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2006年04月29日
 ■ また間が開いちゃった……

「似合わん」と殴って、自転車奪う 鹿児島
 2chでは「ゆとり教育の弊害」だの「ゲーム脳」だのと言われております。
 そして、こうした老人の凶悪犯罪(これは強盗だろう)を、マスコミはほとんど報道しません。

礼儀を知らない石原慎太郎
 我々が望むと望まざるとにかかわらず、東京都知事という立場からのスピーチは日本人を代表する言葉とみなされる。このくだらないパフォーマンスが損ねた国益はどれほどのものか。

村上隆は藁える
村上隆のDOBのモデルってミッキーマウスじゃないの?(町山智浩)
村上隆と知的財産権(東浩紀)

 東浩紀は

村上氏の美術活動の中心は、現代社会を満たしている商業主義的アイコンを借用し、パロディ化し、価値転倒を行うことにあります(と書くと左翼っぽいですが、現代美術はもともとそんなものです)。

 と書いていますが、芸術に限らず、現代においては「おお、すべてのことはもう、一度行なわれてる(マニアの受難 by ムーンライダーズ)」のであり、そうしたパロディー化というのは、各種思想言論そのものの源流を成しています。
 もはや、我々は何らかの模倣ナシに言葉を語ることはできないのです。だからこそ、著作権ゴロによる「オリジナリティーの喧伝」は徹底して批難されなければなりません。
 今回、彼が芸術家から著作権ゴロに堕したのは、訴訟したことによってではなく、自らの作品をオリジナルだと勘違いしたことによってなのです。このことは村上の「現代」に対する見識の欠如を明らかにしています。そして現代への正しい見識無しにはポップアートもポストモダンも成り立たないのです。だからもう村上隆は芸術家でも思想家でも表現者でもないのです。

「世界はこんなふうにも眺められる 第1回 プー太郎が好きだ!」(保坂和志)
 私はこれを読んだ途端に怒りが頂点に達し、思わず文句のメールを送ってしまいました。

 というのも、こうした格差要因を、こうして被差別者(ニート&フリーター)の内部要因として語る言説は、それが好意的であろうと批判的であろうと、その根底は同じものだからです。
 ニート&フリーターの問題は、経済という外部要因により、被差別者が一方的に被害を受けているのであり、それをさも個人の思想心情に還元し、社会の責任を無視するかのような言説は、問題の所在を隠匿してしまいます。

 いうなれば「北朝鮮に拉致された被害者は、家族もできて、北朝鮮で暮せて幸せだろう」ぐらいのことを平気で書いているのです。
 誤解を受けるといけないので、念の為に書いておきますが、日本が先進国であり、北朝鮮の現状が貧しいので、拉致被害者を可哀想だと考える人が多いのでしょうが、もしそれが逆であっても、拉致そのものが人権を無視した行為であり許されるべきではないのと同じことです。

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2006年04月24日
 ■ ぬくぬく左翼が成すべきこと

今発売中の週間ポスト2006.5.5・12号が「GWに思い起こす 日本人の本分 品性無き人々がやがてこの国を滅ぼす」という特集をしている。中身はよくありがちな俗流若者論だ。
 私が気になったのは、この特集にコメントを寄せている吉岡忍の存在だ。ちょうど若者に対する左翼の無理解、無責任について論じようと思っていたので、これを踏み台としよう。

 上記特集から、吉岡のコメントのみを抜き出す。

 今の日本の若者が政治に無関心である要因の一つに、若い人があまりにも歴史、つまり“過去の人たちの努力”を知らないことがあると思います。
 フランスでは若年者の雇用に関する法案に反対デモが起こり、政府は撤廃に追い込まれました。彼らは今の生活が、前の世代の国民が争い、勝ち取ってきたものと理解しており、今度は“政府によって自分たちの権利が奪われようとしている”という危機感が切実なのです。だからこそデモが大きくなった。

(本文を挟む)

 自分たちで権利を勝ち得てきた経験がなく、過去の人が戦ってきたということすら知らない若者は、当然、今の政策についても深く学んでいるわけではありません。知らないからこそ、“何か変えてくれそう”というだけで、強いリーダーシップを持っている人にすりよっているのです。

 このコメントを一言で断じるなら「捏造史観」ということに尽きる。
 吉岡は「過去の人たちは戦ってきたのだ」などというが、ならば現在も日本に残り、日本を縛りつけている日米安保の存在はなんなのだろう? 吉岡はかつて『ベ平連ニュース』の編集に関わっていたが、じゃあベトナム戦争反対を日本で叫ぶことに何か意味があったのか?
 どちらにしても事実が示すのは「戦ってもなんにも変えられなかった」という左翼の敗北である。日米安保はなくなっていないし、ベトナム戦争は泥沼化した結果、アメリカはベトナムから中東へ軍事力行使の矛先を変えただけのことだ。
 そんなものは、イジメられっ子が空手を習って、道場での組み手はできるようになっても、イジメられっ子であるという現状がなんにもかわりはしないのと同じことだ。それを大人になったのちに、やっぱりイジメられることになった子供に「お父さんは虐められっ子だったけど、空手を習って強くなったんだぞ」と説教しているのとなんにも変わらない。あとで近所のオジサンオバサンからお父さんの子供の頃の様子を聞いて、情けなくなるのは子供の方だ。

