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2006年02月28日
 ■ キチガイの誕生

掲示板の件、あまりに厳しすぎると思います?
 私はそうは思いません。

 本当は私はもっとアレを罵倒してやりたかったですし、目の前にいれば、間違いなく張り倒している。そのくらいに怒りを覚えています。
 しかし、それを文章に記すという行為をするなかで、どうしてもマイルドになってしまいます。それは、怒っていることから一歩引いて、理論を打ちたてないとならないからです。怒りを論理性に変換するという作業は、非常にまどろっこしいものです。
 一方、あっちは論理性など気にせずに「お前は正しくない、相手が正しい」と暴力的に書けるので、大変有利です。

 私はいつも、こういう闘いで負けてきました。
 なぜなら、こちらが論理性で勝負をするかぎり、論理をまったく軽んじる人間には、それが全く通用しないからです。
 一方、物理的であるナシにかかわらず、暴力は一方的なモノですから、それを軽んじようが否定しようが通じます。

 そうした構造において、私に対して「あまりに厳しすぎる」と思うなら、あの行為が私に対する暴行であるということを直視していないからです。そういうのはレイプされた女性に対して「挑発的な格好をしていた」とか言うのと同じです。

 あのような人間は、もっと周囲から嫌われ、卑下され、罵倒され、打ちのめされるべきなのです。彼らによって私がそうされてきたように。
 本来、それは社会的なサンクションとして発露するべきなのですが、エセ平等観念が蔓延するこの社会では、そうした期待すら裏切られるのです。


 そもそも、アレ……アレというのも変な主語ですから、もうすこし明確な言葉を使って「キチガイ」と呼びましょう。
 なぜキチガイなのかは、私がまさにこのような連中を「キチガイ」と呼んできたからです。私はずーっとこうしたキチガイを駆逐するために戦ってきました。

 そもそも、キチガイは「エセ平等観念」にまみれた社会の中から発生するものです。
 キチガイの理屈はこうです。
 「人間は平等なのだから、どちらかがどちらかに対して、一方的に良い悪いということはない」
 しかし、この論理は「行為の本質」というものを完全に無視しています。片や一方的に暴力を振るった加害者と、片や一方的に暴力を振るわれた被害者が「一方的に良い悪いということはない」などというジャッジをされれば、それは加害者の一方的な勝利に終るのです。なぜなら、既に加害行為はなされているからです。
 そして結局は被害者に対して「水に流せ」とか「犬にでも噛まれたと思ってガマンしろ」などと諭すだけの、被害者にとっては極めて屈辱的な結論に終るのです。

 しかし、それは被害者に対しての更なる加害行為でしかないのです。
 真の平等は、被害者の側に立ち、被害者の名誉回復を目指して動くことでしかあり得ません。
 そういうことが分からない人間が、「貧乏人も、金持ち権力者も皆平等」などという、ふざけたネオコン思想に走るのです。

 だから、私はそういうキチガイと、ずーっと戦い続けているのです。
 私の思想の原点は、キチガイとの戦いにあるのです。

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2006年02月20日
 ■ おいしい事件 おいしくない事件

つい、お笑いウルトラクイズのDVDを買っちゃったんですよ。(アマゾンでは、編集に対する評価が散々なようですが、別に普通に楽しめましたよ)
 で、DVD特典の芸人座談会を見てたのですが、その中で出川が「収録が終って、横転した車から脱出したら、その直後に車が爆発した。そしたらスタッフが「もっと近くならおいしかったのに」って言った。もっと近かったら死んでるよ(笑)」みたいな話をしていたんですね。

 で、園児2人が、別の子の親に殺された事件がさかんに報道されているのも、「子供二人が殺されて“おいしい”」ということなんでしょうね、と。犯人が中国籍な点も非常においしいですね。
 で、私の「親の子殺しメモ」を見ていただければ分かるとおり、今月の7日から10日にかけて、4人の子供が殺されている。そして、これはほとんど報道されなかったわけです。つまりTV的に“おいしくない”事件なのです。

 TVの前の視聴者が求めているのは「子供が他人に殺される事件」です。
 愛する子供を失い、泣いている母親の心情に共感し、同時に犯人への憎悪をもって、己の正義感を確認するのです。
 ところが、親が子供を殺したのでは、親の心に共感できませんし、自分たちと近しい存在である親を憎悪することもできません。
 世間の人たちがTVで見たいものは「子供が殺されてしまった」という事実ではなく、「愛する子供を殺されて、親が泣いている」というドラマツルギーそのものなのです。

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2006年02月17日
 ■ 保護者の性的虐待が最多、被害児童17人増の56人に

保護者の性的虐待が最多、被害児童17人増の56人に

 もちろん、これが氷山の一角でしかないのはあたりまえの話で。
 しかし、この数字に値するぐらいの社会の関心が、このニュースソースに対して向いているとはいえないだろう。

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 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その8 で、結局「上中下」ってなに?

「嫌下流社会」シリーズ その8
 で、結局「上中下」ってなに?

 第5章に入る前に、ここで『下流社会』の図表の中に書かれている「上中下」とは何かということを明確にしておきたい。
 第3章の一部の考察で既に示したように、図表で扱われる「上中下」という概念はこうである。

 三浦展は、まず「あなたの生活水準は次のどれにあてはまると思いますか」と尋ね、「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」の5つから1つを選択させた。
 そして、「上」「中の上」を合わせて「上」、「中の中」を「中」、そして「中の下」と「下」を合わせて「下」としたものである。
 これは、内閣府が行なっている「国民生活に関する世論調査」の調査方法をそのままマネたものである。
 「国民生活に関する世論調査」ではこういう質問項目になっている。

Q8 〔回答票9〕 お宅の生活の程度は,世間一般からみて,どうですか。この中から1つお答えください。

(ア) 上
(イ) 中の上
(ウ) 中の中
(エ) 中の下
(オ) 下
    わからない

 「意識調査」においても、ほとんど同じ質問がされたと思われる。

 で、このことが何を意味するかといえば、『下流社会』でいう「上中下」という概念は、あくまでも「本人の意識の上」の「生活の程度」というものでしかないということだ。
 つまり、本人がどう思っているかという主観的な観念であって、決して収入やライフスタイルといった、客観的な意味合に点数付けなどをして、そこから立ち上げたデータではないのだ。
 具体的には、これを客観的なデータとみなすためには、まずは年収1,000万以上は10、150万未満は0、車の車種ごとに高級車は5、大衆車は3、車がなければ0。などと、収入やライフスタイルごとに指数を設定し、何ポイント以上が「上」で、何ポイント以下なら「下」などと分析する必要がある。
 こうした作業を経て初めて、客観的な「上中下」を表すことができる。その場合「上中下」は、イコール「層」の概念となる。

