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2006年05月31日
 ■ 景観ヤクザ

やる気復帰モード中。
 掲示板の返事とか、もう少し待ってね。

「君が代」替え歌流布 ネット上「慰安婦」主題?

皇室に対する敬慕とはかけ離れた内容で

 あーあ、君が代が国家讃美ではなく、天皇翼賛の歌だって言っちゃった(笑)
 そのクセ、陛下のおっしゃった「国旗国歌を強制してはならない」という言葉に従わないのはなぜだろう?

悪い景観100景といいつつ70景。
 基本的には非常に分かりやすい景観バカ論理。景観のためなら人だって殺しかねないな(笑)
 街などというのは、そこに暮らし、生活している人たちのための空間であって、そこに「景観」などと言いたれるご立派な先生方はいったい何様なのだろう?
 もっとも気になったのがこの写真のコメント
 混雑時ならともかく、平時にこれが交通を妨げているとはまったく考えられない。
 街がそこに暮す生活者の物であるなら、こうしたディスプレイは許されるべきだ。

 以前、秋葉原に警察の指導が入って、路上のディスプレイが排除された事件があったが、あの事件は秋葉原という街が、その街で商売を営んだり、売り買いをしにくるお客さんたちの街ではなく、警察の管理する街になったという、ターニングポイントであった。
 以後、警察はオタク狩りを行い、十得ナイフを持っていただけの人間を逮捕し、ゴールデンウィークにはパフォーマーを狩り、秋葉原の歩行者天国を無味乾燥とした、ただの広い道路に変えた。
 まさに警察によるディスプレイ排除は、警察に対する「割れ窓」であった。

 こうした「景観」による一方的な通達も、「ある勢力」への割れ窓となりうる。
 東新宿を標的にしながら西新宿は見逃していたり、国立の某マンションが選ばれていたり、揚げ句の果てに日本橋上の高速道路と、いかにも恣意性を感じる選択ではないか。
 「ある勢力」と「ご立派な先生方」に共通するのは、さも「我々、上流階級の美を理解しないのは、下賎な者だ」という、他者に対する徹底的な軽視である。つか、まずは西新宿の醜悪なツインタワーを潰せ。

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2006年05月28日
 ■ 期待しないで待っててね

そうか、ハルヒEDの作詞は畑亜貴なのか。
 確かあずまんがOPもそうだっけ? 世間的には、プログレの人というよりも、アニソンの人だな。

「30日間マクドナルド生活」を読んで、なんかマックが食べたくなったので、久しぶりに行ってみた。
 そしたら、「サラダマック」という企画モノが始まっていた模様。セット単価が600円前後で、客単価の向上を狙っている模様。

 でも、文句を言うわけじゃないけど、サラダって大して健康のためにいいわけでもないんだよねぇ。
 量が大して食べられないってのもあるけど、問題はドレッシングで、これの選択如何ではサラダも高カロリーメニューの仲間入り。リーフレットには、ドレッシングのカロリーは記載してありません。
 ので、マクドナルドのサイトで調べたところ、レモン&ハーブが13kcal、熟成チーズが86kcal、焙煎ゴマが115kcalだそうです。その辺を気にする人はレモン&ハーブの1択ですね。ただし、ちょっと塩分高め。
 私はレモン&ハーブのドレッシングでガーデンサラダを食べたのですが、おいしかったですよ。このドレッシングが売ってたら普通に使いたいと思いました。

親の所得で学力に差?「YES」が75%…読売調査
 「学力(=学歴)がそれほど大事なのか?」という根源問題にまったく見向きもせず、ただその周辺事例だけを積み立てて既成事実化するような感覚が極めて強く、辟易する。
 最近ちょっと考えていることがあって、それはこうした既成事実、すなわち「設定」に従って、社会を認識して行く考え方を「RPG化」として、論じてみたいと思っている。それはいわゆる「ゲーム脳」的なゲームに対する忌避感を持っている連中に対して、「お前たちこそがTVゲーム化しているのだ」という強烈な嫌味を叩きつけるモノになる。
 というわけで、以前から「近日開始予定」になっていた「ボクのTVゲーム有害論−TVゲームはこんなに有害だ!!」が始まるかもしれません。

