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2006年03月01日

 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その9 三浦展のいう「中流」とは?

今回は『下流社会』の本から少し離れて、別のところに掲載されていた、三浦展の論理を紹介します。
 出所は『月刊コンビニ』(2006年3月号)という業界誌です。その辺の書店で発見できる類の本ではないので、友人が見つけてくれなければ、絶対に闇に消えていた資料でしょう。
 ここで三浦展は、『下流社会』ではまったく示していなかった「中流という言葉の定義」について触れています。重要な部分なので、そっくり引用します。

 

消費の変化をお話しする前に「中流」の意味について少し考えてみましょう。私たちは「中流」に対して、ふだん、どのようなイメージを抱いているのでしょうか? 中流の典型といえば、具体的にどのような人たちを指すのでしょう? サラリーマンもそれに近いのですが、典型といえば、彼らの奥さんになると私は考えます。消費社会ですから、中流の象徴は(お金を使う)主婦になります。大正時代にも、数は少ないのですがサラリーマンは存在していました。しかし戦前(1945年以前)の専業主婦は消費している時間的余裕がありません。お手伝いさんを雇えないような月給取りの奥さんなのですから、半分は「お手伝いさん代わり」であり、消費の主役にはなりえなかったのです。消費の主役は上流の奥さん連中でした。三越や帝国劇場に通っていた階層です。
 戦後になって中流化が進み、サラリーマンが増えました。消費のパイも増えて、専業主婦が消費の主役になりました。当時の若いOLなどは、2〜3年で仕事を終えて(≒結婚して)、専業主婦の道を選んだのです。女性は、結婚して、主婦になり、子供を産んで、家を買って、車を買って、そこで初めて中流と呼べる階層になったのです。
 では、これからの日本社会は中流から下流へと変化していくのか、そうなるとすれば、消費はどのように変化していくのでしょうか。
 その根底には、家族構造の変化があります。簡単に言えば、結婚している人たちは中流といえるのです。下流社会が拡大しているとすれば、それは結婚していない人たちの増加を意味しているのです。「しない人」というか「できない人たち」の増加です。
 高所得者であっても、結婚しない人たちは大勢います。しかし、一般的な傾向として、所得が少ないから結婚が難しくなるのです。金銭的に中流であっても、あるいは一人暮らしなので豊かな暮らしをしているといっても、結婚していない人たちの気持ちは中流にはなりません。中流という言葉には、結婚して、子供をつくって、マイホームと車を買って−−といったイメージがあるからです。
 これからも、日本の社会が下流化にシフトするのか、という問に対しては、これからも晩婚化、少子化が進むのかという問と同じ意味なのですから、「止まらない」と答えたほうがよいでしょう。

 いろいろツッコミ所はありますが、総論的な部分からみると、つまり三浦展のいう「中流」とは、いわば「一億層中流社会」という言葉に総称されるような、イメージとしての中流に過ぎないということです。
 それは高度経済成長時代において、サラリーマンの夫と、その妻が、団地に住んで、2人ぐらいの子供を持ち、3Bや3Cといった、便利な生活必需品に囲まれて生活するイメージの総称が「中流」なのです。
 私はこの点を思い違いしていました。「下流」と言うからには、何らかの「下への流れ」を示していて、「中から下への変化」すなわちベクトルを支える意味として「流」という言葉を使っていると思っていました。
 ただ、それに関する混乱した記述が『下流社会』の中に見られました。だからこそ、私は『下流社会』を読み解くために、三浦展の意図に極力添うような形で、「下流」という言葉の「流」に「金銭的意欲」という意味を付与したわけです。

 ところが、三浦展は、あくまでも固定化した幸福なイメージで語られる「高度経済成長時代の成功例イメージ」としての家庭を「中流」と称しているのであって、決して現実の人間を分析しているわけではないことが、この中流の定義から判明しました。

 高度経済成長時代の成功例イメージが現実でないというのは、それがあくまでも都市生活者の一部の生活様式が、TVを中心としたマスメディアに喧伝され、メディア・リテラシーの低かった三浦展らの年代の人間が、それを素朴に信じたということに過ぎない、ということです。
 たとえば、今現在、ニートやネットで株で稼いで働かないいい加減な若者像みたいなものが、マスメディアによって喧伝されますが、我々はそれが本当のことでないことを、よく知っています。
 それは、高度経済成長時代においても同じことで、いわゆる「団地族」のような生活は、都市生活者の一部に流行した生活様式でしかなく、都市と離れた工業地帯や農村においては、もっと別のありようの「中流」な人々がたくさんいたのです。
(高度経済成長時代の人たちが、マスメディアの影響をモロに受け、仮装と現実の区別が完全につかなくなってしまった人たちであるということは、もっと詳細に示す必要がある)

