《 2005年12月 | メイン | 2006年02月 》
●被爆語り部の政治的発言自粛を要請 平和推進協(長崎新聞)
中立といえば聞こえはいいが、それは明確に「現状肯定」の立場を強制することになる。
特に列挙された問題をみれば、あからさまに為政者達が肯定してもらいたい事例ばかり。誰がどう見ても協会の要求こそが政治的な要求だ。
●コトノハのシズク経由で、「堀江容疑者あきれた独房第一声「株価は見られないんですか」」
まぁ、当然呆れるのはこの報道の方で。
つか、拘置所はネットぐらい使えないのかよ、つかえねー。
マスコミは拘置所に入るのはどういう人たちか分かってます? 一般の人ですよ。ただの容疑者ですよ。刑務所じゃないし、刑務所生活に慣れさせるための訓練所でもありませんよ。
さすが発展途上国以下の人権概念しか日の丸日本。拘置所の貧弱かつ恥辱的な設備に対する疑問も湧かないんですね。
なんか禿のオッサンが、20代の女性10人ぐらいと同棲してたとかなんとか。
正直「それなんてエロゲ?」とか、「ハーレムうらやましす」とか思うけど、逆に言えばそれだけ。千石イエスの例なんかとも違うみたいだし。
もしくは、何か別の犯罪を調べていて、そのための別件逮捕なのかもしれないけど。
あと、マインドコントロールなんていうけど、そんなに言うほど怪奇的でも特別なことでもないから。また苫米地あたりがしゃしゃり出てくるのかな?
……なんか、全般的にどうでもいい事件だな。こうしたどうでもいい事件が注目されるのは、マスコミの男共の僻み? それとも「健全な家族観」からのバックラッシュ? もしくは耐震偽造問題からさらに目を逸らすため?
しかし、『下流社会』を読んでいて思うのは、いったい三浦展は「上中下」という単語をどういう意味で扱っているのだろうか? ということだ。
私はこの本を極力正確に理解するために、いわゆる現実的な金銭的余裕を「層」、そして金銭的意欲(以前「金銭的意識」と書いた部分は、すべて「金銭的意欲」に変更します)を「流」として考えているということは、前に述べた。理由は三浦展自身が「はじめに」でそう述べているからだ。
しかし、私には三浦展が自身で定義した以外の意味で上中下を利用しているように思える。何より、この章において「上中下」という単語は使っていても、層や流という単語を使っていない。
そんなあやふやな状態で家族形態のデータ解釈の中で三浦展はこう記している。
つまり、若いうちは親元にいて、その後、結婚して夫婦だけで暮らし、子供ができたらできれば親元に住むのが最も「下」になりにくい生き方だということである。あまりにも保守的だが、実態はやはりそれが幸せのパターンのようである。
一見、何事もない文章のようだが、三浦展は「上=幸せ」と見ていることが見て取れる。
しかし、これはあくまでも金銭的余裕を表す「層」とも、意欲を表す「流」とも、全く異なる概念である。それをなんの注釈もなく混在させる三浦展の方法は非常に不誠実なものだ。
さらに、それを「幸せ」と考えた時に、それは微妙に「流」に影響を与える。つまり、現状が幸せで「このままで十分幸せだ」と思えば、それはさらなる金銭的意欲を発揮しない「下流」の意識に近いと考えることができる。この点について三浦展はまったく気付く素振りもない。ただ無邪気に「上と答えている人たちは幸せだ。下と答えている人たちは不幸だ」と思いこんでいる。
このアンケートに答えた人たちはどのような意味で「上中下」を理解したのだろうか?
たとえば、金銭的には下層でも、けっして自分たちを不幸だと考えていない人たちは、自分を上中下のいずれだと答えたのだろう?
三浦展の都合によってズタボロにされたゴミデータから、それをうかがい知ることはできない。
●えーと、私は今きっと『「ニート」って言うな!』の書評を期待されている立場だと思います。
一度読んだのですが、今は『下流社会』を読み解いている段階ですので、もう少々お待ちいただければと思います。
読み飛ばしのできるような本なら、簡単に書けるんでしょうが、これはそうもいきませんので。
●堀江逮捕の件は、昨日の文章で終わりにするつもりだったのだが、東浩紀の文章で、もう少し触れておく必要がある疑問を思いついた。
それは、「なぜ堀江が「世代交代側」の立場だと社会に捉えられるのか?」ということだ。
私は、いつものごとく社会とは全く逆のことを考えていて、堀江のやっていることは確実に既得権益のケツ舐めだし、べつに「世の中金がすべて」なんて、確かに堀江も言っていたけど、現実にすでにそうだったワケだから、何も堀江が経済の意味を変えたわけじゃない。当時すでに小泉はファシストとして大上段から物を語っており、それに便乗するネオコンがそこら中にいて、その意味も分からず「強い日本」などと馬鹿みたいにはしゃいでいる連中もいた。
それなのに、なぜか堀江が「今までと何か違う、新しいもの」と捉えられ、さも世代交代の側であるように認識されている。日本人は第二次世界大戦前後の歴史だけではなく、近鉄バッファローズ騒動以前の歴史すら忘却してしまったようだ。下手すると、衆院選での自民党圧勝(=株価回復)以前の歴史すら覚えてないのかもしれない。
昨日の文章は、既得権益層に対する「反撃」への期待感の表明として、「あえて」堀江と団塊ジュニアという世代論を表明してみたわけだが、社会はそうした意図もなく、ごく自然に「堀江は若いのだから、団塊ジュニアを代表していて、世代交代側だ」と素朴に信じているようだ。
たしかに、我々の世代はいつまでも社会の中枢に居座る団塊に頭を押さえつけられ、また不況の責任を押しつけられ、その存在価値をまったく認められないでいる。
その場合に、我々はどうするべきか。あるものは、少しでも団塊世代に媚び、わずかな分け前でも恵んで貰おうと考える。あるものは、それでも自我を通し、瀕死の状態に置かれる。
そして、その前者がホリエモンであり、後者は……誰だろう? ごく一部の良心的なジャーナリストかな?
しかし、世の中はどうも堀江に反骨精神を見ているようだ。それは、堀江が社会ではなく、一部の会社に対して、反旗を翻したからだ。近鉄の件もそうだし、ニッポン放送買収騒動などが、そう捉えられるらしい。
けれども、経済的巨大さをもって、相手の頭を押さえつけるような動きは、たとえば銀行の度重なりすぎて、すでに原型をとどめていない合併ごっこと意味合い的には変わらない。(UFJ東京三菱銀行なんて、いったいなんの冗談だ?)
こうしたマス取りゲームは、堀江が始めるまでもなく、すでに始まっていたわけで、そのゲームを批判することなく加わることこそが団塊のへの媚びである。
団塊は「一億総中流(層)」という圧倒的な下流志向の元に生きてきたのにもかかわらず、さも自分たちが努力をして日本経済を復興させたかのように勘違いしている。そしてそのことが彼らの存在意義であり、誇りである。
ならば、団塊に対する反骨ならば、彼らの欺瞞を暴くことであって、彼らの資産を普通の役員交代、企業買収であるにかかわらず継承し、彼らの努力と栄光を称えることはケツ舐めに過ぎない。
振り返れば、堀江の起ったことは新たなチャレンジでも何でもなくて、今までの経済文脈で無理矢理会社をデカくしてカネとフダをぶんどって「大企業の役員は人間的にも偉いのだ」と威張る、今までの「会社=社会」論理に過ぎない。
だから、私は今回の堀江の逮捕に、東とは逆に「世代交代の兆し」を見るわけだ。
団塊ジュニア以降の世代に、既存の経済性に媚びることなく、新たな世界を作り出すことを期待するわけだ。
そして、団塊世代に対しては、経済によってケツを舐めあう同士の内ゲバが始まるぞ! と楽しみに思う。
●第4章 年収300万では結婚できない!?