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2006年05月26日
 ■ 「VoCE盗撮事件」は第2の「きんもーっ☆事件」か? その1

なんかもう、いろんなものが自分の中で尽きかけている気がしています。
 もういいのかな……

 以下、21日に書いて中途半端に終ってアップできなかった記事です。

安心安全なんちゃらのジャーナリストコース募集が始まりましたよ。
 今回は修了課題を含んで半年のカリキュラムです。

後藤さんのBlogより
「ニート・不登校・ひきこもり NEXT VISION FORUM」
 興味のある方は行ってみては。

 しかし、俺はこの「僕らの世代の問題を、僕らの手で解決する」という主題には反対だけどね。
 そもそも、「ニート・不登校・ひきこもり」という分類は、別に今の世代特有の問題ではなく、これまでだってずーっと一定数いたわけで、それがバブル崩壊後の「若者に問題を全部押しつけよう」という風潮によって、さも我々の世代の問題であるかのように捏造された問題だ。
 そうなると「僕らの世代の問題を、僕らの手で解決する」という純朴な意識は、問題の押しつけに利用される可能性が高い。その点に十分注意されたし。

「VoCE盗撮事件」は第2の「きんもーっ☆事件」か?
 「VoCE盗撮事件」を知らない人の為に、一応、Hagex-day.infoの該当記事へのリンク

 まず、自分の考え方を明確にしておくとすれば、「盗撮は絶対悪」などとは思いません。
 たとえば、北朝鮮への潜入映像などは盗撮なワケですが、そうした国民の生活にとって重大な情報は「伝える」必然性が存在するわけです。
 朝日新聞とNHKの問題なども、テープがあったかなかったか、それがルール破りか否かなどということが言われていましたが、別にテープがあるならあったで構わないわけです。ジャーナリストが国民の事を考えて行動する時に、それがルールや法律に反する行動であろうと、それが「許されるべき」とは思いませんが、ジャーナリストが自身の信念の達成の為に盗撮をすることは、それが必要ならば厭うべきではないと考えます。
 しかし、今回のVoCEの記事に関しては、そうしたジャーナリスティックな物ではなく、単なる賑やかしであり、内容も「執事喫茶なのに客は庶民テイストできんもーっ☆」という不勉強過ぎるものですから、批難されるのは仕方がないかと。

 この問題については、多くが盗撮やプライバシーの侵害が主題のように主張していますが、私が考えるに、この問題の本質は「きんもーっ☆事件」と同様の、反オタクバッシングに乗じた祭り、すなわち「カーニバル(化)」でしょう。
 「きんもーっ☆事件」の場合は、ネイサンズが謝罪、該当人物も仕事を辞めたらしいことで、無事解決(といえども、この後も決してすぐに潮が引いたワケではなく長くバッシングが続いたし、この後に述べる問題点が解消されておらず、個人的には何も解決していないと思うのだが……。つかぶっちゃけ個人に責任を、ネイサンズや祭りを楽しんだ人たちが無責任に押しつけただけでしょ)したわけですが、今回は一体どのようなレベルで解決を見るのだろうか。

 そもそも「祭り」は、何らかの意思をもった運動体ではなく、ただ「なんか集まりやすいところに集まった」ということであり、いわば「なんとなく学生運動をするのがおしゃれかな」とか思って学生運動をはじめる団塊と同じようなものです。(嫌がらせ感の強い文章だなぁ)
 そんなのもですから、明示的に統一された目標がなく、それが明示された時に互いの意思の相違が明らかな物になり、反発離散、そして内ゲバ等の悲惨な結末を迎える事が少なくないのです。
 逆に、目標が暗黙のうちに明示的であれば、それが達成されるまで、祭りは続きます。今回の場合は、目指すところはVoCE誌上での謝罪掲載でしょうか? それとも廃刊?
 しかし、目標が「暗黙のうちに明示的」というのは、ある一定の考え方をもつ人間の間でのみ有効なのであって、それこそ今回のように「で? なにが悪いの?」と言われてしまう状況においては、問題の解決方法がサッパリ見えてこないのです。
 「きんもーっ☆事件」の場合は、バッシングの対象が立場の弱いバイトでしたから、ネイサンズもそれをあっさり見捨てることで、ネイサンズと2ちゃんねらーの意図が合致した形になったのですが、今回の場合は講談社の発行している雑誌自体が対象になる。雑誌の廃刊や休刊は、バイトを切るように簡単な事ではありませんから、どうしても目的の同意が必要になってきます。
 もちろん、目的を同意に導こうとすれば、「意思の統一」が必要になってきますから、運動体にとっても非常に危機的な状況が訪れます。それが先に述べた、意思統一失敗による運動体の分裂です。
 私は少し上で「きんもーっ☆事件が何も解決していないと思う」と書きましたが、それはこうした運動体の意思の統一という、運動に欠かせない事象を解決していないという意味です。明確な目標を持って、各種の課題をクリアーしていくという、運動体としての大前提をまったく欠いているのです。