 結局のところ、三浦展は「中流」という高度経済成長時代の仮想現実を手に、現在のリアルな若者たちの生活観を「下流」として、卑下しているだけに過ぎないということです。
 三浦展はさも「中流から下流へ」というベクトルの変化があるように論じています(図1)が、ここで使われている「中流」という言葉が、ベクトルとは何ら関係ないただの文字列と、それに付与されたイメージの塊でしかないことが判明したのですから、そうした論理は否定されます。
 現実は、いわゆる「中流社会」というイメージの総体が、時が経つにつれ変化し、全く価値観の違う「中流社会’」が取って代わった。それと同時に、日本経済が不況になり、「若い人=弱者」の側から貧困にあえぐようになり、生活が苦しいまま現在に至っている(図2)という、2段階の変化なのです。
 現在、三浦展の世代が「自分たちは中流」とタカを括っていられるのは、不況時にリストラが過剰に注目され、新規採用人員のカットがほとんど無視されたように、「若い人=弱者」からの搾取から目を背けているからです。

 総論と外れた、個別の部分で三浦展の「中流」定義を吟味すると、実に恥ずかしい差別論理に寄っていることが目につきます。それこそ「結婚が唯一の女の幸せだ」ぐらいのことを平気で言ってます。
 そして、「下流化=晩婚化、少子化」などと、全くワケの分からないことを平気で書いています。「女性が早く結婚せず、子供を産まなくなったから、日本は不幸になった」とでも言いたいのでしょうか?
 これも、三浦展が「中流イメージの変化」と「景気の後退」を、あくまでも「個別の2段階変化」だと捉えてないからこそ言える暴言でしょう。

 返す返すも、これが『月刊コンビニ』のような、業界誌でなされた発言であることは不幸です。
 もっと多くの人の目に止まる場所に書かれていれば、三浦展を「単なる性差別者」として、追放することは簡単であったように思います。


 ここからは個別の発言を抜き出して批判したいと思います。
 しかし、このインタビューは6ページにわたっているのですが、業界誌ですからインタビュアーもコンビニについての質問しかせず、先生にご意見をお伺いしているという態度ですから、何ら面白いことはなく、三浦展も『下流社会』で述べたことをくり返すだけですから、それほど注目に値する発言はありません。冒頭で中流の定義についてまとめられているのは、奇跡のようなものです。
 それでもいくつか注目すべき発言はあります。

(「なぜ少子化が進行するのか」という質問に対して)

 コンビニでアルバイトをして生活していけるような環境が、結婚しない人たちを増やしているのではないでしょうか。

 あまりに現実を知らない発言です。当然コンビニのアルバイトだけでは生活などしていけません。親がいて、実家に要られるような若者なら、将来を悲観しつつも、ギリギリ生活していけるでしょうが、親のない中年フリーターなどは、他のバイトを兼業している場合がほとんどです。つまり三浦展の言う「コンビニバイトで生活していけるような環境」など、ないのです。
 ないのになぜ存在するのか? といえば、それはまさにそういう仕事しか弱者には回ってこないということです。
 そういう意味で、現実では「コンビニバイトで生活していけないから、結婚しない人たちが増えている」のです。
 文章に起してしまえばわずかな違いですが、三浦展の言葉が責任を若者に押しつけているのに対して、後者は弱者がコンビニでしか働けないような社会を批難する言葉になっています。

