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2005年12月30日

 ■ バブル野郎殺すにゃ刃物は要らぬ 『下流社会』をぶっつぶせばよい その1

バブル野郎殺すにゃ刃物は要らぬ 『下流社会』をぶっつぶせばよい その1

 年末年始スペシャルとして、気づいたら50万部も売れてしまったらしい(仮に印税を10%とすれば、78円×50万か……)『下流社会』の批判を何回かにわたってやりたい思います。

 まず最初に書いておくと、この本の批判はあまりにも簡単です。この本に頻出する「数値」のデタラメを暴けばいいだけです。しかも面倒な計算も必要ありません。すごい表層的なところにあまりにも杜撰なモノが書き連ねてあります。
 けれども、本当の問題はこの本が50万部も売れてしまって、しかもこの本を評価している人がかなりいるということです。
 そういう人たちは、まともに図表を読むだけの数的リテラシーがないのと同時に、そうした事を無視してでも、若い人を罵倒して、自分たちがさも「努力の人」であったかのように自慢したいと考えているのでしょう。本当は単に好景気の時代に生まれただけのくせに。
 今回の文章は、『下流社会』を批判しつつ、下流社会を誉めるスタンスをもつ連中に対しても非難を加えるものにしたい。そう考えています。
 あと、文章の形式は、各章ごとに批判していくという形式です。

 前書きはこんなもので十分でしょうか? では、ここからはじまりはじまりー。


・はじめに



 三浦展(みうらあつし)は、この本で論じる対象を「下層」ではなく「下流」だと論じている。

 三浦展の論によれば、下層とは「働いても働いても豊かになれない貧乏人」、下流とは「中流であることに対する意欲のない人」なのだという。

 その上で三浦展は世代論を持ち出し、「団塊ジュニア世代は、著しい貧富の差を見たことの無いまま、それを当たり前として下層に落ちるとも考えることなく育った。しかし、社会全体の上昇が終わり、意欲のある者だけが上昇し、それがないものが下降して行く」として、団塊ジュニア世代の「意欲」を問題としている。これがこの『下流社会』全体を貫ぬく、大まかな論点である。



 だが、それは単純に世代論として適応させられる性質のものだろうか?

 三浦展も認識しているように、バブル期、すなわち「かつて」においては、中流であることに対する意欲がなくとも、市場経済の上昇気流によって、日本人は自然と中流であることができた。

 だが、現在は市場経済が停滞し、中流である意欲を持たなければ、中流であることができなくなった。

 ならば、それは日本全体の問題であって、決して世代論的に団塊ジュニアがだらしないなどと論じてよい問題ではないだろう。

 世代論ではなくて、日本人全体がバブルにより「上昇する意欲」を失い、経済が停滞している今現在も、その意欲を取り戻せずにいるという問題意識なら、わざわざ団塊ジュニアだけをことさら批判する必要はない。

 三浦展は「若者は著しい貧富の差を見たことがなく、下に落ちるという恐怖心がないから、「下流でいい」と考えるのだ」と、団塊ジュニアを批判する。

 だが、かつて1992年に『清貧の思想(著 中野孝次)』という本がブームになったときに、この本を支持したのは、著しい貧富の差を見たことがあるはずの年配の方々だった。バブル経済の崩壊が一般庶民にも明らかになり、経済成長を精神の支えとして錦の御旗に仕立て上げてきた日本人にとって、「清貧」というのは非常に受け入れやすいパラダイムシフトとして作用した。

 そしてこの清貧の思想はまさしく「下流」の思想である。「カネやモノに囲まれた暮らしではなく、貧しくとも精神的に充実した暮らしを送ろう」という思想が、三浦展の言う「下流」でなくてなんだというのだろう。



 単純に上昇意欲だけを問題に、それの欠如を「下流」というなら、現在、上層や中層の人たちすらも、上昇意欲がなければそれを下流と論じて構わないはずである。すなわち、既存の金銭的余裕を「層」、金銭的意識を「流」と定義し、この両者を別個の意味として扱えば、この問題定義はスッキリと明確なものになる。

 ところが三浦展は、決して「層と流の違い」に触れることなく、経済的に下層に近い状態にある団塊ジュニアだけを指して、下流と言う言葉をあてはめる。

 自ら「下流」という言葉を定義しておきながら、その実は「層」と「流」の区分は決して明確ではなく、逆に層と流の関係をごちゃまぜにしながら、「下層に近づいているのは、その人が下流であるから」という、根拠無き自己責任論を展開しているに過ぎない。そして、本の中で最後まで、中層が本当に中流志向であるか、上層が本当に上流志向であるかという点を証明することは無いのである。





 ところで、「はじめに」の最後に「調査の概要」という項目があって、その中に必ず「調査企画プロデュース・総合分析:カルチャースタディーズ研究所」という名前が出てくることに気づいただろうか? 本全体をめくって行くと、ほとんどのグラフや図表に、この名前が書かれている。

 実はこの研究所、三浦展が主宰する個人研究所なのである。

 つまり、決して客観的意図による調査結果が既にあって、その結果を三浦展が分析しているのではなく、この問題点を論じるために、三浦展自らがこれらの調査を企画し、発注しているのである。

 もちろん、筆者自ら調査資料を作成するという行為自体になにか問題があるわけではないし、資料そのものが捏造だ! などと主張するつもりもない。

 だが、少なくともこれらの資料は、三浦展の都合によって集められた資料であることは、しっかりと認識しておく必要がある。特にこの本においては、グラフや図表に多くの罠が仕掛けられているのだから。

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