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2006年03月31日
 ■ 団塊テラキモスwwww

日記を2日も空けてしまい、すみません。(ちょっと前までは平気で一週間とか空けていたのは置いといて)

 いま、ちょっと力を入れていることがあって、それがうまくいってないので、ちょうどやりかけだった「幻想水滸伝5」を進めてました。その甲斐あって、ラスダンの直前まで来ましたよ。
 ちなみにやりかけだったのは、「パーティーを3組つくれ」とかいわれて「ル……ルカ戦か!!」と思って「キャラクター鍛えなきゃなー。しかも18人も……大変だなー」と、そのまま放置していたからです。
 ええ、幻水2をやった人なら、ああいう展開をされれば当然不安になるでしょう。まぁ、実際やったら普通のボス戦でしたけどね。で、「王子!!」グサッ「ナナミーーーーーーーー!!(違)」って……。いつでも○ボタンを押せるように構えていたのは私だけではあるまい。
 幻水シリーズは、ハッキリと過去のシリーズを踏襲していて楽しいですね。DQやFFが既に「プロダクト」としてしか、シリーズをやっていないのと対称をなしていて、大変好感が持てます。

 で、次やるのは、一ヶ月後だな。きっと。またパーティーが3組に別れるから育てないといけないし……。

はてなブックマークのこのサイトに関するコメントで、気になるものを発見した。

はてなブックマーク - 深夜のシマネコBlog: 問題は「金」という言葉が有するイメージ

2006年03月27日 fromdusktildawn 団塊の世代が若者だったときよりも、現在の若者の生活の方が、はるかに豊かなんですけど。高度経済成長は、マイナス100を0にするプロセス。現代の若者は、スタートが0で、それが1とか2とかにしかならないと嘆いている

 うんうん。
 確かにその通りですよね。「今の若者は恵まれている」のに、いったいなにが不満なんだと。おじさんたちはそういうことをよく言います。「我々の世代には、ケータイもコンビニもなかった。若者は贅沢だ」と。
 しかし、同時にこうも言います。「我々の子供の頃には、豊かな人間関係があった」と。まぁ3丁目のなんとかなんて映画が流行るのもそういうことですね。今は人間関係も崩壊し、おかしなことになっている。と。

 で、結局現在は豊かなんですか? そうではないんですか?
 私の答えは「豊かさなんて時代によって違うに決まっているじゃないか」ということです。

 1971年のヒット曲にジローズの「戦争を知らない子供たち」という歌がありました。ここで歌われている「戦争を知らない子供たち」はまさしく団塊の世代を指します。
 団塊の世代は戦争が終ってから生まれた世代ですから、戦争の最中に育った世代よりも「豊か」なハズです。団塊が仮に「マイナス100」とするなら、戦中世代は「マイナス10,000」ぐらいでしょうか。戦中世代からすれば、「団塊世代=戦争を知らない子供たち」は非常に「豊か」な存在だったわけです。

 しかし、その「豊か」な団塊の世代が、若者に向けて「お前たちは豊かなのだ」と言った時に、それは同時に「我々の子供のころは豊かではなかった」ということを主張しています。それは戦中世代に人に対しての侮辱ではないでしょうか?
 また、「豊かな人間関係」とやらも、彼らが子供の頃に「豊か」だったのであれば、その豊かな人間関係を壊していったのは、まさに団塊の世代なのです。
 三浦展が『ファスト風土(以下略)』の中で、「交通網の整備のせいで、地方の人間関係が崩壊した」などという主旨の事を述べていますが、しかし、交通網の整備が日本の経済体勢を大きく下支えしたのは、紛れもない事実です。また、道路を走る自動車も、それが「いつかはクラウン」という言葉どおり、団塊世代のメンタリティーを支えたのと同時に、自動車産業自体も大幅な対外黒字を達成し、外貨を呼び込み日本を経済的に豊かにする、まさに「要」の存在でした。
 そうして、地方や人間関係を切り売りした結果、現在日本の「豊かさ」が存在するわけであって、その御恵を全身いっぱいに浴びながら「交通網の整備や、人間関係の崩壊は悪なのだ」などと言うのは、あまりに自分勝手な言いようだなと私は感じます。
 私はこのことをある意味で「南北問題に近いな」と思っています。既存の先進国とやらが、散々環境を破壊しまくって経済的発展を成し遂げたにもかかわらず、後進国に対しては「環境を破壊するな」などと言い、経済発展を阻害するのは先進国の勝手な言い分でしょう。
 高度経済成長からバブル地代まで、さまざまなものを破壊し、その見返りとして得てきた「豊かさの達成」の功罪を直視することなく、既にそういう破壊をできなくなっている若者に対して、ただ「最近の若者は」と切り捨てるのは、あまりに若者をバカにした主張ではないでしょうか。

 もう一つ、豊かさってのは「マイナス100」だとか、そんな単純な尺度じゃ図れないわけで、それを「豊かさ」として主張するのは、極めて卑怯なレトリックなのです。
 また、私がそのレトリックに付き合うとすれば、「じゃあ相対的に考えれは、団塊世代は「マイナス100から0」という「100」の達成感を得たにもかかわらず、若者は「0から1、2という、わずかな達成感しか得られてないではないか」と反論します。
 そもそも、豊かさの尺度などは相対的なものでしかないのです。年収1億の人間が年収1,000万になれば、「貧しくなった」と感じるでしょうし、年収150万の人間が年収1,000万になれば、それは当然「豊かになった」と感じるハズです。
 「豊かさとは相対的である」と考えれば、決して「ケータイやコンビニがあること」が現在の若者にとっては単なる「あたりまえ」でしかなく「豊かさの尺度」などでは無いということに気付くはずです。
 だいたい、団塊の世代だって「我々は戦中の世代に比べて豊かなのだ」などとは自覚していないでしょう。それを若者に「自覚しろ」などというのは、傲慢以外の何ものでもありません。

 ところで、最近よく聞く「2007年問題」って、すごい気持ち悪いね。団塊の自画自賛。

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2006年03月28日
 ■ 嘘つき騙すな 嘘つき騙すな お前は嘘つき有罪だ

人を薬漬けにして、揚げ句の果てに殺害するのが、日本の体ってヤツですか。日本は素晴らしい国ですね。
 要は、日本国民(という総体的イメージ)が麻原を殺したがっていて、それを高裁が「空気を読んだ」のです。
 つまり我々が「国家による殺人」を要請したです。国家による殺人という巨悪の前に、麻原のなした悪など、あまりにちっぽけなものに過ぎません。
 このまま死刑を許すことは、我々自身が麻原以上の大悪人になるということです。
 私は絶対に麻原の死刑を認めません!!
 そして私は絶対に人殺しの片棒など担ぎません。

オウム繋がりで森達也の「ドキュメンタリーは嘘をつく」のTV版。
 まぁ、私なんぞは見る前から「「ドキュメンタリーは嘘をつく」というからには、このドキュメンタリーも「ウソ」なのだろう」と、ウソをウソと信じきって(笑)見ていたので、正直むずがゆい部分が多かったのだが、番組の中でも語られていたとおり「TVのドキュメンタリーは、見る気のない人間にいかに見させるか」という部分がキモなのだから、こういうハッキリとしたわざとらしさもいいのかもしれない。あと、普通にアーレフが撮影に協力していたのがちょっと笑えました。
 あと、五目ラーメン食ってる森達也や、ゴルフの練習をしている森達也(イメージに合わなすぎ)という、見るだけで笑えるおもしろシーンにも要注目。

 まぁ、でも一般人もこれに引っかかるほどバカなのか? と思うけれども、それに引っかからなければそれはそれで喜ばしいことで、引っかかったにしても、それでメディアリテラシーということに気がつけばそれでいいのか。

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2006年03月27日
 ■ 堀江は少なくともネオコンよりは正しかった

武田さんの文章で知ったのだが、「世の中、カネで買えないものなんてない」という、マスコミがこぞって堀江をカネの亡者である象徴として扱った、あの有名な台詞には、本当はこんな意味があった。

日経BPネットビジネスTODAYより

プロ野球新規参入問題の渦中で、巨人軍前オーナーの渡辺恒雄は言った。「オレも知らないような人が入るわけにはいかんだろう。カネさえあればいいってもんじゃない」。

旧勢力に君臨する男のコメントだ。しかし、堀江はこう反撃した。「世の中にカネで買えないものなんて、あるわけない」。身も蓋もない発言だ。彼は「唯金論者」なのか。それとも守銭奴?

彼の言わんとするところはこうだ。

「カネで買えないものは、差別につながる。血筋、家柄、毛並み。世界で唯一、カネだけが無色透明で、フェアな基準ではないか」

 私は、「このころの堀江」という人物をずいぶんみくびっていたようだ。
 これが本心なのか、インタビューに対応したパフォーマンスなのかは知らないが、どちらにしてもカネというものが持つ「リアル」を的確を指し示している。私が当時にこの発言を知っていれば、多少は堀江の事を応援する気にもなったのかもしれない。
 そして、この真意を知ってなお、堀江を「拝金主義」とバッシングするなら、それはまさしく「差別主義者」の発言となる。

 私はちょっと前に「カネは権力のオルタナティブだ」と書いた。
 ただし、決してカネと権力は正反対の存在ではない。むしろ権力に寄り添おう々とするのがカネの常である。だからこそ、カネを権力のオルタナティブとして十分に調整して流通させなければならない。と考えるのが私の立場だ。

 佐藤俊樹は「不平等社会日本」のなかで、既に団塊の前の世代で、職業の開放性、すなわち、ホワイトカラーの上級職と、その他の交換可能性は既に消失していたを証明している。
 それでも、高度経済成長とバブルの時代には、少なくとも「給料」はアップしつづけていた。
 そうした「右肩上がりの給料」の存在は、「齢を重ねる=給料が上がる=努力」という都合のいい前提を満足させていた。
 しかし、経済成長が止まった現在、並大抵の努力では給料が上がらなくなった。上記の前提の元に動いていた社会は、その前提を保持し続けたために「齢を重ねる(しかし)給料が上がらない(なぜなら)努力をしていないからだ」という捻じれた社会認識を生み出した。これが昨今の若者差別の大前提である。

 そして、それは堀江も同じだった。唯一彼が他と違ったのは、自分を「給料の上がらない無努力なもの」と自虐するのではなく、給料を上げるための努力をし続けたことだ。そして、件の問題もその延長上にある。
 「努力」という言葉は、事の正悪を問わないハズだ。「給料を上げる」事が最終目標なら、そのための手段を問おうが問わなかろうが、それは「努力」である。少なくとも私は彼の努力を認めてあげたい。

 しかし、それはいかにも時代遅れの「努力」なのだ。
 与党のネオコン政治家や、経団連のクズどもがしているのと同じ、時代遅れの努力なのだ。
 「右肩上がりの経済」という最重要前提が崩壊した以上、「給料が上がる=努力をしたと認められること」という努力観は時代遅れなのだ。

 我々はこれからの低成長時代に合致した「努力を認めること」。すなわち、「人を人として認めることの新しい基準」を考えなければならない。
 堀江の件で考えるべき問題は、それなのであって、決して堀江を卑下して現行権力の最大肯定することなどではない。

 ついでにいうと、私の「カネをオルタナティブとして考える」というのも、いささか時代遅れの考え方かもしれないということは自覚している。
 ただし、現状との擦り合わせを考えれば、どうしてもここを避けて通ることはできないし、そのことについて自覚的でなければならないと考えている。

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2006年03月26日
 ■ 時をかける三浦展

三浦展の『ファスト風土化する日本』を読んでいるのだが、あまりの面白さに頭痛がしてくる。
 詳しくは後に「知性下流社会」で触れるつもりですが、あまりに面白過ぎる部分を1つ紹介します。

 2002年7月には、群馬県前橋市の家に散弾銃を持った男が押し入り、19歳の娘を連れ去るという事件があった。
(略)
 その男は栃木県足尾市で車を捨て、鹿沼市付近で警察官夫婦を拉致、夫の運転する車で日光宇都宮道路、東北自動車道を逃げ、結局、佐野藤岡インターチェンジで降りたところを逮捕された。まさに交通網の整備を前提としなければありえない事件である。(p.60)

 ここまで読む分には、なんの問題もありません。
 そして、普通にこれだけ読めば、この後に続く文章は「高速道路を中心とした交通網の整備が、犯罪の範囲を大幅に拡大した」という主旨のものであろう事に、想像が及ぶと思う。
 しかし、三浦展はそうとは考えない。
 この次の引用は、先の引用から一行も開けずに書かれた、続きの文章です。

 ちなみに、容疑者が逮捕された佐野藤岡インターチェンジのほど近く、高萩・越名地区には佐野新都市(愛称「サザンクロス佐野」)という大規模開発が進んでおり、近年、静岡県の御殿場にできて人気を呼んだものと同じアウトレットモール「プレミアム・アウトレット」ができている。
(略)
 近くには別に大規模ショッピングセンターもあり、今後さらにシネマコンプレックスをはじめとして、多くの商業・文化施設、企業、住宅の立地が予定されている。佐野市でも最も変化の激しい地域といえる。

 ちなみに三浦展が最後に述べている「ショッピングセンター」とは、イオン佐野新都市ショッピングセンターのことである。
 そして、こうした論拠をもとに、三浦展は「犯罪現場の近くにはなぜかジャスコがある」と論じていく。言ってることは周りくどくていいかげんであるが、要は「大店法」の規制緩和が我々の古くからのコミュニティーを破壊していると言いたいらしい。
 しかし、だからといって、「高速道路の急速な整備」と「大店法改正」という2つの論点を「ジャスコ」で繋ぐというのはいかがなものか。ジャスコ=イオングループなどを中心とした「郊外開発」の論理は行政側が押し進めるものである以上、最終的には行政政策を批判するべきであって、ショップ自体や、そこに住んでいる人々(主に若者)を批判するのは、問題の歪曲化に他ならない。

 ……いやいや、ここでは論点ではなくて、いかにバカバカしいかを、おもしろおかしく紹介するつもりだったんだから、それを続けます。

 上の引用で、なにがおかしいって、私は佐野に住んでますから当然ピンと来たのですが、そのときにはなかったんですよ。
 ええ、事件のあった2002年7月の時点で、佐野プレミアムアウトレットなんてものは、まったく存在してなかったんですよ。
 佐野プレミアムアウトレットを展開しているチェルシージャパンの会社紹介を見てもらえれば分かるとおり、開業が2003年の3月なんですね。
 ちなみにイオンのショッピングセンターはアウトレットよりさらに遅く、同年4月の下旬です。

 もちろん、2002年の7月当時に計画は当然ありましたし、区画整備の工事は行なわれていました。
 しかし、佐野新都市が明確に「新都市」としての姿を近隣住民に対して明確に示したのは、アウトレットとイオンの開業の時からです。この2つの商業施設を手始めに、郊外型新都市としての機能が整備されつつあるのであって、2002年7月の時点では、佐野市民にとって、ここはただ「町の外れ、佐野藤岡インターのあるところ」に過ぎなかったのです。
 結局、この事件の犯人は「アウトレットのある地域」に逃げ込んだのではなく、ただ「高速道路を使って逃げた」に過ぎないのです。第一、この犯人が「捕まった先」が佐野藤岡インターの近くだっただけのことで、事件そのものは佐野とは全く関係がありません。
 にもかかわらず、三浦展は時空を越えて「アウトレットやイオンとの関連性」を妄想しています。これは言いがかりもいいところです。
 逆に、イオンの存在が誘蛾灯のように犯人を引きつけるのであれば、警察も犯罪の広域化に苦労などしないはずです。

 そして、なにより滑稽なのは、この本が「交通網の整備」を問題にしながら、意地でも自動車産業のありようを問題にしないことです。三浦展世代にとって、トヨタや日産といった企業は「日本経済の大躍進をうちたてた神、いわゆるゴッド」のような存在ですから、絶対に批判できないのでしょう。
 「御上には絶対に逆らうな」という三浦展の卑小な心が、ジャスコや家電量販店といった御上から少し遠い企業や、権力を持たない若者に対する批判に走らせているのだと、私は考えます。

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2006年03月25日
 ■ 科学的って?