 成城石井や紀ノ国屋を利用することが「上」だと思っています。

 引用した部分は短いですが、かなり重要な発言です。
 まず、「成城石井や紀ノ国屋」という発言から、三浦展が上流モデルをまさに「1都3県」にしか適応できていないことが明白です。田舎にはそんな高級スーパーはありません。
 というか三浦展は、そのレベルでしか問題を考えていないのです。実際『下流社会』の論拠とされる「欲求調査」が、1都3県でしか行なわれていないのですから。
 そして、もう一つ。ここで使われているのが「上流」ではなく「上」という単語であるということ。
 三浦展は『下流社会』においても、ほとんど「上流」という言葉を使ってないんですね。
 意図的なのか無意識なのかは知りませんが、これは、私が彼の「中流の定義」に対して示した「中流」と言う言葉が、あくまでもベクトルではなくて、「ただの文字列と、それに付与されたイメージの塊」であるということを示しているのだと考えます。
 三浦展の言う「上流」「中流」「下流」という言葉に、流動性はなく、ただ「こうした人たちは上流で、こうした人たちは下流である」という、「分断された層」が三浦展の中にイメージされているだけなのです。
 「分断された」というのは、相互に流動性が無いということです。上中下で示すならば、上が中になったり、下が上になることがあるハズなのですが、三浦展の論理では、中流は「高度経済成長時代の幸せな家族像」、上流は「成城石井や紀ノ国屋で買い物をする人たち」という、固定化されたイメージであり、下流の「現在の自分の満足して、上を目指そうとしない若者」との交換可能性など、全く存在しないのです。

 中流以上の人たちは、ブランドの確かな商品を選択します。一方、下流の人たちになると、それがナショナルブランド(NB)かどうかは気にしません。
(中略)
 NBと呼ばれるメーカーが育った背景には、中流の拡大が挙げられます。NBを買うことが中流の証しであったし、今も、自分は中流でありたいと願う人たちはNBを買い続けるでしょう。

 「ナショナルブランド(以下NB)」というのは、要は「みんながよく知ってるメーカー品」ってことです。
 単純に例示をすると、乾電池を買う時に、ナショナルを選ぶのが中流以上で、ダイソーの「マンガン電池」とか書かれているのを買うのが下流ってことですね。
 まぁNBについては、OEMなんかの関係性でツッコミたいことはいくらでもあるのですが、その辺は極力省きまして、一つだけ。
 「では、NBとそれ以外を区分するラインはどこなのでしょう?」
 たとえば、「太陽誘電のDVD-R」を愛用している人は、下流なのでしょうか?
 「ダイニチの石油ファンヒーター」を愛用している人は、下流なのでしょうか?
 この両者はどちらも「みんながよく知ってる」メーカではないけれども、太陽誘電は、三菱やTDKなどの有名メーカーにOEM品を供給している、ちょっと詳しい人ならよく知っている、高い品質を認められているメーカーですし、ダイニチも石油ファンヒーターの分野では有名なメーカーです。
 他にもエアコンの「ダイキン」はNB? とか、どこまでをNBと認めるかという線引きは非常に難しいのが現実です。

 今、地方経済は厳しい環境にあります。
(中略)
 衣料品だって2,000円以下のものしか買いません。ワイシャツは1,980円。いかに安いものをゲットするか、それが喜びになっています。だからユニクロが成長するのです。

 地方の話を出してますが、さすが1都3県しか目に入っていない人の発言です。ここで例示するなら、ユニクロじゃなくてしまむらでしょ。どうせ日経の上だけで地方経済を知った気になっているんですね。日経はねじ曲がった意味で、ユニクロが大好きですからね。
 あと、ユニクロに2,000円以下の商品って、そんなにあるっけ? 今のユニクロはそんなに「安い」というイメージではないと思うんだけど。

 あえて男女差別を承知で言えば、僕は(下流社会への傾斜を防ぐためには)男性の正規雇用を優先すべきだと考えています。

 あえて、もなにも、三浦展が差別論者であることは既に判明しています。
 で、問題は、現在の不況を生み出した人たちを免罪していることです。
 私なら、同じ効果を得るために「老人を早期退職させ、若者の正規雇用を優先するべきだ」と言います。
 結婚云々はともかく、若い人は欲しいものや必要なものがたくさんありますので、彼らに金を回せば、経済は循環します。年寄りに金をわたしても、既に欲しいものを得つくした彼らは貯金に必死になり、経済を停滞させます。
 そもそも年寄りは既に必要以上に過ぎた金を得ているのですから、その分を返却するべきだと思うのですが、そういう話は別の機会にすることにしましょう。

 今は、非正規と正社員の格差が大きいのですが、同一労働同一賃金を進めていくと、非正規の中にも格差が生まれるようになります。非正規でも能力の高い人は正規の下の人より賃金が上になるのですが、非正規の下の人は、今よりもさらに低くなる可能性があります。
(中略)
 格差が今以上に拡大するのです。