 というわけで、これはあくまでも主観的な観念でしかないわけなのだが、たとえ主観であっても、その意味合いの見極めは慎重に行なう必要がある。
 この調査上で、解答者が自らを「上中下」のいずれに自分を当てはめるかというのは、この質問からは全くうかがい知ることができない。
 それこそ、年収が何千万もあり、人も羨む生活をしている人が、人生に不満をもって自分を「下」と称するかも知れないし、貧乏でも自分の生活に満足して「上」と称する人がいるかもしれない。
 そしてその不満や満足は、あまりに多種多様過ぎて、他人には計り知ることができない。もちろんアンケートの項目をこと細かくしていけば、大まかには見えてくるかも知れないが、それでも明確ではない。
 だから、この分類ははっきりと「何かの上下」ということはできず、このアンケートの文章にあるとおり「お宅の生活の程度」という極めて曖昧な言葉でしか定義できない。
 この曖昧な「上中下」という言葉を、「流」と理解し、現代社会を切り取ろうと三浦展が考えて記したのが『下流社会』なのであるが、その短絡的な考察と、自らの偏見を一切考慮しなかったが故に、このような駄本として流通。そしてさらにそれを利用しようとする愚者が溢れているのが、『下流社会』を巡る悲惨な現状である。


 まとめとして、以下に、今まで出てきた概念をまとめる。

 ・実際(客観的な)の金銭的余裕である「上中下‘層’」
 ・(主観的かつ客観的な)金銭的意欲である「上下‘流’」
 ・(主観的な)自己判断である「上中下」という「生活の程度」

 この3つの違い、特に図表で使われているのは、すべて「生活の程度」と呼ぶしかない非常に曖昧な表現である。ということをしっかり頭に叩き込んで、以降の章に望んでいただきたい。

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2006年02月16日
 ■ 仕事をください

トップページに仕事のお願いを書いてから一週間経ちました。
 スパムを掻き分けてメールを細かくチェックしていますが、今だにまったくなんにもありません。
 以前にも書きましたが、わたしは過剰に我慢強く、ほとんどのことを自分の中にため込んで、耐える性格です。
 なので、わたしが「限界」と言ったら、それは本当に切れる一歩手前なのです。
 そしてそれは、ここ一週間の話をしているのではなく、このサイトを続けてきた9年間の帰結なのです。
 せめて、穴埋めの1ページでもいいですから、仕事を譲ってください。お願いします。
 この文章の先にいるのは、霞を食べて生きていられるネットワーカーではありません。現実の一人の人間なのです。
 わたしはこのまま、事切れたくなどないのです。
 本当にお願いします。

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 ■ ガンダム世代時点では服装にまで赤を持ち込むことはなかった?

昨日の「反ジェンフリ」で「ガンダム世代時点では服装にまで赤を持ち込むことはなかった」という件について、もっと簡単な反論を思いついた。
 宇宙戦艦ヤマトの古代進は(最初についうっかり古代祐三と書いてしまったのは、僕と君と古ゲーマーだけの秘密だ)服装に赤を持ち込んでいるではないか。
 しかも、「ヤマト世代」という括りも明確にある。
 これで完全に「ガンダム世代時点では服装」云々の話は否定できる。

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2006年02月14日
 ■ 反ジェンフリを必死に喧伝する馬鹿マーケ

反ジェンフリを必死に喧伝する馬鹿マーケ。
成城トランスカレッジ!より、「小寺信良:男は本当にメカメカしいものが好きなのか」

 男女の偏見イメージによるマーケティング戦略は、これまでのところ作り手と買い手双方が均等に偏見の呪縛から逃れられていないために、なんとなく上手く回転しているように見える。だがあと5年足らずで、若年層の傾向が全く見えない時代が訪れることになるだろう。

 なぜならば、小学校で性差別根絶教育を叩き込まれた子供達が、ティーンエイジャーに成長するからだ。まさにそういう子供を持つ筆者の目からすると、一時はこの教育法に対して行きすぎを感じたほどだ。それはもはや性差別を無くすというよりも、性差そのものを無くすかのような指導も見受けられたからである。

 ゲラゲラゲラ。
「見受けられた」というなら、それを実証してほしい。
 少なくとも八木秀次すら、自身の調査によっては存在を確認できなかった、「性差別根絶教育」とやらの存在を。
 ゲラゲラゲラ。

 一方で男の子は、赤い服を着ることに抵抗がなくなっている。これはヒーローの姿が大抵「赤」だったり、あるいはサッカーなどのユニフォームでも赤が用いられたりすることで、「赤=強さの象徴」といったイメージができあがりつつあるのかも知れない。

 もっともガンダム世代では、「赤=3倍速い」というイメージはとっくにできあがっていたわけだが、しかし服装にまで赤を持ち込むことはなかった。このあたりにもやはり、性差イメージによる洗脳の姿が垣間見られる。

 Wikipediaによると、「初代ガンダム」の放送開始は1979年です。しかし、初回放送時は人気がなく、話数が削られて強制終了させられたのは有名な話です。よって、「赤=3倍速い」などというイメージが形成された、というか「ガンダム世代」という括り自体が80年代以降のものでしょう。
 片や、開始直後から比較的順調に歩んできたスーパー戦隊シリーズ「ゴレンジャー」の開始は1975年。現在まで連なるお約束にもなった、「リーダーは男性で赤」はこの時点で既に始まっています。
 年齢層が違う!! と反論するなら、ジャケットが青から赤へ変更された、ルパン三世の第2シリーズ放送開始が1977年ですね。
 そんなわけで「ガンダム世代時点では服装にまで赤を持ち込むことはなかった」などという話が妄想であることは容易に理解できます。
 それとも「ゴレンジャーもルパンもジェンフリの陰謀だ!!」とか吠えますか?