(第3章は結論はやたら簡単なワリに、グラフを用意したりと説明のための準備がいろいろと必要なので、ちょっと後回しにします。)
まず、「表4-1」について。
12ページに記してある「欲求調査」の調査結果から、上層、中層、下層のそれぞれの生活水準を点数で表して、上層では80点以上が増えており、下層では60点以下が増えているというのだが、これが一体なんの点数なのかが、読者には全く分からない。
生活水準というのだから、何か「あれを持っていれば何点、年収がいくらなら何点」という点数なのかも知れないし、逆に3章で扱ったような「個人的にはこのくらい」という層意識を点数かしたものかもしれない。
そんなことをいっても、このアンケートがどのようなものであったかは、この本に記された内容だけでは闇の中だ。もし、この「欲求調査」に関する詳しい資料があったら教えてほしい。
それからしばらくは意味不明なゴミデータが続く。何らかの意味がありそうなことは書いているが、実際にはなんの点数なのかもなんのデータなのかも一切不明のままだ。ここで注目したいのは、その全てを表にして、パーセンテージであらわし、「網掛け強調」をしている点だろう。
なるほど、パーセンテージで表せば、表の貧相な内実を覆い隠すことができるし、自分の主張に近しい部分を網掛けしておけば、見た目で印象づけることができる。しかし、じっと目をこらしてn値を見れば分かるが、その母集団のあまりの少なさに、恥ずかしくなること請け合いである。
特に「表4-2」は、パーセントを「人数」に直してしまえば、小学生ならば先生に誉められるレベルの代物でしかないことは一目瞭然だ。特に「上」の貧相な数値に、思わず目を覆いたくなる。
また、この女性の「下」の数値を見ていただきたいのだが、網掛けされているのは300万未満の35.5%の箇所だが、数値の最大値は300万〜の48.4%の箇所である。
つまり、網掛け部は、あくまでも筆者の主張上、注目してもらいたい位置を強調しているに過ぎず、データとしての注目点では決してないということに注意したい。
次に、この章のメインである、124ページの「図4-2」に触れる。
これを見ると、さも年収300万と500万の間に大きな格差が存在し、両者の結婚率に2倍もの差があるように見える。
しかし、冷静になってよく見てほしい。何かおかしくはないだろうか?
まず、150万未満が「0%」というのがおかしい。同じ意味で、1000万以上が「100%」というのもおかしい。この1000万円以上が100%なのは、女性の方も同じである。
確かに、年収150万円未満で結婚している男性を見つけるのは難しいかも知れないが、1000万円以上で結婚してない男性を我々はよく知っている。たとえばプロ野球選手で1軍にいるような選手は年収1000万円以上であるが、全員が結婚しているかといえば、そんなことはない。
そもそもパーセンテージに関することで、0%であるとか100%であるとかいう数値が出ること自体がおかしいのだ。これは母数がよほど少ないことを意味している。
先程の表4-2でも触れたとおり、この図の根拠もあの母数のやたら少ない「欲求調査」によるものであり、その母数は100名である。これではこの不自然な数値は当然であろう。
不自然といえば、所得の区分も不自然だ。普通こうした折れ線グラフでは、縦横の数値は等分で表されるものであるが、この所得は0〜150満未満(150万)、150万〜300万(150万)、300万〜500万(200万)、500万〜700万(200万)、700万〜1000万(300万)と、極めて不自然な値を取っている。
しかし、それを考慮しても、このグラフでは年収300万と500万の間には、大きな差があるように思える。だが、もっとよく見てみよう。左上のほうだ。おかしな文章に気付かないだろうか?
この図4-2は「男性の所得と既婚(初婚)率の相関」と名付けられているが、そのあとに「(既婚の場合は夫婦合計の所得)とある。
……
……
……事の重大さに気付くことができただろうか?
つまり、こういうことだ。
年収300万の独身者が、年収200万の相手と結婚したとすれば、それは年収500万として扱われる。
結婚しなければ、男性一人の収入だから年収300万、結婚すれば夫婦揃っての収入だから年収500万。そして、この項目では支出は勘案していないから、働き手が増えることによる所得のマイナスはない。つまり、この図は最初っから「結婚をすれば年収が上がるようにできている」のだ。この図はさも「年収が上がれば結婚率が上がる」かのように描かれているが、実際は結婚している人間ほど、収入が上がりやすい「仕掛け」を施したグラフなのである。
さらに言えば、この図においては、年収200万円程度なら、結婚の有無で容易に上下するので、年収300万〜500万で結婚していない66.6%と、年収500万〜700万で結婚している78.3%の間の収入差は、実はそれほど明確なものではない。また、結婚している年収300万〜500万の33.3%は、年収150万〜300万の独身者に近い収入なのかもしれない。というように、珍妙な仕掛けのために、この図では年収での結婚率の多少を調べる事がまったく不可能である。
あと、もう一つ、決して無視するわけには行かないことがある。
それは、「この年収はいつの時点の年収なのか?」という点だ。
つまり、結婚を決める場合、最も重要なのは「その時点の年収」だろう。もちろん、今後の収入増加も考えるだろうが、この調査は実際の年収を調査しているのだから、この調査において、結婚にとってもっとも重要なのは「結婚を決めた時点での年収」だ。
しかし、このグラフでは、それが一切分からない。まさかもう50年ぐらい連れ添った老夫婦の、現時点でのデータをとっているのではなかろうとは思っても、それを裏づけるデータは一切示されていない。このグラフの元になっている「欲求調査」には昭和ヒトケタ世代も調査対象になっているから、ありえない話ではないのだ。少なくともこのグラフには「男性」としか書かれていない。
ここまで理解してもらったうえで、改めてこのグラフを見ると、これが意味不明の、ねじ曲がった棒が空中に浮いている絵か何かに見えてくるハズだ。それはまさにこのグラフの正体である。このグラフは一切何も表してなどいないのだ。
結局、こんなゴミデータを並べて作り上げたのが、この『下流社会』という本である。
本当に、この本に書かれている事を信じてしまう人たちは、何を考えて生きているのだろうか?
●衝撃!!「榎本健一 VS 日本武道館」
日本の喜劇王、エノケンこと榎本健一が、無観客の日本武道館で一人ギターを抱え歌いまくるという衝撃的未発掘映像が、DVD化されることとなった!
日本の喜劇史に新たな1ページが加わることは間違いない……って、んなわけあるか(笑)
●6歳長女を絞殺容疑、千葉・船橋の主婦を逮捕(共同)
千葉県船橋市の主婦、木村さん(42)が、6歳の女の子を絞殺しました。
深夜のシマネコでは、子供の人権を守るために、親による子供殺しを今後ともウォッチしつづけていこうと考えています。
そのために、この件について別ページを作り、データベースとして公開して行く予定です。
詳しい形式は未定ですが、意図としては「変質者による子供への犯罪よりも、親による子供への犯罪が多い」ことを明確にし、今までの短絡的な子供の安全議論を、本当に子供のためになる議論に変えて行きたいと考えています。
読者の方には、親が子供(未成年)を殺すニュースを発見しましたら、ぜひとも掲示板までお知らせいただけますよう、よろしくお願いします。
●堀江が逮捕されたけど、別にいまさら「俺は近鉄の時にすでにライブドアなんてITヤクザだと書いていた」なんてことを自慢しない。
奥田は「経団連に入れるのは早すぎた」などと言いたれ、ベッドの中で高笑いなのだろうが、彼らは本当に今回の行為の意味を理解しているのか?
堀江はなんだかんだいっても、我々団塊ジュニア以降の世代にとって「唯一社会にまともに認められた存在」と言ってもよく、彼が認められたゆえに我々以降の世代において、金が重要視された。「いままで全く認められなかったけど、金を稼げれば認められるのだ」と。その意味で確かに堀江はヒーローであった。
しかし今回のことによって、結局金を稼ごうと、金を稼いで選挙に出て小泉のケツを舐めようと、なにをしようと社会(正体は老害だ)は我々を認めないことが白日の元になった。
結局、彼らは我々を認めないのだ。慈愛を求めても得られず、ならば友好を期待しても裏切られる、彼らはそもそも我々を認める気など、一寸たりともないのだ。
ならば、彼らを殺すしかないではないか。
彼らのような老害がこの社会の中枢にいるかぎり、我々はいつまでたっても惨めな思いを抱えて生きて行くこととなる。
ならば殺すしかない。彼らが友好を受け入れないのであれば、徹底的に彼らのアイデンティティーを殺すしかない。
今回の件で、自民党のケツ舐めをしている連中も、さすがに目が覚めたのではないか。
一部政治勢力は、必死になって「ホリエモン逮捕祭り」を煽動しているが、そのあまりにも早い変わり身に、厨房たちは素直についていくのだろうか?