雑記帳 「デートに使える科学ネタ」文科省が無料誌作成
 今、国が必死になって「科学リテラシーを身につけさせよう」とやっているのだけれど、それは「科学だから正しい」という宗教を広めようということなのだろうか?
 東京ウォーカーで東京のおしゃれスポットを知るがごとき、あまりにストレートな科学理解は、科学への盲従を示すことにしかならないと思うのだけれど……

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2006年03月24日
 ■ フォーチュンオーブ3

一ヶ月連日更新できませんでした。
 また連日更新できるように頑張ります。

昨日は一日中メダルゲームやってた。

 ホームに「フォーチュンオーブ 第3章」(以下 FO)が入っていたので、さっそくプレイ。
 SJPは取れなかったものの、777ポケットも当選したし、それなりに特徴は掴めました。
 まず、全体的にオーブの獲得個数が多くなっています。
 今まではスロット当選とJP獲得でしかオーブを獲得できなかったのが、今回はスロット抽選に左右されないダイレクトモードが存在するために、体感的には始終オーブ抽選を行なっているような印象があります。
 もっとも、獲得枚数はサテライトのオーブ抽選では、「50 or 25 or ダイレクト」と、全体的に押さえられていますので、獲得枚数は思ったほどでもありません。ただ、やはりダイレクトモードが続けばメダルは減りにくいですし、SJPチャンスの可能性も高い。そして、なんといってもオーブ抽選はFOの特徴的なフューチャーですので、これが存分に楽しめるようになったのはいい変化だと思います。

 ただ、「オーブ抽選が多い=SJP獲得の可能性も高い=プログレ増分よりも初期設定の枚数消費が大きい=P/O率大幅にアップ」ということになるので、営業方針として設定を厳しくしている店舗だと、メイン抽選のP/Oを大幅に下げることが予想でき、ちょっと悲惨な状態になるのではないでしょうか。
 また、プレイヤーとしても、1000枚程度のSJPよりも、天井の5000枚付近のSJPの方がいいのですから、今までのような「ハイリスクハイリターン」的なイメージをもっていると、肩すかしをくらう可能性があります。
 また、777ポケットについても、オーブ抽選でのSJPポケットのin率がしょせんは1/6(形状の違いを考えれば実際は1/7程度か?)程度なのですから、想像しているよりあっさりSJPチャレンジに移行してしまいます。私の場合は、2球目でSJPに入ってしまい、最終的に4球しか出てきませんでした。
 こうしたことからも、個人的には、オーブ抽選のポケット数を増やして、SJPチャンスの当選を1/10ぐらいに引き上げて、SJP枚数や777ポケット払い出しの格上げを試みた方が良かったのではないかと思います。
 今までのFOにおいて、主なSJP獲得経路は「オーブを落す → オーブ抽選 → SJP抽選」でした。
 ならば、ダイレクトモードや777ポケットを有する今回の場合は「オーブを落す → ダイレクトモード成立 → オーブ抽選 → SJP抽選」を主なSJP獲得経路にしたほうが、よりゲーム的面白さを発揮できたのではないかと思います。
 もっとも、それをするにはサテライトごとのクルーンを今までよりも大きくするか、オーブを小さくしなければならず、今までの筐体をバージョンアップするという考え方には合わないのかもしれません。
 あ、そういえば、確変時に確変と通常のクロスリーチで通常側が当選。再抽選で確変になったのだが、ついでに数字も揃って、払い出し2倍当選になった。たしか前作までは、再抽選になって昇格したとしても、数字が揃うことは絶対になかったと記憶しているのだが。

 そのあと、FF2をプレイ。FFシリーズ通して初めてのJP獲得。1,000枚強で500枚ぐらい戻ってきた。
 シングルマシンの1000枚は、まだダブルダウンの途中という感じだけど、プッシャーで1000枚当たると、なんかすごく当たった感じがします。

 その後、30分ぐらい微妙に時間が残っていたので、「スウィング イン ザ ナイト」を20ベットでプレイ。
 フリースピンは2回きたけど、どちらもモード継続せず。
 2回目のフリースピンで、当選枚数が700枚ぐらいだったので、気合いを入れて叩いていたら、振り切って1万強の当選。振り切ると長いファンファーレが鳴り響いて、コールアテンダントに。音がすごく大きく、すぐ店員を呼んでしまったので、写真取るのを忘れました。
 これでメダルの預けが60000枚超えた……ちなみに当日そこで使ったお金は、携帯充電器に100円。QMA3を2回プレイで200円の、計300円でした。

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2006年03月22日
 ■ また、更新が遅れた

警察職員拳銃無断持ち出し 写真撮り自分のHPに掲載

 多くの人がサイトを見れば、自分の犯罪が発覚するという、至極単純なことに気がつかなかったのか?

一斉捜索は違法と警告 「白装束」めぐり日弁連

 パナウェーブは、話題になっていた当時にも、事件性のある事件どころか、地元住民とのトラブルすら起こしてなくて、ただなんの意味も無くマスコミが群がっていただけの印象があります。
 いわゆるマイノリティーうんたらの談義で、エスニシティーの話をする場合に、こういう極めてカルト的な宗教の問題までをちゃんと考えているかというと、現状ではもっと「いかにも」な民族や宗教的差異しか問題にしていない。
 本当はこういうカルト問題こそ、ちゃんと論じられ、人権問題として確立されるべきだと思う。

<ウィニー>有無確認ソフト公開 米シマンテック日本法人

 もはやウィルス扱いのnyですが、こういうのはネットカフェなどのパソコンで作業するときにはやっぱり確認しておきたいです。
 ところで、記事中のURLのスラッシュが全角なんだけど、一体なんの意味が?

「死をもって償う」と被告=4人強殺で5月判決-長野地裁

 犯人が死んだって、死んだ人は生き返らないのだから、「死をもって償う」って考え方は、結局、犯人の無責任さの表明でしかない。
 私は、犯人は罪をかみ締めながら一生を送るのが勤めだと思うのだが、死刑制度の存在は、「被害者家族などの心情」をいいわけに、犯人の無責任を成就させてしまう。
 池田小学校事件の宅間死刑囚があっさり死刑になったのを見て、死刑があのように即執行される保障があるなら、自殺代わりにああいう重大犯罪を犯すってのはアリだな。と思った人は、実は結構多いのではなかろうか。

若者狙い強盗、少年ら逮捕 「中高年より金持ち」

 狙いは悪くなかったんだけど、いかんせんカップルも金を持っていなかった。
 銀行のATMでおろしたのを確認してから襲うなど、強盗だって頭を使ってやらないと。

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2006年03月21日
 ■ モラルでウィルスを駆除できるのか?

ちょっと21日を過ぎての更新ですが、まぁいいか。21日分ということにしてしまおう。

ヤフー、ネット商店3千社の情報流出 ウィニー介して(朝日)

 最近、「ウィニーを介して重要情報が流出」という記事をよく見かけますが、それが
「ウィニーのシステムを利用して、デスクトップ等を流出させるウィルス(キンタマウィルス等、ウィニーのシステムを利用するタイプ)に感染した」のか、
「ウィニーで落としたファイルで、デスクトップ等を流出させるウィルス(山田オルタナティブ等、ウィニー無しでも単独で動作するタイプ)に感染した」のか、
「その他の要因で、まとめられた個人情報等がウィニーで流通している」のか、
 の、区別が全くハッキリしないんですよ。
 こんな状態だから「最も確実な対策はパソコンでウィニーを使わないことだ」みたいなことを言い出すアホたれがいて、「私はウィニーを使いません」なんて誓約書を提出させるアホな警察まで出てくる。

 揚げ句にこんな社説まで出てきたのだから、安全安心欲求の暴走っぷりは恐ろしい。

沖縄タイムス ネット社会の倫理確立を

 パソコンのファイル交換ソフト「ウィニー」による情報流出事故が相次いでいる。
 自衛隊の機密情報から警察の捜査資料、空港の暗証番号、原発のデータ、病院の患者情報、自治体、消防署、学校、NTT、生命保険、放送局など、流出は分野や種類を問わない。
 これでは、いくら個人情報を法律で保護しようとしても、「しり抜け」状態になりかねない。
 ウィニーは、インターネットで不特定多数の人が文書や映像、音楽などのファイルをやりとりできるソフトだ。しかし、ウイルスを潜ませたファイルを気づかずに取り込むと、重要な文書まで瞬時にネット上に流れてしまう。
 安倍晋三官房長官は「最も確実な対策はウィニーを使わないこと」と呼び掛けた。沖縄県警も、ウィニーの使用については業務・私的利用の両面で禁じている。しかし「使わない」というのは対症療法にすぎない。
 ネットが一般に普及してほぼ十年。ハード・ソフト面ともに進化の速度はすさまじく、大量のデータが瞬時にやりとりされている。技術の進歩にルールやモラルが追いつかない状態だ。
 流出のパターンは、「公」のデータを「私」のパソコンで扱ったために起きている。仕事を家に持ち帰るサービス残業のようなケースもあった。
 データの持ち運びは、官・民をとわず規程を定め、私物パソコンでの利用は原則禁止とするなどの、初歩的なところから始めなければならない。
 ウイルスは知らないうちに次々と感染し、被害者が加害者となる。これを防ぐには、対策ソフトを組み込み、毎日更新する作業が必要だ。個人で行う最低限の「モラル」と言えよう。
 ファイル交換ソフトを悪用し、ゲームや映像のソフトを取り込むのは、著作権をも侵害する。
 コンピューターネットワークを利用する際に個人が負うべき責任や、デジタル情報を扱う際の公私の区別を明確にするなど、早急にネット社会の倫理を根付かせる必要がある。

 私にはこの記事の中に「モラル」という言葉が存在する意味が分からない。
 いわゆる公的な文章流出を押さえるためには、「会社のデータを私物パソコンでの利用を原則禁止」にするなどの「ルール」を整備せよ。という話はよく分かる。
 その一方で「モラル」という話は、少なくともこの文章の中では「対策ソフトを組み込み、ちゃんと更新する」という意味でしか使われていない。
 しかし、この社説のタイトルは「ネット社会の倫理確立を」だ。「会社としてのルール確立」ではなく「ネット社会の倫理確立」だ。
倫理という単語が指すものは、ルールよりもモラルである。
 ルールのことを主題にしながら、モラルをタイトルに冠する。こうした矛盾がなぜ問題にならないのか。

 かつて「ラブレター(LoveLetter)」や「ハイブリス(Hybris)」といったワーム型のコンピュータウィルスが猛威を振るっていた時代。このころには、そのウィルス自体がニュースになり、また他人に被害を与えることがあっても、決してこのような「モラル」という言い方はされなかったように記憶している。
 せいぜいパソコン初心者に対して、「メールに添付されてきたファイルは実行するな」と言うだけで、それは「パソコンを扱う上での常識を欠いた個人の問題」として対処されていた。
 しかし、今回の場合は「ウィニー」というソフトウェアが、多くは動画などの、著作権的に問題のあるファイルの配布目的で利用されているということから、「著作権無視」というモラルハザードの存在(その一方で、権利者側の過剰な著作権保護意識がある)が記号的に付与されていること。
 また、「新しいものに対する過剰な排除論理」としての忌避感。それを「コンピュータ社会はモラルがない」と思い込むことで納得しようとする。
 そういう意味で、「ウィニーという著作権違反常習者の使うソフトウェアーによる個人情報の流出という、社会に迷惑をかける状況は、コンピュータ社会のモラルのなさが原因だ」という、あまりに安直なメタファーを、報道の中に抱え込む。
 だから、上記のような、一見モラルと全く関係ないように見える文章に「倫理」というタイトルを付けて平然としていられるのだ。

 しかし、実際に必要なのは、最低限のコンピュータウィルスに関する知識である。
 出所不明のEXEファイルは絶対に実行しない。そのためにも、拡張子は必ず表示するようにする。
 よく知られたファイルであっても、できる限り配布元に近いサイト(作者のサイトが最も安心)からダウンロードし、さらにできればハッシュ値を確認する。

 「ウィニーを使うな」などというのは、記事にもあるとおり対症療法に過ぎない。
 かといって、いくら「モラル」を叫ぼうとも、ネットワークからウィルスがなくなることは絶対にないし、違法なダウンロードだってなくならない。
 会社ならば、ルールとして個人のPCに会社のデータを入れることを禁止する。それは同時に会社の備品不足を補うために私用品の持ち込みを黙認したり、自宅に仕事を持ち帰らせるような過剰な労働を強いるなどしてはいけないという、会社に対するルールの順守を要求するものである。
 個人ならば、ウィルスに対する「特定のアプリケーションに偏ることのない知識」をもって、しっかりと対応することだ。

 そしてマスコミならば、そうした必要な知識を伝え、情報によって被害を減らすことを考えるべきである。
 決してウィルスの存在を「モラルの喧伝」という目的に利用してはならない。

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2006年03月20日
 ■ もっと数値を明示しようよ

昨日の牛乳の件について、もう一つ。
 生乳としてのロングライフ(冬に生産が増えて、夏に需要が増えることを考えると、9ヶ月ぐらいの保存性が必要)の他に、牛乳自体の付加価値を上げるという方法論もある。
 パスチャライズ、いわゆる低温殺菌であるとか、近場限定の無殺菌であるとか。
 最近の牛乳はHACCPの厳格な導入(もしくはゴマカシ)によって、品質保持期限が長くなっているが、そうした管理を単に期限の長さのみに利用するのではなく、生乳由来の菌を保持したまま、そこそこの日数、保存するために利用する。それが牛乳単価の向上に繋がれば、全体的な生産量を減らすこともできるだろう。

 どうにしても、現在の牛乳供給バランスは常態として機能不全に陥っているので、その点をどうにかしないといけないことは、間違いないだろう。

10人に1人は朝食取らず 県が未就学児を調査
 だからなんなんだよ、その「時々食べないことがある」ってのは。
 定期的に朝食を抜いているのか、たまたま寝過ごしたなどの理由で朝食を抜いているのかの区別が全くつかないじゃないか。
 さらに、「ときどき」と「ほとんど」の差違もまったく分からない。
 アンケートの受け手のイメージによって、同じ現象でも回答が大きく異なってしまうようなアンケートは、結果的になにも調べていないのと等しい。
 こうしたいいかげんなアンケートで、何らかの政策がなされるとすれば、それは極めていびつな政策になることは間違いないだろう。
 そもそも、アンケート実施の理由も、生活習慣から人間の出来不出来を判定しようっていう、不純な理由なんだろうし。

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2006年03月19日
 ■ 中川はいい加減だなぁ

牛乳100万本廃棄 「太る」印象、消費者敬遠 牧草スクスク、生産過剰
 そもそも牛乳は常態ですらまともに商品としての機能は果たしていないのと同じで、供給過多で需要とのバランスが全く成り立っていない。
 それは生産量が多すぎるというだけではなく、需要は夏場に大きくなるのに対し、生産量は冬場の方が大きいという、生体由来の根本的な問題もある。
 こうした問題は、基本的に牛乳が「なまもの」としてしか扱えないという、保存の問題に由来すると私は考える。マグロや牛肉などのように冷凍保存、もしくはそれに類する長期保存が可能ならば、市場全体の流通量を安定させることができる。
 中川農水相は「MOTTAINAI」などと無責任に言うが、廃棄に対して何らかの責任を果たそうと考えるならば、牛乳を長期保存する技術開発に対する支援を行なうしかない。
 そうでなければ、わざわざ出てきてくだらぬ口をさし挟まぬことだ。

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2006年03月18日
 ■ 雑事

日本テレビのDr.レオン特番は、最高にくだらなくて面白かった。コンプリートです。

hotsumaのURLメモ。より
「“産科”から逃げ出す米国医師」
 今ちょうど日本でも産婦人科医師の件が話題に上っています。
 なんか、「責任をとる人間」と「責任をとらない人間」の離反が、あまりに大きくなり過ぎているような気がします。
 しかも、政治家が「責任をとらない人間」の方に類しているのがなんとも。

JR西がゆとりダイヤ 乗客「安全なら大歓迎」
 標準軌 VS 狭軌という路線の問題、あまりに極端過ぎる定時運行への欲求。運転手に対する不可解な責任の押しつけ報道。
 そうした問題を無視して、ただダイヤを緩和すればいいだけの話ではないだろう。

摂取直後に「脳内麻薬」=つい油もの…快感感じてやめられず−仕組み解明・京大
 また、脳内汚染か。

<ウィニー問題>防衛庁の公務PC、私物が半数、警察は4割
 ウィニー問題ではなくて、官公庁が使うべきところにロクに金を使ってないという問題だろう。

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2006年03月17日
 ■ WBCとクリープの話題……?