 続く

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2006年05月20日
 ■ 軽く扱われるフリーター

石田衣良の白黒つけます!!:フリーター、ニートになるのは本人のせい?社会のせい?

 フリーター問題を語ろうとする時に、一番困るのが便器の糞のようにこびりついて取れない「フリーターとういものに対するイメージ」、すなわちリクルートが「フロムA」なんかを創刊した時のイメージです。
 今でも「モバイト」というCMでは、当時のイメージまんまに「フリーターとして稼いだお金で海外旅行」なんて事をやっているわけですが、そのフリーターのイメージでそのまんま格差問題が語られてしまう。つまり、当時のフリーターのイメージと、現在のフリーターの現状が、まったく異なったモノになってしまっているにもかかわらず、言葉だけは同じなので混同されたままなのです。
 そして結局、お金を持っている正社員がなぜか、お金が無くて苦しんでいる労働者たるフリーターに対して、露骨な僻み感情を見せるという、差別の図式になってしまう。この記事はその構図が明確です。

 特に困ったのが石田衣良の存在で、フリーターを「道に迷うもの」などと「差別」している。いや、フリーターは道に迷っているのではなく、道が一本しかなく、それがフリーターでしかないので困っているんですよ。
 そのことに気付かないのは、まさに石田自身が「フロムA創刊時代のフリーター」であったからで、当時の経験がフリーターに対するイメージを確固たるものにしてしまっています。特に「冒頭のおっちょこちょいの例を見てもわかるように、その状態が永遠に続くというわけでもない」なる言葉は、まさに石田が、現代のフリーター問題をまったく理解していないことを表しています。
 本来ならば「昔は昔、今は今」ということで、イメージの修正を迫ることが重要なのですが、昨今の各種「現在否定」言説(「昔は良かったのに、今は何かがおかしい」)が、修正を困難にしています。

 ところで、この「8割が自己責任」というアンケート結果は、先日書いた

これがもし「週5日8時間働いているフリーターは月30万円の給料を得るべきか」という問題ならば、全体的にせいぜい1割しか「得るべきだ」という回答はなく、年代が上がれば上がるほど否定的な回答が増えるだろうと予想する。

 という、予測がおおよそ正解していることを示しているといえよう。
 ただ、年齢に関しては、40代の「バブル崩壊直前世代=80年代に一番頭がおかしかった連中」がもっとも否定的なのか。

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2006年05月19日
 ■ 書評 『若者殺しの時代』堀井憲一郎

小学校低学年の25%「お金が一番大切」
 ……どうせまた、くだらないことを言い出す香具師がいるんだろう。

“ヒルズ族”などが話題になる中で、中高生の5人に1人は「お金持ちはかっこいい」と考えている。

 このたび経団連会長を退いた、このサイトの扉絵を飾っていただいている奥田……おっとO田碩や、新会長となったお手洗い(笑)さんも「お金持ち」だろう。堀江ではなくて、彼らをビジョンに抱くなら、それはOKなのか?