老害どもは、あまり我々をバカにしないほうがいい。因果応報、報いは必ず彼らの頭上にやってくる。
#あと、ここぞとばかりに、堀江に出馬を要請した小泉を叩いている野党の存在は、とてつもなく恥ずかしいな。
●えーと、私は今きっと『「ニート」って言うな!』の書評を期待されている立場だと思います。
一度読んだのですが、今は『下流社会』を読み解いている段階ですので、もう少々お待ちいただければと思います。
読み飛ばしのできるような本なら、簡単に書けるんでしょうが、これはそうもいきませんので。
●堀江逮捕の件は、昨日の文章で終わりにするつもりだったのだが、東浩紀の文章で、もう少し触れておく必要がある疑問を思いついた。
それは、「なぜ堀江が「世代交代側」の立場だと社会に捉えられるのか?」ということだ。
私は、いつものごとく社会とは全く逆のことを考えていて、堀江のやっていることは確実に既得権益のケツ舐めだし、べつに「世の中金がすべて」なんて、確かに堀江も言っていたけど、現実にすでにそうだったワケだから、何も堀江が経済の意味を変えたわけじゃない。当時すでに小泉はファシストとして大上段から物を語っており、それに便乗するネオコンがそこら中にいて、その意味も分からず「強い日本」などと馬鹿みたいにはしゃいでいる連中もいた。
それなのに、なぜか堀江が「今までと何か違う、新しいもの」と捉えられ、さも世代交代の側であるように認識されている。日本人は第二次世界大戦前後の歴史だけではなく、近鉄バッファローズ騒動以前の歴史すら忘却してしまったようだ。下手すると、衆院選での自民党圧勝(=株価回復)以前の歴史すら覚えてないのかもしれない。
昨日の文章は、既得権益層に対する「反撃」への期待感の表明として、「あえて」堀江と団塊ジュニアという世代論を表明してみたわけだが、社会はそうした意図もなく、ごく自然に「堀江は若いのだから、団塊ジュニアを代表していて、世代交代側だ」と素朴に信じているようだ。
たしかに、我々の世代はいつまでも社会の中枢に居座る団塊に頭を押さえつけられ、また不況の責任を押しつけられ、その存在価値をまったく認められないでいる。
その場合に、我々はどうするべきか。あるものは、少しでも団塊世代に媚び、わずかな分け前でも恵んで貰おうと考える。あるものは、それでも自我を通し、瀕死の状態に置かれる。
そして、その前者がホリエモンであり、後者は……誰だろう? ごく一部の良心的なジャーナリストかな?
しかし、世の中はどうも堀江に反骨精神を見ているようだ。それは、堀江が社会ではなく、一部の会社に対して、反旗を翻したからだ。近鉄の件もそうだし、ニッポン放送買収騒動などが、そう捉えられるらしい。
けれども、経済的巨大さをもって、相手の頭を押さえつけるような動きは、たとえば銀行の度重なりすぎて、すでに原型をとどめていない合併ごっこと意味合い的には変わらない。(UFJ東京三菱銀行なんて、いったいなんの冗談だ?)
こうしたマス取りゲームは、堀江が始めるまでもなく、すでに始まっていたわけで、そのゲームを批判することなく加わることこそが団塊のへの媚びである。
団塊は「一億総中流(層)」という圧倒的な下流志向の元に生きてきたのにもかかわらず、さも自分たちが努力をして日本経済を復興させたかのように勘違いしている。そしてそのことが彼らの存在意義であり、誇りである。
ならば、団塊に対する反骨ならば、彼らの欺瞞を暴くことであって、彼らの資産を普通の役員交代、企業買収であるにかかわらず継承し、彼らの努力と栄光を称えることはケツ舐めに過ぎない。
振り返れば、堀江の起ったことは新たなチャレンジでも何でもなくて、今までの経済文脈で無理矢理会社をデカくしてカネとフダをぶんどって「大企業の役員は人間的にも偉いのだ」と威張る、今までの「会社=社会」論理に過ぎない。
だから、私は今回の堀江の逮捕に、東とは逆に「世代交代の兆し」を見るわけだ。
団塊ジュニア以降の世代に、既存の経済性に媚びることなく、新たな世界を作り出すことを期待するわけだ。
そして、団塊世代に対しては、経済によってケツを舐めあう同士の内ゲバが始まるぞ! と楽しみに思う。
てすと
●衝撃!!「榎本健一 VS 日本武道館」
日本の喜劇王、エノケンこと榎本健一が、無観客の日本武道館で一人ギターを抱え歌いまくるという衝撃的未発掘映像が、DVD化されることとなった!
日本の喜劇史に新たな1ページが加わることは間違いない……って、んなわけあるか(笑)
●6歳長女を絞殺容疑、千葉・船橋の主婦を逮捕(共同)
千葉県船橋市の主婦、木村さん(42)が、6歳の女の子を絞殺しました。
深夜のシマネコでは、子供の人権を守るために、親による子供殺しを今後ともウォッチしつづけていこうと考えています。
そのために、この件について別ページを作り、データベースとして公開して行く予定です。
詳しい形式は未定ですが、意図としては「変質者による子供への犯罪よりも、親による子供への犯罪が多い」ことを明確にし、今までの短絡的な子供の安全議論を、本当に子供のためになる議論に変えて行きたいと考えています。
読者の方には、親が子供(未成年)を殺すニュースを発見しましたら、ぜひとも掲示板までお知らせいただけますよう、よろしくお願いします。
●堀江が逮捕されたけど、別にいまさら「俺は近鉄の時にすでにライブドアなんてITヤクザだと書いていた」なんてことを自慢しない。
奥田は「経団連に入れるのは早すぎた」などと言いたれ、ベッドの中で高笑いなのだろうが、彼らは本当に今回の行為の意味を理解しているのか?
堀江はなんだかんだいっても、我々団塊ジュニア以降の世代にとって「唯一社会にまともに認められた存在」と言ってもよく、彼が認められたゆえに我々以降の世代において、金が重要視された。「いままで全く認められなかったけど、金を稼げれば認められるのだ」と。その意味で確かに堀江はヒーローであった。
しかし今回のことによって、結局金を稼ごうと、金を稼いで選挙に出て小泉のケツを舐めようと、なにをしようと社会(正体は老害だ)は我々を認めないことが白日の元になった。
結局、彼らは我々を認めないのだ。慈愛を求めても得られず、ならば友好を期待しても裏切られる、彼らはそもそも我々を認める気など、一寸たりともないのだ。
ならば、彼らを殺すしかないではないか。
彼らのような老害がこの社会の中枢にいるかぎり、我々はいつまでたっても惨めな思いを抱えて生きて行くこととなる。
ならば殺すしかない。彼らが友好を受け入れないのであれば、徹底的に彼らのアイデンティティーを殺すしかない。
今回の件で、自民党のケツ舐めをしている連中も、さすがに目が覚めたのではないか。
一部政治勢力は、必死になって「ホリエモン逮捕祭り」を煽動しているが、そのあまりにも早い変わり身に、厨房たちは素直についていくのだろうか?
老害どもは、あまり我々をバカにしないほうがいい。因果応報、報いは必ず彼らの頭上にやってくる。
#あと、ここぞとばかりに、堀江に出馬を要請した小泉を叩いている野党の存在は、とてつもなく恥ずかしいな。
●また、親によって子供が殺害されました。
村上憲一(33)と村上かおり(32)によって、子供が殺されました。
借金苦夫婦、子ども2人を殺して自首…山口・下関(Yahoo!/読売)
そして、彼らはフリーターやニートの100分の1も非難される事はないでしょう。人を殺したのに。
借金苦の親に同情することは簡単ですが、本当に同情してしまっていい事件なのでしょうか?
……彼らは自分たちの苦しみを表現するために、子供を殺したのではないでしょうか?
子供にフィギュアスケートを習わせて満足するように。
子供を有名な進学塾に通わせて満足するように。
世間の親たちが子供に自分の夢を背負わせて満足するように、彼らは子供を殺し、そして自分たちは死ななかったのではないでしょうか?
世間の同情を乞うために、存分に不幸に浸るために、自分たちの能力の無さを子供に押しつけて、身勝手に殺したのではないでしょうか?