なんか、別の意味でWBCは面白いな。
 まぁ、QMAでも「12位、8位、4位、優勝」とかいうのは普通にあるからね。最後に勝てればいいんじゃね?
 しかし、次はあるかなぁ。アメリカがすねて出ないんじゃないか?

今日気づいたこと「クリープはコーヒーに合わない」。
 いやね、コーヒーフレッシュが気づいたら賞味期限切れになっていたので、久しぶりにクリープを買ったんですよ。
 で、飲んでみたら、すごく乳臭い。乳臭くて、コーヒーの香りを完全に殺してる。まぁ、それが「クリープは牛乳からできている」ということなのだろうが……
 ネスカフェの黒ラベルと、クリープが日本の標準的なコーヒー観だと考えると、ちょっと目眩がするね。

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 ■ 「知性下流社会」シリーズ その11(その2) 第5章「自分らしさを求めるのは「下流」である?」

タイトル上「その2」ということになっているが、1の内容を再び含める形で、5章そのものをしっかりと検証したいと思う。なのでこれは1の続きではない。
 今回、主に注目するのは、図表と文章についての三浦展特有のレトリックの部分。ここでの印象操作を明確にすることによって、やはりゴミデータの集まりでしかない6章の解説を省くところを目指したいと思う。

 まずは表5-1の男性側と、表5-2を並べてみた
 ひとまず、誤植であろう点を解説しておくと、表5-2のn値の上中下の順に12,40,48(%)となっているのは、表5-1を見ても分かるように、団塊ジュニアの数値であって、団塊世代の数値は順に14,48,37(%)である。ここは単なる誤植であろうが、本当に誤植なのか、三浦展がこの数値を利用してしまい計算間違いをしているのかは、生データがない以上、確認することはできない。

 さて、この2つ、ページをまたいで、紙の裏表の関係にあるから関連性を見逃しがちだが、こうして並べてみると、同じデータであることが分かる。しかし、団塊世代の「ゆとり」「仲間・人間関係」「創造性」「活動的・アクティブ」というデータは明示しておらず、これらの数値が下流化に関係してるか否かということを読者が判断することはできない。
 このことは、そもそも三浦展が団塊ジュニア世代男性の「低階層ほど高いもの」との比較のみに団塊世代のデータを当てはめて見ているということであり、団塊世代のデータを「人間として正しい意識の持ち方」という基準として扱っていることを意味している。
 しかし、次の表5-3を見ていただきたい(分かりやすいように男性の部分を着色した)のだが、実は団塊ジュニア男性(以下、すべて「男性」を省略する)のデータの傾向は、新人類とさして変わらぬ数値であり、昭和ヒトケタとの比較をとっても、ポイント的には団塊よりも昭和ヒトケタに近いのである。
 昭和ヒトケタとの近さについて詳しく説明すると、昭和ヒトケタを基準にした場合、団塊ジュニアの上中は昭和ヒトケタとほぼ同値で、下のみ差が7.4ポイントと大きく開いている。一方の団塊は上中ともに9ポイント前後の差が見られ、下に至っては10ポイント強の差が見られるのだ。
 そう考えると、むしろ団塊の世代こそが「自分らしさ」ということに関しては他の世代から離反しているのであり、これを基準として団塊ジュニアの意識を判断することは、決して正しい方法とはいえないであろう。

 では、この部分を三浦展はどう解釈しているのか。

 団塊世代の「上」が若い時から発しつづけてきた「自分が好きなことをすればいいのさ」というメッセージが、過去30年間、次第に社会的風潮として広がっていき、同時に、社会の豊かさが増していく中で、その風潮が後続世代の「下」にまで浸透したと考えたほうが自然であろう。」(p.158-160)

 しかし、これは本当に「自然であろう」と言えるのだろうか?
 三浦展は無視しているが、私たちは既には昭和ヒトケタ世代と新人類、団塊ジュニアの数値の近さを知っているのだから、むしろ団塊世代の「自分らしさ」ということに対する異様な関心のなさの方に目が向いてしまう。特に「中」の47.9という数値は、突出して低い値である。
 パーセンテージで数値が括られているから気付きにくいのだが、「中」は上や下よりも圧倒的に人数が多い、すなわち比重が大きいのである。図5-3のパーセンテージから団塊の「自由に自分らしく生きること」を選んだ人数を割り出せば、上が9人、中が23人、下が21人となり、合計53人となり、実は団塊のほぼ半数が「自分らしさ」という価値観を認めていないことが分かる。*1
 こうした土壌で「自分が好きなことをすればいいのさ」というメッセージが本当に社会的風潮として広まったのか? と、大きな疑問が残るのである。

 次に表5-9「団塊ジュニアの主な職業別自分らしさ志向」と題された表に注目する。

 まず、題に「主な」の言葉があるとおり、母数であるn値を全部足し合わせても男女それぞれ100にはならない。省かれたと思われる中で、重要なのは「無職」のデータだろう。特に女性のほうに、いわゆる「家事手伝い」のデータがないのは不自然としか言いようがない。
 第2章でも触れたが、三浦展は保守層の女性観の重要な一角を占める「家事手伝い」という存在に関して、全くと言っていいほど触れておらず、意図的に避けている節がある。
 また、ただでさえ100しかない母数が、職業によって細分化されているため、母数が3や5といった、もはや統計的になんの意味もない値までもが、パーセンテージへの置き換えによって、データとして扱われてしまっている。特に男性の「パート・アルバイト、フリーター」の項は、母数がわずか5であるのに、網掛けを施して「フリーターの60%が自分らしさを大切だと考えている」などと主張してしまっている。これは相当に恥ずかしい。サイコロの偶数と奇数が出る確立はそれぞれ50%だが、わずか5回サイコロを振っただけで、そのことを証明しろと言われても無理な話であることは、誰でも簡単に想像がつくだろう。
 しかし、こうした表にされて、パーセンテージの中に隠されてしまうと、なにかこれが意味のある数値のように見えてしまう。

 この『下流社会』のような本が売れ、その主張の内容が支持されるということは、すなわち日本人の数的リテラシー能力が異様に低いことが証明されたということだ。
 だから私はこのシリーズを「知性下流社会」と位置づける。
 三浦展というアホたれがインチキたれ流して、ゼニを稼ぐことなど放っておいてもいいのだが、このような本を信じてしまう日本人の知性の下流化を見逃すことはできないのだ。

*1 ついでに、世代ごとに「自由に自分らしく生きること」を回答した(おおよその)人数を割り出してみた。(数値は上、中、下、合計の順)
 団塊ジュニア  7,23,36,66
 新人類    10,25,27,62
 団塊      9,23,21,53
 昭和ヒトケタ  5,31,23,59
 人数に直すと、団塊ジュニアの「下」の人数が突出している。三浦展の主張を考えれば、パーセンテージじゃなくて、人数を使ったほうがよかったのでは?

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2006年03月16日
 ■ 今日はお休みします

昨日の日記をBlogにコピペするのを忘れてました。

昨日はわざわざ池袋まで行って、『不滅の男 エンケンVS日本武道館』のDVDと『にゃあ』のCDを買ってきた。
 やっぱり田舎じゃ、予約ナシには手に入りませんでした。
 昔は、このへんでもちゃんと個人のCDショップみたいなのがあって、こういうものもそれなりに手に入ったのと違うのかなぁ。PSYSとか、メジャーマイナーなのにちゃんと手に入ったしなぁ。……いや、単に自分の音楽の範囲が狭かっただけなんだけか。今でも広いとは言わないけど。
 やっぱりこういうところで田舎と都会の文化の厚みの違いというのが生まれているんだろうなぁ。
 ちなみに、感想は俺が書いても陳腐になるだけなので、書かないでおきますよ。各自ご確認ください。

なんか、疲れが溜ってるんで、今日は十分に休みたいと思います。
 そんなわけで、こんなものを張って、今日はおしまいですよ。

BSA

 BSAで、久しぶりにでっかいのドッカーンキターーーーーー!!

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2006年03月15日
 ■ 芹沢一也『ホラーハウス社会 法を犯した「少年」と「異常者」たち』を読んだ。

 掲示板でこの本を紹介してくれた人は

この本のタイトルのつけ方は「売れる本」を狙ったおかげか?
趣旨がずれてしまってます。

 と、書いていますが、読後の私の感想は「うまいタイトルをつけたなぁ」というものです。
 異常者を用いて、地域住民が新しいコミュニティーを築き上げ、怖がりながらも楽しんでいる様は、まさしく遊園地のホラーハウスさながらです。
 実際、私がオウム事件の頃から社会に対して感じていたのは「ああして批判している人たちって楽しそうだなぁ」というそれでした。
 そうした、ある対象を罵倒することによるコミュニケーションというのは、まさしく「イジメ」のそれなのですが、「イジメ社会」だとあまりにも陰惨なイメージがあり、なおかつ虐める側がイジメを認識していないので、イメージが湧きにくい。
 しかし、ホラーハウスなら、あのドキドキ感と楽しみの入り交じった感情は誰しも想像しやすいのではないでしょうか。
 もちろんそこが、この本の最重要点でないというのは分かりますので、「内容とタイトル」という意味でのズレは感じますが、現代社会を表す単語としては「ホラーハウス社会」というのはよくできた言葉だと思います。
 ああ、そうか、でもホラーハウスだと、舞台裏の意味が逆転しちゃうのか。ホラーハウスのお化けは作り物だけど、社会のホラーハウス化は、現実の人間が遠ざけられ隔離されるわけだから。
 ホラーハウスと、現実の区別がついていない社会……これをどう表現するかと考えると、難しいですね。

 今日はこれから出かけるから、早いうちに更新しておこう。

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2006年03月14日
 ■ あの話の結論

 あれって、金に困った野田が手持ちのネタで金を稼いだってだけのことでしょ。
 公安も元公安も、存在意義がオウム転がすしかないってのがなんともwww

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 ■ 「知性下流社会」シリーズ その11(その1) 第5章「自分らしさを求めるのは「下流」である?」

「知性下流社会」シリーズ その11
第5章「自分らしさを求めるのは「下流」である?」

 今まで「嫌下流社会」と「知性下流社会」の2つが混在していましたが、今後は「知性下流社会」に統一することにします。
 理由としては、議論を決して「反下流社会」に限定することなく、日本人の知性低下に広く言及することを目的とするためです。その1つとして、この三浦展批判があります。

 ここから本題。
 この第5章では、「自分らしさを求める人間ほど、下流意識に苛まれている」ということを三浦展は主張している。
 しかし、我々は既に「上中下」という概念が、あくまでも当事者の自由なイメージのそれでしかないことを理解しているので、ここで示される図表を素直に下流化などとは見ない。

 三浦展は、集計の結果から「自分らしさ=下流への道」という構図を見いだしているが、これは明らかに「現時点で自分が「下」だと思っている人のほうが、「自分らしさを大切にしたいと思っている」」ということに過ぎない。
 「自分らしさを大切にしたいと思っている」というのはどういうことかといえば、現状において自分らしさが大切にされていないからこそ、もっと自分らしさを大切にしたいと考えているということだ。そういう人が「下」に多いと考えられる。
 逆に「上」と考える人は、既に自分らしさを達成しているからこそ、自分らしさを大切にするという意識がないと考えられる。
 結局、少なくとも「自分らしさを大切にすれば下、大切にしなければ上」などという、一方通行の関係性は成り立たないし、そもそも「自分らしさ」の指し示すイメージは個人によって待ったく違う物なので、統計的になんら意味があるとは考えられない。
 ましてや、「自分らしさを達成するためにフリーターになる」など、あまりに団塊ジュニア世代が味わった就職市場の異様な厳しさを完全に無視した妄言でしかない。
(「金」のイメージとともに、「自分らしさ」という言葉のイメージも追加するべきか?)

 ……この章の批判はこれですべてなのだが、三浦展の指し示す図表のいい加減さを明示しておきたい。
(以下は次回に)

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2006年03月13日
 ■ 更なる論点と、自己批判

右翼は弱者から金を取り上げる。左翼は弱者に金を与えない。
 結局、両者がタッグになって、我々を苦しめているわけですね。
 よく分かりました。ありがとうございました。

いったん終了といいつつ、こぼれ落ちていた論点と、自分の考え方に対する自己批判を少々。

 まずは、こぼれ落ちていた論点から。
 簡単に言うと、「努力したこと」と「経済的成功」の間に因果関係は成立するのか? という疑問。
 ひとまず昨日までの記事では「給料」という視点からこのことを見ていたけれども、その本質は高度経済成長という文句の付けようもない「世代的」成功が、「個人的」成功に結びつけられ、「我々は努力をしたのに、若いやつらは努力をしていない」という話になってしまうということ。「下流社会」なんてのは完全にそういう話だし、これを「ゲーム」という因子にすり替えれば「ゲーム脳」になる。「教育」を因子にすれば「ゆとり教育でおかしくなった」「教育勅語を教えるべきだ」という話で、さらに「世代性自体」を因子にしてしまえば「若者がなにかおかしい」という話になる。
 つまり、高度経済成長という成功体験が、高度経済成長世代の体験をすべて成功の因子であるかのように偽装すると同時に、それと意の沿わないものを失敗の因子であるかのように理解し、失敗の因子を排除しようとすること自体が「高度経済成長世代の傲慢」であると、私は考えている。
 まさに昨今の「高度経済成長世代の暴走」はこれに支えられている。

 けれども、素直に考えれば、高度経済成長と個々人や世代の体験の間に、因果関係などないことは明白。そんなことで経済が急成長するなら、世界中に不況を訴える国などなくなるだろう。
 現代のグローバリズム経済の中では、個々人の経済コントロールなどは大シケの海の中で小舟の櫂を必死に漕ぐが如きもので、ハッキリいえば「運」みたいなものだ。
 その一方で、経済状況にそれなりに影響を与えるはずの政府や国の金融は、高度経済成長世代がコントロールしているくせに、不況にまったく太刀打ちできない。そのことの責任を個々人の意識に押しつけるのは、卑怯以外の何物でもない。
 しかし「高度経済成長世代の行いは、すべて成功の因子」と信じて疑わない連中には、そういう当たり前のことを、さっぱり理解することができない。だから当たり前にされるべき政府批判が、なぜか若者批判にすり変わってしまう。
 こうした状況は、国民が主権者たることを忘れ、次世代を萎縮させ、国全体を萎えさせるという重大な問題である。

 今度は、自分の考え方に対する自己批判。

 私は簡単に「給料」と言ったけど、その給料はどの水準で給付されるべきか。
 私はいまの「生活保護」という制度は、全くその存在意味をなさないと思っている。
 不正給付がどうのという問題ではなく、既に極めて時代遅れの生活レベルでしか、保護ができていないという方の問題だ。
 たとえば「クーラーは贅沢」などというのは、確かにクーラーがなくても生活できることはできるだろうから、構わないが、じゃあ携帯やパソコンなどという、既に基本的なインフラとなっているものに対して、これを給付していくことができないのは大きな問題である。
 ああ、生活保護から離れよう。
 生活保護とか関係なしに、とにかく私が要求する「生活上最低限のレベル」というのは、すなわち「給料」であり、それは人間が「経済的プレイヤー」として自立できるレベルなのである。
 それはもちろん、携帯やパソコンを通してネット接続ができることが前提である。ネット以外でも、スーツを着れて、電車やバスで遠くまで移動できて、ということでないと、経済的プレイヤーとは決していえない。
 既に「地元」社会に経済的多様性はないのだから、個々人のパフォーマンスを存分に生かそうとすれば物理的に電子的に多くの距離を移動できなければならない。
 すると、当然コストは大きくなるのだから、それをどこで調達するのかという批判。
 もちろん、私は「給料」をセーフティーネットとして考えるのだから、「仕事」から当然調達することになる。自然にそれは「社会的末端の仕事をしている人に、ちゃんと人間として自立できるだけの給料を与えられるのか」という話ということになる。

 しかし、社会の末端の人間の給料が上がれば、当然のことながらインフレが起る。
 それは貨幣の流通量ということではなく、貧富の差というものが富めるものの「意識的豊かさ」、すなわち「俺はアイツらよりこれだけ金を持っているのだから、金持ちなのだ」という優越感になるのだから、その優越感を持ち越すために、金持ちがさらに儲けようとする。そういういたちごっこが起るがゆえに、インフレが起る。

 すると、結局はどこまで行っても、結局は同じことなのではないか。というのが、自己批判だ。
 金持ちである高度経済成長世代を批判しながら、結局は高度経済成長世代が若者に平等(個人的資質や努力に差などないのだから、平等に金が降りてくるのが当然)に金を与えてくれることを期待するしかない。そういう諦念が自分の記事に見えてしまっている。

 まぁ、だから少しでもそうしたことを相対化するために、こうやって高度経済成長世代批判をしているわけだけどね。

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2006年03月12日
 ■ 金こそが自由を担保する

金こそが自由を担保する
 今回でこの流れはいったん終了。明日の更新からは下流社会に戻る予定。もっとも、これも下流社会繋がりではあるわけだけど。

 「NWatch ver.5」より

 だったら資本主義社会を壊せば良いじゃないかと、僕は本気でそう思う。今生きている社会構造の中でどう人々を治めるかを考えるのは、保守の役割であって革新の役割じゃない。革新はその「お金がなければ生きていけない」という社会構造を壊せとアジる人達なんだから。

 うん。別に壊せばいいというなら、壊してくださいよ。
 しかし、それをするのはあなたたちですよ。
 自らは資本を腕の中に抱え込み、物欲にまみれた旧来左翼がロクにそれをやらないで、なんで苦痛と苦悩に苛まれる我々がそれを実行しなければならないのか。
 こうした「弱者にスーパーマンになれ」と迫るがごとき論理は、完全に当人の責任を棚上げしています。
 資本主義にまみれたぬくぬく左翼が自らは責任を放棄し、貧乏人に自己責任を迫るなどというのは、イラクの人質事件に対する、自己責任を放棄した批難と、大して変わらないのでは?

