意識だから。
文章がWeb上での、あくまでも「架空」の存在であるかぎり、東天王ヨブとして強気で要られるけれども、生活者としての自分はとても恥ずかしくて後ろ向きでしかいられない。
いつの日か、東天王ヨブの強さを、赤木智弘の中に内包できる日は来るのだろうか?
……。こんなことを書いても情けないだけなんだけど、今ははっきりとそれを伝えたい気分だ。きっと後から読むと消したくなるんだろうけど。
●広井王子原作の特撮ヒーローものが、来年から放送されるようですよ。
……あれ? 配役一覧の一番下に……しかも御厨博士って……間違いなくマッド・サイエンティストみたいな役なんだろう。オーラルヒストリーじゃないよね、きっと。
ちなみに「番長が出演する回は、16、17、18、24、38、49、52(最終回)話となります」(2005.11.25)だそうです。味方の博士なら早いうちにレギュラーで出るはずだから、やっぱり敵のマッド・サイエンティストだな(決めつけ)
●年次改革要望書がやってくる ヤァ!ヤァ!ヤァ!
関岡英之の「拒否できない日本」で初めてと言っていいほどまともに取り上げられた、日本を操る米国産紙っきれ。小泉の言うところの「改革」の本丸。「年次改革要望書」の今年度版がとうとうやってきましたよ。
・アメリカ大使館のプレスリリース
・原文(英文、PDFファイル)
邦訳はいずれ、アメリカ大使館のサイトに掲載されるでしょう。
私は英語が全然ダメなので、いろんなサイトに書かれたことを総合すると、既に完了しつつある「郵政」と「牛肉」に替わり、今度は「医療改革」が要求の柱になるようです。タミフルなんかの事ですね。
で、具体的に言うと、「混合治療」を解禁し、保険適用外の自由診療の率を増やし、そこに米国産新薬をどかどか投入させろという要求であろうことは、疑いようがありません。
そして、その薬代を支えるのが、外資系の医療保険会社ですね。不安ベースに乗っ取った保険ブーム(CM量を調べてみれば一目瞭然)という土台は既にできていますから、後はタミフルのように「先端医療は素晴らしいんだ! 医学バンザイ!!」という世論を形成すればいいのです。裏切られたと気づいたって、どうせ後の祭です。
たとえば、保険適用外になってしまう薬の例については、以前にもお伝えした、花粉症治療の薬などですね。
ただ、この辺は患者数も多く薬価が高いとも思えませんので。意味的には「混合医療になっても、決して医療費が高額になるわけではないよ」という宣伝のために設定されていると考えていいのではないでしょうか。
こうした件について、医師会などは既に懸念を表明していますが、国民の目は姉歯のズラや、危険でもなんでもない子供たちの安全にばかり行っており、ほとんど省みられていないのが現状です。
また、病院での老人の威張り腐った態度に対して憤っている人たちが、こうした改革を「老人を病院から追い出すもの」として、肯定するということもあります。この点について、病院は病院に通うことが趣味になっているような人たちに対して、はっきりと治療や投薬、そしてもちろん「待合室に溜る」ことを拒否する姿勢をハッキリ示す必要があるでしょう。
そして、これが決して日本人としての内部的な議論から立ち上がって来た話ではなくて、アメリカからやってきた紙っきれに指図されている話だってのが、笑わせるじゃありませんか。アメリカ経済のために自国民の健康を売り飛ばす政府って、一体なんなのでしょうか?