女性だから暖色、男だったら黒かシルバー、といった旧来のセオリーが役に立たない今の子供達は、今後のマーケティング戦略にとってかなりの強敵になってくるだろう。

 そんなセオリーは5colorsのiMacが販売された当時には、とっくに通用しなくなっていたと私は記憶しております。

 そもそも、「女の子は赤やピンク、男の子は青や黒」(引用の中にある「暖色や黒やシルバー」というのは、どちらかと言えば中高生以降に対するセオリーだろう)というのは、子供自身の嗜好ではなくて、親が子供にものを買い与える際に最大公約数的「普通」を考慮したものではなかっただろうか?
 色だけではなく遊びについても、大人が子供の「あるべき遊び」を考慮し、「おもちゃを買い与える」のだから、子供相手のマーケは自ずと親の「子供に対する嗜好理解」を経由したねじ曲がったモノになる。そしてそのねじ曲がりこそがジェンダーである。
 赤は女、白は男という決めつけがある一方で、運動会における「赤組、白組」にそうしたイメージは存在しない。

 というか、「女の子は赤やピンク、男の子は青や黒」的なベタなイメージを具現化しているものって、マーケットが親に売りつけるもののではない、まともに歴史的に妥当であると考えられてきたものといえば、小学生のランドセルと、鯉のぼりぐらいしか思いつかないのだが……
 と書いて、ふと「鯉のぼりってなんだ?」と思いました。
 いや、なんだもなにも、鯉のぼりは鯉のぼりなんですが、鯉のぼりって「大きい真鯉はお父さん」と歌にも歌われて、色も黒ですよね。で、その下の赤くてちょっと小さい鯉がお母さんとされています。
 このイメージがいつから始まったかを調べれば、「男は黒、女は赤」のイメージがどのへんから始まったのかのおおよその検討がつくのではないでしょうか。
 で、調べてみると「秀光人形工房だより」というメルマガを発見しました。その中に「[秀光工房あたふた日記]------ 鯉のぼりの色は何色が好き?」というコーナーがありました。

ご質問のように、真鯉と緋鯉しか歌には出てきませんよね。
これは、
1)歌が作られた時には鯉のぼりは2種類しかなかった。
2)端午の節句は男の子のお節句とされていた。
の二つの要因からなんです。

本物の「鯉」って、青や緑の鯉は居ないですよね。
江戸時代に町人達の大胆な発想で創られた鯉のぼりなんですが、
さすがに実在しない色の鯉のぼりを創るまでには至らなかったようです。

実は、いろいろな色の鯉のぼりが登場したのは意外と歴史が浅くて、
昭和39年に始めて、若手鯉のぼり職人達の発想によって
五色の鯉のぼりが作られたのです。
そうです、オリンピックの五輪からアイデアを頂いたのですよ。

 そうだったのかーーー。
 まず、鯉のぼりの歌は「大きい真鯉はお父さん」という歌詞はあっても、「赤い鯉はお母さん」という歌詞はありません。それはそもそも端午の節句ということで、女性性を意識してないんですね。

 さらに重要なことは、鯉のぼりの色は、そもそもは「鯉は黒いから黒」なのであって、決して「黒=男」を意図したわけでは無いということです。
 しかし、錦鯉はいるのだから赤もいそうなものですが、その辺はどうなのでしょうか? 赤の使用が避けられていたとすれば、実は「男の鯉だから黒」という意図があったということは否めないのかも……。
 そう思って、錦鯉の歴史を調べると、錦鯉は江戸時代に変種の養殖によって生まれた鯉なんですね。要は土着の馴染み深い鯉である黒い鯉を写し取ったのが鯉のぼりであって、錦鯉はあくまでも「特別なもの」として考えられていたことが伺えます。
 ただ、江戸時代で既に錦鯉がいますので、探せば当時の「赤い鯉のぼり」を見つけることもできるかもしれません。ただし、この場合の赤は当然「女」のイメージではありません。どちらかと言えば、金持ちのイメージかもしれませんね。今だって錦鯉は金持ちのイメージですから。

 また、カラー鯉のぼりの考え方は、どっちかと言えばオリンピックに乗じた軽率な伝統破りだったようです。これにもさしあたっては「赤=女」というイメージは存在しません。いや、赤を黒の次にしたということは、そういうことも考えたのかも知れません。ただしそれはあくまでも昭和39年のことであって、決して江戸の昔から連なる歴史ではないということです。
 ……歴史といえば、着物の色なんかもあるな……今調べるとキリがないので、こんど歴史館とか行ったら、その辺を注意してみることにしましょう。

また、以前は鯉のぼりは男の子のお節句の物として扱われてきましたが、
祝日法が制定されて、五月五日が「子供の日」となった関係もあり、
やはり女性も鯉のぼりに参加した方が良いとなっていったのです。

 赤い鯉のぼりはジェンフリの陰謀だ!!(笑)

 おまけに、鯉のぼりを調べてたら出てきた、オモシロ読み物

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 ■ わたしの欲しいもの

R.D.レインの『結ぼれ』の中に、こういう文章がある。

わたしの欲しいものときたら、手に入ったためしがない。
手に入ったのは、いつだって、欲しくないものだった。
欲しいものは
わたしの手には入らないだろう。

だから、それを手に入れるには
わたしは欲しがってはならない。
なにしろ、手に入るのはわたしの欲しくないものだから。

わたしの欲しいものは、手に入れることができない
手に入るものは、欲しくない。

 これを呼んで私は「ああ、自分のことだな」と思うのです。
 これまでずーっと、「欲しいものが手に入らず、欲しくないと思ったものばかり押しつけられる」人生を歩んできた私にとって、「欲しいものを欲しがる素振りを見せなくする」のは必然でした。

 欲しいものは手に入らないから、欲しくないものを欲しいフリをする。

 そして私はニセモノばかりを自ら望んで欲するようになったのです。

 欲しくないものを欲すれば、欲しくないものを手に入れずにすむ。

 けれども、結局はニセモノばかりが手に入り、欲しいものは一向に手に入らないのでした。
 なので、時折私は欲しいものを欲しました。

 欲しくないものを欲したら、欲しくないものが手に入った。欲しいものを欲すれば、欲しいものが手に入るはず。

 しかし、欲しいものを欲した結果、いつだって私自身が傷つく結果に終ったのです。
 だから、欲しいものを欲しがるのを辞め、ニセモノを欲しいものだと思いこむことにしました。
 親にCDラジカセを買ってもらった時、機能の多い高いモデルではなく、機能の少ない安いモデルを欲しがったことを記憶しています。

 欲しいものが手に入らないから、手に入るニセモノを欲しいものと思いこむことにした。

 すると、欲しいと思いこんだニセモノすら手に入らなくなりました。

 わたしの欲しいものときたら、手に入ったためしがない。

 そしてわたしは欲しいという感情自体を表に出すことをやめました。
 そしてわたしは何も手に入れることができなくなったのです。

 わたしは何もいらない わたしは何も欲しくない

 けれども本当のわたしはいろんなものが欲しかったのです。
 そして時々思い出したように欲求を出しては、それに傷つけられることがすべてだったのです。

 そしてこうして30年の月日が流れました。

 わたしはトップページに「欲しいもの」を書きました。
 そしてまたしても傷つくことになるのでしょうか?