確かにその様な方策によって世代間の格差は解消されるかもしれないが、しかしそれはまた別の格差を生み出すだろう。資本主義社会はそれが資本主義である限り必ず格差を生み出す。例えば、この記事では団塊世代がみんな裕福であるかのように語るが、しかし実はホームレスの平均年齢はそのまま団塊世代の年齢と合致することからも分かるように、団塊の世代の中にも格差は存在するのだ。若者に対して国家賠償を行うことは確かに世代間格差は無くすかも知れないが、しかしその裏でこの様な世代内格差は無視される。それが本当に左翼の目指すべき道なのだろうか?

 私は今回の文脈の中で「若者に給料を!」と訴えているけど、それはホームレスに対しても同じことですよ。「ホームレスにも給料を!」。(「給料」というのは「お金と仕事」なので、お金だけを与えればいいという話とは違う)
 つまりは、人間が生きるに必要なセーフティーネットを弱者に適用すべきで、そのセーフティーネットは給料だ。ということが私の考え方の原則です。そして、そのセーフティーネットを準備するのは、差別丸出しの右翼ではなくて、平等ということを言う左翼しかないのです。左翼ってのはそういうことをしたいからこそ左翼なんでしょ。
 ところが、なぜか右翼が積極的に若い人をオルグして、左翼が見て見ぬふり。そこには、高度経済成長世代の「給料は空気」という傲慢があると、私は見ています。

 もっと根源的なことを言ってしまえば、「金こそが自由を担保する」のです。
 左翼が若者の窮状に大して無関心なのは、まさに「♪お金よりも大切なものがある〜(サラ金のCM)」などと傲っているからに過ぎないのです。
 そしてその傲りは、かつての高度経済成長、すなわち寝てても給料が上がった特殊な時代の存在を前提条件にし続けている、大人の左翼の傲慢です。
 思えば、現在の左翼運動体など、大学に行って政治活動などをして生活できていた裕福なお坊ちゃんお嬢ちゃんたちの集まりなんだから、貧乏人のことなんか分かるハズもなく、「セーフティーネットとは、給料だ」なんてことを叫んでも、彼らにとっては「空気なんてその辺にあるじゃないか」としか実感できないのでしょう。だから「それ以上の霞」ばっかり求めて、弱者にとってはなんの役にも立たない。旧社会党や共産党の凋落ってのは、そういうことではないのですか?
 確かに人生にはお金よりも大切なものがあるのかもしれませんが、必要最低限の給料、すなわち人間の尊厳を担保するレベルの金がなければ、人生自体が「ない」のです。

 ここから少しトーンを変えて。
 私は、現状においては資本主義がもっとも優れた「自由な」主義であると考えます。
 その理由は「金」という権力に対するオルタナティブが存在するからです。
 共産主義とその途中の社会主義がなぜ失敗するかといえば、金が権力によっていったん握られる構造になっているため、権力に対する強力なオルタナティブが存在しないからです。

 「金」のオルタナティブ性は、最近で言えば堀江が巨大な経済界にあそこまで肉迫したことが一例として挙げられるでしょう。
 最終的には地検という権力により堀江は潰されましたが、「金があれば権力側に回れる」という交替可能性が現実に存在することが、あの件によって明らかになりました。
 私がネオリベを憎むのは、政府が金の再配分(共産主義と違って、掌握ではない)を放棄し、金そのものの流通を権力側でのみさせようという思想であるからですが、その点についてはネオリベも共産主義も似たようなものです。
 私は権力に対するオルタナティブとして機能する金を幅広く流通させるべきだと考えますし、経済論理からみても、幅広いプレイヤーの存在は必要不可欠なのです。
 ならば、資本主義下の政府の役割とは、まさに「金を幅広いプレイヤーに流通させる」ことであり、現在のフリーターやホームレスなどの経済弱者に対する政策不足は致命的な政府の怠慢なのです。そして、その怠慢の中に左翼勢力も含まれるのです。

左翼は—例えそれが如何に困難であろうと—世界の全ての人が幸福になれる道を探すべきなのだ。

 私はそれを「資本主義社会の下、全ての人間が経済的プレイヤーでいられる社会を形成する」ことであると考えています。これは別段目新しい論理でもなくて、単なるセーフティーネット論です。ただ、唯一「セーフティーネット=給料」と、具体的に考えたことだけが違います。
 「社会保障」という極めて曖昧な言葉で括られていたセーフティーネット論に、「給料」という具体性を持たせることにより、「弱者を誰かに保護されるだけの存在であることを前提に保護するのではなく、十分な社会的主体として活躍できる存在として認めさせなければならない」と、私は強く主張しているのです。人間が「社会的主体」であることが、すなわち「自由」です。私はそう自由を理解しています。
 右翼が弱者の保護を認めない一方で、左翼は「被保護者」としての保護しかしようとしない。右翼が弱者を殺すのならば、左翼は弱者を生かさず殺さずの範囲でしか保護しようとしません。
 そうした左翼の勘違いは、まさに「給料なんて簡単にもらえるじゃん」という高度経済成長世代の傲慢から来ているのです。
 左翼はそうした旧来の考え方を放棄し、給料を得られない存在がいることをベースに、スタンスを組み替えるべきなのです。それができていないからこそ、若者が右翼側になびいていっているという現状があるのです。

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2006年03月11日
 ■ 「矢切の渡し」も利用…警視庁、震災想定し参集訓練

「矢切の渡し」も利用…警視庁、震災想定し参集訓練
 というか、近くの交番などに各自あつまって、無線やPCなどを通して指示のやりとりをするほうがいいだろうに。
 災害時に12時間も歩いているヒマがあったら、手近なところでできることはいくらでもあるだろう。
 まさか「顔を合わせないと、やりずらい」なんて言うんじゃないだろうな。
 ずいぶん前に慎太郎が災害時に自衛隊が地下鉄に乗ってくる訓練やってたけど、あの頃となんら防災意識が変わってない……

 今日はこれだけ。手抜き。

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2006年03月10日
 ■ 団塊世代ハ神聖ニシテ犯スヘカラス

団塊世代ハ神聖ニシテ犯スヘカラス

 昨日の「問題は「金」という言葉が有するイメージ」に多くの反響をいただいているようで、嬉しい限りである。
 しかし、なんか私の明示した問題点がちゃんと伝わっていない。ウヨだサヨだのいう論点を利用した私が悪いのかも知れないが、それにしても……
 特にclawさんのところは、clawさん自身も、そのコメントも、問題をあまりに短絡視し過ぎていて、「給料を貰うことが困難な底辺を這いずるしかない若者にとって「金」というのは、人間の尊厳そのものである」という、もっとも重要な視点にまったく降りてきていない。
 山野やタイゾーなんてのは、あくまでも例示に過ぎないのだから、そこに突っかかったって意味はない。

 コメントを一つだけ抜き出しておく。

# anderson 『バブルでエエ目でけへんかったからウヨになるんや〜って、そんなアホな。

 なにを勘違いしているのかは知らないが、私はあくまでも左翼が本当の弱者である若者に対して「何もしていない」ことを批難しているのである。
 左翼が若者を無視する一方で、右翼が意図的であるかないかは関係なしに、若者に対する「真っ当に扱われる道」のようなものを示してしまっているからこそ、若者が右傾化するのである。
 若者に限らず、ほとんどの人間が、自らを丁寧に扱ってくれる方に行きたがるのは、当然の事である。確かに右翼側は若者を「奴隷として」丁寧に扱っているというのは、確かにその通りなのだが、ならば左翼はどのように若者を扱っているのか。部落や在日にかまけて、若者の事などほとんど省みてないのが現状ではないか。
 だから、私は左翼を批難しても、弱者たる若者を批難しない。ここで若者を批判するのは、「黒人労働者のスト破りを批難する白人活動家」のようなものである。(それがまさに、左翼の現状だろう)
 左翼が若者を無視し続ける限り、若者には右傾化し、一部権力者の奴隷に成り果てるしか生存の道はないのである。

(4)左翼は若者に未来の可能性をひとつ(またはそれ以上)もたらす。(clawさん)

 なんてことは、実際に若者に可能性を与えてから言うべきだし、

 結局奪うのではないか、と言うかもしれない。どこが違うのか。少しでも後ろめたさを感じなくていい、そういう影が少なくて済むような金を与えてくれるのが、左翼。金なら同じだと言うのが保守。金以外のものとの両立を目指すのが左翼。金以外のものを差し出せというのが保守。共に取り戻そうと言うのが左翼。奪ったものを奪った相手の目の前にちらつかせることを恥とも思わないのが保守。(mojimojiさん)

 なんてことは、実際に若者に「そういう影が少なくて済むような金」とやらを与えてから言うべきだ。

 左翼は若者から奪うだけで、何も与えていない。
 与えているというなら、理屈ではなく右翼のように実例を示せ。

 さて、単純な反論はここまでで、ここからは「なぜ左翼は若者に金を与えないのか」ということを考えてみたい。
 いや、もう少し考えてみる対象を広く取ろう。「左翼は」ではなくて「大人は」にするべきだ。私は決して右翼が「積極的に若者に金を与えようとしている」などとは考えてなくて、右翼だって若者から搾取することばかり考えていると、考えている。
 実際、お国のために死ねだとか言うのは右翼だから。

 そう考えると、お題は、「なぜ「大人」は若者に金を与えないのか」ということになる。
 つまり、「若者に金を与えない」のは、右左かかわらず、大人の共有意識と考えることからスタートする。
 で、ここでさっそく疑問が浮かび上がってくる。
 「「大人」っていうのは、誰のことなのか」という疑問である。
 厳密に考えるのも面倒なので、とっとと定義する。
 「35歳以上が大人」だ。
 理由としては、いわゆる「ニート」における「若者」の定義が34歳以下になっていることから、このように考える。
 そして、34歳以下というのは、今の日付現在では「団塊ジュニア以降」ということである。
 すなわち、団塊ジュニア以降は「若者」で、団塊ジュニア以前が「大人」と、こういう定義を行なうことにする。
(ちなみに、この34歳以下は若者だというニート論での区割りは、年金をもらうために国民年金を支払う最低年数の「25年」という所からきていると思われる。こうしたことからも、ニート論はニート当人のための議論ではなく、年金問題解決するために持ち出されているという現状が理解できよう)

 さて、一度、世代論で話を括ってみよう。
 世代論的に考えると団塊ジュニア以前は、たとえば団塊の世代であるとか、新人類世代であるとか、いろいろ言われているが、これらをひっくるめればバブル以前の「高度経済成長世代」ということになる。すなわち、経済的な挫折をほとんどと言っていいほど味わったことのない世代だということ。一方の団塊ジュニア以降は経済的な成功をほとんどと言っていいほど味わったことのない世代である。

 前回でも記したように、高度経済成長世代は、給料を空気のような物として、それを得ていることに何ら疑問を抱かなかった世代である。それは経済が成長を続けていたからだ。
 一方で若者は、社会人になった時にはバブルは弾け、経済の成長もほとんど止まってしまったのだから、給料を得ることが「人間扱い」の第一段階になる世代である。

 ここで小杉太一郎さんの意見を考えてみる。

で、左翼は若者にいったいなにを与えてくれるんだい?という問いかけはまさに現在の左翼の問題点をずばり突いている。だが−これは先ほどの宮崎学氏のサイトに対しても言えることなのだが−お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい考え方だと思う。

 私はこの論点に、高度経済成長世代の傲慢を見る。
 いや、別に小杉さんが高度経済成長世代なのかどうかは関係ない。
 真の問題は、高度経済成長世代の傲慢を、日本人の大半は決して傲慢と見ないということの方にある。
 私が前回提示した問題そのものが理解されないのは、日本人の大半がどっぷりと、この傲慢温泉というぬるま湯に浸かって、現実に目を向けようとしないからだ。

 さて、「お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい」というのは、一体どういうことなのか。
 「一億総中流」という言葉がある。これは1970年ごろから言われるようになった。
 単純に考えれば「みんな真ん中程度の収入を得られるようになった」という意味だが、グラフを見れば分かるように、本質的には「下」が少なくなったという意味である。
 嫌下流社会の方でも述べている通り、ここで扱っている「上中下」というのは、客観的な経済的状況ではなくて、主観的な意識なので、この一億総中流という言葉は、「下、すなわち貧困がなくなったとみんなが思っている」という意味になる。

 そして、小杉さんのいう「お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい考え方」という意識はこれから生まれている。つまり「一億総中流社会なのに、今さら貧困はないだろう」ということです。そういうと小杉さんは否定するかもしれないが、現実に格差が広がって賃金が問題になっている今、そのような事を「古い」と断言するためには、ここまで時代を遡らないと、そう言えないのだから。

 ここまでをまとめると、こういうことになる。
 「一億総中流時代になって、貧困をなくしたと、高度経済成長世代は思っている」

 その後、バブルが崩壊し、一億総中流が崩れたと考えられた、すなわち「貧困が再発生し始めたと考えられた」(ただし、先のグラフを見ると分かるとおり、自分が下だと思っている人は増えてないことには注意)時に、右翼は「愛国心のが大切である」というパラダイムシフトを明確に行なった。そして彼らは「戦後」を否定した。
 一方、左翼は戦後高度経済成長時代の中で、貧困が失われたことを重要視し、決して戦後の高度経済成長時代を否定することはない。
 だが、ハッキリいえばこうした左翼の態度こそ鼻につくものはない。

 終戦後の困窮しきったた日本から貧困を追放し、一億総中流を成し遂げた。このことは、高度経済成長世代にとって、自尊心の最大肯定となった。
 しかし、そのことは「高度経済成長世代」という全体において言うことはできても、高度経済成長世代の個々人が高度経済成長を達成したわけではない。あくまでも経済としての総体がそうなったに過ぎない。
 だが、世代論と個人は安直に結びつくもので、高度経済成長世代の多くが、自らの個人的な良否を振り返ることなく、こうした成功を自らの功績として誇りと考えている。
 こうした精神構造の人間が、一方の「経済的成功を味わったことのない」団塊ジュニア以降の世代に対して、偏見を持つのはごく自然なことだろう。
 我々、団塊ジュニア世代以降の若者たちは、いつだって大人の自慢につきあわされることに辟易していた。
 そしてその自慢は、我々への安直な攻撃となって、我々を貶めた。
 だから、我々は高度経済成長世代が大っ嫌いなのだ。自分たちだって大したことなんかしてないくせに、たまたま運良く高度経済成長の時代に生まれただけで威張っているのだから。

