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2006年01月26日

 ■ 4章、その他の細々とした部分について。

 しかし、『下流社会』を読んでいて思うのは、いったい三浦展は「上中下」という単語をどういう意味で扱っているのだろうか? ということだ。
 私はこの本を極力正確に理解するために、いわゆる現実的な金銭的余裕を「層」、そして金銭的意欲(以前「金銭的意識」と書いた部分は、すべて「金銭的意欲」に変更します)を「流」として考えているということは、前に述べた。理由は三浦展自身が「はじめに」でそう述べているからだ。
 しかし、私には三浦展が自身で定義した以外の意味で上中下を利用しているように思える。何より、この章において「上中下」という単語は使っていても、層や流という単語を使っていない。
 そんなあやふやな状態で家族形態のデータ解釈の中で三浦展はこう記している。

 つまり、若いうちは親元にいて、その後、結婚して夫婦だけで暮らし、子供ができたらできれば親元に住むのが最も「下」になりにくい生き方だということである。あまりにも保守的だが、実態はやはりそれが幸せのパターンのようである。

 一見、何事もない文章のようだが、三浦展は「上=幸せ」と見ていることが見て取れる。
 しかし、これはあくまでも金銭的余裕を表す「層」とも、意欲を表す「流」とも、全く異なる概念である。それをなんの注釈もなく混在させる三浦展の方法は非常に不誠実なものだ。
 さらに、それを「幸せ」と考えた時に、それは微妙に「流」に影響を与える。つまり、現状が幸せで「このままで十分幸せだ」と思えば、それはさらなる金銭的意欲を発揮しない「下流」の意識に近いと考えることができる。この点について三浦展はまったく気付く素振りもない。ただ無邪気に「上と答えている人たちは幸せだ。下と答えている人たちは不幸だ」と思いこんでいる。
 このアンケートに答えた人たちはどのような意味で「上中下」を理解したのだろうか?
 たとえば、金銭的には下層でも、けっして自分たちを不幸だと考えていない人たちは、自分を上中下のいずれだと答えたのだろう?
 三浦展の都合によってズタボロにされたゴミデータから、それをうかがい知ることはできない。

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