子供たちは同情も不幸も欲しくなどなかったハズなのに……。
「子供の安全」を声高に主張するなら、それは「子供の人権を守る」という文脈でなければなりません。
ところが、社会的に「親の子殺し」が見逃されるところに、「子供の安全」の主張は決して子供の安全ではなく、親の所有物としての子供が失われる、という「親の危機感を払拭するがための子供の安全」である。という世間の意見が見て取れます。
「親のために子供を守る」のではなく、「子供自身のために子供を守る」という意識がなければ、決して子供の安全と成長を願うことはできません。
私は子供自身のために、子供が安全に暮せる社会が実現することを願っています。
●2ちゃんねる管理人に賠償命令 掲示板での中傷放置(朝日)
記事自体はぶっちゃけどうでもいいんだけど、なんだねこの「パソコンの識別番号」っていうのは? ハードウェア自体を識別する番号ってことは、MACアドレスのことか?
もちろん、掲示板の管理者がパソコンに装着されたLANカードのMACアドレスなんか知りうるハズがないし、知ったところで捜査の役にたつわけではないので、IPアドレスのことを言いたいんだろう。ならば「接続整理番号」ぐらいの日本語にしないとおかしい。浮動IPアドレスなら「一時的に割り当てられた接続整理番号」といったところか。
よく「カタカナの専門用語は分かりづらいので、日本語に開こう」って話は聞くけど、こんなふうに意味自体が不明になるのでは、かえって混乱を引き起こすだけだ。ほかにも「OS」を「基本ソフト」などと、全く意味の分からない用語を使っている例は多い。
つか、分からないなら覚えればいいだけのことなので、ぜひともマスコミにはパソコン用語の珍妙な日本語化は止めていただきたい。
●石原都知事「首都高より橋の移転を」 日本橋の景観問題
「日本橋の景観」問題というのは、単に小泉が三井あたりと組んで、あの地帯の再開発を狙っているだけのプロパガンダなので、「つまらん金」というのは、その通りだ。
もっとも、すでに日本橋は車が通れるように作り直された、歴史的意味をもたない「モノ」でしかないので、移転だと言うなら復元されたものが江戸東京博物館にあるんだから、それでいいと思う。
私としては、首都高も日本橋も今のままでいい。昔風の景観を作って、本当に昔ながらの物を壊すような恥ずかしいことはしないでほしい。
●RULE of ROSE
RULE of ROSEをプレイしていたので、更新が遅れましたよ。
で、クリアしたので感想などを。
まず、ネタバレ無しの部分、システム面について。
システム面は最低の部類に入ります。
そもそも、今までだって、ラブデリック系(以下、ラブデ系)のゲームは、2Dでもけっして操作性がいいとは言えなかったわけで。
ただ、「上は上、下は下」でしかない2Dの場合、操作は単純ですから、決して操作性の悪さは、さほど気になることがなかったのです。
しかし、本質的に操作が難しい3Dにおいては、操作性の悪さが如実に目立ちます。さらに操作性の悪い3Dで、決してバランスがうまく取れていない戦闘アクションをさせられるのですから、とても誉められたものではありません。
ただ、弁護する余地があるとすれば、それはこのゲームが「ホラーのようなもの」というジャンルである以上、3Dは避けられないということです。
「本格的ホラーアクション」というのは、今では中古ゲーム屋で1ジャンルとして棚が作られているのを見ても分かるように、決して珍しいものではありません。
しかし、スーパーファミコンまでの時代に、こうしたジャンルのゲームは唯一「スプラッターハウス」のみでした。(「源平討魔伝」や「魔界村」も、そうと言えなくもないか……)
というのも、ホラーはどうしても写実的にならざるを得ないのですが、当時のゲームは3Dを動かしまくるようなスペックは当然無い。
すると、2Dでやるしかないのですが、2Dであるという時点でデフォルメですから写実的にはほど遠く、怖さを出そうとすればグラフィックに凝る必要がありましたから、2Dアクションでホラーをつくることは敬遠されたのです。
(個人的には、スプラッターハウスが名作過ぎて、これと比べられるのを恐れたのではないか? という気がしないでもない)
次世代機以降、グラフィックの表現力が大幅にアップし、大抵の2Dゲームがスペックをもてあます中、それを存分に発揮する姿勢をユーザーに表明するために3D化が促進され(というか、任天堂の時代を転覆させたいSCEとセガが「次世代」の名前で「2D→ポリゴン3D」への転換を迫った。そしてそれは「次世代機=次世代ゲーム=3D」という構図を産み出して成功した)、そうした流れの中で「ホラー」というジャンルが成立するに至ったのです。
つまり、「サイコホラー」という、このゲームのコンセプトからして3D化は避けられなかったのです。
しかし、そもそも「何度も同じところをうろうろする」のがラブデ系ゲームの常ですし、それを削ぎ落とすわけにも行かない。ならば、もう少し戦闘を減らすことはできなかったでしょうか?
イベント戦闘は仕方ありませんが、通常時の敵の数をもう少し減らして、簡単にやり過ごすことができれば良かったのでは?
ネタバレありのシナリオ面については、又後日書きます。
●代用監獄、当面存続へ 有識者会議で方向性確認(goo/アサヒ)
とっとと廃止しろよ、バカ。
「現実的ではない」という言葉の「現実」なるものがあるとすれば、代用監獄が存在し、最低限の人権が保証されない日本の警察制度は、非常に遅れていて、先進国の端くれとして非常に恥ずかしいというのが現実。取調室に弁護士も入れないわ、基本的人権の尊重はどこに消えた?
米軍が犯罪者をなかなか日本の警察に引き渡さない原因の1つも、この非常に遅れた情けない警察制度による。
警察庁はあわせて、留置場の未決拘禁者の不服申立制度も整備する。処遇などへの不服をいったん都道府県警が審査した後、公安委員会が再度審査する仕組みを検討している。
要は、木村建設が指図して姉歯が作った偽造設計書を、姉歯が検査して、ヒューザーが再度検査するということですね。それは素敵な審査制度。マンション住民もこれで納得。安心だね(^_^)b
●プロとか素人とか
除雪の手足りず、悲鳴 「危険」「早く春に」(Yahoo/共同)
自治体からの災害派遣要請を受けた自衛隊が現地入りする一方、ボランティアによる支援活動も本格化しているが、豪雪地域では9日、「危険すぎて素人には頼めない」「早く春になって」との悲鳴も聞かれた。
私がすごく気にかかるのは、この記事が包有している「プロ=自衛隊」「素人=ボランティア」という思考だ。
だが、自衛隊やボランティアのことを言いたいのではなく、「プロと素人」という区分けの問題だ。
件のイラク人質事件もそうであったが、あの事件で自己責任を叫んだ人がもっとも念頭においたのが、彼らが「素人」であったことではなかったか。「戦争問題はプロに任せて、素人は引っ込んでいろ」という考え方が日本で強かったというのが、あの珍事の本質であったように思う。
また、「プロ市民」という言葉を嘲笑するような動きも、「市民=素人」という考え方によるのではないか。
「御上にたてつくな!」ではなく「素人は黙ってろ!」という考え方。
これは、目立った素人を攻撃する一方で、黙るしかない自身の弱さを隠蔽する。個人の権利や社会の正義が犯されようとしている時に、自身の責任を「黙って」やり過ごすことのできるこの論理は、非常に強固なものであるように感じられる。
除雪ということで言えば、確かに素人の雪下ろしは危険だが、かといってガチガチのプロ技術が必要な仕事でもない。
雪は毎年振るし、現時点での積雪が突然なくなるわけではない。ならばボランティア団体や、希望者に対して雪かきの技術を教えればいいだけの話ではないか。
また、できればそのことでボランティアが対価を得られればもっといい。円では予算が不足するというなら、地域通貨のような形でもいい。「ボランティアは無料で奉仕するものだ」などという考え方も、プロと素人に対する過剰な区別だ。ボランティアは経済活動に組み込まれてもいい、いや、組み込まれるべきだ。組み込まれた上で、ボランタリーな活動を行っていけばいい。
どうにせよ人が仕事をするのに、プロだの素人だのいう過剰な区分は必要ない。お互いの間に過剰な垣根を築くことは、人間に対する不信そのものであると、私には思える。
●第4章 年収300万では結婚できない!?