●田中正造のように
出先で下野新聞を見ていたら、一面にとんでもないコラムを見つけた。
その内容は、田中正造の名前を出して、「田中正造はこんなに努力をしたのに、ニートと言われる連中は、なぜ全く努力をしないのか。」と、若者を罵倒するものであった。
田中正造は、足尾銅山から出る煙害と、渡良瀬川に流される鉱毒による害に生活をボロボロにされた人たちのために私財を投げ打って活動し、ついには死刑を覚悟で天皇に直訴を試みた人物として知られている。(この時の直訴文を起草したのが「幸徳秋水」だというのは、QMA知識)
田中正造は、なすすべない人々の生活を改善するために、果敢に政治活動を行った。そのことをちゃんと考えれば、このコラムにおける「鉱毒をたれ流す銅山」と「なすすべなく苦悩する庶民」と「田中正造」の関係性が、あまりにも暴力的に改竄されていることに気がつく。
ここまで書けば分かるとおり、今の若者の現状を足尾鉱山事件になぞらえれば、「なすすべなく苦悩する庶民」こそ、下野新聞のコラムを書いた人間が批判するニート、すなわち若者である。
卒業した年の経済状況で、人生が左右されるような不平等極まりない就職環境の中、運悪く納得の行く職業につけずに、フリーターになったり、会社組織自体に入る事を諦めたニートたち。それは団塊の世代などのに過剰に配慮し、「団塊の世代の言う社会」の利益を最優先した労働市場の有り様、すなわち労働力の買い叩きをいつまでたっても是正しない、国による人災である。
そうした若者たちから、社会利益のために搾取を行い、あまつさえこれでもかこれでもかと卑下する「鉱毒」。それはまさに今回のコラムのような言論、まさに「言毒」だ。
ならば、田中正造は、そのような就職システムを厳しく批難し、その解体を目指す人物だろう。
ニートという差別言論をたれ流し、不平等社会の上層で甘い汁をすすり続けるこのコラムを書いた人物に、田中正造を理想化する資格はない。
私は、「頑張った人」などという道徳的理解ではなく、現実に鉱毒のたれ流しを批難し、改善のために努力を続けた、地道な「活動家」としての田中正造を支持する。
地方新聞というメディア権力者によって、その名前をいいように利用されるのでは、庶民のために苦労を続けてきた田中正造が報われない。
●森達也の「悪役レスラーは笑う」が面白くて、つい一気に読んでしまった。他に読まなきゃいけない本がいっぱいあるのに。
けれども、やはり昭和プロレスを知っている人間にとっては、たまらない本ですよ。
もっとも、私が「昭和プロレスを知っている」と言っても、それはリアルではなくて、もっぱら判の小さい頃の「紙プロ」から得た知識ですね。リアルで(TVで)みていた記憶というのは、土曜午後4時からのワールドプロレスリングなので、本当に昭和プロレスを知っているわけではない。
ただ、ヤラセやブック、アングルといったものを内包しながら、それでも勝負論を焚き付けるようなプロレス観は、それがタブーであった昭和も、既にブックの存在が明確な現在も、決して変わってはいないだろう。
で、読んで思ったのは、「当時の社会は、暴力が生活の中にあったのだな」ということ。つまり、グレート小鹿が語るように、かつては仮想と現実の区別なんかロクに付いてなくて、悪役レスラーがエキサイトした観客に襲われるような事が日常茶飯事で会ったということ。もちろん小鹿の件はアメリカであって、日本では多少違うのだろうが、それでも「日本人である(実際には在日韓国人であったが、そのことはタブーとして伏せられていた)」元力士の力道山が、毛唐のシャープ兄弟をチョップでなぎ倒したカタルシスは、そこに密接に繋がっている。
ある意味、ナショナリズムという大いなる幻想ためには、現実などは仮想でも真実でもどうでもよかったということだろう。だからこそ当時の日本人は、百人斬り報道やゼロ戦のすごい活躍っぷりに心を躍らせたというワケだ。(だから、百人斬りが嘘だろうが本当だろうが、我々がそれを喜んで受け入れたという事実は否定できない。戦時における、そうした人間の命の軽さこそ批判されるべきだろう)
そうした「どうでもよさ」に抗うからこそ、森はこの本の中で執拗にグレート東郷というレスラーの「真実」を探ろうとするわけで、それはある意味、プロレスという「仮想の戦い」を、さも現実のように受け入れて愛好する「仮装と現実の区別もつかない」プロレスファンの姿勢とは、まったく相容れないように、見えるかもしれない。
しかし、先にも書いたように、プロレスファンはプロレスが「ヤラセ」であることを知っている。知っていて、たとえば見事な受けであるとか、パフォーマンスであるとか、存在感とか説得力であるとかという、単純に勝ち負けとは別の所にプロレスラーの凄味を発見しようとする。