書評 『若者殺しの時代』堀井憲一郎

 こういう本を社会学者やジャーナリストを名乗る人たちは多分読まないんだろうけど、ハッキリ言う。この本には80年代の軽薄さのすべてが描かれている。ということは、すなわちバブルの発生と臨界を描いている重大な本だということだ。
 80年代をこれほどまでに明確にえぐった本はない。というか、80年代を覚えている人は、絶対にこんな本を書きたがらない。
 なぜなら、80年代というのは、バブル期を過ごした全ての大人にとって「忘れてしまいたいほど恥ずかしい時代」であるからだ。そんな恥ずかしい時代の事を思い返しても誰も得をしない。そして実際に80年代を頭の中から消し去ったうえで「最近の若者は」などと偉そうな事を言いたれている。
 しかし、80年代に中高の多感な次期を過ごした団塊ジュニア世代である我々は、当時の大人の軽薄さをけっして忘れてはいない。

 ところでさっきから軽薄軽薄と連呼しているが、「80年代の大人が軽薄であった」ということの本当の意味を分かっているだろうか?
 それは、「当時の大人がバカだった」という意味ではなくて、「軽薄さによって、爆発的な経済発展が起った」という意味だ。
 すなわち当時の大人たちはどんどんバカになることで経済を発展させて行ったということだ。当時は今とはまた違った意味で「バカになれ! バカになれ!」という連呼が聞こえた時代だった。そうした時代の空気が、この本を読んで行くとありありと思い返される。

 そうした時代を思い返した上で、堀井が現代の若者に送る言葉は「逃げろ」だ。この大戦後のバカな社会を生み出した世代の一員だと見なされてしまう若者たちに対して、とにかく逃げろとくり返す。
 沈没仕掛けている巨大客船からバケツを使って水を汲み出せなどとバカなことを支持しながら、自身はワインを飲んでなにもしない右翼や左翼と比べればはるかに誠実な態度と言えよう。

 80年代を忘れたいと思っている連中は読まなくてもいいので、80年代を知らない若者たちや、プロジェクトXとかに騙されてしまった人たちに、この本は読んでほしい。
 確かに当時は、こんな「しょうもない」レベルで日本経済の大半は成り立っていたのだ。

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2006年05月18日
 ■ 大人の自殺願望に利用される子供たち

男児投げ落とし、「自殺できず死刑になるため」と供述

 もちろん、取調での供述なんて、そのまま信用に足るワケではないんだけど、それでも「やっぱりこういう犯罪が起るよなぁ」と考えてしまう。
 少し前に予言したとおり、犯罪者に対する脅威論によって、死刑の執行が迅速化されればされるほど、それを目当てにした犯罪は起こりやすいということです。
 どうせ富士のすそ野で孤独に自殺するのだったら、子供殺して世間に注目されて死刑にされる。その方がいいのではないかと思う人間は少なくないと思われます。
 犯罪の抑制のためにも、死刑を廃止し、終身刑を採用すべきです。

Google日本社長曰く「俺は公正中立」
 んモー またそゆこというー(植田まさし風)

 こうした企業判断の公正さということを聞かれた時に、ちゃんと「わが社としては、こうした社内判断システムを構築しており、故に判断は公正中立なものであると確信しております」と言えるような人間じゃないと、社長なんて事をやってはいけないと思います。
 重要なのは、「俺が公正中立だと思っている」ではなくて、「どのように公正中立を実現しようとしているのか」であって、その段階になって初めて森達也の言うような「本当に公正中立などあり得るのか?」という視座が生まれてくるのです。

 というか、いつまで

完全性

Googleの複雑で自動化された検索方法には人為的な介入がありません。 PageRankTMを販売したり、商業的に検索結果を操作するということは一切ありません。Google検索は高品質なウェブサイトを手軽に探すための、正確で客観的な手段です。

「Google の人気の秘密」

 などというデマを書きたれているのかと。
 削除! 削除! さっさと削除! しばくぞ!!