 今読み直すと、ちょっとだけウソが書かれています。
 やっぱり三浦展のように本をたくさん売りたいし、
 人並み以上の生活をしたいのです。
 条件は自分の名前が出るだけですが、本当はそれに加えて紙媒体のほうがいいです。本というマテリアルに収束せずに達成感を何ら得られないWebはもうウンザリです。
 でも、こうしてちょっとだけウソを付け加えないと、また傷つけられやしないかと不安なのです。

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2006年02月12日
 ■ 「親の子殺しメモ」スタート

メインコンテンツのほうで「親の子殺しメモ」をスタートしました。
 なんと2月7日から10日というわずか4日間で4人の子供が親によって殺されています。
 これが他人による連れ去り殺人だったら、社会全体を揺るがす大問題になっているはずです。
 しかし、親による子殺しは、いくら頻発しようと、初期報道はあってもほとんど継続されることはなく、人々の話題にもならず、まるで何事もなかったかのように忘れ去られてしまいます。
 まさに、「子は親の所有物。しかも可処分」という社会認識が鮮やかに浮かび上がります。

 また、2/11日更新分の最後の虐待事件については、親が95年に子供を殺しているにもかかわらず、今だに誰かの親であり、また子供を殺しかねないという悲惨な現実があります。
 最近さかんに性犯罪者の名前を公表するミーガン法の待望論が持ち上がりますが、その前に一度子供を殺した親を公表し、二度と誰かの親にしない法律をつくるべきではないでしょうか?

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 ■ あの御方が妊娠されたそうですが……

あの御方が妊娠されたそうですが……
 検査で「ご懐妊の兆候が見られる」なんて段階で、なんで報道するかね。
 マスコミにむけて発表しちゃう宮内庁の考えが分からないし、それを嬉々として報道するマスコミの考えも分からない。
 安定期にも入ってないこの時期に、皇室典範の件もある緊張の中で、かつての悲劇をまたくり返すつもりなのか?
 人間としての最低限の良心すら介在させず、ただ伝聞を右から左へ伝えることの恐ろしさを、この報道に見る。

 加藤周一は『論座(2006.1月号)』で、「若い人が天皇制に関心がないのはなぜか」という文脈において、天皇制の意味について、このような論理を展開している。

 天皇は、勲章や名誉のような何かを与えてくれるとか、ありがたいとかいうことではなく、自分の社会的地位の上下を測るための「定点」だからです。だから社会的地位がある人ほど天皇制を意識し、熱心になるのです。

 この言葉には複数の意味が含まれると思うが、報道対象や世間の興味対象としての皇室という点においてのみ、この言葉から抜き出すとすれば、それはまさに人間ではなく「自分(個人)のための便利な道具」として天皇、ならびに皇室を利用するということに他ならない。端っから天皇家は人間ではないということだ。これから生まれてくる子供さえも。

 だが、このような「人間を定点に置いての利用」は、単に「田吾作による天皇利用」と言って済む問題ではない。
 天皇を「上の定点」だとするなら、昨今のニート言論は「下の定点」に対する欲求といえよう。
 お偉い方々は、天皇との関係性で自らの社会的地位を確認し、サラリーマンたちはニートを罵倒しながら、自らの社会的地位を確認する。そしていずれも定点を人間扱いなどしていない。定点の移動を許さないという前提で、社会は定点を犠牲にしながら栄華を得る。それはまさに、かつての穢多や非人と同じ意味をもつ、悪辣な差別の構図である。

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 ■ 子供の安全に対する意識調査だって? なんだこりゃ?

子供の安全に対する意識調査だって? なんだこりゃ?

1割以上が「危険」遭遇 子どもの安全アンケートという記事を見て、「?」が浮かんだ。
 というのも、この部分。

子どもの安全のために求めるものは「地域での取り組み」(64・5%)、「行政での取り組み」(16・6%)、「子どもへの教育」(9・8%)の順だった。

 これを見て、「パーセンテージがなんとなくおかしいな」と思った。
 だって、子供の安全のために地域での取り組みという事に関して、地域での取り組みを期待する人が64.5%もいるのに、なんで行政での取り組みに期待するのが、わずか16.6%なんだと。
「住民の自治はいいけど、行政はできるだけ入り込むな」という住民権利意識の高い人がそんなにいるとは思えないので、なにかアンケート自体におかしなところがあるんだろうなと。思った次第。

 で、ググってみるとありました。
第一回まちcomiリサーチ『子供の安全に関する意識調査』
 PDFでアンケートの詳細も用意してあります。
 ちゃんと全てのデータを公表するあたり、「下流だワッショイ!」と叫ぶくせに、アンケートの一次資料を今後の飯のタネと考えているのか、必死に隠しているどこぞのボンクラとは大違いの誠実さです。

 では、PDFファイルの内容を検証していくことにしましょう。

・表紙

 パッと見、概要と項目だけなので、すぐに次に行きたくなりますが、あっ、ちょっと待ってください!(山本小鉄)
 この「有効回答数 1000」っていうのはなんなのでしょうか?
 有効回答数というのは、全ての回答から未回答を差し引いたものですが、この場合は「アンケートに対する回答全体として有効なもの」という意味でしょう。
 で、それが1000。端数とかないんですか?