そして、そうした凄味は、プロレスを単純な勝負と考えている時点では、まったく見えない。いわば、プロレスファンというものは、プロレスがヤラセであることを知ってからがスタートなのである。
だから、「卑劣なジャップ」というアングルを背負ったレスラーのバックグラウンドを追う森の姿勢は、まさにプロレスファンの姿勢といえる。グレート東郷の真実の姿を知ることができたその時に、初めてプロレスファンによるグレート東郷の評価が始まるのだろう。
#個人的には、帯の香山リカに萎えてしまうのだが、まぁナショナリズムとプロレスという題材だと、やっぱりこの人しかいないか……ちなみに、香山リカの名前を初めて見たのは、ファイプロ(たしかIIIのハズ)の攻略本の中。
●買い叩かれるブロガー
Willcomファンサイトの中の人が、必死になってWillcomの擁護をしている件について。
詳細については適当に読め……と言っても、詳細はあってないようなモノだ。
上記リンクでamegriffが書いているのは、代理店にW-ZERO3が落ちてこない権だが、ファンサイトの中の人の擁護発言は、ケータイwatchのこの記事で、W-ZERO3予約サイトが落ちたことをさして「次回の予約受付で再び同じ状況になるとすれば、同社の通信事業者としての資質を問われることにもなりかねない」
としている部分を意味不明だとしている発言の事である。その辺についてのamegriff発言はこっち。
……分かりにくいな。まぁいいや。
で、ここから本題。
まず、amegriffは、Willcomファンサイトの中の人がWillcomの執行役員などと飲んでいることを指して、「それは癒着だ」と指摘するわけです。
それに対してWillcomファンサイトの中の人は、
ウィルコムと癒着?笑わせないでくれ、俺を買収するなら美しい美女か1000万円か、W-ZERO3を発売前にプレゼントぐらい必要ですw(←安っw)
大切な出会いを癒着とか言われてホントむかついています。
と、発言するわけです。
すると、まずこの時点で二人の考え方の相違……ハッキリいえばレベル差がクッキリ出ています。
amegriffがいわゆるジャーナリスティックな文脈で「癒着」を指摘し、その点についての見解を述べているのに、Willcomファンサイトの中の人は、「癒着をして何が悪い」と返すのではなく、「大切な出会いを癒着とか言われてホントむかついています」と、そもそも癒着自体の問題性を意識していない返し方をしています。そして、実際「Willcomの執行役員などと飲んだ」事を記事にしている時点で、Willcomファンサイトの中の人に一切の「悪気」がないことがうかがえます。
この時点で、話はまったく通じていないのです。そしてこうした「自分がしていることに対する意識の無さ」が、総じて昨今のブロガーの共通点のように感じるのです。
Willcomの執行役員などと飲んだページのコメント欄を見てもらえれば分かると思いますが、この件に対して肯定的なコメントというか、そもそも否定と肯定という文脈じゃなくて、単純に「Willcomの人たちと飲むなんてすごい」という讃美になっています。そもそも同席することに対する疑問が生じてないんですね。amegriffの発言は、これを揶揄するものです。
で、私個人の見解としては、「癒着は全然構わない」と思います。ただ、それは本人が分かってさえいればの話です。
ファンサイトという括りの中で、Willcomの情報をいち早く知りたい、いち早くサイトを見ている人に伝えたい。ということで、癒着するのは問題ないし、そのような共犯関係は日本的なマスコミが普通にしていることです。
一方、Willcomが僕らにとって良いメーカーであるために、ファンの立場から厳しく提言したいので癒着はしない。という姿勢も当然ありでしょう。これはまさしくジャーナリスティックな文脈ですね。
ところが、Willcomファンサイトの中の人や、中の人を讃美する人たちは、そうした文脈の中にはいないのです。彼らはただWillcomを讃美し、ただWillcomの人と酒を飲んだだけです。そこに自発性は一切ありません。
第一、これだけ情報をたっぷり掲載するファンサイトを運営しているんだったら、W-ZERO3ぐらい貰ったっていい立場でしょ。つか、広告料をWillcomから取ったって問題ないでしょ。Willcomにしても、変な大学サークルのパンフに広告乗っけるより(Willcomが出してるかどうかは知らないけど)、ファンサイトの運営者に金や情報や端末を回したほうが、いい宣伝になるんじゃないの?