 日本において、唯一左翼がまともに機能したといってもいいのは、労働争議だが、それだっていわゆる「右肩上がりの経済」に飲み込まれ、バーター的に収束したに過ぎない。経済が良くなれば給料が上がるのも当然であり、その当然の構図の中に「経営者と労働者の争議」という「ゴッコ遊び」があっただけのことだ。これが正しい左翼の歴史である。
 それが戦いだというなら、2ちゃんねらーだって、左翼や在日や朝鮮や中国に対して、果敢に戦っていると言えるだろう。そして私はこうした2ちゃんねらーの戦いに賛同なんかしないのと同様に、左翼だって戦ってきたなどと思わない。左翼に「戦ってきた歴史」など一切存在しない。あったのはただの「祭り」である。ベトナム戦争のころに2ちゃんねるがあったなら、吉岡は単なる「ベトナム戦争まとめサイト」の管理人に過ぎなかっただろう。

 また、吉岡はフランスのデモの例をあげているが、私があのデモを見て特徴を感じたのは、若者の政策に対するデモであるにもかかわらず、参加年代が非常に幅広かったことだ。
 日本の場合は、国策の中心になるような政策については、幅広い年代がデモを行なったりするし、年寄り政策について若い人が借りだされている姿を見ることがあるが、若者に対する問題について、年寄りがデモに参加しているのを見たことがない。
 第一、これだけ不況の中で若者が苦境に立たされているのに、そうしたことに一切触れずに、ちょっと景気が回復したと思ったら、若者を捨て置いて自分たちのベアを優先するのが左翼である。
 左翼はよく「若者が声を挙げない」などというが、たとえば俺はこうやって声を挙げているし、後藤さんだって、ワタリさんだって、古鳥羽護さんだって、いろいろな立場から声を挙げている。それが聞こえないというなら、現行の左翼勢力がメクラでツンボというだけのことだ。

 本来、年寄りと若者の理想的な関係性というのは、若者はその思いのたけを噴出させ、年寄りはその思いを調整し、若者に叡智を与えるというものだろう。
 しかし、左翼の年寄りは若者に対し手を貸すことは一切せず、ただどっか向こうのほうから「最近の若者は」などと不満を述べているだけである。敗戦続きのくせに愚痴ばかり多い。そんな左翼を知っている若者が、左翼の方法論を鵜呑みにして、デモなどで声をあげるわけがないだろう。
 左翼がいまするべきことは、ちゃんと若者に手を貸し、彼らの意見を汲みとることである。意見はネットにいくらでも落ちているのだから、拾おうと思えばいくらでも拾える。拾えないというなら、先にも書いたように左翼がメクラでツンボなのだ。

 戦後の高度経済成長は、左翼を安定した給料をもらいながら活動をしてられるようなWin-Win構造の中で、安定して勝利を得られる「ぬくぬく左翼」にした。
 しかし、若者の戦いは、低成長の中、現行の利権勢力を切り崩し、自らの下に利権を呼び寄せるというゼロサムゲーム。すなわち戦後初、本当の意味の戦いである。
 こうした現状に対し、ぬくぬく左翼が若者に対して授けられる叡智はあるのだろうか? それを探るのが現行左翼がすべきことである。

ワタリさんのところにリンクしたついでに、オフ会の告知があったので転載。
(私は参加しません)

(この記事は転送・転載・プリント・アウトして、多くの方に知らせてください!)

非正規雇用(パート・アルバイト・派遣・業務請負・属託・契約社員・準社員)の人たちを中心にオフやりませんか。ご興味があれば正規雇用その他のお立場の方も結構です。

労働・失業・雇用・職について顔をみながら話してみませんか。

働くって何? 組織って何? あの会社は絶対おかしい、ややこしいこと言ってくる家族とか親類の対策、フランスのデモって……などなど。


くわしくは次のとおり。

2006年4月29日土曜日 1:30pm〜4:30pm
場所:紀伊国屋梅田本店
http://www.kinokuniya.co.jp/04f/d03/osaka/01.htm

の前にあるビッグマン(どでかいスクリーン)の前。(梅田の待ち合わせのメッカ。)

やること:男性は「プレカリオ」、女性は「プレカリア」、そして最後に全員で「プレカリアート」と大声で叫びます(恥ずかしい人には拒否権アリ。笑)。
これで集合沸騰、とまでいかなくても集合95℃になって、それからお茶でも飲みましょう。いきなり100℃以上だとヤケドするとよくないので。

その後、集まった人数とリクエストを見て、近場にある喫茶店もしくはカラオケまたはファミレスなどに移動します。
当日、話のネタになりそうな新聞・雑誌のコピー、サイトのプリント、おかしなことをしている会社の写真などがあれば、ご持参ください。
梅田は便利なところです。インターネット・カフェで最新の情報のプリントをとってくることもできます。