 アンケートの配布数は2ページ目にありまして、これが3000ということです。
 有効回答数がきっちり1000だというなら、そもそも「まちcomi」に登録するような防犯意識の高いはずの人たちのうち、3分の1しかアンケートにまともに答えなかったということになります。
 もちろん、携帯メールでアンケートをお願いしたのですから、spamなどと間違われて捨てられることもあるでしょうし、わずか3日という調査期間の問題もありますが、それにしても1000というのは、少ない気がします。
 まぁ、実際は全有効回答数から、1000を抽出したってのが正しい解釈なのでしょう。しかし、このアンケートの回答をみると、すべてが%表示なのだから、わざわざ抽出をする意味はないんですけどねぇ。

・回答率上位は北陸、東海、九州・沖縄

 えーと、パーセンテージで示されると、母数が分からないので困ります。
 地域別に出すなら、全ての地域別の母数とパーセンテージを一緒に表示するべきです。
 北陸が100人ぐらいで、関東が2000人ぐらいなんていうんじゃ、それを並列に並べる意味はありません。

・低学年の子供をもつ保護者が7割以上

 ……この円グラフの意味、分かります? 私には分かりません。
 いえね、円グラフというのは「足して100%」になるものに対してのみ使えるんですよ。
 アンケートの母数が1000。ということは、たとえば「小学校1年生」の20.6%というのは、小学1年生が206人いるということです。母数が抽出した1000であるという以外のデータが無いのですから、そう考えるしかありません。
 ……けれども、アンケートの対象は「親」なのです。
 いいですよ。アンケートを送付した親は「すべてひとりっこの親である」と分かっていて、こういう結果を出しているのなら。
 でも、本当に二人以上の子供をもつ親はいないのでしょうか? いないと考えないとこの円グラフが成り立たないのですよ。

 この項目はどう考えても複数回答を前提にするものですから、当然棒グラフなどを用いるべきなのです。円グラフは単独回答のものにしか使えないというのは、義務教育でならったお約束のハズなのですが……

・解答者の性別はほぼ同数

 これも上と同じです。子供が2人以上いる親は、どのように回答したのでしょうか?

・約9割の保護者が、住んでる街に対して不安を感じている

 さて、この項目の文章と、グラフを見比べてどう思いますか?
 一体どこに「9割」があるのでしょうか。
 不思議に思いながら、文章をよく見ると、ありました。

また「わからない」と答えた39.2%を加えると、安全だと思っていない人の割合が89.7%と全体の約9割に上り、自分達の住んでいる街に対して安心だと言い切れないなんらかの不安感を感じていることが伺える。

 なるほど「思う」以外が9割ってことですね。
 けれどもそれは「なんらかの不安感を感じている」ということなのでしょうか?
 そもそも、安全の反対語は「不安」ではなく「危険」です。
 「9割が不安を感じている」という言葉は自然に聞こえても、「9割が危険を感じている」となれば、どれだけ恐ろしい街なんだ? という事になり、この「9割」という数字がおかしなものであることに気がつくでしょう。

 そういう意味で、この場合「思わない」の選択肢が「危険だと思う」ではないことに注意が必要です。つまり、安全だと言い切れないけれども、それほど危険だとも思っていないうちの大多数が「思わない」の選択肢を選択するために、実際に危険を感じている人たちよりも「思わない」の比率がかなり大きくなっていると考えられます。
 で、報道では50.5%の思わないの部分だけを報じていますが、この回答のキモは、「分からない」の39.2%をどう考えるかということです。
 解説文では

また「わからない」と答えた39.2%を加えると、安全だと思っていない人の割合が89.7%と全体の約9割に上り、自分達の住んでいる街に対して安心だと言い切れないなんらかの不安感を感じていることが伺える。

 と、記していますが、「思わない」の選択肢が上記のとおり、曖昧な立場の人たちを多く取り込んでおり、実質的に中間の立場にあります。よって、この選択肢は「安全だと思う」側に編入するのが妥当であると、私は考えます。

 本当ならこのアンケートは「(危険)1-2-3-4-5(安全)」として、妥当だと思うあたりに○を付けてもらうような、両極を明確にした形式で聞く必要のあるものでしょうね。

・約1割超の子供が実際に危険な目にあったことがある

 この「実際に危険」という言葉の意味が明確ではありません。
 不審者情報を登録するツールを提供する会社でのアンケートなのですから、それは「不審者に危険な目にあわされた」と考えてしまいがちですが、ここには「実際に危険」としか書いておらず、それがどの類の危険であるのかは明示されていません。
 ひょっとしたら、「車に轢かれそうになった」「転んだ」「家で天ぷらを揚げていたら、子供の顔にハネた」などが「危険」として挙げられているかも知れません。
 このような意味不明なアンケート結果であっても、こうしてまとめられて新聞に掲載されてしまえば、それが公然の事実として独り歩きしてしまうのは、大変恐ろしいことです。

 ちなみに、解説文の後半部分。「1000人の保護者が持つ子供のうち、127人の子供がなんらかの危険な目にあったことがあるという結果」という文章から、最初の「低学年の子供をもつ保護者が7割以上」の項目で指摘したように、このアンケートを分析している人間が、アンケートの回答数と、子供の数を混同して考えていることが分かります。それとも本当に一人っ子の親限定アンケートなのでしょうか?

・子供にとって危険だと思う場所は「下校時の通学路」がトップ

 場所を聞くのに、選択肢がたった5つ……
 うち、通学路が2つで、ほかは通学路以外と公園とその他(公園とその他は「通学路以外」と何が違うんだ?)なのですから、選択肢はないに等しいです。
 なんかいまにも、近くで大勢のバイキングが「通学路通学路通学路通学路!」と大声で歌い出しそうです。
 そうか、最近の子供は通学路と公園にしか生息していないのか……

・防犯グッズを持たせていても有効性には疑問を感じている

 だから〜、防犯ブザーとGPS携帯を両方持たせている親は、どう回答すればいいんですか〜?
 あと、さっきっから何度も言ってるけど、単語は明確に定義してくれ。「有効」じゃ何に対する有効性か分かんないのよ。
 防犯ブザーは、犯行が実行された直後に、犯人を逃走させるという有効性ですし、GPS携帯は連れ去られた後に場所を把握するための有効性です。
 で、親が求めているであろう有効性は、そもそも子供が犯罪のはの字にも触れないで済むという有効性でしょう。

 というか、これって完全に「まちcomi」の宣伝に使うためのアンケートだよね。
 防犯ブザーだけでもGPS携帯だけでも不安だから、まちcomiを使おうってことでしょ。

・子供達の安全の為に必要なのは地域の取り組み

 まずは左のグラフから。
 はい、選択肢を見ただけで、典型的なクズアンケートです。
 この手のアンケートは、中央の山が大きくなって、両端が少ないのが当たり前です。
 そのもっとも大きな山の部分に「少し不安」という項目をおいて「全体の8割以上の保護者が地域の防犯対策に不安」などというのは、完全に偽装です。
 もし、この「少し不安」の項目を「少し安心」に置き換えても、53.7%の数値はほとんど変わることがないハズです。そうなれば「全体の7割近くの保護者が地域の防犯対策に安心」という数値を偽装することもできます。

