《 2006年06月 | メイン | 2006年08月 》

2006年07月29日
 ■ 杜撰な経営で財政を破綻させた市は、財政の再建まで杜撰

SocioLogicより、「10年前に惣流・アスカ・ラングレーと出会って以来、何千回とオナニーしてきた俺がついに悟った!」

 おめでとう!
 ……でもこの時期、そのまま涼宮とか長門とか朝比奈とかに行きかねないから、気をつけないとな。

「眉毛をそってるから」負け 鹿児島の中学総体

 身だしなみを整えて、文句を言われるとは世も末。
 チクリで勝利を得た伊敷台中学校の子供たちが、それを正しいことであるかのように覚えないで欲しいと願う。

 リンク:チクリで勝利を得た鹿児島市立伊敷台中学校
 つか、この学校のサイト、やたらPDFが多いんだが、リンク先がPDFであることを示す事すらしていない。基本的に礼儀作法のなっていない学校のようだ。

ゆうばり映画祭 来年以降中止に 北海道夕張市の目玉事業

 国際的にも極めて評価の高い映画祭を中止するなどという、一番やってはいけないことを真っ先にやってしまうような杜撰な感覚だから財政が破綻するんだよ!

キッズケータイを“警戒” 全日空「電源切り完全に」
 子供の安全というお題目の為に、他者の安全性を軽視したプロダクトが流通してしまっている時代。

個別ページ表示 | トラックバック (0)

2006年07月28日
 ■ 『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その1)

「成城トランスカレッジ!」によると、私が火をつけた(と自慢してもいいだろう)「弱者男性に対する問題」という火の手が順調にのびているようでなにより。みんな張り切ってやって欲しい。

 と言いたいところだが、飛び火した先での議論のレベルがあまりにも低くて辟易しているのが正直なところ。
 まぁ正直、最初っからそれ以上の期待はしてなかったんだけど、やはりというかなんというか、単純に「弱者男性をどうするか」「弱者男性と男女平等論の関わりは」という話に終始してしまっていて、私が書いたことの一部要素だけを勝手に抜き出して、さもそれが問題の本質であるかのような「雑談」になってしまっている。

 で、このような論点の捻じれ構造を別の例で例えてみましょうか。

 ゲームをしていますよと。
 そのゲームは、サイコロを1個振って、1の目が出れば勝ち。他の目なら負けというルール。
 ただし、直接賭ける人間はサイコロを振ることはできません。サイコロを振るのは第3者です。この場には第3者が何十人かいるとしましょう。
 で、今までに5回ゲームをして、2、3、5、4、6の目が出ています。
 この時点で直接賭ける人間は既に5回負けています。もうこれが最後の勝負です。負ければ破綻です。
 そこで、サイコロを振る第3者の人たちが議論を交わしています。第3者の人たちは、賭けた人に勝ってほしいと考えています。
 「これまで5回振って、1以外の目が1回ずつでているから、次こそは1の目が出るはずだ」
 「いやいや、サイコロの出目はつねに1/6の確立でしかないんだから、次こそ1の目が出るとは限らない」

 この問題で、私の外で議論をしている人たちは、こういう議論をしている。さて、おかしいのはどこでしょうか?

 そう。本当の問題は「次にサイコロで1の目が出るかどうか?」ではなく、「次にサイコロで1の目を出さないと、賭けた人間が負けてしまう事」である。
 ここで単語を置き換えてみよう。
 「直接賭ける人」とは、そのまま私、つまり「弱者男性」のこと。
 単語としては出てきませんが、その「賭けている相手」は、社会そのもの。
 そして、「サイコロを振る第3者」が、今回私が批判している「左傾論壇」。

 左傾論壇はサイコロを振る権利がある。そしてそれはすなわち義務でもある。
 サイコロを振らなければならない時に、サイコロの目がどう出るかを議論する。次は1の目がでるのか、そうでないのか。
 しかし、この段階で「1の目がでない」ということは、すなわち弱者男性の破綻を意味する。破綻という言葉で弱ければ、死でもいい、死を意味する。
 その時に、サイコロの確立論議が、なんの役に立つだろうか?
 本当の問題はこうした状況下においては「是が非でも1を出さなければならない」ということ。
 それこそ、イカサマで懐から1の目だけのサイコロを取り出して振るようなことをして、なんとしてでも1を出してあげること。重要なのはそれだけなのだ。
 1の目が確率的にどうだという、マクロな視点に立った論理ではなく、とにかくこの場で1の目を出さなければいけないという意識こそがこの場でもっとも必要なことなのだ。

 私が元々『バックラッシュ!』を批判したのは、その内容があまりに教養主義的に過ぎることであった。
 私の考える教養主義とは、「ある特定の場所にいる人たち(東大周辺とか、論壇周辺とか)によって行われる、擬似知的議論によって、自分の存在意義を担保する考え方」である。
 「私はこのように悩んだから、こうしてエリートであっていいのだ」「私は努力をしたから、高収入を得ていいのだ」「私は女性のことを考えたから、男女平等論者として正しいのだ」等々、いずれにしてもその結果ではなく、ただ「そう考えた」ということでしかない。
 そして、私は『バックラッシュ!』全体に横たわっていた、「八木秀次ラスボス説」に対して、「そうした考え方は、教養の場にいる「強者男性」側と、同じく教養の場にいる「強者女性」側の議論ゴッコでしかない」と批難した。それこそ「八木秀次を批判できたから、バックラッシュは間違っているのだ」という、バックラッシュの広まりという現実を目の前にした、教養主義バカの無責任な逃避でしかないと考えたからだ。
 そしてまさに今回の「弱者男性を語りたがる連中」による、的を射ない議論の広まりも、こうした「さも、私は男女平等のことを真剣に考えてますよ」という教養主義バカの仕業といえる。

 そして彼らは「何がなんでもサイコロの1を出すこと」という論点にいつまでたっても至らない。
 だって、彼らは別にとってこの問題なんて、しょせんはどうでもいいことだから。
 どうでもいいことを自分の価値付けのためだけに使っているから。

『バックラッシュ!』非難の本質とは?