そういうことがなにもなく、ただファンだからファンサイトをやって、ただ飲みに誘ってもらったからと飲んで、それで金も端末ももらってない(情報ぐらいはもらっているだろう)ってなんなんだろうと。
結局、Willcomファンサイトの中の人や、それを讃美する人々には、そうした手法に対するナイーブさが存在していない。これを私は、「実業で一生懸命稼ごうが、デイトレでパソコンの前で稼ごうが金は金」とする、刹那的な経済観念と合致するありようだと考えます。
金持ちや権力者はエリートであるがゆえに社会的に責任を持つのだという、責任論が放棄され、万人が平等であるというエセ前提に立ち、その帰結をさも努力の帰結であるように振る舞う、責任と乖離した経済観念が、こうした手法と乖離したファンサイトの有り様を容認していると考えます。
結果、ファンサイトの人間はその砂上の楼閣を特権と考え、外部に対する批判を強め、癒着する先からは買い叩かれるのです。Willcomからすれば、ちょっと飲ませただけで都合のいい宣伝をしてくれるブロガーなんてのは、いいカモでしょう。
それは、現在のウヨ厨と、国家の関係によく似ています。
●アップルのiMac G5欲しい!
iMac G5が当たったら、現在のOS9環境をOSX環境に移行(つか、OSXしか動かないし)、さらに入力環境をOyayubiDriverを使って完全な親指シフト環境にしたい。
(はてなのプレゼント応募用文章です)
●新潟は9年で14年。福岡は18年で10万円?
母が娘を18年“軟禁”義務教育受けさせず…福岡
自分がこんな論旨で文章を書いている流れの中で、なんでこんな嫌な事件に遭遇しなければならないんだろうという感情を、この事件を知った時に感じました。
まさしく、子供自身が親のエゴによってないがしろにされた事件です。子供は18年もの長きにわたり軟禁され、行政側も実態を把握していながら、何もできなかったといいます。
このことに対し、マスコミはやたらと行政側ばかりを叩いています。やれ、もっと踏み込むべきだっただの、どうのこうの。
しかし、私は昨今の児童犯罪に対するあまりにも先鋭化しすぎる世論を借りて、こういいます。「児童に対する犯罪は死刑にするべきだ」と。
もちろん私自身は死刑制度に反対ですが、このくらい言わないと、被害少女の両親がしたことの罪の重さを、こうした事件を聞いておきながら理解できない人たちが、現実にいるのです。
児童に対する殺人には死刑を叫ぶようなマスコミは、この件に対する両親の罪に対してはほとんど踏み込んだ発言をしないのだから呆れます。それから逃げようとする姿勢が、ムヤミな行政叩きにすりかわるのです。
以前、新潟で9年間もの長きに渡り、女性が監禁されていたという事件がありました。
このときは当然のように死刑を含めた最大級の刑を期待する世論が沸き上がりました。そして犯人には地裁で懲役14年の判決が下りました。(確定?)