 当然、この選択肢は「少し不安」のところを「どちらともいえない」にするべきなのです。
 どうしても安心か不安かという事にしたければ、「少し安全」を加えて6項目にするべきです。

 右のグラフですが、これが最初に報道で触れたグラフですね。
 円グラフで示してあるということは、やはりこれが複数回答可では無いということです。
 まさか地域での取り組みが必要だと思っている人が、家族や学校、行政の取り組みが不要だと思っているわけではありません。
 また、選択肢に具体性がないために、地域の取り組みの項目が、他のすべてを取り込んだ、最大公的選択肢として見られている可能性が高いと考えられます。

 えーと、最後のほう、なんか失速してしまいましたが。くだらないアンケートというのは、見るだけで疲れるものです。

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2006年02月06日
 ■ みなさんは「電気用品安全法」ってご存じじじじじじ?

みなさんは「電気用品安全法」ってご存じじじじじじ?
 この法律が2001年の4月に施行されてたらしいんですよ。

 ……ええ、2001年です。ずいぶん昔の話ですね。
 しかし、実際の適用に対しては猶予期間が儲けてありまして、その期間が5年と言うことなので、2006年の4月。つまり2ヶ月後から適用となります。
 で、これがどういうものかというと、簡単に言えば「PSEマークがついていない製品は販売禁止」という法律です。もちろん例外もありますが、コンセント差して使うような電気機器はほとんど対象になってます。

 詳しくは「電気用品安全法 〜 PSEマークのない電気製品にはご注意を!」を見てください。けっこうビックリの内容です。

 で、私が危惧するのは、やっぱり中古ゲーム市場でありまして、特にACアダプターではなく電源を内蔵するようなゲーム機は相当ヤバいようです。中でもセガサターンとドリームキャストは、既に生産そのものがありませんし、プレイステーションのように互換性がある現行機もありません。また、シェアの少なさからファミコンのようにサードメーカーがハードを販売するとも考えられません。
 今になって思い返すと、以前中古でセガサターンのハードを買おうとして、ほとんど見かけないことに違和感を感じていましたが、実は法律の適用を睨んで中古ショップが買い取りを制限していたと考えると納得がいきます。なんせ施行自体は2001年ですから。
 さらにマズイのはゲーム基盤で、いわゆる移植されていないゲームは全滅ということです。もちろん移植と言ったってピンキリですから、基盤にこだわる人は早めに手に入れておくべきでしょう。
「基盤がなければMAMEを使えばいいじゃない」というエミュキチの意見も聞かれますが、エミュにできないエレメカ類は確実におじゃんです。ただでさえ絶滅が危惧される稀少な古いエレメカ類が消えて行くと思うと、昔からあらゆるゲームに親しんできた身としては寂寥を感じずにはいられません。

 ちなみに、家の中の電化製品をいくつかチェックしてみると、石油ファンヒーターと電気湯沸かし器に、確かにPSEマークが付いてました。
 もちろん、製品の安全性という点が法のベースなのでしょうが、なにか反リサイクル業者的な意図を感じるのは私だけでしょうか?

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 ■ 東横イン 無駄排除で急成長 客室稼働率突出83%

東横イン 無駄排除で急成長 客室稼働率突出83%
 つまり、最近外人が誉めたとかで、はやらせようと必死になっている「MOTTAINAI」ってやつですね。
 しかし、成長した東横インにとっては、あんな杜撰な記者会見しかできない西田憲正自身が「無駄」だったという、素敵なオチ。

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 ■ 今日のガッカリ 「中年ニート」とはなんぞや?

今日のガッカリ記事。
 週刊ポスト(2006/2/17号)でガッカリ記事を見つけました。

 松本ネット殺人事件−
 「父殺し依頼男も! 急増する「中年ニート」の家庭内暴力
 ・'21年には200万人に。今や深刻な社会問題

 ねー、見出しだけでガッカリでしょ。
 記事の内容はといえば、長野で息子と共謀して父親の殺害をネットで第三者に依頼した事件の件で、容疑者が49歳の無職だったということで「中年ニート」なる珍妙な造語を週刊ポストの馬鹿ライターがつくって、お約束の差別発言をしているって話。
 記事の中でこの記事を書いた人間は

 そもそもニートとは、働きも、学びもせず、職業訓練も受けていない者を指す。

 と、記しているが、これは大嘘。
 より正しいニートの定義は、「15〜34歳の若者の内、学生でもなく既婚者でもなく、かつ無職者で、求職活動も行なっていない人」です。
 長野の事件の容疑者は49歳ですから、既にニートという概念を大きく外れています。
 その他については妥当な気に一瞬なりますが、定義はあくまでも「学生」や「既婚」や「無職」という「身分や状態」に明確さを置いているのに対し、ライターの定義では「働き」「学び」「職業訓練」と、意欲の方に力点を置いた単語を使っていることに注意すること。

 で、この記事の一番ガッカリな点は、最後の「三菱UFJリサーチ&コンサルティング調査部の小林真一郎」なる人物による警告。
 あまりにもガッカリなので、全文引用します。

「35歳以上の中高年フリーターの数は、01年の段階で約46万人と推計されていましたが、10年後の11年には132万人、20年後の21年には200万人を突破すると予測されています。一度フリーターやニートになってしまうと、抜け出すことは容易ではない。労働力の低下、税収減など、社会に与える影響はあまりにも大きいといえます。
 たとえ職業訓練を行なって就職口を斡旋したところで、ニートには働く意欲がない為にすぐ辞めてしまうので意味がない。即効性のある対策が見当たらないというのも、この問題の深刻な一面です」

 ほら、ガッカリ。こんな悪文、中学生でも書きませんよ。
 主語が無茶苦茶で、何ら意味のある文章になっていません。中高年フリーターが200万人になるのと、ニートが働かないことに、なんの関係が? フリーターは労働者ですよ!!
 もちろん、話は編集されるので、この記事を書いたライターなり編集者が悪さをしている可能性もありますが、こんな文章を掲載されてしまう三菱UFJリサーチ&コンサルティング調査部の小林真一郎が無能であることは明白でしょう。三菱UFJはもうダメだな(笑)
 そして、それに輪をかけてバカな編集者は「中高年フリーターが200万人」という話を脳内で勝手に「中年ニートが200万人に」と変換して、あのガッカリ見出しになるわけです。小学校だってこんな読解力じゃ落第間違い無し。
 小学校レベル以下の人間が、小学館で仕事をしているとは、これいかに?