合言葉:「プレカリアート(不安定階級)」

例:「あなた、プレカリアート?」
「うん、プレカリアートだよ」

こういう答え方でも結構です。
男性:「プレカリオ」
女性:「プレカリア」
中性・両性具有:「プレカリウス」

★宗教・政治団体の勧誘、ならびに物品の販売はお断りしています。特定の信念・信仰をおしつける会ではありません。
★当日話されたプライバシーや企業秘密については、互いに尊重しあってください。


文責:ワタリ
当日のファシリテーターもワタリがやります。(ちょっと緊張)

連絡先 ardea_cinerea2002@yahoo.co.jp

まぁ、トラックバックを送る口実ですけどね。(記事に対するトラックバックはできても、サイト自体に対するトラックバックってできないんだな。よく考えたら)

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2006年04月23日
 ■ 私は今なにを考えているのか

最近はなにかといろいろ(たいていロクでもないことだ)ありまして、非常に思考が混乱している時期でした。
 自分の中での激しい葛藤があった末に、ようやくこれからの自分の考え方やすすむべき方向性が見えてきましたので、ここにまとめておきます。

 まず、目指すべき最も大きなテーマは「日本に置ける「人間の尊厳」概念のパラダイムシフト」です。
 戦後日本においては、「56年体制」ともいうべき体制によって、人間の尊厳が守られてきました。
 「56年体制」とは、私の造語ですが、有名な「もはや戦後ではない」と、右肩上がり経済体制の確立を示した言葉が経済白書に掲げられたのが1956年であることから、こう名付けました。神武景気のはじまりが55年であることを考えると、「55年体制」でもいいのですが、既存の有名な単語をそのまま別の意味で使うと、区別がつけづらいので、56年に設定しました。
 で、「56年体制」の言葉の意味は、それまで敗戦の中で人間としての尊厳をどのように確立するべきか試行錯誤していた日本人たちが、「これこそが我々が目指すべき道だ」と、一つの体制を選択したということです。そして、その体制は「大量生産、大量消費による経済的富国を是とする」というモノです。

 そうした体制は、経済が右肩上がりに大きく成長しているうちはいいのですが、経済が停滞した途端に頓挫します。しかし、日本は不幸なことに、所々で細かい不況はあったものの、全体として50年近く右肩上がりの経済が続いてしまったのです。そのために経済の右肩上がりに支えられたこうした体制が、さも揺らぐことのない概念であるかのように、勘違いしてしまっているのです。

 バブルが崩壊し、不況になった後、既にリアルな不況の洗礼を受けた企業は、終身雇用や定率昇給を破棄しています。これはすなわち56年体制の放棄に他なりません。われわれは以前のようにはローンを利用できず、一部の人しか「大量生産、大量消費」の御恵を得られなくなりました。
 しかし、人々は今だに56年体制を放棄できずにいます。それはまさに会社が社会の矢面に立ち、社員を不況の洗礼から守ったからです。不況の洗礼を浴びずにすんだ人々は、今だに56年体制が有効なものであると、信じ続けています。
 その一方で、バブル以降世代の人々は、経済の洗礼を直接身に浴びています。しかし、56年体制を当然のこととする考え方からは、個人は会社が守るものであり、個人を社会が直接保証するというイメージは存在しません。
 こうした、個人と会社と社会を巡るイメージの齟齬が、現在の悲劇を生み出しています。

 そこで、我々はこうした56年体制を破棄し、新たに人間の尊厳を設定するためのパラダイムシフトを必要としているのです。
 今後はこうしたことを中心に社会を考えていきます。

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2006年04月22日
 ■ マザー3を買った

成城トランスカレッジより

宮崎哲弥さんが内藤さんのディスクールを「非常に脅迫的」とたしなめつつ「それで何をやりたいのかな」と問い、宮台真司さんが「『お前は間違っている』と否定するのではなく、「わかるよ」と寄り添いつつ説得する」「排他的人間をも包摂する原理」という処方箋をもって「動機付けに勝つ」ための回路を開けないかと提案しています(参照)。

 で、上記参照先リンクから、そのあたりを引用

宮台● 怠業批判ルーツの日本版ニートが疑似問題なのは自明。ただ、負け犬・オタク論争に見られるのは、昔ながらの会社生活や家族生活に実りがないとする男女共通の感覚で、これを察知した年長世代が不快感で噴き上がることもニート論ブームの重要な背景です。日本青少年研究所の調べ(3月初旬公表)で、成績向上に関心を持つ高校生は米中韓7割台、日本3割台。「食べていければのんびり暮らしたい」が4ヶ国中日本が最多。面白いのは親や教員に理解して欲しがる期待が他3ヶ国の半分以下。勤労観や性愛観に世代間差異が生じた上、若年世代は被理解願望さえ放棄する。フォビア解消には共感可能性の実現が必要だという意味で、森永らが「カミングアウト」するのは良い。より一般的には、世代を限らず「多様性(を許容するリベラルさ)が自分を脅かす──少なくとも自分の利益にならない──」と感じる者の増加がポイントです。多様性をエンジョイできるのは「恵まれた奴ら」だけだと。感情問題なので論破するのは逆効果。論争に勝って動機づけに負けてしまう。懐柔戦略が有効です。