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2006年05月11日
 ■ ゲームレビュー マザー3

マザー3に見る、バブル以前世代の限界
(ネタバレ注意)
 マザー3をクリアした。笑ってしまうほど酷いものだった。

 ストーリーには結局「敵と家族」しか描かれていない。当のプレイヤーキャラクターたちはただRPGというシステムの上を歩き回させられた揚げ句に、最後は「家族愛」で終わる。マザー1、2で見られたような、PC(プレイヤーの操作するキャラクター)の成長、イコール、プレイヤーの成長という視点は一切無い。ラストバトルでは主人公以外のPCは放置だし。
 もっとも最悪なのは、家族愛を前提として、その書き込みがほとんど無いことだろう。とにかく「家族は愛し合っているもの」という前提を前提と考えないと全く物語が成立しない。物語の描き方として手抜きの極致だろう。

 だから私はココに糸井重里の限界というよりも、バブル以前世代の限界を見るのだ。
 プレイヤーは主人公たちのレベルをあげながら、最終的にはそうした「強さ」は一切無視され、ただ母親の愛情がゲームを決定づける。それはバブル以前世代に見られる、団塊ジュニア以降の絶対的否定そのものである。

 ゲーム的な話をするなら、私はまさかそれがラストバトルだとは思ってなかった。このあと絶対にギーグが出てくると思っていたのだが……

 閑話休題。
 2であれば、両親と妹の存在というのは、あくまでも「主人公を支えてくれるもの」でしかなかった。特にストーリー上にしゃしゃり出ることもなく、次のレベルアップを教え、お金を振り込み、主人公の好物を作り、荷物を預かってくれていた。
 そうした家族は「必要以上にしゃしゃり出てはこないけど、決して欠かすことのできない大切なもの」であった。しかし、3ではゲームの最終局面になってしゃしゃり出てきて、最後のおいしい部分を掠めとってしまう。まさに若者からカネを強奪する団塊以前世代のイメージそのものといえよう。
 7本の針についても、それは予め仕組まれた、いやそれがゲームである以上仕組まれているのは当然なのだが、2では「僕の場所」であったのが、3の「針」はあまりに事前決定的だ。そして復活した龍に対してプレイヤーは何もすることができない。
 そして両親と龍に、プレイヤーが経験値を積み立てて得てきた「力」はことごとく否定される。

 マザー3はそんなゲームだった。
 これで癒されるのは、若者の成長を否定して、永遠の平安を得たいと考えるバブル以前の世代だけだろう。

 ただ、唯一私たちのような「否定される若者」にとって希望を感じられる演出は、最後の「END?」の世界だろう。
 私はこの真っ黒な画面の世界が「カプセルに全ての人々が入れられた世界」であってほしいと思う。ポーキーの作った「いいひとカプセル(だっけ?)」に全ての人が入れられた世界であってほしいと思う。
 若者の成長や力をすべて否定した世界の帰結は、そのような悲惨な未来であってほしいと強く思う。
 そうとでも考えない限り、私はマザー3というゲームを受け入れることができない。

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 ■ 捏造される格差問題

ツンデレの次にくるのは「ヤンデレ」

 言葉様とか言葉様とか言葉様とかwwww
 冗談はともかく、なんかメディアがさかんに取り上げて一般化してしまった「萌え」や「ツンデレ」レベルのオタク理解(という名前の軽視)を打破するためにも、こういうダークサイドイメージの表出は重要なのではないでしょうか。
 ヲタは純然たるアングラなんだ! お前ら一般人が生半可な気持ちで近づくな!! ノコギリで頚動脈斬るぞ!!!

前回触れた「6割が「5年前より格差」 20代は4人に1人容認」というニュースについて、少々異なる視点からもうひとつ。
 格差問題というのは2つの考え方があって、1つは「ホリエモンのような(現在、例えとして堀江が妥当かどうかは置いておくとして)大成功者が発生することは是か非か」という、「富裕層の発生」という問題。そしてもう一つが「週5日8時間(フル労働)働いて、月15万の層が存在していいのか」という貧困層の問題。
 そして、このアンケートで考慮されているのは富裕層の問題だろう。
 これがもし「週5日8時間働いているフリーターは月30万円の給料を得るべきか」という問題ならば、全体的にせいぜい1割しか「得るべきだ」という回答はなく、年代が上がれば上がるほど否定的な回答が増えるだろうと予想する。だが、それこそが現実の格差問題だ。格差は富裕層と一般層の間にではなく、一般層と貧困層の間にある。
 にもかかわらず、格差問題は微妙にずらされ、ただ人々の「ひがみ」を象徴する問題にされようとしている。そのことに気付かない年寄りは格差を害悪視し、若者は格差に成功のイメージを結びつける。かくして、このようなアンケート結果が捏造される。当の貧困層の問題は放って置かれたままだ。