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2006年02月02日
 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その7 「第3章 団塊ジュニアの「下流化」は進む!」

この章の本題は、内閣府の「国民生活に関する世論調査」なるものの解釈の仕方についてなのですが、これを解説するためにはさまざまな図表を準備する必要があります。
 そこで、ひとまず、この『下流社会』のキモとなる「欲求調査」の正体についてこの章で触れていますので、その部分のみやります。

 この『下流社会』のほとんどの図表は「欲求調査」の数字である。では、この「欲求調査」とは、いかなるものであろうか? それがこの章の冒頭にさらっと説明されている。

 88ページ

 本章ではまず、昭和ヒトケタ世代、団塊世代、新人類世代、団塊ジュニア世代を比較した「欲求調査」をもとに4世代の世代別・男女別の階層意識を比較する。
 なおサンプルは1都3県在住の800人で、世代別・男女別に各100人である。

 まぁ、恐ろしいことがさらっと書かれているものだ。この調査はあくまでも1都3県という狭い範囲でしかない。12ページに記載されている欲求調査の概要に「千葉県」という文字が見えることから、いわゆる「南関東」の範囲でしか調査していないと考えられる。
 都市と地方の間に経済格差が存在するなどというのは、中学校の社会科でも習う常識であり、この時点で調査の結果に疑問が湧く。
 また、地方から都市に出てきた若者と、地元の親元で暮す若者の経済観念が違うのは当然のことであるから、特に団塊ジュニアの調査結果をそのまま日本全体の傾向だとみなすことは難しいのではないか。

 次は、『下流社会』で多用される「上中下」たる概念が説明されている。

 88ページ

 階層意識は、具体的な質問としては「あなたの生活水準は次のどれにあてはまると思いますか」と尋ね、「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」の5つから1つを選択させた。

 そして、三浦展はこの5つを「上中下」に変換する。

 90ページ

 次に「上」と「中の上」を合わせて「上」、「中の中」を「中」、「中の下」と「下」を合わせて「下」とした

 引用の最後に「。」がついてないのは、これが表3-1の説明の途中に書かれているからだが、この本全体の図表に記される「上中下」についても、この区分けを採用していると考えて間違いないだろう。

 今回のような経済的なもののみならず、アンケートに「上中下」のような、価値判断を伴うラインを用いる場合、中間的な選択肢が多ければ多いほど、その結果を棒グラフにした場合に「山型」になるような結果が出ることが多い。
 この件における三浦展の方法論は、そうした山型の結果を避けるために、答えやすい「中の上」「中の下」を用意し、最終的に上と下に組み入れることで、山型の結果を避けようとしているのだろう。この点は、別に間違ってはいない。

 しかし、その正しさを証明しようとしている次の文章は、非常に間が抜けている。

 90ページ

「下」が48%というのは、1958年の内閣府調査に近い結果だ。

 と、官公庁の数字と近いということで、その正しさを証明しようとしているのだが、その「1958年の内閣府調査」とやらはどこにあるのだろう?
 男性についての内閣府調査は92-93ページに細かく記載されているが、左端が1970年なのだから、1958年の数値は発見できない。
 よくよくさがすと、1章の25ページようやく発見できる。なるほど、「欲求調査」で階層意識を5つに分けたのは、この内閣府の調査を真似たというわけか。
 しかし、近くに乗せておくべき図表を、遠くに配置するというのは、三浦展の問題というよりは、光文社の編集の問題だろう。せめて1958年の数値だけでも90ページ前後に持ってきてほしい。

 で、25ページの図を見ると、確かに1958年では「中の下」と「下」を足すと49%になり、三浦展の主張は正しく、欲求調査の結果も妥当であろうということになる。
 ……本当に?

 三浦展の「欲求調査」は2004年の11月に行われているのだから、それを1958年のものと比べることに、意味など一切ないに決まっている。当然2004年の調査と比べるのがスジである。さらにいえば、この25ページのデータは国民全体のパーセンテージであろうから、団塊ジュニアとの比較には使えない。
 そこでようやく文章の近くにある92-93ページの表が使えることになる。

 ここで「団塊ジュニア」の定義を確認するが、「欲求調査」では団塊ジュニアは1971年〜1975年生まれと定義されているので、それに従う。すると、ちょうど「25〜29」と「30〜34」をまたぐ形になっていることが分かる。
 私自身、これを細かく分析する気はないし、数値自体の差異も大きくないので単純に双方の「下」のパーセンテージを足して、2で割ることにすると、39.1という値が出てくる。
 三浦展が提示した数値は49%なのだから、これと比べるとおおよそ10ポイントの差が発生していることになる。
 この差を大きいと考えるか、小さいと考えるかについては判断を避けるが、少なくとも1958年の数値とほぼ同じなどという、意味のない比較をもって、「欲求調査」の数値に信憑性を持たせようとする三浦展の手法は、非常に姑息であると言える。
(ひょっとしたら、「今の若者は1958年の人たちと同じぐらい下流意識を持っている」と言いたかったのかもしれないが、そうだとしても、その主張の意味は全く見えない)

 96ページ

 ちなみに内閣府調査のサンプル数は2004年の30〜34歳男性246人、女性325人であり、「女性1次調査」の方がサンプル数が多いので、統計学的には信憑性が高いはずだ。
 また、「女性1次調査」は1都3県在住者の調査であることによる違いもあると思われる。

 たしかに、「国民生活に関する世論調査」は、その対象が全国であり、1都3県でしかない女性1次調査とは、違うのかも知れないが、滑稽なのは単純に「サンプル数が多ければ、統計学的に信憑性が高い」などと、三浦展が信じて疑わないことだ。
 当然のことだが、サンプル数などは、数ある要因の中の1つに過ぎない。
 サンプリングが十分に無作為であるか否か、設問の偏り、有効回答率、アンケートの方法、アンケートを行った人間の態度、etcetc……。アンケートの結果に響く要因は、探そうとすれば数限りない。
 もちろん、全ての要因を詳細に検証するのは不可能だが、少なくとも「せめてこれぐらいは」というものがある。
 特にアンケートにおいては「調査票」の偏りがないと証明できるものが信憑性が高いと考えられる。そのためには調査表が公開されていることが必須である。
 「国民生活に関する世論調査」の調査票は、Webに公開されている。
 では、この「女性1次調査」なるものの調査票はどこにあるのか? ついでに「欲求調査」の調査票もどこにあるのか? 信憑性を口にするなら調査の詳細ぐらいは、人から言われなくても自ら公開すべきである。概要だけでは意味がない。