 そもそも宮台が問題を見誤っているのは、彼の「大人」に対する過剰な「対話期待願望」でしょう。
 現在の大人はあまりに自我が肥大しており、既に対話可能性がありません。それがまさに「若年世代は被理解願望さえ放棄する」という現象の意味です。それなのに対話を期待するかのような戦略は、結果的に大人に対するおもねりにしかなりません。
 逆に、若者自身はまだ対話可能性が存在するのですから、彼らを懐柔する形で、経済的根底が既に変化しているにもかかわらず、いつまでも口を上にあけて待っている肥え太った成鳥を巣から完全に追い出すのではなく、ちょっとだけミミズを分けてあげようという感覚の懐柔策を取るべきです。もちろん、現在の利権を肥え太った成鳥から取り上げることは大前提です。

昨日は1日、マザー3やってました。おかげで5章の途中まで行きました。
 ところで、私は20日当日になるまで、マザー3の発売日が20日だということを知りませんでした。なんか勝手に「8月ぐらい」だと思っていたので、「えっ!? 今日!!」と驚いて、あわてて買ってきました。

 で、5章の途中までプレイして思ったこと。「ん〜、なんか違う」。なんか、今までのマザーシリーズを踏まえた、マザー3に対する期待とゲームのズレがかなり大きいことに気がつきました。
 結論から言ってしまえば、今までのマザーシリーズは「味方=ともだち」を中心に物語が構成されおり、旅の途中で変な人やモノにであって友達になるという、主人公の成長を描いているのに対し、今回のマザー3では、今のところ「敵」が中心になってしまっています。

 マザーの1、2の場合、コアとなるパーティーキャラはもちろん、テディーやイブ、トンキチさんにトンズラブラザーズ、バルーン猿、そしてダンジョンおとこといった、大勢の魅力的な「ともだち」たちが主人公に協力してくれるという、「主人公自体の成長」をRPGシステムの中で描いていたのですが、マザー3はどうも今のところ、そうではない。特に5章では主人公がああ呼ばれているということは、そういうことですからね(ネタバレ配慮)。
 そういう展開は12年前ならともかく、現在のRPGでは既にお約束になってますし、そこで描かれるであろうことに関しても同じことです。もちろん重里的なライティングで、それを十分に魅力的に描くことはできるのでしょうが、マザー1、2に感じられたような根幹からの思想自体の違いを感じることはできません。
 その他については、終った後に書こうと思っています。

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2006年04月20日
 ■ ジェイコブス・ラダー

CSで「ジェイコブス・ラダー」を見る。
 ハッキリ言う。これは「癒し系」映画だ。
 映画のタイトルで検索すると、絶対そうではないし、見てる間は延々暗いけど、やはり最後の瞬間に癒される。
 世の中で辛い思いをしていればしているほど、最後のシーンの幸福は大きい。
 自殺する間際とかに見ると、幸せなまま死ねると思うけど、どうかな。

 ええ、もちろん普通の人がみるととことん救いの無い映画のなで、勘違いなさいませんように。
 あと、私がこの作品を知ったのは「サイレントヒル」絡みですけど、その辺は気にしないほうがいろいろと楽しめるでしょう。気にしすぎると地下鉄のシーンで期待し過ぎちゃって、その後のストレッチャーまで退屈だろうし。

最近なんか「団塊の世代にも格差はあった」などといいたれる、ドぐされ外道が結構いる模様。
 現在の格差は「人が人として認められないレベルの格差」であって、団塊のいう格差なんてのは「アイツはクラウン乗ってるのに、俺は軽自動車かよ」なんていう、どうでもいいレベルの格差。
 それをごっちゃにして語り、団塊のケツを舐める批判精神のない畜生はさっさとくたばれ地獄に落ちろドぐされ外道。

現在21日ですが、20日に書いたものをアップするのを忘れていたので、20日の分としてアップします。
 インチキ?

