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2006年05月08日

 ■ ブサヨクはいつまで団塊の青春を夢見続けるのか リベンジ

先日の記事はちょっと感情的になり過ぎてしまって、意味が取りづらくて申し訳ありません。
 私の彼らに対する苛立ちというのは、「大学自治」などという、今となってはなんの意味もない「活動のための活動」に対して、それが今だに存続していること。すなわち不要なことのためにマンパワーが使われてしまっていることを批難するならまだしも、それに過剰に同調し「すわ、大問題」のように馬鹿騒ぎする左翼が、あまりにバカバカしく感じるのです。

 テレビブロスの太田光の連載で、栃木リンチ殺人事件を扱っていた。
 太田は被害者が生き埋めにされようとしている時の最後の呟きである「生きたまま埋めるのか、残酷だなぁ」という言葉を取り上げ、「言葉が通じない」という事に対する諦めを論じていた。
 被害者が生き埋めにされようとしているまさにその時に、「やめろ」でも「殺さないでくれ」でもなく「生きたまま埋めるのか、残酷だなぁ」という、誰に話すでもないただの呟きに最後の希望を込めるしかなかったのは、まさに「犯人に対して言葉が通じないという諦念」によるものだと。

 よく左翼は「若い人の声が聞こえない」ということをよく言います。しかし、先日も書いたとおり、Web上をまともに注視していれば、いくらでも若者の声は聞こえてくるのです。
 逆に、前述の「早稲田でのビラ撒き逮捕」の池沼、いえ若者のような人に対して彼らが反応するのは「彼の声は左翼に届いた」ということです。
 その、聞こえた聞こえないの分かれ目がどこにあるのかといえば、その手法です。生活人としてWebで継続的に挙げられる声には耳を貸さずに、ビラ巻という古典的な手法をもって、大学自治のような無意味な雑音に対して、左翼の耳は敏感です。なぜなら、そうした無意味さこそが彼らの青春であり、古き良き学生時代を思い起こさせるからです。
 右肩上がり経済社会の中で、左傾の思想をもちながら会社というぬるま湯にどっぷり漬かって暮してきた「元左翼」にとって、青春の思い出に現実感がなければないほど、ただ美しい思い出に浸ることができるのです。
 フリーターやニートが社会問題を語れば、それは会社にいる彼らの悪徳を思い起こすことになります。しかし、大学自治であれば、かつてと同じように職員を敵として認識していればいいだけであり、彼ら自身はなんの苦痛も感じることはありません。
 しかし、それはもはやなんの意味も持たない「活動のための活動」です。現在論じるべき平和と平等は、それとはまったく別の場所にあります。左翼は正しく若者の声に耳を傾ける努力をするべきなのです。

6割が「5年前より格差」 20代は4人に1人容認
 私はこの件のもつ意味を、世間一般が考えるであろう意味とは真逆にとりたいと思います。
 つまり、年寄りは社会を「格差のないもの」とイメージしており、若者は「格差のあるもの」とイメージしているということです。
 そして、年寄りの「格差のないものイメージ」は、現実の格差に対して極めて冷淡な態度をとります。「格差がないはずなのに格差が生じているのは、何かがおかしいからだ」と判断し、「格差がない」方、すなわち正社員を肯定し、格差の存在、すなわち、フリーターやニートを執拗に批難します。
 一方、若者の格差を前提にした社会認識においては、フリーターやニートも、一般社会人、すなわち正社員と同じような地平に置かれます。そうした意味で極めて「平等」なのです。
(ちなみに、私の立場は、このどちらとも違う意味合いをもつ「第3の道」です。具体的には格差の存在を前提としながら、フリーターやニートを正社員と平等なのではなく、社会的に劣悪な状況に置かれた「弱者(個人の強弱ではなく社会的な強弱)」として認識することを要求します。)

 バブル以前の日本は、人を賃金的に平等にすることによって社会発展をうながしてきました。そしてそれは運良く成功しました。
 しかし、既にその方法論は有効性を失い、格差の存在は前提と化しています。考えれば、調査においての「格差を縮小すべきか否か」という質問自体が、バブル以前の「我々は十分に経済調整ができる」という方法論に乗っ取ったものであり、今や無効な方法論です。
 ならば、もう格差を前提とした論理以外は認めてはならないのです。現実を無視した論理は極めて有害なものであると、私は考えます。

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