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2006年02月01日
 ■ 東横インのアイツアイツ

東横インのアイツアイツ。
 あれほど危機意識もなく素朴にマスコミに本音をべらべらしゃべっちゃう人を久しぶりに見たって感じだな。
 そんな従業員数名の孫受け専門の土建屋じゃないんだから、もうちょっと考えてしゃべろうよ。
 現在、東横インのトップページに

また記者会見のさいの発言内容、態度について、多くの方からご叱責をいただきました。今般の件は、公共的な役割を担うホテルの運営企業として、全ての人にやさしい日常生活の実現を目指す法令への理解に欠けるものであったと言わざるを得ず、ことに、お体に不自由のある皆さまに対し、不適当と思われる言動がありましたことは、深く反省する次第です。

 って謝罪文に書いてあるけど、既にそういうレベルじゃないね。
 小学生なら「ああ、そういう発言はいけないことなんだな」って反省の余地もあるし、こっちだって許容もするけど、大人であれじゃダメだって。現場で働いている従業員の方が、よっぽどマトモなマスコミ対応できるだろ。

 ……まぁなんていうのかな。ああいう「頭の可哀想な人」が、ああやって社長やって金稼いでいること自体が、現代日本の歪みなのですよ。あいつ辞めさせて、その辺のニート連れてきて社長にしたほうが絶対マシだって。

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 ■ 取調室は中国のほうが「まだマシ?」

取調室は中国のほうが「まだマシ?」
容疑者の尋問、録音・録画へ 北京市人民検察院(西日本新聞)

 現実に運用されているかはともかく、少なくとも「容疑者の合法的権益を守る」という考え方がある時点で、日本よりもマシでしょう。日本の場合は「容疑者の人権なんか守るな!!」が合言葉ですからね。

 もともと広大な国土を持ち、グローバリズム経済の中で十分に主導者の一人として立ち回るだけのポテンシャルを秘めた中国。そこに寄せられる期待感が、徐々に中国を「開かれた国家」に変えて行っている感があります。
 人間でもそうだけど、「こいつは悪人だ」「裏で何を考えているのか分からない」と突き放して育てられれば、そうした期待を個々の存在意義としてしまい、「こいつは興味深い」と注目して育てられれば、やはり同じように期待を存在意義として、大きく成長します。その意味でも、清濁合わせ持つも、少なくとも国家としての自立を自覚しつつある中国と、自ら「アメリカの奴隷」を標榜し、アメリカの加護を前提にした言論しか口にせず、アメリカを非難すれば「こいつは親中だ」などというトンチンカンな非難をうける日本では、勝負は見えてしまっている気がします。
 そして、私は日本人として、中国に負けたくはないのですよ。

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 ■ 「ニート」って言うな! 書評

「ニート」って言うな! 書評
 まずは、本の全般的な内容については、同意していることを宣言しておきます。
 その内容を書くと、それは私が今まで主張してきたことの繰り返しになりますので、ここでは書きません。
 とにかく、現在のニート言説が、本当の問題をうやむやにし、ただ若者という「年齢的に非可逆的な存在」をバッシングし、既得権益者たちの卑しい満足感を刺激するだけ差別言説であることに、全面的に同意します。

 しかし、しかし、それでも思うのは、この本がまだ「お上品過ぎる」ということです。
 具体的には、何か具体的な「悪役」、玄田有史やニートという言葉であるとかが設定されているのですが、実際の悪人は玄田有史ではなく、ましてやヒキコモリやニートという言葉自体でもなく、これらの言葉を嬉々として利用する全ての一般市民です。
 そういう意味では後藤さんの試みはそうした人たちを叩くことに近いのですが、本や雑誌などのメディアから抜き出すということは、結局「メディアに言説を掲載できる人」という狭い範囲でしかなく、「ニートと言う言葉を利用する一般市民」を安全圏に批難させてしまっています。
 私が好ましいと思うのは、「ニートが増えていて、日本がおかしくなっている」などと言っているオッサンなんかが、タイトルや帯の文章を見て、嬉々として購入し、半分ぐらい読んだところで本を投げ捨てるような内容です。
 それには、本の前半ではさもニートに関するまことしやかに侮蔑的な話題を投げつけながら、唐突に「今までのことは全部うっそだピョ〜ン。信じてたお前は馬鹿、池沼!!」ぐらいのひっくり返し方をしてさしあげるべきなんですよ。
 こうやって書くとなんかふざけた内容に思えますが、DHMOがネットで大きな反響を引き起こしたことを見れば、そのような手法が「話題を喚起するため」には非常に有効であるということが理解できるかと思います。

 で、この本の場合、タイトルが『「ニート」って言うな!』で、帯書きが「なぜこの誤った概念がかくも支配力を持つようになったのか」です。これではニートが増えていることを信じて疑わない人は、絶対に手に取りません。彼らはそもそもニートという響きに侮蔑的な快楽を覚えるような捻じれた性格の人たちですから、自分が傷つくような物には決して近づきません。

 若者卑下の大きな問題は、彼らをバッシングしたところで、バッシング側はなんら痛みを感じないという点です。
 そして、ニートと言う言葉を語る時に、それがさも他者によって「この人は差別をしている」ではなく、「教育のことを語っている」という受け取り方をされる点です。
 それをひっくり返すためには、「ニートと言うことに痛みを感じない人」や「ニートを教育論だと思いこんでいる人」に手に取ってもらえる本を作ることが必要です。そういう意味で『「ニート」って言うな!』は想定すべき読者を間違えています。

 出版業界はなんか「新書ブーム」みたいなことになっていて、なぜか橋本治の本(「別に今までとスタンスが変わったわけでもないのに」という意味。橋本治に対しては私は畏敬の念を覚えています)までもが新書だからと売れてしまう時代です。そうした時代に「新書で出版する」ということは、自ずと「そのブームを利用する」という意味を含みます。
 利用するというなら、とことん利用すべきです。そういう意味で「もっと下品であってほしかった」というのが、この本に対する私の感想です。

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