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2006年04月19日
 ■ アルツハイマー国家

最近、日記がご無沙汰で、本当に申し訳ございません。
 武田さんに中央公論で取り上げていただいたので、せっかくのチャンスなのですが、また別に力を入れていることがありまして、そっちのほうに勢力を注いでました。
 でも、これからの私はそっちに勢力を注ぎつつ、こっちもしっかりやっていかなければならないことになると思います。というわけで、また今日から連日更新を誓いたいと思います。

Jounalistcourse.netの書評のほうに三浦展の『ファスト風土化する日本』を書きました。
 極めて個人的な思い出を書いてますが、本が首都圏でしか売れていない現状を考えると、こうした地方の現実を見ないままに、ただ首都圏の視点からだけの本が流通し、それが真実であるかのように流布されるというのは、極めて悪質な現状だろうなぁと思い、このような文章にしました。
 特に「車」という観点は、都心のようなあくまでも車が個人の趣味に過ぎない場所では、伝わりづらいような気がしています。特に「車を持っている」ということと「車を持っていないと生活が成り立たない」という違いは、小さなようですが、社会性の根幹にかかわる大きな違いであるように思います。

 『ファスト風土』と『下流社会』では、三浦展の論調はかなり変化しているのですが、「電車で移動しないことに対する不信」という点については、この頃も今もまったく同じです。
 週間ポストでの重松清との対談では、若い人たちが電車で都心に出てこなくなったことに対する不信感をハッキリと口にだしています。
 しかしそれは、彼が都会に住んでいるから言えることです。
 対談では「町田」という土地を「郊外」と認識していますが、本当の郊外では車と電車の選択などできません。
 ジャスコについてもそうです。三浦展は『下妻物語』の台詞を借りて「ジャスコにはなんでもある」と地元民に言わせていますが、現実はジャスコにしかモノがないのです。
 しかし、それはジャスコのせいではありません。そもそもマイホームと車という所有の達成を、個人ができる最高の自己実現とみなした日本社会においては、人々が家を建てる土地を求めて郊外化することも、人々が車を走らせるために高速道路を整備して郊外化することも、それは社会全体が富むための必然だったのです。郊外化は高度経済成長の夢の続きです。そして、ファスト風土の時点では、三浦展はまだその視点を捨ててはいません。
 ジャスコやさまざまなスーパー、デパート、チェーンストアーの発達は、高度経済成長が目指したそのものなのです。ならば、その責任をどうしてジャスコに押しつける事ができるのでしょうか?

 私が思うに、日本人は既にバブル以前の記憶を喪失しています。アルツハイマー国家です。
 そして、都合のいい記憶を真実として置き換えています。
 日本人はどうしてこのようになってしまったのでしょうか?
 わたしは、そのことを探求していきたいと思っています。

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2006年04月14日
 ■ 香山リカが省みようとしない現実

中央公論2006年5月号より、香山リカの発言(p.85)

バブル崩壊は政治や社会の問題というより経済の問題なのだから、「おかしいじゃないか」と団結し定義を申し立ててもどうなるものでもない。それよりは、なんとかすべりこんだ職場でがんばって、車やマイホームを買うなど、自分や家族のために何かすることを考えるほうがいい。

 ここに描かれる香山=バブル以前までの大人の経済観念を抜き出すと3つ挙げられる。
 1、経済の無謬性
 2、車やマイホーム
 3、細かい経済事情は個人責任

 まず1の「経済の無謬性」について。
 「なんとかすべりこんだ職場でがんばって、車やマイホームを買うなど、自分や家族のために何かすることを考えるほうがいい」
 つまり香山は「がんばればなんとかなる」、すなわち「経済性はがんばった分だけついてくる」ということを無条件で受け入れている。
 しかし、そもそも「不況」というのは、みんなががんばってもなんともならないから不況なのである。
 バブルが崩壊するまで、「がんばって経済発展を果たしてきた」という論理は、「がんばる」ことと「経済が右肩上がり」であることを因果関係で結んだものであるが、しかし好況不況が存在するという現実は、その因果関係が存在しないことを証明している。にもかかわらず、彼らは絶対にそれを受け入れない。
 なぜなら、バブル崩壊以前世代の自尊心には、「我々ががんばったからこそ経済がついてきた」という、「給料の正当性」を信じて疑わない感覚が、カビのように根を張っているからだ。
 つまり「経済はがんばっている我々に答えてくれている」という経済の無謬性を信じて疑わない。
 そして、それを反転させれば「経済を発展させていない最近の若者は、がんばっていない」という論理が成り立つのだ。

 2つめの「車やマイホーム」。
 戦後からバブル崩壊にかけて、いわゆる「一億総中流」の自尊心を満足させたのが、この「車やマイホーム」だ。
 こうした「統一された目標」は、右肩上がりの経済成長という前提を踏まえたうえで策定された「国によって実現が保証された夢」であった。
 しかし、現実にはそのことが現在日本の病理なのである。
 日本人の多くが車を持つようになれば、当然多くの道が必要になる。そのために国は高速道路をバンバンつくり、都市と田舎を結んでいった、そして『ファスト風土化する日本』で三浦展がいうように、こうした道路が商店街を中心とした地元コミュニティーを崩壊させた。
 また、マイホームの実現は、当然のように「親元を離れて、一国一城の主になる」という意味なのだから核家族化を促進させ、家族をバラバラにした。また、土地の面積は当然限られるから、古くからある雑木林などを切り崩して新興住宅地を生成して言った結果、土地のアイデンティティーを共有しない人たちが、同じ場所に住むようになった。当然地元文化は均一化されたものとなり、チェーンストアは発展し、労働市場におけるパートアルバイトの拡大という結果をもたらしたのだ。
 三浦展のいうような「ファスト風土化」の現実があるなら、こうした「車とマイホームの夢」こそがファスト風土化を実現したのであって、イオンとかそんなものはただの結果にすぎない。
 現在の分断されたコミュニティーは、バブル崩壊以前世代の夢の続きである。

