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2006年06月17日

 ■ 『グロテスクな教養』高田里恵子(ちくま新書) その1

成城トランスカレッジより。

 千葉県管理教育の経験談シリーズ by ふぇみにすとの雑感@シカゴ
 「70年代千葉県管理教育と日の丸・君が代」
 「千葉管理教育その2:業間体育、掃除、給食」
 「千葉管理教育その3:「男女同室着替え」編」
 「千葉管理教育その4:体育編」
 「千葉管理教育その5:小学校体罰編」
 「千葉管理教育シリーズその6:密告文化と暴力、管理」

 「子供を教育する」と息巻くことがどれだけバカバカしくて有害な空回りなのか。ということがよく分かりますね。

『グロテスクな教養』高田里恵子 ちくま新書539 1周目読了。

 自分にとってまったく未知なジャンルのため、とりあえず2回読むつもり。で、今回はその1周目の感想。

 結局、教養主義“論”(と論をカッコにいれるのは、教養主義そのものというよりも、肯定するにせよ否定するにせよ、教養主義を巡る言説こそが教養主義のグロテスクさを際だたせているからだけれども)というのは、すなわち「東京の中産階級層の青春を巡る青臭い議論」に他ならないのだなぁ。と読みました。
 それが上品過ぎるなら、「我々はこれほどまでに実存というものに悩んでいるのだから、幸福になる権利があるはずだ」。
 もっと下品にして「悩むことが権力や女を手に入れる免罪符なのだ」。ぐらいまで言えるのではないかと。

 ただ、こうした教養主義論について明確にしておくべきなのは、それがあくまでも「東京の中産階級レベルの学生」の話に過ぎないということです。
 結局、『学問のすすめ』にせよ、『資本主義宣言』にせよ、『君たちはどう生きるか』にせよ、「本を読む」ことでしかなかった教養主義の生存域は、本を買い求められて、なおかつ悩むような時間のある学生という範囲に限られたのです。
 ある意味でこれは日本人の学習感と同じもので、学習は学生までで終了して、後は社会の歯車になって学習しないのが当たり絵前というものです。だから「教養」を学んだ元学生たちは、

 いまでは、たんなる外交官、たんなる医者、たんなる高級官僚、たんなる幹部社員、たんなる東大教師

 になってしまう。「モラトリアムの季節が終わり……」みたいなやつですね。
 だけれどもそれは最初っから「学生というモラトリアムの期間が明確に明示され、その範疇で悩むという歯車的行動なのではないか?」とも言えるわけです。
 つまり、中産階級が「自分たちは自分たちの人生を勝ち取ったんだ」という方便のために教養主義を翼賛しているけれども、そのことになんの意味のないのではないか? とも思えます。

 そしてそんなよくわからない「教養主義」が、確実に崩壊するのが「一億総中流社会」という潮流です。
 それまでは「知的エリート」という身分のおかげで教養主義に片足をつっこみ、人生に悩んだフリをできていたのが、圧倒的な経済成長によって、労働者層までもが、その権限を得てしまうのです。
 下品に言えば、東大(と、そこに至るエリート校)の専売特許であった教養(という利権)が、早慶上智やMARCHに流出して行くわけです。
 そして、「悩むことが権力や女を手に入れる免罪符なのだ」という下品な教養主義は、「金を持っているから権力や女を手に入れていいのだ」という、もっと下品な資本の論理によって、完全に押し流されてしまうのです。そして東大の貧乏学生は、私立大の金持ち学生においしいところを全部持って行かれてしまいます。これが「教養の失墜」です。

 こうした感覚で教養というものを眺めた時に、それが我々が一般的に使う用語としての「教養」というイメージからまったくかけ離れたものになっていることが、確認できます。

 「それを確認した」というのが、1周目の感想です。
 もう少し書きたい気分はありますが、それは2周目の感想に取っておきましょう。

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