(第3章は結論はやたら簡単なワリに、グラフを用意したりと説明のための準備がいろいろと必要なので、ちょっと後回しにします。)
まず、「表4-1」について。
12ページに記してある「欲求調査」の調査結果から、上層、中層、下層のそれぞれの生活水準を点数で表して、上層では80点以上が増えており、下層では60点以下が増えているというのだが、これが一体なんの点数なのかが、読者には全く分からない。
生活水準というのだから、何か「あれを持っていれば何点、年収がいくらなら何点」という点数なのかも知れないし、逆に3章で扱ったような「個人的にはこのくらい」という層意識を点数かしたものかもしれない。
そんなことをいっても、このアンケートがどのようなものであったかは、この本に記された内容だけでは闇の中だ。もし、この「欲求調査」に関する詳しい資料があったら教えてほしい。
それからしばらくは意味不明なゴミデータが続く。何らかの意味がありそうなことは書いているが、実際にはなんの点数なのかもなんのデータなのかも一切不明のままだ。ここで注目したいのは、その全てを表にして、パーセンテージであらわし、「網掛け強調」をしている点だろう。
なるほど、パーセンテージで表せば、表の貧相な内実を覆い隠すことができるし、自分の主張に近しい部分を網掛けしておけば、見た目で印象づけることができる。しかし、じっと目をこらしてn値を見れば分かるが、その母集団のあまりの少なさに、恥ずかしくなること請け合いである。
特に「表4-2」は、パーセントを「人数」に直してしまえば、小学生ならば先生に誉められるレベルの代物でしかないことは一目瞭然だ。特に「上」の貧相な数値に、思わず目を覆いたくなる。
また、この女性の「下」の数値を見ていただきたいのだが、網掛けされているのは300万未満の35.5%の箇所だが、数値の最大値は300万〜の48.4%の箇所である。
つまり、網掛け部は、あくまでも筆者の主張上、注目してもらいたい位置を強調しているに過ぎず、データとしての注目点では決してないということに注意したい。
次に、この章のメインである、124ページの「図4-2」に触れる。
これを見ると、さも年収300万と500万の間に大きな格差が存在し、両者の結婚率に2倍もの差があるように見える。
しかし、冷静になってよく見てほしい。何かおかしくはないだろうか?
まず、150万未満が「0%」というのがおかしい。同じ意味で、1000万以上が「100%」というのもおかしい。この1000万円以上が100%なのは、女性の方も同じである。
確かに、年収150万円未満で結婚している男性を見つけるのは難しいかも知れないが、1000万円以上で結婚してない男性を我々はよく知っている。たとえばプロ野球選手で1軍にいるような選手は年収1000万円以上であるが、全員が結婚しているかといえば、そんなことはない。
そもそもパーセンテージに関することで、0%であるとか100%であるとかいう数値が出ること自体がおかしいのだ。これは母数がよほど少ないことを意味している。
先程の表4-2でも触れたとおり、この図の根拠もあの母数のやたら少ない「欲求調査」によるものであり、その母数は100名である。これではこの不自然な数値は当然であろう。
不自然といえば、所得の区分も不自然だ。普通こうした折れ線グラフでは、縦横の数値は等分で表されるものであるが、この所得は0〜150満未満(150万)、150万〜300万(150万)、300万〜500万(200万)、500万〜700万(200万)、700万〜1000万(300万)と、極めて不自然な値を取っている。
しかし、それを考慮しても、このグラフでは年収300万と500万の間には、大きな差があるように思える。だが、もっとよく見てみよう。左上のほうだ。おかしな文章に気付かないだろうか?
この図4-2は「男性の所得と既婚(初婚)率の相関」と名付けられているが、そのあとに「(既婚の場合は夫婦合計の所得)とある。
……
……
……事の重大さに気付くことができただろうか?
つまり、こういうことだ。
年収300万の独身者が、年収200万の相手と結婚したとすれば、それは年収500万として扱われる。
結婚しなければ、男性一人の収入だから年収300万、結婚すれば夫婦揃っての収入だから年収500万。そして、この項目では支出は勘案していないから、働き手が増えることによる所得のマイナスはない。つまり、この図は最初っから「結婚をすれば年収が上がるようにできている」のだ。この図はさも「年収が上がれば結婚率が上がる」かのように描かれているが、実際は結婚している人間ほど、収入が上がりやすい「仕掛け」を施したグラフなのである。
さらに言えば、この図においては、年収200万円程度なら、結婚の有無で容易に上下するので、年収300万〜500万で結婚していない66.6%と、年収500万〜700万で結婚している78.3%の間の収入差は、実はそれほど明確なものではない。また、結婚している年収300万〜500万の33.3%は、年収150万〜300万の独身者に近い収入なのかもしれない。というように、珍妙な仕掛けのために、この図では年収での結婚率の多少を調べる事がまったく不可能である。
あと、もう一つ、決して無視するわけには行かないことがある。
それは、「この年収はいつの時点の年収なのか?」という点だ。
つまり、結婚を決める場合、最も重要なのは「その時点の年収」だろう。もちろん、今後の収入増加も考えるだろうが、この調査は実際の年収を調査しているのだから、この調査において、結婚にとってもっとも重要なのは「結婚を決めた時点での年収」だ。
しかし、このグラフでは、それが一切分からない。まさかもう50年ぐらい連れ添った老夫婦の、現時点でのデータをとっているのではなかろうとは思っても、それを裏づけるデータは一切示されていない。このグラフの元になっている「欲求調査」には昭和ヒトケタ世代も調査対象になっているから、ありえない話ではないのだ。少なくともこのグラフには「男性」としか書かれていない。
ここまで理解してもらったうえで、改めてこのグラフを見ると、これが意味不明の、ねじ曲がった棒が空中に浮いている絵か何かに見えてくるハズだ。それはまさにこのグラフの正体である。このグラフは一切何も表してなどいないのだ。
結局、こんなゴミデータを並べて作り上げたのが、この『下流社会』という本である。
本当に、この本に書かれている事を信じてしまう人たちは、何を考えて生きているのだろうか?
●年も明けて日にちも経ちましたが、ようやく初詣に行ってきました。

ここですか(笑)
靖国神社に拉致されている戦没者たちが、故郷の土地に早く帰れますようにお祈りしました。

最近なにかと話題の遊蹴館。
展示品はずいぶん前に見たので、入場はしませんでした。

品揃えが必死だなww
●第2章 階層化における消費者の分裂 (その2)
三浦展は「お嫁系」「ミリオネーゼ系」「かまやつ系」「ギャル系」の分類から、それぞれの立場の女性に対し、インタビューを行っている。
それぞれ冒頭の数行を引用するので、ざっと見比べていただきたい。
・お嫁系
女性誌で化粧品関係の記事を書くアルバイトをしています。バイト代は月に15万円、親からは生活費として月3蔓延ほどもらっています(今は就職活動中なのでバイトは休業中)。就職は出版社を目指しています。大手出版社に落ちたら、中堅出版社も受けます。中学生の頃から出版社で雑誌を作りたいと思っていたので。
仕事柄、世の中で話題になっているもの、流行しているものには敏感で、バイト代はすべてファッションに使っています。でも飲食店には「ホットペッパー」のクーポンを使えるところに行ったりしますよ。
・ミリオネーゼ系
現在、夫と子供と3人で大田区内に賃貸マンション住まい。住居費は25万円。夫の年収は1200~1300万円くらい。住居費と生活費合わせて40万円は夫が支払う。自分は毎月40万円貯金。貯蓄額は2000万円。そのほか、親からもらった株券が2000万円ほどある。夫が貯金しているかどうかは知らない。クルマはBMW525に乗っている。今度はレクサスもいいなと思う。持ち家の予定はまだない。夫がその気にならないので。
・かまやつ系
-1年間の洋服代はいくらですか?
「んーと……けっこう買ってるかも。10万円もしないとは思うけど」
-世間一般と比べてあなたの生活レベルは100点満点で何点ですか?
「世間一般? 生活レベルってどういう?」
-経済的な面もあるし、知力とか生活の質とか中身とかいろいろな意味で、教養とか、文化的な側面とか全部ひっくるめて。
「ああ、どうなんでしょう。世間一般と比べて、ですよね。まぁ50点ぐらいですか」
-その理由は?
「まぁ植木屋さんをやっているってことで、東京にいてもちょっと自然と触れ合ったりできるし」
・ギャル系
-世間一般と比べて、あなたの生活レベルは100点満点で何点くらいですか。
30点くらい。朝、ちゃんと起きれない。だらけすぎなので。
-現在の生活への満足度は。
40点くらい。父親がすごく厳しいので、早く家を出たい。
-結婚は?