しかし、納得しなかった人も多いでしょう。人一人の人生を9年間も支配しておいて、たった14年という懲役では、彼女の時間は取り戻せないと。(……いや、私もこういう感覚は意味が分からないのですが、今回は犯罪者にむやみに厳しい、極刑論者の文言を借りています)
ならば、18年間も少女の人生を奪いつづけたこの両親は、いかほどの罪に問われるべきでしょうか? 懲役年数の上限は無視するとして、少なくとも14年の倍の30年。監禁は長期に渡ればわたるほど、社会復帰が難しくなるのですから、それを加味すれば45年ぐらいはブタ箱に入ってもらわないと、割に合いません(だから今回は凶悪な極刑論者の(略))。死刑を肯定するなら、確実に死刑にすべき犯罪でしょう。
けれどもこの事件に関しては、フラストレーションの発散としての行政批判(小泉改革を通して、公務員は「叩いていい」存在になったようだ)ばかりが行われ、実際の加害者である両親に対する批判は、ほとんどされずに終わるでしょう。
それは、「子供の安全」などと、不安ベースを軸にしたスクールバスや集団登校などの管理監視をしながら、その実態は「子供の人権を守るため」ではく、「親の財産を守るため」という意識によるものであるがゆえです。
「子供は親の所有物」であり、「所有物が無くなれば親が悲しむから」こそ、子供に対する犯罪は過剰に非難されるのであって、決して子供の人権を考えた非難ではないのです。
こうした「親の感情ベース」の児童擁護は、親による児童虐待を肯定、もしくは黙認するものです。
今回の事件も、こうした擁護の意識が、彼女の監禁を容認してしまったのです。私はこのような理由で児童が守られてしまう社会を強く批難します。
●とうとう保坂展人までもが右傾?
私が選挙の旅に「投票して良かった政治家」の一人として揚げる保坂展人氏ですが、Blogにこのような記事をあげているのを見て、失望しました。
もっとも具体的な方法は、子どもをひとりで、ないし子どもだけで登下校させないことだ。たとえ社会的コストがつきまとっても実現すべきなのかもしれない。現に欧州の都市では、スクールバスか親の送迎が義務づけられている。小さな子どがひとり街を歩く姿はない。
先日も書いたように、子供の登下校を監視する体制というのは、子供の人権をないがしろにするものです。そして子供自身が親のエゴによってないがしろにされている現状は、児童虐待の数字によく表われています。(もちろん、児童虐待というものが「問題視」され「報告」されるようになったのが極めて最近の事であり、数値の増加は決して虐待自体の増加を表さないことに注意)
例1:平成16年には、虐待によって51人の児童が殺された。(PDF資料)
例2:平成16年度の虐待相談件数は32,979件。
あと、「他の国と比べれば子どもが対象となる犯罪も少なかった。」
という発言もどうかなぁ。
他の国はともかく、国内においては児童に対するレイプ犯罪数は右肩下がりです。
また、レイプに関していえば、かつては被害側自らの恥や、家族の要請により訴えなかったような事が多くありますので、実態はもっと左側が上がっていると考えるべきでしょう。
(下の強制わいせつのグラフは右肩上がりになっていますが、強制わいせつは「痴漢」犯罪が多く、1997年だか98年だかに取り締まりを強化したために、一気に急増しています。また、その増加の多くが中学卒業以上であり、今回問題になっている年代とは異なることにも注目してください)
だいたい、「小さな子どがひとり街を歩く姿はない」
などという街は、我々にとって好ましいものでしょうか?
人が街を歩かずに、車で移動する。街を点(学校と家)と線(道路)としてしか理解しない人たちが増えているからこそ、街からコミュニティーが失われていったのでしょう。
当然、コミュニティーの喪失は安心の喪失に繋がり、その結果、今日のような過剰な安全志向によって、子供たちの人権が抑圧されるに至っています。
最後に保坂は
格差社会が広がれば明らかに治安は悪くなる。その根っこにふれる対策でなければ本当の効果は出てこないはずだ。
と記していますが、子供を街から追い払い、親という強権者の支配下で管理監視するような提言は、とても「根っこに触れるような対策」にはなりえません。
●崎山伸夫のBlog より、「子どもを誰でも簡単に追跡できるWifi ICタグ実験」
ITがITたる由縁は、各種の技術を大変経済的に実現できることにある。
汎用的な部品を汎用的な技術を用いて汎用的なシステムを構築する。独自では酷くコストがかさむシステムの個々をオブジェクト化、すなわち今回のような実験でいえば、ICタグ技術が汎用的な技術で、保護者が見る携帯やパソコンは専用のものを利用するのではないのだから、汎用的だ。中間の基地局も、そこに組み込まれる技術は当然汎用的というように、汎用的な機械を独自のシステムで繋ぐことによって、安価に目的を実現することができる。
しかし、汎用的であるということは、そのシステムが誰にでも利用されうるという脆弱性を持ち合わせている。
保護者から見れば「子供の居場所が特定できて安心」なシステムも、別の視点から見れば「個体を識別できる魚群探知機」になりうる。
しかし、子供をこのような危険に晒してまで得られる「安心」とはなんだろうか?