 3の「細かい経済事情は個人責任」。
 1と重なる部分も多いのだが、政治責任ということについて。
 確かに各個人の細かいレベルでの経済事情は自己責任だろうが、そもそも今日問題になっている格差の現状というのは、決して個人の問題ではない。
 「不況」にしろ「コミュニティーの不在」にしろ「格差」にしろ、ここまで問題が広がっているのはそれは国の経済政策の失敗なのである。そのことを問題にしないというのは、香山は「小さな政府」論理の持ち主なのだろうか?
 私は単純にはそうとは考えない。
 1でも述べたが、バブル崩壊以前の世代は、それまでの経済発展を「自分の手柄」にしたいのだ。ところが「好況は経済政策の成功」ということにしてしまえば(私は決して政府の経済政策が成功していたとも思っていないが……)、それは手柄、すなわち自尊心を取り上げられることになる。
 だから、彼らにとっては経済事情は自己責任であるほうが都合がいいし、政府も現状の不況の責任を取らされたくないから、個人責任の方が都合がいいのである。
 かくして若者はまた虐げられるのだ。

 元はわずか100字程度の文章だが、その裏にはこのような現実が存在することを知ってほしい。

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2006年04月13日
 ■ パリ−ルーべは面白かった

「ドキュメンタリーは嘘をつく」 BSジャパンで再放送
 だって。いきなり今日ですが、見られる環境の人はどうぞ。

2006年「パリ−ルーべ」を見た。
 俺が自転車ロードレースを見るきっかけになったのが、このパリ−ルーべで、確か2002年のレースを見て、泥だらけになりながら延々と自転車を漕いでいる風景は非常にインパクトがありました。
 このレースで特徴的なのは、途中にある27のパーヴェ区間を走破していくことです。
 パーヴェとは、石畳のことで、デコボコに埋まった石と、その間に溜った粘土質の土の道路を、細いタイヤのロードレーサーに乗って選手達が駆け抜けていきます。ちなみにこれは別のレースの石畳。こんな明らかにマウンテンバイクでしか走っちゃいけない道を走ります。
 晴れていれば砂ぼこりがまきあがり視界は遮られ、雨が降れば泥ハネで選手はジャージの区別もつかないほどにドロドロになります。
 こんな悪路を走るわけですから、トラブルも非常に多く、転ぶ選手やマシントラブル続出。ディスカバリーチャンネルのジョージ・ヒンカピー選手などは、先頭集団で優勝を狙える位置にいたのにかかわらず、石畳の上で突然ハンドルが折れて路面に投げ出され、肩を骨折してしまいました。
 で、こんな命がけのレースが今年で104回目。100年以上の歴史を持ち、「クラシックの女王」と呼ばれております。西太后並にひどい女王です。

 そんな今年のパリ−ルーべは驚くべき結末をむかえました。
 CSCのカンチェラーラ選手が独走で逃げ、1分遅れ程度で3人の選手(第1集団)、そしてそこから更に40秒遅れほどで、優勝候補筆頭、クイックステップのボーネン選手を含む3人(第2集団)が追っていたのですが、カンチェラーラ選手と第1集団の間で踏み切りが閉まってしまい(公道レースなので、当然踏み切りもあります)、その瞬間にカンチェラーラ選手の優勝がほぼ確定してしまいました。ここで係の制止を振り切って列車が来る前に踏み切りを渡った第1集団の3人は最終的に降格処分。第2集団が踏み切りに差しかかった時には、まだ列車が通過中でどうにもなりませんでした。けれども、その辺は公道レースなので、そういうトラブルは前提の下です。
 こうした公道っぷりも、ロードレースの見どころの一つで、ゴール付近などの特別な区間を除いて、選手と観客を分ける柵などありませんから、山岳のスピードが出ないような所では、このブログの下の写真のような状態になったりします。モーゼ状態。

 5月になれば、グランツールの1つ、ジロ・デ・イタリアも始まります。非常に楽しみです。

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2006年04月08日
 ■ 警察が犯罪者を作り出している

親の子殺しメモを更新。
 そろそろBlog化する。事件の追加報道なんかをコメントによせてもらう形式にする予定。

川崎の子供投げ落とし男は、すっかり報道が消えたな。これが少年少女だったら、今だにトップ扱いだったに違いないのに。
 そいえば、2年ぐらい前だったか、ショッピングセンターでの子供投げ落としは、どのくらい報道続いたっけ?「監視カメラの死角」云々で、2週間ぐらいはやってたように思うが。

バーチャル社会の弊害から子供守れ 警察庁が研究会

 リンダキューブ(俺がプレイしたのはPS版の「アゲイン」)のAシナリオで、若返りの薬の原料となるビースチャン(原住民族)の死体を集めているネクが、こう言うわけですよ。
 (要約)「はじめは真面目に死体を探していたが、やがて「死体はつくるほうがラク」という事に気づいた」って。