結婚は専門を卒業したらすぐにでもしたい(ただし、現在彼氏なし)。専業主婦志向。仕事をしていたら夫と生活が合わなくなるから。子供は2人欲しい。22、23歳で産みたい。
どうだろうか? ここではインタビューの内容ではなく、インタビューの記述形式、すなわち三浦展の意図に注目したい。
三浦展が『下流社会』で行っている主張は、「金銭的意欲を発揮することこそ必要だ」というものである。そしてそれはこの類型において、上昇志向-現状志向のベクトルに表される。つまり「上昇志向をもつ女性ほどいい」と三浦展は言っているのである。具体的には「お嫁系」「ミリオネーゼ系」が三浦展のおめがねにかなう女性である。
それを理解した上、引用部分を読み返すと、そのあまりにも恣意的な記述形式の違いが嫌でも見えてくる。
まず、お嬢系とミリオネーゼ系は、さも一人で自分の現状をすらすらと話しているかのような記述形式になっている。一方で、かまやつ系とギャル系は、1問ごとにインタビュアーが登場し、さも、たどたどしく答えている印象を与える。
しかし、自分から給料やライフスタイルをぺらぺらしゃべって、しかも会話が途切れないような人間がいるだろうか? もし、本当にこのようにしゃべっているとしたら、お嫁系やミリオネーゼ系って人種は、よっぽど口が軽いのではないだろうか?
当然、これらの会話はすべて三浦展によって編集されたものだ。実際にはすべてかまやつ系やギャル系のような、インタビュアーが質問し、それに対して返答する形で行われたのであろう。マスコミ慣れした業界人に、大いにビジョンを語ってもらうようなインタビューならまだしも、一般人に対するインタビューでここまでぺらぺらしゃべってくれる人はいないだろう。ましてや個人のプライバシーに関することなど普通はしゃべらない。
ところが、三浦展の主張に添うお嫁系、ミリオネーゼ系は、さも明確なライフスタイルの志向性を持ち、それを自ら完全に理解しているように記述される。
片や、三浦展が嫌うかまやつ系、ギャル系は、人に聞かれないと自分のライフスタイルも答えられないような、非常に未熟な人種のように記述される。ギャル系に至ってはカギカッコすら付けてもらえない。
別に、後者も前者のように書こうと思えば書けないわけではなく、その逆だってできないなどということはない。実際、男性の類型であるSPA!系とフリーター系(それぞれ女性のかまやつ系とギャル系に対置できる)に対するインタビューでは、前者のような形式で記述されている。
結局、三浦展は自ら「このような記述形式を選んだ」のである。
その理由は明らか。読者に対して前者に自立して明確な意思を内包しているかのような好意的なイメージを持ってもらい、後者に未成熟で意思を持たないという否定的イメージを持ってもらうためだ。
この『下流社会』において、三浦展はこうした「印象操作」を数限りなく行っている。
■「普通のOL系」は本当に普通なのか?
三浦展は、このような4つの類型の他に「普通のOL系」という類型を設定している。普通のOL系について、三浦展はこう説明している。
専業主婦志向ではあるが、裕福な男性の争奪戦に破れて(あるいは早々に戦線離脱して)今は未婚であり、だからといってミリオネーゼのように仕事に生き甲斐を見いだす意欲も能力も不足している。もちろんギャルになるにはそこそこ知性も学歴も高く、美容師やアーチストになるほどの美的センスや自己表現欲求はない。
だが、多少手に職系やサブカルチャー系の職業には関心があるので、自由な時間を増やすために派遣社員になり、「ケイコとマナブ」を読んでフラワー教室やらアロマテラピー教室やらゴスペル教室やらに通っては自分さがしと癒しとプチ自己表現に明け暮れている。しかし、とてもそれを仕事にするところまではいかず、ふと我に返って、簿記などの資格でも取ろうかなどと思ったりするが、しかしそんな資格を取ったら、ますます結婚が遠のくかしらとも思っている。
まあ、こんな感じの女性も多い。というか、実はこういう女性がもっとも多数派であろう。そこでこういう女性を一応「普通のOL系」と呼んでおこう。
これが三浦展の「普通のOL系」に対する記述のすべてである。インタビューもない。
「こういう女性を一応「普通のOL系」と呼んでおこう」という記述から、これがその他の4類型のオマケでしかないことは明白である。
しかし、「こういう女性がもっとも多数派であろう」というなら、その多数派を視野に入れない類型化などに、はたしてどんな意味があるというのだろうか?
また、このオマケの分類についても三浦展は極めて恣意的な分析をしている。
「自由な時間を増やすために派遣社員になり」などというが、専業主婦になることまで視野に入れている普通のOL系は、わざわざ派遣社員なんてやりたくないのではないか? 派遣社員という不安定な立場に立つのはもっぱら、手に職をのかまやつ系か、不況時の異様に厳しい就職戦線に破れ、正社員になれなかった層ではないのか? また「サブカルチャー系の職業」というのも、イマイチ意味が分からない。ただ単語の語感だけではないのか?
また、いわゆるこのレベルの「普通」な女性は、みんなOLなのだろうか?
地方の短大ぐらいを出て、就職はせずに、実家で暮している女性は、以上の5分類のどこにあてはめるべきだろうか? と考えると、そうした女性にあてはまる分類が全く見つからないのである。決して私が極端な人物像を描いているのではなく、このような女性はまったく「普通」の女性であることは、同意してもらえると思う。
お嫁系にあてはめられるか? とも思うのではあるが、実家で暮すような女性は男性に対してそれほどまでに裕福さを望んでいない。仮に望んでいるとすれば都市部に出てくるはずだし、出会いのために一流企業に就職することを目指すのではないか。
だからといって、当然ギャル系にもあてはまらない。三浦展はギャル系を「学歴は高卒、あるいは高校中退ないし専門学校卒が主」と分類している。
かといって、当然仕事をしてなければ、ミリオネーゼやかまやつ系、そして普通のOL系のはずもない。
そう、三浦展は「地方の短大を卒業し、実家で地元の男性との結婚を考える」という「家事手伝い系」という分類をしていないのである。
家事手伝い系は、いわゆる男女共同参画が叫ばれる前までの「普通」の女性像であった。
この類型の後に「女性も自己責任の時代」の項目で三浦展が書くように、男女共同参画が進むにつれて、個人として扱われる女性が「学歴、性格、容姿などのすべての要素に評価され、選別され、差別される時代になった」
。
しかし、決して女性を取り巻く環境がすべてそのように変化したわけではなく、今だに「女性は仕事などしなくてもいい」とする意識は強いし、女性自身もそのような環境を上手に利用している感がある。むしろ三浦展のような認識は、都市部でしか通用しない感が強い。
そう考えた時に、三浦展は類型にはっきりと「家事手伝い系」を定義するべきであった。しかし、三浦展は家事手伝い系の存在に気づいていたとしても、決して定義することはなかったであろう。
なぜなら、家事手伝い系は間違いなくギャル系の分類に重なるものであり、そうなれば三浦展がこの本の「読者層」として定義している中高年層から批判を受ける可能性が非常に高いからだ。
家事手伝い系を良いイメージで見るのは、もっぱら中高年層であり、彼らのイメージと、この本に書かれるイメージが離反してしまえば、三浦展は批判に晒されることになる。
マーケティング屋の目的は、ターゲット層に合わせて商品を売ることである。ここで「家事手伝い系は下流だ!!」と正しいことを指摘してしまえば、ターゲット層には総スカンを食らう。そのためには「自らにとって不利益になることを書かない」ことが、マーケッターとしての正義である。
この本がどういうスタンスを取っているかといえば、「最近は若者の間で、経済格差が開いてきている。それは若者自身による意欲の有無の問題である!」というものである。そのためには、本来の社会的問題である就職機会の不平等や、世代間の圧倒的な格差、不況問題などは決して触れてはならないタブーとなる。この本の読者である中高年は、「必死に努力した結果、経済的成功を自ら勝ち取った」ということにしなければならず、まさか「たまたま好況だったから、終身雇用で現状維持の下流志向でも、たくさんお給料をもらえた」などとおくびにも出してはならない。
そして当然、ターゲット世代の常識である「女性は家事手伝いで、専業主婦」という下流志向を批判してはならないのである。
三浦展はあくまでも「マーケティング・アナリスト」でる。そのことをゆめゆめ忘れてはならない。
彼らにとって、社会やデータは現状を把握するためではなく、自らの利益のために利用するために存在する。
そして、それこそ三浦展自身が「上流志向」であることの証明なのである。
●靖国問題「外国政府介入、理解できない」 首相年頭会見(朝日)
すでに旧聞に属する話ですが、小泉の口から「精神の自由」などという言葉が出るとは、夢にも思いませんでした。しかし、「精神の自由に政治が関与することを嫌う言論人知識人がなんたら」って、じゃあお前はなんなんだと。
お前は言論人や知識人、ましてや一般市民ではなくて、行政の長という政治そのものだろう。
本当に「バカ」としか言いようがない。呆れて物もいえない。
●八木秀次がバックラッシュの偽造を認めた!?