いや、「安“心”」と書いておいて、なんだろうか? もなにもないのだが……
不安ベース社会で求められるものは、安全ではなくて安心だ。安心が本当に安全ならいいのだが、「安心だから安全だ」などという事にはならない。安心と安全は独立した要素として見るべきで、決して混同してはならない。「安心で安全」「安心だが安全ではない」「安心ではないが安全」「安心でなく安全でもない」の4つのマトリックスを慎重に見極める必要がある。
さらには、ある立番の安心安全が、別の立場の安心安全を保障するということにはならない。白人の世界から黒人をはじき出せば白人は安全だろうが、黒人は危機に瀕する。我々は社会におけるマジョリティーが求める安心を達成するために、マイノリティーの安全を危機に晒すことに自覚的でなければならない。
今回の場合はまさに「親の安心のために、子供の安全が危機にさらされている」。
子供のプライバシーを暴露して得られる「安心」とはなんであるのか、このことは子供たちが本当に安全な社会で暮すことができるために、何千回でも問い直さなければならない。
#半年で25人の子供が、虐待により殺されている現状(taknews.net-blog より)を考えると、監視すべきは「親」であり、子供のいる家庭の全ての部屋に監視カメラを設置する必要があるかもしれない。(半分冗談、半分本気)
●高木浩光@自宅の日記 より、まず神話を作り、次に神話は崩壊した!と叫ぶマスコミ
私はジャパンネット銀行を使っているんですが、ここでは乱数表が使われています。
けれどもこれ、最初に一回発行されて、そのままなんですよね……。更新もなんにもありません。乱数が16個で、一回に4つの入力を求められますから、最低4回分のキャプチャとキーロガーのデータがあれば、それで十分なのです。
もちろん、こうしたロックが多ければ多いほど「より安全」ではあるのですが、決して絶対ではありませんし、その安全性は神話と名付けるほどのものでは当然ないわけです。
安全性だというなら、銀行のATM機能をパソコンに出張させること自体が危険なのであり、最初っからその分の危険性を割り切った上で、自身の納得できる範囲の危険性を受け入れるしかないのです。そこに神話が入り込む余地はありません。
もっとも、銀行は正直にそうとは書けないんだよね。そういう真実を知らされると、預金者が不安がって別の真実を知らせない銀行に逃げちゃうから。
まぁ、大抵マスコミが名付ける「神話」というのは事後的に付けられ、しかもその根拠すら怪しいわけで。
昔から犯罪は少なくないのに「安全神話が崩壊した」だの、水俣病やイタイイタイ病などの水にまつわる公害がちょっと前にあったにもかかわらず、マンションの貯水槽の問題などが出てくると、突然「日本の水の安全神話が崩壊した」だの言いたれる。
所詮、日本の大手マスコミは煽動が仕事なのであって、真に受けるほうがバカなのです。
●スティーブン・セガール主演、「イントゥ・ザ・サン」を見てきた。
ストーリーとかは公式サイトなりを見てもらうとして、この映画の最高な点は、ただ一点。セガールのおもしろ関西弁。
婚約を約束したが殺された彼女の無念を晴らそうと、敵の陣地へ乗り込む決意のシーンでセガールは呟く……「人斬りまっセー」。
危険だからと、付いてくるなと言ったのに、敵陣についてきた女をセガールは怒鳴りつける……「バッキャロゥ!死にトゥワーいのクぁ!!」
ラスボスと対峙するヤクザのナンバー2、伊武雅刀との会話のシーンで「ソヤナー」以外の台詞がほとんど聞き取れない。
クライマックスである敵の根城でのチャンバラ対決では、字幕完全不要の日本語展開で、セガールの魅力大爆発!!「お前キャ!!」「叩っ斬ってやルゥ!」
アクションにおいては、もちろんセガールは不死身で、相方だけがバタバタと死んでいく。特にセガールのパートナーという、ストーリー的に重要な役回りをするような位置にいながら、なんの活躍もなくあっさり殺されたFBI捜査官の若者などは本当にいたたまれない。