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2006年05月08日
 ■ ブサヨクはいつまで団塊の青春を夢見続けるのか リベンジ

先日の記事はちょっと感情的になり過ぎてしまって、意味が取りづらくて申し訳ありません。
 私の彼らに対する苛立ちというのは、「大学自治」などという、今となってはなんの意味もない「活動のための活動」に対して、それが今だに存続していること。すなわち不要なことのためにマンパワーが使われてしまっていることを批難するならまだしも、それに過剰に同調し「すわ、大問題」のように馬鹿騒ぎする左翼が、あまりにバカバカしく感じるのです。

 テレビブロスの太田光の連載で、栃木リンチ殺人事件を扱っていた。
 太田は被害者が生き埋めにされようとしている時の最後の呟きである「生きたまま埋めるのか、残酷だなぁ」という言葉を取り上げ、「言葉が通じない」という事に対する諦めを論じていた。
 被害者が生き埋めにされようとしているまさにその時に、「やめろ」でも「殺さないでくれ」でもなく「生きたまま埋めるのか、残酷だなぁ」という、誰に話すでもないただの呟きに最後の希望を込めるしかなかったのは、まさに「犯人に対して言葉が通じないという諦念」によるものだと。

 よく左翼は「若い人の声が聞こえない」ということをよく言います。しかし、先日も書いたとおり、Web上をまともに注視していれば、いくらでも若者の声は聞こえてくるのです。
 逆に、前述の「早稲田でのビラ撒き逮捕」の池沼、いえ若者のような人に対して彼らが反応するのは「彼の声は左翼に届いた」ということです。
 その、聞こえた聞こえないの分かれ目がどこにあるのかといえば、その手法です。生活人としてWebで継続的に挙げられる声には耳を貸さずに、ビラ巻という古典的な手法をもって、大学自治のような無意味な雑音に対して、左翼の耳は敏感です。なぜなら、そうした無意味さこそが彼らの青春であり、古き良き学生時代を思い起こさせるからです。
 右肩上がり経済社会の中で、左傾の思想をもちながら会社というぬるま湯にどっぷり漬かって暮してきた「元左翼」にとって、青春の思い出に現実感がなければないほど、ただ美しい思い出に浸ることができるのです。
 フリーターやニートが社会問題を語れば、それは会社にいる彼らの悪徳を思い起こすことになります。しかし、大学自治であれば、かつてと同じように職員を敵として認識していればいいだけであり、彼ら自身はなんの苦痛も感じることはありません。
 しかし、それはもはやなんの意味も持たない「活動のための活動」です。現在論じるべき平和と平等は、それとはまったく別の場所にあります。左翼は正しく若者の声に耳を傾ける努力をするべきなのです。

6割が「5年前より格差」 20代は4人に1人容認
 私はこの件のもつ意味を、世間一般が考えるであろう意味とは真逆にとりたいと思います。
 つまり、年寄りは社会を「格差のないもの」とイメージしており、若者は「格差のあるもの」とイメージしているということです。
 そして、年寄りの「格差のないものイメージ」は、現実の格差に対して極めて冷淡な態度をとります。「格差がないはずなのに格差が生じているのは、何かがおかしいからだ」と判断し、「格差がない」方、すなわち正社員を肯定し、格差の存在、すなわち、フリーターやニートを執拗に批難します。
 一方、若者の格差を前提にした社会認識においては、フリーターやニートも、一般社会人、すなわち正社員と同じような地平に置かれます。そうした意味で極めて「平等」なのです。
(ちなみに、私の立場は、このどちらとも違う意味合いをもつ「第3の道」です。具体的には格差の存在を前提としながら、フリーターやニートを正社員と平等なのではなく、社会的に劣悪な状況に置かれた「弱者(個人の強弱ではなく社会的な強弱)」として認識することを要求します。)