 そう考えるようになれば、若い人たちは当然、「高度経済成長世代を否定するために」、戦後を否定する右翼に習って右傾化する。
 もちろん右翼が「戦後を否定している」といっても、高度経済成長を否定しているわけではない。経済成長で得た金を両手一杯に抱えながら、金の他にも大切な何かがあるかのようなポーズを見せているだけのことだ。
 その点で右翼も左翼も同じ穴のムジナだ。両者にとって高度経済成長時代は「神聖ニシテ犯スヘカラス」ものである。右翼も左翼も自分たちが金を抱え込んでいることに対して、なんらおかしさを感じていない。まさに彼らにとって給料は「空気」なのだ。

 さて、では我々はこうした構造に対して、どのような解決策を持つのか。
 私はそのことを考えた時に、「若者にお金を与える」ことが、もっとも簡潔かつ自然な解決方法であると考える。
 つまり「失われた10年」の不幸をモロにかぶった若者たちに対して、国家的な賠償を行なう必要がある。

問題は「金が無い」ということではなく、「金があっても何かが足りない」ということではないだろうか?そしてその問いに対しに対し右翼は「公の気持ちがないのだ!」とか「愛国心がない!」と言い、共同幻想によってその穴を埋めてくれる。では左翼は一体そういう全体主義的答えを出さずに、何で穴を埋めるのか?または、如何に穴がある状況を肯定する社会を作り出すのか?それこそが今左翼に問われている根本問題なのである。

 理想論としては、もっともな意見ではあるが、現実に満足に給料がもらえない若者が多くいて、それに対して大人が偏見を持っている(=すなわち、大人はバカなのだから期待できない)以上、若者に給料を与えることが、解決のもっとも重視されるべきファーストステップである。
 我々は資本主義社会に生きる以上、金が無ければ生きられないのだ。思想だなんだのは、最低限の金が得られてからの話である。
 それを否定し、さも思想だけで生きられるかのように吹聴する左翼が、「エスタブリッシュメントぶっている」と言われても、仕方がないだろう。

#いろいろ考えてみたけど、まだ全然論理展開が荒いなぁ。

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 ■ 扉絵を変更しました

扉絵を変更しました。

 今回は「若者の人間力を高めるための国民運動」の本音を表現してみました。
 念のため、シンボルマークの利用規定を確認した(従うか従わないかは別の話(笑))ところ、こんな項目が。

次の場合には、シンボルマーク等の使用を遠慮していただきますので、ご注意ください。
 (3) 当国民運動の品位を傷つけ、またはシンボルマーク等を制定した趣旨の妨げとなるおそれがある場合

 この老人オナニーショウのどこに「品位」なんてものがあるんでしょうか? ないものは傷つけようがありませんよ。

私物PC使用者に官品支給へ 防衛庁
 そんなに高性能なものはいらないから、スペック低めのノートパソコンが1台10万円としましょうか。
 これを6万7千人全員に買ってあげるとして、67億円。
 古い資料ですが、戦闘機の価格がこんな感じらしいです。

 つまり、戦闘機を1機ガマンすれば、パソコンなんか全員に買ってやれるのです。
 自衛隊という職場に私用のパソコンを持ち込んでいた事が、どれだけ馬鹿げた事態かよく分かるかと思います。

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2006年03月09日
 ■ 腐れ検察が偉そうに

私のBlogを置いている「journalism.jp」ですが、武田さんのBlogも始まり、少しずつですが、中身が充実してきました。
 あと、近いうちに「親の子殺しメモ」もあちらにBlogとして掲載する予定です。

例の河……あの話は誰がなんのために流してるんでしょうねー。
 今だに、オウムで一儲けしたいのかな? 私はあるてさんの話を信じることにします。
 隠れオウムなんかちっとも怖くないけど、隠れキリストの幕屋とか、隠れ生長の家とかはガチで怖いよー。

腐れ検察が偉そうに
 なんか、検事総長「松尾邦弘」が、吉田照美のやる気MANMAN!に出演して、ライブドア事件を「現代のロッキード事件だ」「我々には真面目にやっている人が損をするのは良くないという意識があった」などと発言していた模様。
 裏金作ってのうのうと暮している犯罪集団の長が、なにを偉そうに(藁)

 じつは、この松尾も調活費を不正流用して、内部の宴会などでドンチャン騒ぎをしていた「血税詐欺犯」なのです。
 松尾は1996年当時、松山地検の検事正をしており、もちろん、年間約400万円ともいわれるその「調活費」(=検察首脳が好き勝手に使える裏金)を使い倒せる立場にいたわけですが、その頃、四国4県の地検の幹部は毎月1回、4県持ち回りで宴会をやっていて、当時、高松地検の次席検事だった三井氏は、松山地検、すなわち、松尾が主催した道後温泉での宴会にも出席しているのです(笑)。
 んで、三井氏によれば、その宴会費用は30万円はかかっていたと推測され、もちろん、その費用の出所は松尾のポケットマネー、すなわち、「調活費」であることは、火を見るより明らかなのです。

 松尾邦弘は、公明党の支持母体である草加学会(Typo)との繋がりも深いようです。隠れ学会員か(藁)

 さらにひどいのが、信濃町がらみの犯罪捜査で、この2月にヤフーBBによる個人情報流出事件に絡み、恐喝未遂で警視庁に逮捕された主犯格の竹岡誠治を、検察は「処分保留」のまま釈放し、起訴猶予処分にしています。
 さらには、NTTドコモ携帯電話の通話記録盗み出し事件でも、02年秋に立件した以外にも余罪があったため、その被害者である元創価学会員が03年5月に刑事告発していた件でも、法務・検察は、1年以上も店晒しにしたまま、まともに捜査せずに、不問に付しているのです。
 んで、こうした刑事捜査と前後して、三井氏のように、まったく事実無根の人間を「口封じ」のため、バンバン逮捕する一方で、こうした政権中枢に近い人間の犯罪に対しては、「クロをシロ」として不問に付すということを、性懲りもなくやりまくっているのが、前任の原田明夫を次いで、今や名実ともに「新・悪の検事総長」となった松尾邦弘がトップとして君臨する検察なのです。

 国家と繋がりのないライブドアの犯罪と、国家と密接に関わる地検の犯罪。どっちがより悪いか、よ〜く考えてみよう。(欽ちゃん風に)

今日はちょっと疲れたので「問題は「金」という言葉が有するイメージ」の続きは明日にしますが、とりあえず私が「なにを批難して、なにを批難していないのか」ということを、前回の文章から読み取って欲しいのですよ。
 それはリベラリストとしての自分の根幹たる考え方、つまり「平等であろう」とするうえで、避けられない「批難と擁護」なんですよ。
 そして、そういうものだからこそ、あの文章は「左翼批判」にしかならないのです。右翼はそもそもそういう考え方をしないわけだから。
 ところが、そういう考え方をしないほうの右翼側で、若者を平等に扱うかのように見える事態が起ってしまっている。左翼はそのことに気付きもしない。そういうことを批難しているわけです。

 詳しくはまた明日。俺はもう疲れたし眠いし。

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2006年03月08日
 ■ ボランティアは無償の奉仕者か?

掲示板spam急増のため、掲示板のspam対策を多少変えました。
 もしかしたら、意図しない動作により、通常の投稿ができないことがあるかもしれません。
 その場合は、書き込みを復帰できますので、掲示板かメールでお知らせください。
(さっそく1件、誤動作させてしまいましたので、設定を見直しました)

 ちなみに、対掲示板spamの改造スクリプトは以下のサイトにあります。
掲示板改造支援サイト
-迷惑な掲示板スパム・掲示板荒らし行為の完全排除を目指して-


(ちなみに、管理者の方に「メアド欄に記入があったら、spam判定する機能を入れるといいと思います」とメールをしたら、「その機能は既にありますよ」と言われてしまったのはナイショ。バージョンアップのチェックをしていなかった……OTL)

またガス田問題が盛り上がっているようですので、対抗する資料を提示したいと思います。(以下、敬称略)

・マル激トーク・オン・ディマンド第238回(猪間明俊 出演)
「まちがいだらけの東シナ海ガス田開発問題」

東シナ海のガス田開発問題(矢吹晋)

東シナ海資源開発は共同開発しかない(杉本幹夫 自由主義史観研究会(!!) 理事)

「東シナ海ガス田開発問題で世論をミスリードするマスコミ」(窒素ラヂカル)

ボランティアは無償の奉仕者か?
 ぶっちゃけ、イラクの拉致被害者に対して「自己責任」があれだけ連呼されたにもかかわらず、何故ライブドア被害者は「自己責任」といわれないのかが、サッパリ分かりません。
 かといって、別にここで書くような話題でもないかなと気にしないでいたら、「悪徳商法?マニアックス」さんが「ライブドア株主被害の被害者説明会に行ってきました」という記事を掲載していました。
 必要な部分を引用しようとすると、全部引用しなきゃいけないので引用は控えますが、ハッキリいって唖然というかなんというか……。

 私は株価下落の被害などというのは、ハイリスクハイリターンという言葉に含まれるもので、「株価が下がったから我々は被害者だ」などという考え方には理解を示しません。例えそれが経営者の不正によるものであったとしてもです。
 しょせん株などは余ったお金でやるべきもので、そのことに対する被害を保証するなら、もっと保証すべきものが他にあるだろうと考えるからです。
 しかし、それを解決しようと弁護団を組んだ弁護士の方々については、まぁ別に批難することもありません。「勝手にやれば?」という感想です。

 私が悪徳商法?マニアックスの記事に興味をもったのは、この部分です。

ライブドア被害者の会 主催者の質問
「消費者問題の弁護士がボランティア的に関わっていると言っていますが、もし1000億円分の被害者が集まれば、着手金だけで25億、弁護士一人当たり5000万円の収入です。成功報酬は、100億円にもなります。濡れ手に粟で、儲けを目的に、やってるんじゃないですか?

 なんで、ボランティア的に関わっていることが、儲けを目的にしていることに対する批難に繋がるのでしょうか?

 この記事で最初にイラク人質の件をあげていますが、そのうち、もっともバッシングを受けた人は、ボランティア目的でイラクに行っていたわけです。それに対して「ボランティアなんか国内でやれ!!」などの、意味不明な批難が沸き上がりました。
 私はこうした批難と、この「ライブドア被害者の会 主催者」の言っていることは、まったく同じ性質のものだと考えるのです。

 そもそも、弁護士が最初っから「ボランティア」的なことを言い出さずに、ビジネスライクに弁護団を組んだとしたら、この質問は有効でしょうか? もちろん質問してもいいのですが、普通は「弁護士さんも仕事だから」ということで、納得してしまうのだと思います。
 しかし、「ボランティア的」という言葉を出した途端に「ならば、報酬を得るのは不当だ」という話になってしまう。こうした歪んだボランティア感は、やはり「ボランティア=無償奉仕」という、日本語の問題から来ているのだと考えます。
 また、ボランティアという言葉はどうしても「個人の責任」という意味合いが強く、「社会責任に応じたボランティア」というありようは、ほとんど日本人には意識できていないのではないでしょうか?

 高度経済成長の日本では、社会というのはすなわち会社のことでしたから、社会に対する責任は、個人の所属する会社を通して、対応してきた(という事にされている)わけです。
 なので、会社の下では個人という存在は大変無責任な存在になります。それは会社員だけの事ではなくて、日本に属する全ての「個人」のランクが「会社より劣る」ものとされるのです。
 そんなわけで、ボランティアはビジネスより「下」の存在に貶められます。すごく古くさい考え方ですが、今だにそう考える人が多いのが現状です。

 今日はちょっと忙しいので、細かくは書きませんが、こんな感じです。

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2006年03月07日
 ■ 馬鹿spam紹介「セキュリティー911」

昨日の「問題は「金」という言葉が有するイメージ」に、結構反響があるようです。ありがとうございます。
 この件については、まだまだ書きたいことがありますので、トラックバックに対する反応等まとめて、木曜か金曜頃にアップしたいと思います。ひとまず今日と明日はあんまり時間がないので。

馬鹿spam紹介「セキュリティー911」
 別にspam収集の趣味はないのだが、秀逸な馬鹿spamが届いたので、紹介する。
 というか、あんまり時間がないので、今日の更新を埋めるためにこんな紹介を(笑)

Subject: メールセキュリティー911 必須

t-job様、始めまして。
メールセキュリティー911 ID担当 竹林と申します必見となっております。

報告とご案内がありますのでご覧ください!
私共は皆様個人の情報を保管管理させて頂いております、まだこちらの情報を知らないかたが多いと思いますので説明させて頂きます。

メールセキュリティーセンターでは数々のネット情報の中から番組ごとに作られる情報をウイルスやスパイウェアなどから情報を守りっています。
もしものために備えた警備はされていますか?ウイルスチェックなどは充分に行われているでしょうか。
自分は大丈夫と思わず、万全のセキュリティーで自分の情報を守ってください。

ここで一つ紹介いたします(※1)まずはお目通し願います。


※1 完全セキュリティー番組 工藤よりご案内を頂いております。

http:(URLは掲載しません)
上記の夏海様よりt-job様の情報の保護依頼をうけています、主な企画として無料紹介所となっています。

担当の工藤様からt-job様へ紹介したい方がいるという事で依頼をうけておりますので、ご覧ください。

番組の解説も頂きましたので、そちらだけ説明させて頂きます。

1:登録不必要 2:使用料 完全無料 3:紹介後のキャンセル有り 4:メール対応有り(問い合わせください)

上記の番組はセキュリティーセンター登録番組ですのでご安心ください。

ID担当 竹林より報告させて頂きました。


美代様 レンタル掲示板
http:(URLは掲載しません)

 もう、どうみてもありがちなspamメールなのだが、なぜかセキュリティー云々と書かれている。
 まぁ、この時点では「ちょっと工夫してみました」程度のもので、大して面白くも何ともないし、単なる前振りです。

Subject: 会員No.0891 t-job様へ重ねてご案内いたします。

現在のアドレスを取得された時にお目通し頂けているかと思いますが、オンラインセキュリティシステム[メールセキュリティー911]は[沈黙の保護者]と業界内で声高に叫ばれている国内最大規模のセキュリティシステムを誇っております。

海外から来るウィルスメールなどの大半は本セキュリティシステムでカットされている事実はご存知でしょうか?
セキュリティ停止となりますと今まで本セキュリティの働きで阻止されていた攻撃者からのメールや違法アクセスに対して全くの無防備となってしまいます。

その被害からご自身のぷらいばしーを守るためにも期限更新の申請をお願い致します。


本セキュリティーサービス利用者様からの多くの願いを聞き入れ、メールセキュリティー911に守られたウェブスペースの中でも作られた今最も話題のコンテンツとなっております。

こちらは出会い系サイトではありません。完全に無料での利用が可能な一般向けの掲示板サービスです。
興味がありましたらぜひご利用ください。

下記アドレスは情報を頂いております、玲奈様です。(ご連絡お待ちになられております)
http:(URLは掲載しません)

こう言ったページはよく見かけられますがどれも信憑性にかけるものばかりです。
ですがこれが本当だったら、、そんな期待に負けて騙されてしまう人が多いためこういったページを偽装し悪用する業者の活動を盛んにしてしまうのです。

オンラインで発生する全ての「攻撃者」の行動を妨げ全ての「被害者」を減らす事が本セキュリティでは可能です。
1年半後まで様々なサービス、コンテンツの増強を進めていくプランが完成しております。

今後も進化を続ける第六世代オンラインセキュリティシステム[メールセキュリティー911]を継続利用するためにお早目の申請をお願いいたします。

ID担当 竹林より報告させて頂きました。

☆お勧め☆→http:(URLは掲載しません)

 「沈黙の保護者」って、肝臓か? もしくはセガールか?