「ファイトバックの会」より
=======南日本新聞より引用=======
「勇み足があった」。昨年11月、対面した「新しい歴史教科書をつくる会」の八木秀次会長は非を認めた。2003年、鹿児島県議会で取り上げられた全国の学校におけるジェンダーフリー教育の実例に関し、「関係自治体や学校が事実を否定した」とする本紙報道を、全面否定したことだ。
問題の実例は「東京の高校で修学旅行時に男女同宿させた」など9件。八木氏は2件は伝聞と週刊誌報道で情報を得たが、学校など当事者に一切確認していない。残る7件は「知らない」と答えた。
03年に実例を挙げた吉野正二郎県議(自民)は05年6月、県議会で八木氏の著書を引き、自身の正当性を強調した。その後、再三取材を要請するが拒否、実例を裏付ける根拠は示さないままだ。(中略)
いつどこで誰が何を。証拠は。議会は酒場ではない。言いっぱなしは許されない。
(社会部・豊島浩一)
県議会で伝聞や週刊誌レベルの報道を、ウラも取らずに喚き散らしたということか。そして安倍座長(笑)もウラ取りをせずに、ウィルスをばら撒き続ける。
どっかの耐震性の偽造よりも酷い偽造だ。しかも被害はさらに広がりつづけている。
関係者全員に対して、妥協無き厳しい処分を!!
●第2章 階層化における消費者の分裂 (その1)
まず、内容に入る前に章建てのタイトルから考えてみたい。
「階層化における消費者の分裂」。ここで三浦展が論じたいと考えているのは「消費」であり、決して職業に対する姿勢ではないことに注意したい。
『下流社会』における三浦展文章は、当人が自分の書いている内容を分かっていないのか、もしくはワザとはぐらかせてこんな書き方をしているのかは知らないが、極めて不誠実な記述に満ちている。
私が手にしている本は10刷で、帯書きに重松清がこんな文章を寄せている。
「意欲を失いがちな現代人への警告の書である-作家 重松清」
だが、この本で語られる「意欲」とは、ただひたすらに「金銭欲」「消費欲」のことであって、決して職業に真摯に取り組むような「勤労意欲」は問題にしていない。(むしろ『下流社会』においては、勤労意欲(使命感、倫理観、職業的充実感)に引っぱられて金銭欲を失うことこそ、非難の対象だ)
だが、世間の『下流社会』を好意的に見ている書評をみると、この点を全く理解せずに、「一生懸命働かない若者」などという差別的なニート論を下敷きにした、安直な若者批判に直結しているケースが多いようだ。そして、三浦展自身、そうした誤解を取り除く作業はしていない。
「はじめに」でも書いたが、三浦展の論理展開を整理した時に見えてくる「上流」というのは、一貫して「金銭的意欲」のことであり、決して勤労意欲を指すものではない。
真面目に働く年収500万で平々凡々と暮そうとするサラリーマンより、パソコンの前に座って1,000万を稼ぎ、「来年は2,000万」と考えるデイトレーダーの方が、この本においては「上流」なのだ。
『下流社会』を読む時に、この原則は絶対に忘れてはならない。
この章の内容に入る。
さすがに「消費者の分裂」と言うだけあって、消費の主体たる女性中心に話が進められている。あとに男性の分類もあるが、極めて雑なものだしオマケといってもさしつかえないだろう。もっとも本題たる女性の分類も雑なのだが。
三浦展は「上昇志向(上流)-現状志向(下流)」「職業志向-専業主婦志向」のラインをつくり、4つの分類にそれぞれ「お嫁系」「ミリオネーゼ系」「ギャル系」「かまやつ系」とあてはめる。
図には、ミリオネーゼがやや小さく、ギャル系が多少上昇志向側に寄ったりしているが、けっしてそれに意味があるとは思えない。あくまでもそれらしく見せるための手法だろう。
ちなみに「かまやつ女」というのは、「かまやつひろしのような容貌」という意味でかまやつなのだが、若い人にはイメージが湧きやすいとは言えない用語法を見ると、三浦展がどんな人たちに向けて本を書いているのかがよく分かる。
それと、図の中で「最近の若い女性の中で増加しているファッションの累計」なのだと三浦展はいうが、イメージ的にはファッションだけなら「ジョンとヨーコ」の時代の女性がイメージされるので、決して最近というわけではないように思える。
そして、この4分類と別に「普通のOL」という分類を作って中央に配置している。これに関して三浦展は「こういう女性を一応「普通のOL系」と呼んでおこう」
と、いい加減な態度で〆てしまっている。
だが、OL系を「普通」だというなら、普通であるという論拠があってしかるべきだろうに、そうした誠実な態度は三浦展にはない。そしてこの「普通」という言葉が、この図の「重大な欠落」を覆い隠している。この点については後に触れることにしよう。
●『下流社会』と今年の戦略について
ひとまず前書きと第1章を終えて、論理の骨子は明確になりました。
あとは「このやり方がインチキ」「こうした解釈はデタラメ」と箇条書きみたいに切り取って行けば良いので、それほど難しくはありません。もっとも、難しくはなくとも、具体的に示すための文量は必要ですので、多少お待ちいただくことになるとは思いますが。
さて、いままでお付き合いいただいて、『下流社会』を批判する私の文体に、不自然なところがあることにお気づきでしょうか。
そうです。事あるごとに「三浦展」という著者名を書いているのです。
今年の……というより、今後の私の戦略は「バカをピックアップしての各個撃破」です。
なにか、アカデミックな文脈で社会を論じるとなると、どうしても総体論になってしまいます。けれどもそれでは現実にバカなことをしている人間は、それが自分のことを指していると気付かないのです。
よくあるでしょ。店内禁煙のポスターの前で、タバコを吸っているとか、そういうのが。
バカはバカであることに気付かないからバカなのであって、バカに相対論を持ち出して「そういうのはおかしい」とやんわりと諭しても、当の本人は「どこのバカだよwww」と気付きません。一生かかっても、絶対に気付きません。
だから、総体論は同じような考えや知識レベルをもつ人間に対する提案にはなっても、バカには意味がないのです。我々(?)の失敗は、総体論や原理原則論をもって、既得権益にすがるクズや、ウヨのプロ奴隷たちを非難しようとしたことです。
そうした論理で挑む限り、彼らは既得性や匿名性の中に隠れて、らちがあきません。
そこで私が考えたのは、「既得権益者だけで、社会を成立させようとするのは、社会の萎縮、ひいては近代国家の体を破壊する」と、いった言論ではなく、「三浦展の言ってることは近代国家の体を破壊する」とする、各個撃破の言論です。
そして「三浦展はこれこれこういうことを言っている。それは既得権益者だけで社会を成り立たせようとする、近代国家を否定する言論だ」として、全体的に「既得権益者だけで・・・」という議論を成立させるという方法です。
禁煙ポスターの前でタバコを吸うバカのたとえで言えば、本人の目を見て「禁煙だ!」と完全に告知するわけです。
もっとも、言論ですから、相手の言論=タバコを吸う権利は守らなければならないので、たとえいうことを聞かないとしても、タバコをたたき落とすことはできません。
しかし、タバコを吸っている本人をぶん殴ることはできます。言論においては、それは全く罪ではありません。
こうした具体的な暴力は、例え一人に行ったものであっても、その効果が波及し、その他の同等の考えをもつ人たちを萎縮させます。その暴力が凄まじいものであればあるほどです。
「ペンは剣より強い」ということは、言論は剣より圧倒的な暴力装置として作用するという意味です。
そうした暴力が違法でないことは、『下流社会』という本が十分に流通し、バカの方々の溜飲を下しているという事実から、理解できます。
『下流社会』は、極めてソフトに貧乏人の頭をこづいて回ります。そしてやがてそれは貧乏人への自己責任の追求となり、人としての権利を奪い取ります。
その危機に対して、我々はその真逆をするべきなのですが、既得権益者の頭をこづけば反撃を食らいますので、そうではなく、三浦展一人をターゲットに全ての暴力を突き返してやるという方法論を取るのです。
今年の私はそんな感じです。