 バブル以前の日本は、人を賃金的に平等にすることによって社会発展をうながしてきました。そしてそれは運良く成功しました。
 しかし、既にその方法論は有効性を失い、格差の存在は前提と化しています。考えれば、調査においての「格差を縮小すべきか否か」という質問自体が、バブル以前の「我々は十分に経済調整ができる」という方法論に乗っ取ったものであり、今や無効な方法論です。
 ならば、もう格差を前提とした論理以外は認めてはならないのです。現実を無視した論理は極めて有害なものであると、私は考えます。

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2006年05月05日
 ■ ブサヨクはいつまで団塊制青春の夢を見続けるのか。

ブサヨクはいつまで団塊制青春の夢を見続けるのか。

 成城トランスカレッジより、「「早大ビラまき青年逮捕事件」についての共同ブログ」

 は? お前ら今さらなにやってんの?
 このIT社会の現在において、わざわざ早稲田大学でビラなんか配って逮捕された池沼なんか放っておけよブサヨク。

 以上が正直な感想。
 本物の社会と抜き差しならない戦いをしている人たちにはロクに手助けしないで、今だに「学生自治」だとかそんなモラトリアムを延々と続けている池沼がいて、その池沼が捕まったからって、すぐに支援しちゃうブサヨクがいる。そんなんじゃ、若い人は誰も左翼をがんばって支えようなんて思わないよ。年金払うよりバカバカしい。
 それでもこうやって、いちいちこの事件にまともに取り組んじゃうバカがいて、コメントなんかを寄せるバカがいる。そんなに左翼の権威が欲しいのか、強欲め!!

 分かるよ。なんでブサヨクがこんな池沼を応援するのかは。
 「ビラ配り」はまさに団塊ブサヨクの青春であって、それと同じことをしている池沼に情が湧いてしまうんだろう。そしてそのことこそが、年配ブサヨクと、役に立たない若い池沼サヨを結びつけて、利権のやりとりが発生する。
 かくして、ブサヨクはこのどうでもいい事件に無駄な時間を費やし、真面目に社会を考える左傾の人間は左翼を見限る。もう少しいいかげんに考えていれば右に転向する。そして左翼に残るのはジジイと池沼ばっかり(藁)。

 この件でロフトプラスワンのイベントが行なわれた時に、松沢呉一さんが極めて冷淡な態度を表明している。

ビラ配りで言えば、迷惑防止条例で、敷地内にピンクビラを貼っただけで逮捕される。仮にそこが完全に私有地でも、公道から見えただけで逮捕。去年の7月からできている。また一昨年、東京都の青少年健全育成条例により、エロ本にシールが貼られるようになったが、あれはメディアをいつでも潰せる状態を作ったということ。一般にはエロの規制だと思われているが、第二条には「犯罪行為を助長する」ということが書かれているので、酒、タバコ、ギャンブルのようなものを書いただけでも潰すことは可能。昨年もWebでソープランドのガイドをしているHPが売春防止法で潰されている。これが他のジャンル(例えばオタク?)だったらもっと話題になっていただろう。

みなさんほとんど関心なかったと思いますが、自分がずっと訴えてきて相手にされなかったこと。既に手遅れ、現実はもう作られている。「エロ本はしょうがないだろう」「ピンクビラはしょうがないだろう」「セクハラはしょうがないだろう」と、問題の根幹を考えずになんとなくやり過ごすことでここまで拡大されてきた。もう既成事実はできているので、あとはさらに拡大するだけ。「エロビラは不快だから当然」というロジックの場合、どのようなビラも不快に感じる人はいるので、どんな内容であれ捕まえることができてしまう。これまで自分は「エロがつぶされていいのだったら、お前らも潰されろ!」と思ってた。それが皆さんのところにようやく来た(笑)。もう手遅れ、やってもしょうがない。でも、カラオケ仲間がいるからここに来た(笑)。

 ブサヨクはどうしてこの呉一さんの意見を汲み取ることができないのだろう。
 ブサヨクは、左翼を標榜するなら、大学自治なんて時代遅れな領域からとっとと離れろ。
 団塊ジジババの青春なんて腐敗物は、その辺のドブ川に放り込め。