 同一労働同一賃金に関しては、私も興味がありますが、これについても三浦展は非正規側から賃金を取り上げることしか考えてないようです。
 そもそも「正社員」と言われる人たちが、賃金を多く取り過ぎているのが格差の問題ですから、彼らの賃金を切り下げればいいだけのことです。このことと「下流化」は関係ありませんし、これによって景気が悪化するとも言えません。
 しかし、三浦展が「下流化」論理を達成するためには、中流や上流の給料が下がるのは困るわけですから、このような硬直化した考え方になるのです。

 これがラストです。ここは全部引用します。

− 最後に、著者『下流社会』がベストセラーになりました。ヒットの要因をどのように考えますか。

三浦 これから下流社会が拡大するのか? 僕は1つのシナリオを書いたわけです。必ずそうなると断言したり、予測しているわけではありません。それでも、これだけ売れたということは、「そうだ」と納得した人が多かったということでしょう。30歳を過ぎて、給料が上がらなくなった人たちがいるのですから。
 給料が増え続けると期待すること自体が、そもそも中流と言えるのです。もともと働かなくてもお金がある人たちは上流であるし、どんどん働くからもっと給料をよこせという考え方が、ここでいう「上」になります。働きたくないからお金もいらないよ、という気持ちが「下」になるし、「下」でも目標を持ちつづけていれば、下流にはなりません。
 「下」というのは今の状態を示すわけですから、「下」の状態を肯定した時点で下流、これでは駄目だと奮起したら下流ではなくなります。本当はいろいろな要素が混在しています。ホリエモンは状態こそ「上」でしたが、精神は下流です。

 ここでは、最も重要な「上中下」についての定義を語っています。
 しかし、あまりに無茶苦茶です。
 まず、「働かなくてもお金がある人たちは上流」と、「流」を私の定義で言う「現実的な金銭的余裕」である「層」という意味で使っています。そして、「どんどん働くからもっと給料をよこせという考え方が、ここでいう「上」」と、「上」を金銭的意欲、つまり私の定義で言う「流」という意味で使っています。
 しかし、これが下流になると、「働きたくないからお金もいらないよ、という気持ちが「下」になるし、「下」でも目標を持ちつづけていれば、下流にはなりません」
 と、前者の「下」を、私の言う「流」の意味で使っているのにもかかわらず、後者では「下」を私の言う「層」の意味で使ってしまっています。そして最後の「下流」の意味は「流」ですね。
 そしてさらに「「下」というのは今の状態を示す」などと、私の言う「層」の意味で使ってしまい、全く整合性を欠いています。

 しかし、これだけでは、三浦展が「上中下」を無茶苦茶に扱っているという十分な証拠にはなりません。
 これが無茶苦茶であることを示すためには、『下流社会』に戻って考えないといけません。

 三浦展が調査した「欲求調査」や、総務省の「国民生活世論調査」における「上中下」の定義は、あくまでも「当人が上中下のいずれと考えているか?」というものでした。そして、調査での数値を、三浦展はなんら適切に変換することなく図表にしています。
 具体的に言えば、金銭的には貧乏でも、その人が「自分はしたいことをできているから上」と思っていれば「上」に分類されるのです。

 こうなると、「「下」というのは今の状態を示す」、つまり「「上中下」という言葉は、「層」の意味である」という、三浦展の主張は完全に崩壊します。『下流社会』の図表に示される「上中下」は、当人の意識であって、決して「今の状態」、すなわち「現実的な金銭状況=私の言う「層」」や、「金銭に対する意欲=私の言う「流」」などを示してはいないことは明白なのです。

 つまり、三浦展は全く違う意味の言葉を分類せずにごちゃまぜにしているということです。
 もちろん、そこから出てきた結論が、まともなものであろうハズがありません。

 そして最後に「ホリエモンは状態こそ「上」でしたが、精神は下流です」などと、金銭以外の部分についてまで安直に下流という言葉を当ててしまっています。

 ニートという言葉が、家事手伝いをニートに加えたり、年齢の定義を無視して「中年ニート」なる珍妙な言葉に使われたりと、無軌道な拡大をくり返すのと同様、下流という言葉も、その意味を拡大しようとしています。
 それは、安直に生まれた差別言語に共通する特徴なのかもしれません。

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