 なんか、海外のウィルスメールなんかをほとんどカットしてるんだって。
 契約もなしに、勝手にメールをカットするなんてどう考えても犯罪だろう。どうせだから「勝手にメールをカットされたせいで、3億の仕事がパーになった」とか言って、損害賠償でも請求してみようかしら。
 ああ、そうか。俺に仕事依頼のメールが今だにこないのは、ここでカットされているからなんだ。そうに違いない(泣)

 あと「本セキュリティーサービス利用者様からの多くの願いを聞き入れ、メールセキュリティー911に守られたウェブスペースの中でも作られた今最も話題のコンテンツとなっております。」って、意味がサッパリ。

Subject: △ DANGER △ このまま放置されますと

このまま放置されますと現在まで 効でしたセキュリティシステムの全てが完全に停止致します。
一度停止となりますと今情報を貰ってる方すべてと連絡をとることが不可能となります。
過去にセキュリティー911をご利用になり、継続利用をされたなかった方の7割は再度加入手続きをとられております。
セキュリティーとは失って初めてその効力に気付くものなのです。

再発行の場合新規加入のお客様としての扱いとなりますので初期利用費なども必要となってしまいますし、セキュリティーシステムの登録なども順番待ちで再発行までに3ヶ月以上はかかってしまいます。

更新の場合今までと同じサービスに加え、セキュリティサービスはもちろんメールセキュリティー911の範疇にある全てのコンテンツの無料利用が可能となりますのでお早目の申請をお願い致します。
返信メールだけでも決行ですので、更新と記入のうえ返信お願い致します。
(料金は発生いたしません)

この度の会員No.0891t-job様への情報ご案内で本日、美代様より連絡を頂きました。
http:(URLは掲載しません)
レンタルページよりセキュリティーが守られてる状態ですのでご安心してご連絡ください。
レンタル掲示板の使用料は完全無料で料金は一切発生いたしません

オンラインセキュリティシステム[メールセキュリティー911]を今後ともご愛顧頂けますようよろしくお願い致します。

担当竹林

☆お待ちの女性紹介☆→http:(URLは掲載しません)

 沈黙の保護者で、契約もなしに勝手にウィルスメールをカットしていたはずが、いつの間にか「初期利用費」なんかを取っているようです。お前はベリサインか(笑)
 しかも更新のシステムが「更新と記入のうえ返信」などという意味不明さ。そんなずさんなシステムで、日本中から返信されるであろうメール数に対応できるのだろうか?

 ところで、そんな大規模なシステムであるはずの「セキュリティー911」。ググっても全く検索できないんだけど、まさかエシュロン以上の極秘大規模システムなのか?

 結論:あんまり面白くないや。ゴメン。

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2006年03月06日
 ■ 問題は「金」という言葉が有するイメージ

問題は「金」という言葉が有するイメージ

「CLick for Anti War 最新メモ」の2006-03-03 より
 個の中で引用されていた「嫌韓厨が顔まっかにして泣きながら怒る一言って?」スレッドの引用に、こんなものがある。

【一言】
「山野車輪って、一生『嫌韓流』しか描かないのかなあ?」

【解説】
「代表作は『嫌韓流』です」・・・かなり香ばしい漫画家人生ではある。
思うに山野車輪は、一般的な漫画家が持つメリットのほとんどすべてを
捨ててる気がするんだが。つまり、

・サイン会ができない
・友人に自慢できない
・親戚に自慢できない(「親戚が口をすべらして正体バレ」が怖いので)
・漫画家の友人ができない(同上)
・海外版が発売されない
・テレビに出演できない
・メジャー誌に書かせてもらえない

等々。

 確かに、箇条書きにされた内容はその通りだとしか言いようがない。
 ただ、問題は箇条書きの部分ではなく、ここでされている前提に隠されている。
 具体的には山野車輪を「漫画家」と称している部分である。

 私はハッキリいって、山野の絵がうまいとは思えない。同人誌レベルだと思う。
 具体的には、現在の劣化した富樫の絵を、さらに劣化させた同人作家の絵だなぁ。と思う。
 普通のマンガを描いていたんじゃ、絶対に売れなかったと思う。

 しかし、現状、多くの人が山野を知っている。
 少なくとも、山野の名前は知らなくても、彼の描いた作品を多くの人が知っている。
 そして、多くの厨が山野の作品を買っている。
 山野にはかなりの印税が入ったはずだ。

 結局、山野は嫌韓流を描いたからこそ、こうして「漫画家」と呼ばれて、それが社会に認知されているのだ。
 つまり、山野はそもそも嫌韓流がなければ漫画家として認知されることはなく、引用先の人の言う「漫画家が持つメリット」などを得られなかったわけで、そう考えれば「嫌韓流」は、山野にさまざまなメリットを与えはしたものの、何も奪うものは無かったのだ。

 山野は、ウヨに支えられ、ウヨのおかげで漫画家と社会に認知され、十分な収入を得ている。そしてこれからもウヨのさまざまな出版物に、その生活を支えられるだろう。

 じゃあ、左翼は誰か若者の生活を支えているのか?
 ……ここに支えてもらいたいのに、全く支えてもらえない人間がいるじゃないか。

 小泉政権は決して意図的ではなかったが、杉村太蔵という「ニートみたいなもの」を手に入れた。
 その存在はマスメディアにとっては「面白いもの」であったが、一方でいつも批難され、仕事はもちろん人間性すら団塊の世代に奪われ、底辺で這いずりまわらずをえない若者たちにとっては「うらやましい」対象となった。
 山野も同じで、冴えない漫画家みたいなものが、ウヨの力添えによって本当に漫画家として認められ、収入を得られるようになった。
 それは若者たちにとっては、まさに「シンデレラストーリー」だ。
 当然、彼らはこう考える。
 「俺も、自民党を支持して、韓国の悪口を書けば、いつか認められる日がくるのではないだろうか?」と。

 それを「あまりに単純過ぎる」と笑うのは簡単なことだ。
 だが、それを笑えるのは、笑う側が若者たちの苦境を理解せず、さも自らが「ちゃんと生きてきた」かのように錯覚しているからである。特にウヨ厨を嘲笑う左翼は、自らをエスタブリッシュメントだと思い上がっているから尚更。


 私はそうした思い上がりを「金」という単語のイメージに見る。
 若者は「お金が欲しい」という。そうした風潮を、いわゆる「大人」は批難する。
 やれ「拝金主義」だの「働け」だの「努力が足りない」だの。
 しかし、高度経済成長という幸福な時代に育った人間には分からない。
 「金は天下のまわりもの」であって、決して当人の努力や才能に応じて、正確に分配される物では無いということが。

 そもそも、いわゆる「大人」が年齢を経るにしたがって、給料が順調に上がり、「いつかはクラウン」「いつかは持ち家」などと夢想し、それを実現してきたのは、彼らが生きているのと平行して、経済の驚異的な成長があったからだ。
 あの時代は誰もが「普通に会社にいれば給料が上がった」のであり、決して当時の会社員が何か重大なことをなしとげたからこそ給料が上がったなどということでは、決してない。
 高度経済成長の当時、給料が上がるのは当然だったし、そのことを誰も疑問視しなかった。人は成功を確信している時は、そのシステムを疑問視などしないものだ。
 そうして成長したいわゆる「大人」達は、「給料を得る」事を、空気のように扱っていた。
 誰もそのことに疑問を持たなかったし、それでも日本経済は成長していたのだ。

 それからのちはバブルが崩壊してなんとかかんとかでこんな状態。
 ところが、それでもいわゆる「大人」達は、決して給料を手放そうとはしなかった。彼らはそれを受け取るのが当然だと考えていたし、社会もそれを当然として考えることで成り立っていた。
 そこで、彼らは若者に与えるべき金を奪い取った。
 そうした行為が問題視されなかったのは、ひとえに「大人が若者の金を奪い取っても、若者は当然給料を受け取るものだと考えていたから」にすぎない。
 ここで、「一体どこからその給料はでるのか?」と疑問が浮かぶのが当然である。しかし、給料をもらうことを空気としてしか考えていなかったいわゆる「大人」達は、そんなことを考えもしなかったのだ。

 やがて案の定、若者たちの中で給料をもらえない人が出てきた。
 そこで彼らは疑問に思った。「なぜ、彼らは給料を得ることができないのか」。
 もちろん答えは「経済が停滞しているのに、大人の給料の水準を維持し、その分を若者に支払うべき給料から奪い取ったから」だ。
 しかし、彼らはそうは考えなかった。給料は「普通」に生きてさえすれば、貰えて当然のものだと信じて疑わなかった。
 別にその結論を書く必要性はないだろう。現在の若者に対する無責任な視点のほとんどが、この答えなのだから。


 さて、ここまで書いて、ようやく本題に入れる。
 問題は「金」である。

 給料を空気のように貰ってきた大人にとっての「金」は、「自分たちの標準的な生活に対するプラスα」である。
 給料という土台自体は空気なのだから、「金が欲しい」と言えば、具体的には「もっと贅沢をしたい」「もっといい車に乗りたい」「もっといい服を着たい」という意味になる。逆に「金なんか欲しくない」と言っても、それは給料を貰うことを前提にした言葉である。「清貧」などと言う言葉が流行ったことがあるが、その意味は決して「貧困」ではなく、ただ「あまり金を使わない」という、基礎的な生活に立ち返るという意味でしかなかった。

 一方、給料を貰うことが困難な底辺を這いずるしかない若者にとって「金」というのは、人間の尊厳そのものである。
 もはや給料を「空気」と感じられない若者にとって、「金がない」のは死活問題である。土台は既にないのだから、金を得て初めてそれを土台にすることができるのだ。
 そして、給料という土台の存在を前提としてきた日本社会において、土台が存在しない人間など、人権がないのと一緒なのだ。だから社会は「ニート」などという言葉を捏造してバッシングをくり返しても「おかしい」などとは考えない。
 だから若者は「金が欲しい」という。それはすなわち「人間として認めてほしい」という魂の叫びですらある。


 山野車輪や杉村太蔵は、ウヨや自民党によって「あなたは人間である」と認めてもらう事ができた。
 その実績の存在は、這いずり回る若者たちを十分に引きつけ、魅了した。そして若者たちは希望を持った。

 で、左翼は若者にいったいなにを与えてくれるんだい?

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2006年03月05日
 ■ 60デシベルって、どのくらい?

<マラソン>完走直後に倒れた会社員が死亡 三重・桑名

 一時期マラソンブームってのがあって、日曜の朝に各地でマラソン大会を開く番組なんてのまであった。
 そんなこんなで、ランニングは機具等が無くても手軽にできる、健康的なスポーツというイメージが広がっていった。
 けれども、最近では健康維持はもっぱらウォーキングになっていて、ランニングは高負荷運動として考えられている。
 すると、各地、特に自治体ベースで行なわれるマラソン大会の存在意義って、どこにあるんだろう? ってことを、そろそろ真剣に考えてみるべきなのでは?

「騒音おばさん」条例で阻止、奈良・平群町が提案へ

 条例案では、昼間(午前8時〜午後8時)は65デシベル、夜間(午後8時〜午前8時)は60デシベルを超える音を故意に流した場合に「騒音」と規定。町の立ち入り調査権を盛り込んだほか、町は必要な措置をとるとしている。罰則は見送られた。

 60〜65デシベルがどの程度の音なのかというと、なんとビックリ「普通の会話」が60デシベルだってさ。
 すると、ちょっとした生活音すら騒音公害ということになってしまって、隣人の些細な生活音にすら苦情をするような、別のタイプのキチガイが増長するきっかけを与えてしまう。

 以前にも書いたとおり、本来なら行政に頼るのではなくて、迷惑を被っている住民自身が引っ越しババァをぶん殴って手打ちにするべきだったと思う。
 単なる「近所の問題」すら行政すなわち「公」に頼って解決しようとする依存精神は、同時に公の暴走を許容することに繋がる。

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2006年03月04日
 ■ 脳科学者たちの主張

掲示板でも情報をいただきましたが、最近になって徐々に本職の脳科学者達が、ゲーム脳を始めとするとんでも科学に、疑問を呈し始めました。
 私はこれはゲーム脳などに直接的な危機感を持ったのではなく、むしろ川島隆太教授のゲームなんかが流行っていることに対応しているような気がします。
 つまり、本来は脳に関する全ての事柄を扱うべき脳科学が、さも「頭が良くなる」レベルの局所的な科学であると、一般に広く周知されることへの危機感ではないかと。

 結局のところ、永らく解剖学という範囲でしか知ることのできなかった脳というものが、英EMI社によるCTスキャンの実用化によって生きたまま調べることができるようになったのが、1972年。
 それから30年以上が経ち、ようやく血流などを通して脳の働き自体を調べられることになりましたと。
 しかし、その新規性は同時に人々な過剰な関心を呼び、さも「脳の健康を保てば、良い人間になる」かのような誤解を招いている。それが現状なのでしょう。
 ですから、健全な精神を持つ脳科学者たちは、そうした風潮に迎合せず、もっと巨視的に脳科学を捉えていきたいと考えているのだと思います。
 テクノロジーの急激な進化によって、脳を研究する舞台が揃いつつある大切な黎明期に、脳科学の方向性が狭められかねない現状に対して、反旗を翻す必要があるのです。

 私もこうした風潮に賛同します。

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2006年03月03日
 ■ オイコラ警官

Winny、ウィルス扱い
 確かに、キンタマウィルスなんかは、Winnyを悪用しているけど、別にWinnyを使わなくてもデスクトップを勝手にアップするツールは作れるわけで……
 つまりは、企業が社内のPCにWinnyを入れられないために使うんだろうけど、どっちにしても個人のノートパソコンに入れられてしまえばアウト。
 ……ああ、あと子供が自宅のPCでWinny使っちゃうというのもあるか。

今度移転したBlogでは、ムーバブルタイプ(MT)を自分で直接いじる必要があるわけですが、MTのデフォルトが記事ごとにエントリーをつくる仕様になっている。
 それはそれで構わないんだけど、今までのように、最初にいくつか雑記事を入れて最後に本記事を入れる形式で書くと、一番大切な記事を、自分で後ろの方に追いやってしまうという事に気がついた。
 なので、こんどの更新からは、更新のお知らせや雑記事は全部まとめて1つの記事。本記事はそれで1つ。という風にすることにします。

日本人を旅券不携帯の疑いで誤認逮捕 埼玉県警川口署
 「「日本人です」ぐらいのこと、普通に言えるだろう」と、逮捕された当人を責める意見も多いと思う(この件に関して、2ちゃんねるとか見てないから、実際は知らない)けれど、最近の警察官は決して紳士的ではないのだから、かつての「オイコラ警官」に近いと考えないといけないのです。
 元国家公安委員長、白川勝彦の時(No.221、222、223を参照)は、4人組みで周りをぐるぐる回りながら、かわるがわるズボンのポケットをまさぐりました。
 これは相手が白川勝彦というオッサンだからいいものの、女性だったら完全に集団痴漢行為ですね。
 そして、財布を見せる気は無いと言う白川の周りを囲んだまま、10分以上その行為をくり返したのです。
 今の警官というのは、それが職務だと教育(洗脳)されているのです。恐ろしいことです。

 今回の川口署の件でも、警察は「「日本人です」と言わなかったからだ」などという理由を述べていますが、たとえ何度そう言ったとしても、警官は彼女を疑いつづけたでしょう。取調室でも身元を確認できなかったということは、身分証明書の類も持っていなかったのでしょうし。
 彼女が「視線をそらし、警察官を避けるようなそぶり」をしたのは、毎回警官につきまとわれて、嫌気が差していたであろうことは簡単に想像がつきます。そして、警察官も外人を見かけるやいなや、犯罪者予備軍として対応するように教育(洗脳)されていたのでしょう。
 今回の件で署長が「指導を徹底し、再発防止に勤める」などと言っていますが、外国人に対する偏見がなくならない限り、それは不可能です。日本人の中には「怪しい外国人(=アジア系&黒人)を見かけたら尋問をするのは、警官の当然の職務だ」と広言してはばからない人もいるのですから。