 つか、俺はこの事件に、あの重信房子のバカみたいなピースサインに通じるものを見るんだよ……左翼は気味が悪いよ。本当に。

食べ終わった容器は座席の下に
 そういえば、昔は「電車の中で出たゴミは電車の中に捨てる」のが普通のことであったような気がして、調べてみました。

質問:昭和30年代電車の中で食べた駅弁のごみは座席の下に捨てた?(教えて!goo)
 床で寝る人ってのはすごいな。今でも早朝の電車で寝てる人は見ますけどね。まぁ空いてればいいや。

今の若造はマナーがなっていない!!
(リンクは一週間程度限定です。リンク掲載終了後の場合、「第2日本テレビ」の「もぐら骨董道」に行って、何でもいいから掲示板以外のコンテンツをクリック、左側の「時代ゆえ 若さゆえ」と書かれたバナーをクリック、そ一番下から3番目に「今の若造はマナーがなっていない!!」があります)
 かつての電車内の無法っぷりを垣間見ることができます。

 カメラのアングルがあまりに良くて、ヤラセの感じも受けます。あと、この当時の人たちは「カメラを向けられる」という事に対して、どう考えていたのでしょうか? 今の感覚なら自分が食事をしているところをアップで撮られるというのは、決して気持ちのいいことではないでしょうし。
 ただ、作業員の手慣れた様子を見るに、仮にヤラセがあったとしても、こうした状況が日常からかけ離れてはいないように思えます。

昔は車内に残されたゴミが今と比べ物にならないほど多かったように思います。

 昔の長距離列車は今と比べれは速度が遅く、長時間列車の中に拘束されることから、飲み食いは必要不可欠でした。そういう意味で、ゴミの発生は必然です。加えて、上の「教えて!goo」で言うようにゴミ箱がないのであれば、当然ゴミは床に散乱するわけです。

 あと、どこか忘れましたが、駅弁関連サイトの掛紙コレクションの中に「食べ終わった容器は座席の下に」というような文言が書かれたものがあったような気がします。どこだっけ?

 だから結論としては「別に昔の道徳なんて、実態はたいしたことではなかった」と言いたいだけですけどね。
 あと、日本人が極めて「過去を都合よく忘れる」ってことかなぁ。
 花見なんかの無法っぷりを特集したニュース番組見てて「日本人って、昔っからこんなもんだよなぁ」と思い出したんですよ。

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2006年05月02日
 ■ エセ脳科学の大御所が出所

なんか、自称「拉致被害家族」の人が、アメリカでお猿のジョージと面談していたけど、これってどう考えても「拉致被害者が死んでいる」ことを前提にしているとしか思えないんだが。
 そもそも、独自交渉での解決が十分にあり得た日朝会談から、どんどん迷走していって、結局アメリカを介しての間接要求。アメリカなんて軍事産業の育成しか頭にない国を介してそんなことを要求したって、それは戦争の方便に使われるだけであって、被害者の救出(ここに「奪還」などという字を当てる時点で、それは「モノを取り返す」という感覚であり、当の拉致被害者の人権を軽視していることは明確)になど繋がるハズが無い。
 と、こうした現状で自称拉致被害家族会の方から疑問が沸き上がらないということは、もう明確に「拉致被害者当人はどうでもいい=既に死亡を確認している」としか思えないのですよ。つか、例の遺骨が実は本物だったんじゃねーの?

 私は拉致被害者の人権を無視、さらに政治的に利用して己が欲望の達成に邁進する、家族会、ならびに政府や拉致議連、その他関係者を批難します。

殺人鬼、戸塚宏がシャバ(by ルクレティア様)に復帰してきた。
 戸塚が吹聴する「脳幹論」とは、日常生活において適度なストレスを与えることにより、脳幹部が成長し太くなって、人間的に正しい人格になるということだが、そもそもこの話は脳科学が解剖学でしかなかった時限での話であって、既に脳機能をCTやMRIで見られる現在においては既に遅れた科学であるし、「ストレスで脳幹が太くなる」なんてのも、筋トレのイメージそのままである。なにより「正しい人格」などというもの自体が、社会によって異なったあいまいな概念でしかない。
 そして、当の戸塚が4年も刑務所の中で適度なストレスを与えられて生活しながら、「体罰は教育」などと、まったく人格が矯正されていない発言をしているということで、脳幹論の破綻は明確である。

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