 彼らの守りたいのは、子供ではなくて警察の尊厳です。
 警察の尊厳を守るためには、真面目に犯罪者を捕まえるより「犯罪者をつくるほうがラク」なのです。
 そして、あるメディアを犯罪者と見なして、レッテルを貼り続けるのです。

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2006年04月04日
 ■ 団塊は苦労してへんやろ

三浦展の『ファスト風土化する日本(以下 ファスト風土)』をゆるゆると読み終わった?
 で、詳しくはあとでまとめて書きますが、単純に感想を記すと「あれ? まともなことを書いている」。
 確かに最初の方は『下流社会』にも見られるようなトンチンカンな議論(時空まで乗り越えて(笑))をくり返しているワケですが、最後の方になると、大店法を廃止して郊外の「田園都市化」を押し進めた、すなわち、巨大ショッピングモールなどを優遇し、商店街を中心とした地域コミュニティーをを破壊した国の政策に対する批判をしているんですね。これは『下流社会』に見られるような安直な若者批判とは、全く主旨が異なっています。
 特に、『下流社会』とは真逆のことを記している部分があるので、比較してみましょう。

『下流社会 p.39』

 思えばトヨタクラウンの発売は1955年である。55年体制のはじまりとともにクラウンは登場し、その後、カローラ、コロナ、そしていつかはクラウンという典型的な階層上昇形消費モデルを提示することでトヨタはフルラインナップ型の大企業へと成長した。まさに一億総中流化時代を象徴するのがクラウンなのだ。

 と、高度経済成長期の象徴でもある日本型のモータリゼーションを讃美し、「階層上昇形消費があったからこそ、日本は豊かであったのだ」という論陣を張っている。

『ファスト風土 p.186-187』

 高度経済成長期以前の日本は基本的に農業社会であり、多くの国民は「共産共同体」としての地域社会(共同体)のなかに埋めこまれていた。
(略)
 しかし、高度経済成長期、急激な勢いで日本人は、農民や自営業者などから雇用者や勤め人へ変わった。それに伴って家族は核家族化し、家族が一緒に働くことはなくなり、(略)つまり家族は根なし草になったのだ。
(略)
 つらい仕事も、単調な家事も、つまらない勉強も、より多くのものを消費し、より高価な耐久財を購入できる喜びによって相殺された。(略)すなわち、家族は「より豊かな生活」という、消費あるいは私有の目標を共有することで一体感を味わうことができたのである。
(略)
 さらに家族は会社および会社が所属する企業グループがつくりだす製品を買うことによって会社に貢献した。三菱グループの社員は、三菱銀行に預金し、三菱地所の家を買い、三菱自動車に乗り、三菱電機の家電を買って、キリンビールを飲んだわけである。
(略)
 しかし、それは「私(ウチ)」の会社と「私(ウチ)」の家族の中に閉じこもるという意味で、公共性を喪失した「私生活主義」「私有主義」であり、「市民」ならぬ「私民」主義であった。

 2ページを無理にまとめたので略が多くて申し訳ないが、『ファスト風土』では『下流社会』で見られる、過剰ともいえる高度経済成長に対する翼賛がないどころか、それを批判的に捉えている。
 特に「企業グループ」に対する批判は、『下流社会』においては「いつかはクラウン」という考え方を「階層上昇形消費」と考えているのに対して、『ファスト風土』では「私(ウチ)の中に閉じこもる」と、否定的に考えている。
(単に三浦展がトヨタグループが好きで、三菱グループが嫌いなだけなのかもしれない。普通の論者に対してなら非常に失礼なこの考え方も、「パルコとジャスコ」という例があるだけに、そう疑わざるをえない)

 そして、さらにここから「コミュニティ」の重要性という点でこのような例を挙げている。

『ファスト風土 p.189』

 では、「消費」や「私有」という基礎のうえに成り立つ新しい原理はなんなのか? 結論からいえば、それは、「関係」(コミュニケーション)と「関与」(コミットメント)の原理であり、新しい「コミュニティ」の原理であろう。
 そういうと大げさだが、時代の予兆というのは些細な部分から表われてくるものだ。たとえば、近年、若者のあいだで衣服や雑貨の手作りが流行しつづけている。古着をリフォームしたり、他の布とあわせてリメイクしたり、ビーズでアクセサリーをつくったりし、それをフリマ(フリーマーケット)で売ったりする。それは、ただ物を消費して所有するだけではなく、自分が物に対して自由に関与することに喜びを見いだし、かつ関与することで自分と他者との関係を産み出し、さらには他者から承認を得ようとする欲求の表われだといえる。

 一読してして明らか。ここで述べられている若者像は明らかに三浦展いうところの「かまやつ系」だし、三浦展が執拗に批判する「自分らしさを求める若者達」である。それをこの時点では「新しい原理の一例」として讃美している。