さらに、ラスボスが彫り物師の男に銃を撃っておきながら、なぜかセガールには日本刀で挑むという不可解っぷり。もっとも、セガールに銃を撃っても、いろんな理由で当たらないだろうけど。
そんなこんなで、この映画は「セガールならなんでもいい人」か、「笑い方面にコアな映画or時代劇ファン」か、「コサキンリスナー」以外には、まったくお薦めできません。逆にこのいずれかに属していれば、最高に笑えるB級映画です。「男同士デ見ニキテヤー」
つかこの映画、日本人以外は楽しみようがないよな。
ところで、東京ゾンビやってくれよ>近所のシネコン
●hotsumaのURLメモ。より 「禁煙ファシズム」論争。
また小谷野か(笑)
喫煙側の勘違いというのは、タバコが非難されているのは、決して受動喫煙がどうたらとか、医療費がどうたらとか、そういうことではないんですよ。
一言で言えば、「喫煙厨はうざい」のであって、決して批判は論理的な文脈をなしているわけではない。ひょっとすると斎藤貴男はちゃんと分かって書いているかもしれないけど。
じゃあ、喫煙派は論理的な文脈をもって、特に受動喫煙の害などがほとんどなく、医療費に関しては「不健康の自由」を主張。さらにはタバコのマナーを向上させれば、タバコを受け入れられるのかと言えば、そんなことはない。
すでに「喫煙は自由である」などという主張は、社会の空気によって通らなくなっている。その点で「禁煙ファシズム」という単語には同意する。
けれども、じゃあ自分が「禁煙ファシズムを阻止せよ」という立場に立てるかというと、これは立てないんですよ。
なぜ立てないかと言えば、つまり「タバコを吸うような、偉そうにしている連中が、立場を失って右往左往している様を見るのは楽しい」からなんですね。つまり、今私がメインコンテンツで書いているような理由で、禁煙ファシズムを非難する立場は理解するけれども、賛同はできないのです。
タバコというのは、大人や社会的立場をを象徴するアイコンとして、今まで用いられていました。仕事の後や途中での一服は「仕事をやり遂げた充足感」と共にありました。だからタバコは非常に社会権威的な象徴として、たとえば女性がタバコを吸う構図は、男女平等のシンボルとして扱われてきたわけです。
けれども、タバコを吸って充足感を得ていたとしていた大人たちは、別にまともに仕事をしてきたというわけではない事が、最近になって明確になってきました。日本に借金を残し、バブルを崩壊させて社会に多大な損失を与えてきた大人たちは、みんなタバコを吸っていたのです。
つまり、タバコは責任ある仕事のできる大人のシンボルから、日本を崩壊させて責任を取らない無責任さのシンボルへと一気に転落したのです。
タバコを翼賛する層の厚顔無恥さが垣間見えるようになったからこそ、タバコは批判の矢面に晒されるようになったのです。
我々が喫煙者を非難するのは、決して健康問題やマナーの問題だけではないのです。タバコを吸うという、その虚勢がムカツクのです。「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」ってヤツです。
最低限これを理解していないと、反禁煙運動はいつまでたっても「今さらタバコを吸い続けるバカのオナニー」としか、理解されないでしょう。
●現実に晒される「萌え」オタクたち
「目に映る21世紀」さんのところ経由で、いわゆる「秋葉原にDQNがやってきて、傍若無人な行動を繰り返している」という問題意識を感じました。
私は正直言うと、「森川嘉一郎」的な秋葉原理解が、とても気にいらないのです。
秋葉原を「おたくという人格をベースに発展した街」という箱庭的なものとして理解するのは、さも秋葉原という街だけが、他の街と違った「固有のアウラ」を持ち合わせているような、酷く杜撰な理解のように思うのです。