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2006年03月02日
 ■ 更新などのお知らせ

更新などのお知らせ
「親の子殺しメモ」アップしました
「知性下流社会(仮)」アップしました

 はてなの方には書きましたが、メインのBlogをhttp://www.journalism.jp/t-akagi/に移転準備中です。

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 ■ 日本ブログ協会設立

日本ブログ協会設立
 ブログ協会なのに、サイトがBlog形式じゃないって……


2.目 的
ブログに関する啓蒙、表彰、研究、調査、交流、支援、提言等を行うことを通じて、我が国におけるブログの普及促進を図る。


 はぁ……
 Blog嫌いの俺ですら、Blogを利用しなければならないという気になって久しいのに、今さら普及促進って……

 はてなブックマークを見ると(リンク)、もう既に完全な「ネタ」として扱われている様子。「インパク」などという屈辱的な(笑)指摘もちらほら……
 ちなみに、なぜか入会申し込みが殺到したらしく、入会登録が休止中です。
 既に登録した人によると、こんな素敵なIDとパスワードが届くらしい。

 どうせネタなら、ブログ音頭とか、ブログ饅頭とか適当に作って送りつけようぜ。

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 ■ 例の高校生のやる気がウンタラというアンケート

ニュースでやたらと報道されてますが、例の高校生のやる気がウンタラというアンケート、また日本青少年研究所ですよ。ええ、あの千石保のところですよ。
 サイトでアンケートの現物見ましたけど、あんなくそ長いアンケートをまともに答えている時点で、どの国の生徒にもやる気があるって事で。
 以上。

 ……ああそうか、三浦展は千石保みたいに一年に一回ぐらい調査して、一生食べていこうと考えているのかも。

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 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その10 「原風景」がないのは三浦展、重松清、お前らのほうだ

今回も『下流社会』の本から少し離れます。立て続けに三浦展の論理展開を白日の元に晒す資料が見つかったので。
 今回は『週刊ポスト』(2006年3月10日号)での、「父親たちよ、いまこそ古くさいオヤジとなれ!」と題された、三浦展と重松清の対談です。
 三浦展は週刊ポストで連載を持ってまして、それのスペシャルみたいな扱いですね。
 ちなみに、連載でやっているのは、件の「欲求調査」を持ち出して、分析ゴッコをしているだけの『下流社会』の本と全く同じ内容です。彼はどうもあの「欲求調査」1本で、一生食って行くつもりらしいです。
 内容もくだらないので、立ち読みですましてますが、前回は確か「若い株の話をしている若者よりトイレ掃除のオバちゃんの方が頑張っている」などと書いてましたが、三浦展の言う「コンビニで生活が成り立つ若者」だって、トイレ掃除してますよ。接客業のバイトにトイレ掃除は付き物なのですから。
 ならば「バイトの若者も頑張っている」とも言えばいいのに、それは決して言わないのです。

 さて、今回対談している重松清は、私が持っている『下流社会』の帯を書いています。そこには「意欲を失いがちな現代人への警世の書である」とあります。
 つか「現代人」って、お前はじゃあ原人か何かか? との疑問も湧きますが、ひとまずは置いといて、対談の方に行きましょうか。

 まず、二人は町田で対談しているようで、三浦展の言う「郊外」の概念を用いて、「フリーターが多く、高校生が午後の3時にふらふらしている街」すなわち「下流社会を象徴するような街」と言っています。
 でもって、彼らにとっては渋谷は「上流」なので、自分たちに自身のない若者は、町田を渋谷化して、外に出ていかないで済むようにしているそうです。
 三浦展の言う渋谷というのはすなわちパルコのことですね。
 ちなみに、町田−渋谷間の電車運賃は小田急と井の頭を乗り継いで450円。往復だと900円ですから、高いとも言えないし、安いとも言えません。
 でも、どうなんでしょう? いまの若者にとって「渋谷」って求心力のある街なんでしょうか?
 確かに、三浦展がパルコにいたころは、確かに渋谷や原宿などに求心力があったのだと思いますが、90年後半からはそうでもないでしょ。
 今はIT連中は「ヒルズ族」とか言われて、六本木ヒルズにいるけれども、90年代後半には彼らは渋谷にいて、そこがIT系のたまり場だったわけです。
 それは、渋谷で育った団塊ジュニア世代の最年長ぐらいの連中が、自然と渋谷に集まったからで、逆に言えば渋谷に求心力を感じるのは、彼らが下限という印象があります。

 こうした分析は、ともすれば三浦展の考え方と違いがないように見えますが、求心力が無いということは、町田の若者は「渋谷は上流だ」などとは考えてないということです。この辺のカルチャーの変化は、もう少し詳細に考える必要があります。

 さて、次の部分は重要ですので、引用します。

三浦 いまの三十代前半は、中学高校時代にバブルを経験して、でも自分たちは勉強をしなくちゃいけないから遊べなかった。ようやく就職をしたら、バブルが弾けたという、努力の割には報われなかった世代です。一方、二十代は、もっと幼い頃にバブルを経験しています。それこそ幼稚園でルイ・ヴィトンのバッグを買ってもらったりとか。

重松 幼い日々の原風景にバブルがあった。

三浦 そう。魂のいちばん奥底で「働かなくても金が入る」というのを擦り込まれたせいで、大人になっても働けなくなってる人が出てきてる。親もバブルで浮かれてたから、子供に「働かなくちゃダメだぞ」とは教えてないんですよ。

重松 逆に、幼い頃から英才教育を受けた子も出てくる世代ですよね。

三浦 宮里藍のようにね。だから、将来は文化国家か破綻国家か、文化やスポーツの面ですごい人材が出てくる一方で、全然ダメな層も出てくる。そういう二極化は出ちゃうでしょうね。ふつうに真面目で中流で、という意識が子供時代に形成されてませんから。

 ここには、2つの問題点があります。
 まず、三浦展の三十代前半のに対する分析はその通りでしょう。しかし、二十代の「幼稚園でルイ・ヴィトンのバッグを買ってもらった」などという、あまりに単純な分析はどうなのかと。
 確かにバブルは狂乱を産み出しましたけど、その当事者である東京在住の人間と、日本の大半を占めるその他の地方都市では、全くそのイメージが違うわけです。多分地方の人たちは、テレビの画面でボディコンを着たお姉ちゃんたちが扇子を振って踊っているイメージでしか、バブルを認識できないんじゃないでしょうか?
 そのようなテレビの中の風景を「原風景」と捉える、あまりに的を外しているのではないかと考えます。もっとも、1都3県のレベルでしか物事を見ていない、この二人にとっては、それで十分なんでしょうけど。

 もうひとつは、重松が三浦の話を受けて「逆に」と言っている部分ですね。
 この二人の中では、「働かなくても金が入る」と考えている人と、「英才教育を受けた子供」が「二極化」だということになっているのでしょうが、私はこの両者の本質は同じだと考えます。いずれも親に依存し、個人としての自立を果たしていません。
 そして、このような「親の英才教育」を正当な事と考える思想は、「子供は親の所有物である」とする思想です。
 ここで三浦展は「ふつうに真面目で中流で、という意識が子供時代に形成されてませんから」と述べますが、私は子供が親のものであるという思想に至った相対関係として、「普通に真面目で中流でという「子供の意識」を認めない社会」の存在があるのではないでしょうか。
 つまり、完全に「親=社会」の奴隷として働き続けるか、それが嫌ならアウトローになるしかないという、どっちに転んでも悲惨な二元化があると考えます。

 そして、この後「原風景がどうの」という話になってきます。
 ここで重要なのは、二人が「僕の原風景は」という話を一切しないことです。完全に世代論のみで「原風景」という言葉を語っています。
 そんな中で三浦展がこう言います。

 三浦 ですから、重松さんたち新人類の世代から、故郷喪失化が始まっている。親自身に確固とした原風景が失われはじめた世代なんです。よっぽど自覚的な人じゃないと、「子供にこういう風景を見せておきたい」というふうには接してこなかったんじゃないですかね。親自身がインベーダーゲーム世代だから、子供にもゲームを平気でやらせてる、みたいな。

 えーと、原風景って「子供にこういう風景を見せておきたい」なんて話でしたっけ?
 というか、当人の心情の奥底に沈殿するはずの原風景までも、「こういう風景を見せておきたい」と親がコントロールするなどと、子供を親の所有物として扱うことに、三浦展が当然だと思っている様子が、ここにも見受けられます。

 第一、原風景というのは決して「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」という風景のことではありません。それはあくまでも「目で見た」風景でしょ。原風景ってのは普通「当事者にとっての、心の奥底に残る心象風景」の事を言うんですよ。
 もちろん「兎追いし」が原風景の人もいるけれども、それは人それぞれ違うわけです。それこそ田舎にだって都市にだって、人間関係や社会の中にだって、いくらでも原風景は広がっているわけです。それは人間のアイデンティティーを左右する概念だし、人間の最も大切な部分でもあります。
 しかし、現在の年寄りたちは、「子供たちに変わらない風景を」などといいつつ、子供たちの原風景をコントロールしようと必死なのです。
 私がテレビで見た例ですが、その町は古くからの町並みが残る所だったそうです。しかし、電気屋などが派手な看板を付けたりして、そうした町並みが少しずつ失われて言ったそうです。
 そこで、町の大人たちが立ち上がって、電気屋などを改築して、昔風の外観に立て直したそうです。取り組みの代表者は「子供たちに変わらぬ町並みを残したい」と誇らしげでした。
 でもよく考えてください。子供たちにとっては、「古くの町並みと、少し新しい町並みが混在する風景」が、子供たちにとっての「町並み」だったわけです。大人はその風景を昔風に「変えてしましました」。
 これも結局、大人たちが自分たちの好ましいと思う風景を、子供をダシにして演出するだけの欺瞞だったわけです。
 「風景」という言葉には、そういう意図が透けてみえます。

 そして、重松清が「原風景をつくる要素として、ビデオの功罪はとても大きいんじゃないか」などと言い出すのです。
 理由は「自分の子供を大きく取ると、周囲の風景は映らなくなるから」だそうで。これも完全に「親による、子供の原風景コントロール」の思想によっています。つか、完全に親の話じゃないか。子供はファインダーを通して子供を見ないだろ。浮遊霊じゃないんだから。しかも、後でビデオを見るのも親だよ。

 三浦 劇作家の別役実さんが昔からおっしゃっていたんですが、現代人の意識には「中景」がない。「近景」と「遠景」はあっても、その中間の「中景」がすっぽりと抜け落ちている。

 三浦展が別役実さんの名前なんかだすなよ!
 まぁ、怒りは治めるとしても、別役実は1937年生まれだよ? その別役実が「昔から言っている」というなら、その「現代人」の括りには、お前らが含まれるんだよ。
 原風景の話にも、自分の事を一切話さず、現代人と言えば自分たちがそれに属することにも気付かず、一体お前らはなんなんだよ。

 そして中景の話になるのだが、三浦展が「「いつかこうなりたい」と「でも、いまはこうだ」の間を繋ぐプロセス」云々が見えていないという話をするのはまだマシとして、なんか上司との飲み会が中景だの、ライブドアの肥大と終焉が中景の焼失だの、働くことのリアリティーがどうの、別役実がどこで中景の話をしていたかは知らないけど、絶対そんなことは行ってないだろうという展開。

 そして、三浦展はお得意の「ジャスコ」の名前をだし、駅前の商店街が壊されるのが問題などと発言。さらにそれの例えとして、こんなことを。

三浦 (略)いま必要なのは、プロレスですよ。八百長だろうがなんだろうが、たとえダメージを受けても、ちゃんと翌日また試合ができるようにならないと。でも、いまはプロレスがすたれて、K-1やプライドといったガチンコ勝負でしょう? 殺し合いになっちゃう。それでは困るんですよ。

 前田日明が「UWFは殺し合いではございません!!」と叫んだのはいつの日か……

 つか、K-1やプライドは殺し合いにはなりませんよ。プロレスよりダメージがデカいのは確かだけど、ちゃんとジャッジがいるし、医者もいるんだから。つか、若者を誹謗中傷して、完膚なきまでに潰してるのはどこの誰だよ。お前だろ。なにを他人事みたいに。

三浦 困った時に助けてくれる地域社会や会社といった「中景」がなくなったから、いきなり政府や国という「遠景」にすがる。そういう安直なナショナリズムに陥るのを、僕は一番警戒しているんです。

 自分たちが育ち親しんだ、文化やライフスタイルといった「中景」がなくなったから、いきなり「世代論」や「性差」や「原風景」という「遠景」にすがる。そういう安直で差別的なロマン主義に陥るのを、僕は一番警戒しているんです。

重松 下流社会への流れは、やはり止めようがないとお考えですか?

三浦 洪水みたいなものですから、食い止めるのは非常に難しい。でもせめて土嚢は積んでおかないと、とは思います。このままでいいはずない、と。

 土嚢で自分たちの権力は守るけど、若者はそのまま溺れて死んでしまえってことですね?

 さて、後半はだれてしまいましたが、最後の部分と、まとめはちゃんとやりましょう。

三浦 『三丁目の夕日』もそうだし、ビートたけしさんの語る足立区の下町の風景なんて、いろんなおじさんやおばさんがいて、ほんとうに「中景」が豊富ですよね。その風景をもう一度思い出してみることが必要でしょうね。

重松 ノスタルジーではなく、むしろ、いまこそ必要なんだ、と。そうなると、当然、昔気質の頑固オヤジや、若手を飲み会に誘う課長だっていないと(笑い)。

三浦 そうそう。「ウチのお父さんは古くさいから」でいいんですよ(笑い)。

 と、こういう「男性権威の最大肯定」という、身も蓋もない性差別で話は終るわけです。

 さて、これを通して読んだところ、私が一番奇妙に感じたのは、ここで話されている会話の中に、ほとんど「僕が、私が」という会話が出てこないのです。原風景やらノスタルジーやら、子供の頃の経験が人間を大きく変えるような話をしておきながら、「私はこう育った」と言うような話が無いのです。唯一でてくるのは「上司と飲み会に行った」という話だけ。最も重要な「子供の頃の話」は一切出てきません。
 「子供の頃」例示はあくまでも「『三丁目の夕日』やビートたけしの足立区の話」などという、メディアを通した仮想の風景でしかないのです。

 そうです。世代論も男女差別もノスタルジーも、彼らがリアリティーももっているそれらは、すべて仮想なのです。自分をヌキにして、誰かがこう言っていた、こんな情景が映画で映っていた。彼らはそういう「原風景」しか持っていないのです。
 だいたい、三浦展は新潟生まれのくせして、『三丁目の夕日』(東京)やビートたけしの話(足立区=東京)にリアリティーを持っている自分というものに対して、なんで疑問を抱かないのでしょうか?

 先にも述べましたが、「原風景」とは、各人の心の奥底に沈殿した心象風景のことです。それは人の一生に影響を与えるほどの風景なのです。それがメディアで伝えられるような「日本人の原風景」なる珍妙な風景に塗り替えられるようなら、その人自身が「原風景」を持っていないのです。原風景の喪失を問題とするなら、こちらを先に問題にすべきです。

 あと、原風景なんていっても、それは決して美しいものとは限りませんよ。
 子供時代を戦争の中で生きた人たちは、空襲や死体の山を原風景として記憶している場合も多いでしょうし、私の原風景は別の言葉で呼べば「トラウマ」です。
 そして、別に辛い思い出を原風景とするのも、美しい思い出を原風景とするのも、各人の自由な心情にあるのです。
 原風景とは、決して、親や三浦展に押しつけられるような、単純なものではないのです。

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2006年03月01日
 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その9 三浦展のいう「中流」とは?