●子供は親によって殺される
安全見守る巡回車15万台 大阪府、女児殺害で10倍
大阪府は4日、子どもたちが犯罪に巻き込まれそうになった際、安全な場所への誘導や警察への通報を行う巡回車を2006年度に現在の約1万5000台から10倍の15万台に増やす方針を固めた。
ふーん。でも無駄ですよ。
「<長女虐待>重傷の4歳児が死亡 東京・江東」
子供はこうして親に殺されるのです。
そして、親に殺された子供は決してマスコミに同情されません。
酒鬼薔薇の事件も、
小林薫容疑者の事件も、
ヤギ容疑者の事件も、
そして、この三田武敏の事件も、
等しく「一人の子供が殺された事件」として扱われなければならないはずです。
なのにどうして、親の犯罪の前に、子供の命はこれほどまでに軽く扱われるのでしょうか。
巡回車などより、子供のいる家庭の内部を監視カメラで撮影したほうが、よっぽど子供は救われるはずです。
「親を監視する監視カメラを!!」 親による子供への凶行を、決して許してはなりません。
●第1章 「中流化」から「下流化」へ(未完成品)
この章で三浦展は、下流が増えることによって、社会の全体的な収入が減ることを説明している。そして、その数値的説明だけなら、この章で私が取り上げるべきことはなにもない。
だが、決してこの章は数値を解説するだけの存在ではない。この本を読むにあたって、もっとも危険なのは表層的な数値に騙されることだ。三浦展の真の意図(本人が意識しているかどうかは知らない)は数値ではなく、その数値を取り上げている事例の方にある。この本を批判するためには、本来ならAとかBという変数として用意されるべき箇所に書かれている単語に注目する必要がある。
ここで三浦展が例としてあげているのは、「スーツ」である。
そして、30ページにはこのような文章がある。
国民の多くが、中流を目指すため、中流であることを確認するためには消費をしなくなる。あるいは、中流であることを象徴するようなものが売れなくなる。いや、すでに売れなくなっている。
とんでもなく大仰な文章ではあるが、この言葉がこの章においての三浦展の意図を存分に語ってくれている。つまり、「スーツ」こそが、「中流を象徴するもの」なのである。
三浦展は、スーツというものを用いて、下流化によってその販売額が目減りすることを指摘するが、その実は数値ではなくて、「スーツが売れなくなっているという問題」そのことこそが、三浦展がもっとも強調したいことなのである。
かつて、バブルの時代、いや、サラリーマン層が飛躍的に拡大していた時代においては「スーツがビジネスマンの価値を決める」と思われていた時代があった。
みなさんも社会人になる前に「初任給で、最高のスーツを買いなさい。そうすればそのスーツに似合うだけのライフスタイルが自然と身についてくる」などという話を聞かされた覚えがあるのではないだろうか。
実際、かつてのオーダーメイドスーツの値段というのは、大卒の初任給とほぼ同額という基本路線があった。また、三浦展が就職をし、初任給を得たであろう1980年前後の大卒の初任給は、ほぼ10万円強(仙台市男女共同参画推進センターによる一覧 PDF資料)であった。
この本に示されている「上物のスーツ 10万円」というのは、そういう数値なのだ。
結局、この章の主題は、「初任給で10万円のスーツを買うようなライフスタイルが「中流」を維持した」という、三浦展世代の自画自賛に過ぎない。
その一方で、三浦展は第6章で「下流」のライフスタイルをこう定義している。
・パソコン(Personal Computer)
・ページャー(Pager) =携帯電話
・プレイステーション(Play Station)=テレビゲーム
以上3つが団塊ジュニアの特に「下」における三種の神器であろう。
先にあげた引用を用いれば、これらのものは「下流であることを象徴するようなもの」となる。
だが、これらの品物がスーツと何か違うとでも言うのだろうか?
スーツが三浦展世代のステイタスだったというなら、この三種の神器でステイタスといえるのは、携帯電話だろう。
「高級なスーツを買うこと」と、「携帯電話を買うこと」の間に、根本的な何か違いがあるのだろうか?
携帯電話を買い、利用を持続する原因は「もっているのが当たり前だから」だろう。
携帯の契約数はすでに9,000万件に近づき、PHSまで含めれば、契約件数を日本の人口で割った全国普及率は、70%を超える。この数値は赤ちゃんから老人までの数値であるから、『下流社会』で槍玉に上げられる若者に限れば、その普及率は90%を超えることは間違いない。
ならば携帯電話を持つ、もっとも重要な理由は「普通であること」であろう。
「みんなが持っているから、自分も買う」。これはまさに三浦展の言う「中流を目指すため、中流であることを確認するための消費」そのものではないだろうか?
三浦展の言う「中流を確認するためのスーツ」と「下流の神器である携帯電話」は同じものである。
ただ、唯一違うのが、スーツをみんなが買う状況が、経済的に中層であった若者の中にあり、携帯電話をみんなが買う状況が、経済的に下層である若者の中にあったという部分である。
つまり、「上物のスーツを買うから中流、携帯を買うから下流」なのではなく、「かつての一億総中層の時代に、上物のスーツを買う文化があり、現在の階層化社会の時代に、携帯電話を買う文化がある」のである。
ライフスタイルが経済性を生み出すような三浦展の論理は、主客が完全に逆転している。
そして、さも簡単に我々が経済をコントロールできるかのような幻想を
我々の意識で経済環境をコントロールできるかのような幻想をふりまいている。
こうした「主客逆転」こそが、『下流社会』を貫くインチキの正体である。
●門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし
まぁ、新年一発目はお約束の文面から。
すいませんねぇ、更新遅くて。
理由としては、『下流社会』の第一章に手間取っているからです。
一章は前書きと並んで短いんだけど、私はこの本で一番重要な章がこの一章だと考えているので、ここだけは絶対に手を抜けないのです。
ここで三浦展の論理のすり替えを理解できるかできないかで、その後のインチキグラフやインチキキャプションに引っかかるか引っかからないかが決まります。
なので、慎重に言葉を選びながら書いてます。ので、更新が遅れておりました。
さて、今回は閑話休題ということで、お正月にちなんだ話を。
●どうして初売りが元日に行われるようになったのか。
正月になったので、元日に福袋を買いに初売り行ったんですよ。イオンまで。まぁ、ミスタードーナッツの福袋だけですけどね。
で、ふと思ったんですけど、15、6年前までは、ジャスコなんかでも初売りは2日だったなぁ……と。
ところが、いつからか普通に元日から初売りが行われるようになった。これは一体どういうことだろうと。
普通はみんな「正月ぐらいは休みたい」と思うわけですよ。
けれども、稼ぎとしては当然、元日も営業したほうがいいわけです。無駄に店舗を寝かすことになるわけだし。
かつての、あくまでも個人商店の延長にスーパーがあったような時代には、上の2つのどちらかを選択するかの葛藤があったうえで、多くは前者の方が勝っていました。
だが、現在のような巨大スーパーが巨大スーパーである時代においては、こうした選択で後者が選ばれるようになった……のではなく、こうした葛藤自体がなくなったのです。
なぜならそれは、営業を決定する経営陣と、実際に現場に出て販売する多くのパートが別の人物だからですね。
経営陣は元日の営業を決定しながら、自身は元日に休むことができる。パートは休みたくても自分で休日を設定できない。こうした身分の格差が、さまざまな店が元日に普通に営業しているという現実を生み出しているのではないかと思うのです。
ネオリベ社会において、身分格差は自己責任とされ、立場の弱い人間に対する同情を否定します。その結果、立場の弱い人間は当然のように過当に搾取されるのです。
こんなことを『下流社会』を読んでいる端で考えてました。いうなれば「鬼畜社会」といったことろか。