秋葉原はけっしてオタクの人格ではなく、他の街と同じように、資本主義という合理性の下に変容してきた街だというのが、私の理解です。
他の街と違うのは、秋葉原において店舗がさかんに移動するような、極めてフレキシブルな店舗の変化があるということです。それは多分、不動産形態による特有性でしょうから、そのうちに秋葉原の土地の権利や店舗契約などが、他の街とどのように違うのかを調べることによって、理解できるような気がします。
そうしたフレキシブルさ故に、その時その時で「一番稼げる」店舗形態が街に一気に広がるというのが秋葉原の本当の事でしょう。
そういう意味で、現状の「萌え世界」のオタクの人格など、資本主義によって積み上げられた、産業界(そして、同人作家)にとって都合のいい人格でしかありません。
その点で、当人の創作性を軸とした、かつての「アニパロ」を代表とする世界のオタクと、現在の「商品消費型」のオタクでは、その意味あいが極めて異なっています。森川的理解は、その辺が理想的な姿に偽装され過ぎてる感があります。
かつての秋葉原は「電気街」でした。今もそうですが、森川嘉一郎的な秋葉原理解は、秋葉原を「萌えの街」にしてしまいました。パソコンまでを含めた「電気」は、街の一部となってしまい、総体としては「萌え」が電気を覆う形になっています。
そしてこのこと自体が、秋葉原に固有のアウラなどなく、ただ資本主義的都合による街の変化の中で秋葉原という都市のイメージが変容していくという事実を示しています。
結局、「萌え」は秋葉原にとっては、単なる「ニューカマー」です。そして、常に秋葉原ではニューカマーの勢いが強い。それだけの話です。
……ぜいぜい、やっと本題に入れる。
「目に映る21世紀」さんからリンクが張られている、「アキバBlog」さんが最近の秋葉原の居心地の悪さを指摘していますが、それは今までだって旧来のオタクが、ニューカマーのオタクを見て思ってきた雑感に過ぎません。
ゆうきまさみが単行本「ぱろでぃわぁるど」に掲載されている「ファンダム大地に堕つ!!」と題された作品では、そうした旧来のアニメとアイデンティティーが密接に繋がり、作品などの厳密な解釈論などを通して通じ合うオタクが、ガンダム以降のキャラクターの自由な解釈から、同人誌やコスプレなどをして、アイデンティティーと別のところでアニメを利用し楽しむオタクを同人誌即売会で見て、頭を抱える様子が描かれています。
そして、かつて旧来のオタクを悩ませた、既存のアニメを利用して楽しんできた新しいオタクたちは今、自分たちの「萌え」のためにキャラクターを記号的に乱造する「萌え系」のオタクに対して頭を抱えているのです。
これだけ書くと、このことがオタクアイデンティティーの系譜であって、一般人が土足で秋葉原に踏み込むような事態とは違うのではないかと思うのかもしれません。
しかし、たとえば「ガンプラオタ」というのは、オタクのアイデンティティーとは全く違った一般人との繋がりが強い人たちですし、エロタワーだとかそういうのだって、別にオタクをターゲットにしているわけではありません。
また、そもそも電気街である秋葉原において、古くからの電子工作系の人はオタクの進出に対して頭を抱えている部分も少なくはないでしょう。
さらには、昭和通り沿いはビジネス&風俗街ですし、「秋葉原が常に(今日び的理解の)オタクの聖地であった」などというのは、オタクの勝手な幻想に過ぎません。
結局のところ、こうした現実的な経緯を無視して、自分たちにとって都合のいい解釈を繰り返して、さも自分たちの街が害されているような社会理解は、いわゆる「ウヨク的」な社会理解そのものです。
けれども我々は社会の中で生きているのですから、そのような幻想は現実によって覆いつくされるのです。その時にその現実を受け入れるのか、過剰に反発して反社会的な存在になるのか。
このようなウヨク達が今後ブチ当たるであろう問題が、この「秋葉原にDQNがやってくる」という問題意識に表われつつあるように、私には見えました。