今回は『下流社会』の本から少し離れて、別のところに掲載されていた、三浦展の論理を紹介します。
 出所は『月刊コンビニ』(2006年3月号)という業界誌です。その辺の書店で発見できる類の本ではないので、友人が見つけてくれなければ、絶対に闇に消えていた資料でしょう。
 ここで三浦展は、『下流社会』ではまったく示していなかった「中流という言葉の定義」について触れています。重要な部分なので、そっくり引用します。

 

消費の変化をお話しする前に「中流」の意味について少し考えてみましょう。私たちは「中流」に対して、ふだん、どのようなイメージを抱いているのでしょうか? 中流の典型といえば、具体的にどのような人たちを指すのでしょう? サラリーマンもそれに近いのですが、典型といえば、彼らの奥さんになると私は考えます。消費社会ですから、中流の象徴は(お金を使う)主婦になります。大正時代にも、数は少ないのですがサラリーマンは存在していました。しかし戦前(1945年以前)の専業主婦は消費している時間的余裕がありません。お手伝いさんを雇えないような月給取りの奥さんなのですから、半分は「お手伝いさん代わり」であり、消費の主役にはなりえなかったのです。消費の主役は上流の奥さん連中でした。三越や帝国劇場に通っていた階層です。
 戦後になって中流化が進み、サラリーマンが増えました。消費のパイも増えて、専業主婦が消費の主役になりました。当時の若いOLなどは、2〜3年で仕事を終えて(≒結婚して)、専業主婦の道を選んだのです。女性は、結婚して、主婦になり、子供を産んで、家を買って、車を買って、そこで初めて中流と呼べる階層になったのです。
 では、これからの日本社会は中流から下流へと変化していくのか、そうなるとすれば、消費はどのように変化していくのでしょうか。
 その根底には、家族構造の変化があります。簡単に言えば、結婚している人たちは中流といえるのです。下流社会が拡大しているとすれば、それは結婚していない人たちの増加を意味しているのです。「しない人」というか「できない人たち」の増加です。
 高所得者であっても、結婚しない人たちは大勢います。しかし、一般的な傾向として、所得が少ないから結婚が難しくなるのです。金銭的に中流であっても、あるいは一人暮らしなので豊かな暮らしをしているといっても、結婚していない人たちの気持ちは中流にはなりません。中流という言葉には、結婚して、子供をつくって、マイホームと車を買って−−といったイメージがあるからです。
 これからも、日本の社会が下流化にシフトするのか、という問に対しては、これからも晩婚化、少子化が進むのかという問と同じ意味なのですから、「止まらない」と答えたほうがよいでしょう。

 いろいろツッコミ所はありますが、総論的な部分からみると、つまり三浦展のいう「中流」とは、いわば「一億層中流社会」という言葉に総称されるような、イメージとしての中流に過ぎないということです。
 それは高度経済成長時代において、サラリーマンの夫と、その妻が、団地に住んで、2人ぐらいの子供を持ち、3Bや3Cといった、便利な生活必需品に囲まれて生活するイメージの総称が「中流」なのです。
 私はこの点を思い違いしていました。「下流」と言うからには、何らかの「下への流れ」を示していて、「中から下への変化」すなわちベクトルを支える意味として「流」という言葉を使っていると思っていました。
 ただ、それに関する混乱した記述が『下流社会』の中に見られました。だからこそ、私は『下流社会』を読み解くために、三浦展の意図に極力添うような形で、「下流」という言葉の「流」に「金銭的意欲」という意味を付与したわけです。

 ところが、三浦展は、あくまでも固定化した幸福なイメージで語られる「高度経済成長時代の成功例イメージ」としての家庭を「中流」と称しているのであって、決して現実の人間を分析しているわけではないことが、この中流の定義から判明しました。

 高度経済成長時代の成功例イメージが現実でないというのは、それがあくまでも都市生活者の一部の生活様式が、TVを中心としたマスメディアに喧伝され、メディア・リテラシーの低かった三浦展らの年代の人間が、それを素朴に信じたということに過ぎない、ということです。
 たとえば、今現在、ニートやネットで株で稼いで働かないいい加減な若者像みたいなものが、マスメディアによって喧伝されますが、我々はそれが本当のことでないことを、よく知っています。
 それは、高度経済成長時代においても同じことで、いわゆる「団地族」のような生活は、都市生活者の一部に流行した生活様式でしかなく、都市と離れた工業地帯や農村においては、もっと別のありようの「中流」な人々がたくさんいたのです。
(高度経済成長時代の人たちが、マスメディアの影響をモロに受け、仮装と現実の区別が完全につかなくなってしまった人たちであるということは、もっと詳細に示す必要がある)

 結局のところ、三浦展は「中流」という高度経済成長時代の仮想現実を手に、現在のリアルな若者たちの生活観を「下流」として、卑下しているだけに過ぎないということです。
 三浦展はさも「中流から下流へ」というベクトルの変化があるように論じています(図1)が、ここで使われている「中流」という言葉が、ベクトルとは何ら関係ないただの文字列と、それに付与されたイメージの塊でしかないことが判明したのですから、そうした論理は否定されます。
 現実は、いわゆる「中流社会」というイメージの総体が、時が経つにつれ変化し、全く価値観の違う「中流社会’」が取って代わった。それと同時に、日本経済が不況になり、「若い人=弱者」の側から貧困にあえぐようになり、生活が苦しいまま現在に至っている(図2)という、2段階の変化なのです。
 現在、三浦展の世代が「自分たちは中流」とタカを括っていられるのは、不況時にリストラが過剰に注目され、新規採用人員のカットがほとんど無視されたように、「若い人=弱者」からの搾取から目を背けているからです。

 総論と外れた、個別の部分で三浦展の「中流」定義を吟味すると、実に恥ずかしい差別論理に寄っていることが目につきます。それこそ「結婚が唯一の女の幸せだ」ぐらいのことを平気で言ってます。
 そして、「下流化=晩婚化、少子化」などと、全くワケの分からないことを平気で書いています。「女性が早く結婚せず、子供を産まなくなったから、日本は不幸になった」とでも言いたいのでしょうか?
 これも、三浦展が「中流イメージの変化」と「景気の後退」を、あくまでも「個別の2段階変化」だと捉えてないからこそ言える暴言でしょう。

 返す返すも、これが『月刊コンビニ』のような、業界誌でなされた発言であることは不幸です。
 もっと多くの人の目に止まる場所に書かれていれば、三浦展を「単なる性差別者」として、追放することは簡単であったように思います。


 ここからは個別の発言を抜き出して批判したいと思います。
 しかし、このインタビューは6ページにわたっているのですが、業界誌ですからインタビュアーもコンビニについての質問しかせず、先生にご意見をお伺いしているという態度ですから、何ら面白いことはなく、三浦展も『下流社会』で述べたことをくり返すだけですから、それほど注目に値する発言はありません。冒頭で中流の定義についてまとめられているのは、奇跡のようなものです。
 それでもいくつか注目すべき発言はあります。

(「なぜ少子化が進行するのか」という質問に対して)

 コンビニでアルバイトをして生活していけるような環境が、結婚しない人たちを増やしているのではないでしょうか。

 あまりに現実を知らない発言です。当然コンビニのアルバイトだけでは生活などしていけません。親がいて、実家に要られるような若者なら、将来を悲観しつつも、ギリギリ生活していけるでしょうが、親のない中年フリーターなどは、他のバイトを兼業している場合がほとんどです。つまり三浦展の言う「コンビニバイトで生活していけるような環境」など、ないのです。
 ないのになぜ存在するのか? といえば、それはまさにそういう仕事しか弱者には回ってこないということです。
 そういう意味で、現実では「コンビニバイトで生活していけないから、結婚しない人たちが増えている」のです。
 文章に起してしまえばわずかな違いですが、三浦展の言葉が責任を若者に押しつけているのに対して、後者は弱者がコンビニでしか働けないような社会を批難する言葉になっています。

 成城石井や紀ノ国屋を利用することが「上」だと思っています。

 引用した部分は短いですが、かなり重要な発言です。
 まず、「成城石井や紀ノ国屋」という発言から、三浦展が上流モデルをまさに「1都3県」にしか適応できていないことが明白です。田舎にはそんな高級スーパーはありません。
 というか三浦展は、そのレベルでしか問題を考えていないのです。実際『下流社会』の論拠とされる「欲求調査」が、1都3県でしか行なわれていないのですから。
 そして、もう一つ。ここで使われているのが「上流」ではなく「上」という単語であるということ。
 三浦展は『下流社会』においても、ほとんど「上流」という言葉を使ってないんですね。
 意図的なのか無意識なのかは知りませんが、これは、私が彼の「中流の定義」に対して示した「中流」と言う言葉が、あくまでもベクトルではなくて、「ただの文字列と、それに付与されたイメージの塊」であるということを示しているのだと考えます。
 三浦展の言う「上流」「中流」「下流」という言葉に、流動性はなく、ただ「こうした人たちは上流で、こうした人たちは下流である」という、「分断された層」が三浦展の中にイメージされているだけなのです。
 「分断された」というのは、相互に流動性が無いということです。上中下で示すならば、上が中になったり、下が上になることがあるハズなのですが、三浦展の論理では、中流は「高度経済成長時代の幸せな家族像」、上流は「成城石井や紀ノ国屋で買い物をする人たち」という、固定化されたイメージであり、下流の「現在の自分の満足して、上を目指そうとしない若者」との交換可能性など、全く存在しないのです。

 中流以上の人たちは、ブランドの確かな商品を選択します。一方、下流の人たちになると、それがナショナルブランド(NB)かどうかは気にしません。
(中略)
 NBと呼ばれるメーカーが育った背景には、中流の拡大が挙げられます。NBを買うことが中流の証しであったし、今も、自分は中流でありたいと願う人たちはNBを買い続けるでしょう。

 「ナショナルブランド(以下NB)」というのは、要は「みんながよく知ってるメーカー品」ってことです。
 単純に例示をすると、乾電池を買う時に、ナショナルを選ぶのが中流以上で、ダイソーの「マンガン電池」とか書かれているのを買うのが下流ってことですね。
 まぁNBについては、OEMなんかの関係性でツッコミたいことはいくらでもあるのですが、その辺は極力省きまして、一つだけ。
 「では、NBとそれ以外を区分するラインはどこなのでしょう?」
 たとえば、「太陽誘電のDVD-R」を愛用している人は、下流なのでしょうか?
 「ダイニチの石油ファンヒーター」を愛用している人は、下流なのでしょうか?
 この両者はどちらも「みんながよく知ってる」メーカではないけれども、太陽誘電は、三菱やTDKなどの有名メーカーにOEM品を供給している、ちょっと詳しい人ならよく知っている、高い品質を認められているメーカーですし、ダイニチも石油ファンヒーターの分野では有名なメーカーです。
 他にもエアコンの「ダイキン」はNB? とか、どこまでをNBと認めるかという線引きは非常に難しいのが現実です。

 今、地方経済は厳しい環境にあります。
(中略)
 衣料品だって2,000円以下のものしか買いません。ワイシャツは1,980円。いかに安いものをゲットするか、それが喜びになっています。だからユニクロが成長するのです。

 地方の話を出してますが、さすが1都3県しか目に入っていない人の発言です。ここで例示するなら、ユニクロじゃなくてしまむらでしょ。どうせ日経の上だけで地方経済を知った気になっているんですね。日経はねじ曲がった意味で、ユニクロが大好きですからね。
 あと、ユニクロに2,000円以下の商品って、そんなにあるっけ? 今のユニクロはそんなに「安い」というイメージではないと思うんだけど。

 あえて男女差別を承知で言えば、僕は(下流社会への傾斜を防ぐためには)男性の正規雇用を優先すべきだと考えています。

 あえて、もなにも、三浦展が差別論者であることは既に判明しています。
 で、問題は、現在の不況を生み出した人たちを免罪していることです。
 私なら、同じ効果を得るために「老人を早期退職させ、若者の正規雇用を優先するべきだ」と言います。
 結婚云々はともかく、若い人は欲しいものや必要なものがたくさんありますので、彼らに金を回せば、経済は循環します。年寄りに金をわたしても、既に欲しいものを得つくした彼らは貯金に必死になり、経済を停滞させます。
 そもそも年寄りは既に必要以上に過ぎた金を得ているのですから、その分を返却するべきだと思うのですが、そういう話は別の機会にすることにしましょう。

 今は、非正規と正社員の格差が大きいのですが、同一労働同一賃金を進めていくと、非正規の中にも格差が生まれるようになります。非正規でも能力の高い人は正規の下の人より賃金が上になるのですが、非正規の下の人は、今よりもさらに低くなる可能性があります。
(中略)
 格差が今以上に拡大するのです。

 同一労働同一賃金に関しては、私も興味がありますが、これについても三浦展は非正規側から賃金を取り上げることしか考えてないようです。
 そもそも「正社員」と言われる人たちが、賃金を多く取り過ぎているのが格差の問題ですから、彼らの賃金を切り下げればいいだけのことです。このことと「下流化」は関係ありませんし、これによって景気が悪化するとも言えません。
 しかし、三浦展が「下流化」論理を達成するためには、中流や上流の給料が下がるのは困るわけですから、このような硬直化した考え方になるのです。

 これがラストです。ここは全部引用します。

− 最後に、著者『下流社会』がベストセラーになりました。ヒットの要因をどのように考えますか。

三浦 これから下流社会が拡大するのか? 僕は1つのシナリオを書いたわけです。必ずそうなると断言したり、予測しているわけではありません。それでも、これだけ売れたということは、「そうだ」と納得した人が多かったということでしょう。30歳を過ぎて、給料が上がらなくなった人たちがいるのですから。
 給料が増え続けると期待すること自体が、そもそも中流と言えるのです。もともと働かなくてもお金がある人たちは上流であるし、どんどん働くからもっと給料をよこせという考え方が、ここでいう「上」になります。働きたくないからお金もいらないよ、という気持ちが「下」になるし、「下」でも目標を持ちつづけていれば、下流にはなりません。
 「下」というのは今の状態を示すわけですから、「下」の状態を肯定した時点で下流、これでは駄目だと奮起したら下流ではなくなります。本当はいろいろな要素が混在しています。ホリエモンは状態こそ「上」でしたが、精神は下流です。

 ここでは、最も重要な「上中下」についての定義を語っています。
 しかし、あまりに無茶苦茶です。
 まず、「働かなくてもお金がある人たちは上流」と、「流」を私の定義で言う「現実的な金銭的余裕」である「層」という意味で使っています。そして、「どんどん働くからもっと給料をよこせという考え方が、ここでいう「上」」と、「上」を金銭的意欲、つまり私の定義で言う「流」という意味で使っています。
 しかし、これが下流になると、「働きたくないからお金もいらないよ、という気持ちが「下」になるし、「下」でも目標を持ちつづけていれば、下流にはなりません」
 と、前者の「下」を、私の言う「流」の意味で使っているのにもかかわらず、後者では「下」を私の言う「層」の意味で使ってしまっています。そして最後の「下流」の意味は「流」ですね。
 そしてさらに「「下」というのは今の状態を示す」などと、私の言う「層」の意味で使ってしまい、全く整合性を欠いています。

 しかし、これだけでは、三浦展が「上中下」を無茶苦茶に扱っているという十分な証拠にはなりません。
 これが無茶苦茶であることを示すためには、『下流社会』に戻って考えないといけません。

 三浦展が調査した「欲求調査」や、総務省の「国民生活世論調査」における「上中下」の定義は、あくまでも「当人が上中下のいずれと考えているか?」というものでした。そして、調査での数値を、三浦展はなんら適切に変換することなく図表にしています。
 具体的に言えば、金銭的には貧乏でも、その人が「自分はしたいことをできているから上」と思っていれば「上」に分類されるのです。

 こうなると、「「下」というのは今の状態を示す」、つまり「「上中下」という言葉は、「層」の意味である」という、三浦展の主張は完全に崩壊します。『下流社会』の図表に示される「上中下」は、当人の意識であって、決して「今の状態」、すなわち「現実的な金銭状況=私の言う「層」」や、「金銭に対する意欲=私の言う「流」」などを示してはいないことは明白なのです。

 つまり、三浦展は全く違う意味の言葉を分類せずにごちゃまぜにしているということです。
 もちろん、そこから出てきた結論が、まともなものであろうハズがありません。

 そして最後に「ホリエモンは状態こそ「上」でしたが、精神は下流です」などと、金銭以外の部分についてまで安直に下流という言葉を当ててしまっています。

 ニートという言葉が、家事手伝いをニートに加えたり、年齢の定義を無視して「中年ニート」なる珍妙な言葉に使われたりと、無軌道な拡大をくり返すのと同様、下流という言葉も、その意味を拡大しようとしています。
 それは、安直に生まれた差別言語に共通する特徴なのかもしれません。

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