 この『ファスト風土』が出版されたのが2004年の9月、『「かまやつ女」の時代(以下 かまやつ)』が2005年の3月、『下流社会』が2005年の9月。『かまやつ』と『下流社会』での姿勢は一貫していることから、『ファスト風土』から『かまやつ』までのせいぜい半年の間に、いったい三浦展にどんな心境の変化があったのか。私が気になるのはそこである。

テレビ朝日がゼロトレランス翼賛
 爆笑問題が出ている番組で、ゼロトレランスを最大翼賛していた。
 VTR内で、ゼロトレランス教育を「子供の暴徒化に効果のある教育」と紹介、その後スタジオで教師やタレントたちが賛成反対に別れてエセディベートをしていたものの、VTRで「効果のあるもの」と紹介していたのだから、その時点で大嘘。
 ゼロトレランスなどという「教師=大人は絶対に正しい」という尊大な理想論でしかない非現実的な方法は、教育の問題を潜伏させ、社会を大きく歪ませるものに過ぎない。

しかし、なんなのでしょうね。あの「団塊世代は苦労してきたんだ」という言い分になんら疑問を挟まない現代日本の情景ってのは。
 掲示板の方にも「団塊はおしゃれもできなかった」などと書いていた人がいましたが、VANの存在あたりを下地にして、団塊の世代が若者になるあたりにちょうど現在へと繋がるファッションの隆盛があったことは、ファッションというものに全く興味のない私でも、ふつうに知っている事実です。
 もちろん、それが都心の一部の人たちのものであることも知っていますが、それは昔も今も同じことです。おしゃれな若者もいますが、おしゃれではない若者だっていくらでもいます。
 掲示板で「団塊はおしゃれが……」と書いた人が「ファッションは生活余剰資金で為されるもの」とも書いていましたが、余剰というのはイコール「豊かさ」のことです。ならば、彼らが若者の頃にはすでに社会はファッションを生み出すほど、十分に豊かだったということです。
 しかし、世間一般で想像されているであろう団塊のイメージは、どうも昭和ヒトケタ世代のそれです。
 「若者」という言葉で、団塊ジュニア(35歳ぐらい)から中学生(14歳ぐらい)までもが一括りにされるのですから、上も昭和ヒトケタと団塊が一括りにされてしまうのも道理なのかも。
 しかし、団塊世代は確実にそれを利用して若者の罵倒をしているのですから、我々はそうした世代を明確に区切ることによって対抗するべきです。「世代論」というと、忌避したがる人たちもいますが、団塊が世代論を治めて曖昧な区分において、自分たちを「苦労してきた世代」に入れ込もうとするなら、我々はそれに対抗して、細切れに世代論を語って、団塊世代を「戦後の裕福な世代」に区分する、もしくは、「戦前」「戦後」という線引きを用いて、団塊世代までを現状の「若者」側に入れ込んでしまう、そのどちらかの戦略を取らざるをえないと、私は考えます。
 そういうわけで、私は細切れに世代を捉えながら、時々「戦前」「戦後」の線引きを使っているというやり方をしています。

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2006年04月03日
 ■ なかなか文章が書けない……

<環境省>CO2削減で本省は「午後8時消灯」
 イメージ戦略のつもりなんだろうけど、逆に8時に全員退社できるような労働環境にに対して悪感情が出る気が……

<新聞特殊指定制度>「維持すべき」が73% 世論調査
 戸別配達(という名前の押売り)の話に触れてないのはワザとだろうな。新聞業界必死杉。一方で規制緩和を叫びながら、自らの特権は固持か。

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2006年04月02日
 ■ 年度が変わっても日本人のいい加減さは続く

で、結局「前原民主党」って何だったんだ?
 自民党のスパイとして、自民党を立て直す役割を担っていたとすれば見事だが、それ以外に何かを考えていたというなら……

『平然と学内でセクハラする脳』出版決定!

川崎の投げ落とし男は、今のところどうやら「普通のお父さん」なのだが、これを「子供を殺す犯人はオタクや性犯罪者」という現実逃避的な姿勢でしか見てこなかったマスコミや一般市民が、どのように消化していくのかが楽しみだ。
 意外と、あと数日で事件自体がスルーになるような気がする。

薬物乱用増加、原因は「ネット」72%…内閣府調査
 別に内閣府が「薬物乱用の原因の72%がネットです」といったのではなくて、内閣府の調査で72%の人が薬物乱用の原因がネットだと思っているという調査結果が取れたという意味ですね。だから見出しの書き方を少しは考えろと。
 で、私はネットやアングラ歴長いですけど、ネットで本物の違法薬物が取引きされている現場ってのを見たことがないんですが……。バイアグラなんかの個人輸入物は見ますけど、それはここで言う「薬物」とは違うでしょ。すると、この72%のどれだけが本当にネットでの薬物取引きを見たことがあるのかと。

 しかし、「繁華街やインターネットで密売され入手が容易になった」って味噌も糞も一緒な選択肢って……

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