 巷のブログが上のような調子だから、私はもう少しひねった論点でこの問題を掘り進めようと思う。
 いや、ひねったというよりも、これが私が考えていた元々の論点で、左傾論壇がもっとも触れてほしくないであろう論点だろう。

・左傾論壇にとって「弱者」とは誰か?

macska dot orgによる「鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問」は、まさにエセジェンダーフリー論者の本音を吐露した素晴らしい文章である。

そもそも、この「男性」という括りに疑問がある。鈴木氏によれば、ここでいう「(弱者)男性」とは経済構造の変化による流動性の暴走におびやかされる存在だとされるから、逆に言えば経済構造が変化する前の時代に生まれていれば一人で家族を養うだけの収入を得られる「強者」ーーと当時は描写しないだろうけれどもーーとなるはずだった人たちのことだ。そこには何故か、在日コリアンの男性やアジアや南米から出稼ぎに来ている外国人労働者の男性、被差別部落出身の男性、障害のある男性、ゲイやバイセクシュアルの男性など、わたしが「弱者男性」と聞いてまず思い浮かべるような人たちの存在がまったく想定されていない。

 実に素晴らしいではないか。
 現実の社会問題を無視して、「僕の考える弱者はこういう人」という色眼鏡で弱者基準を語る。そしてここから「男性」という括りを外せば、そのまま「女性は絶対的に弱者なのである!!」と力説する姿が目に浮かぶ。
 男性弱者を不幸を踏み台にして、「私たちは弱者である!!」と叫ぶ、勝ち誇った女性像は、まさにエセジェンダーフリー論者の夢であろう。

 私は最初の文章において、「男性強者、女性強者、女性弱者、男性弱者」という分類をしている。
 そしてその上で「いまだに女性が弱者なのか!!」「いまだに在日が弱者なのか!!」「いまだに部落が弱者なのか!!」と説いている。
 この考え方は、かつての「色の着いた弱者」を解体し、すべてを「仕事利権と金」という文脈で捉え直し、今一度弱者の再定義を行なうべきではないかというものであり、決してmacskaが言うような「在日の男性や部落出身の男性の存在を無視した記述」などではない。

 結局のところ、彼らにとっては社会の現状などはさっぱり関係なく、ただ「僕が考えた弱者」こそが弱者なのである。
 そして、「僕の考えた弱者」が弱者認定されていない私のような考え方を必死に批判しようとする。

(次回に続く)
 とりあえずこっちで、この先に近い話をしているので、読んでおいてください。こっちのボリュームの薄さを少々は補完できるでしょう。

途中でスペシャルボーナスがそろっても、明日の為に叩くべし叩くべし。
ジョーカーコレクション 14400枚

個別ページ表示 | トラックバック (3)

2006年07月22日
 ■ まぁなんだ。更新が滞っているから場を濁すということで

私が最初の文章に一回だけ使った「専業主夫」という言葉にやたら大げさに反応している人がいる。そういう人たちのおかげで掲示板では何度も専業主夫という言葉を使ってしまっているが、その言葉に私はさして大きな意味合いを割り振ってはいない。(まぁ、無視すれば良かったんだろうが)
 私がこの言葉を使った意味は「強者女性は今まで男性が普通にしてきたのと同じように、弱者男性を扶養するだけの覚悟があるのか?」という意味でこの言葉を使っているのであり、決して「専業」の部分を重要に考えているワケではない。そのことはちょっと文脈を考えれば分かるはずである。分からないのは「とにかくこの気に食わない赤木智弘とかいうやつを批難してやろう」という姿勢で文章を読んでいるからだろう。
 ハッキリいえば私は実際の生活としては「夫婦共稼ぎモデル」を当たり前のように前提にしている。というか、もはや「専業主婦」という立場は普通ではないし、弱者強者でいえば準強者たる立場にある。
 だから「もはや専業主婦など、夫がよほどの高所得でないと成立しない」などといわれても、「そんなの当たり前だろう(笑)」で終わりである。
 問題は唯一「女性は男性を養う側に回る気があるのか?」ということであり、それは自ら会社員(OL)という強者的な立場でありながら、自分の収入以上の男性としか最初っから結婚する気がないような、平均値的強者女性に対する批判である。
 ならば「専業」という言葉を使うなといわれても、それはフェミナチに対する嫌味を表すための装飾なんだからしょうがない。

 もう一つ、ついでに先手を打って書いておくとすれば「夫婦共稼ぎモデル」にも強弱が存在することを忘れてはならない。
 「強者男性と強者女性(OL等)」の強モデルと、「強者男性と弱者女性(パートタイマー)」の弱モデルでは、「共稼ぎ」という言葉の意味合いがまったく違ってくる。
 そして、私は弱モデルを支持するものの、強モデルは社会全体の利益を無視するものとして強く非難する。
 現状の政治経済体制において、人間が人間として生き続けるためには、一人一人による相互扶助しかありえない。そしてそれは「ワークシェアリング」などという机上の空論ではなく、現実に仕事もしくは金銭が平等に行き渡る事を目指すべきなのである。

デカいデカいと言われつづけてきた、コナミのメダルプッシャーゲーム機「グランドクロス」を見てきた。
 確かにデカい。詳しいサイズは分からないけど、畳で言うと12〜16畳ぶんぐらい占有しているのかな?
 すぐ横にあったファンタジックフィーバー2が、普通のシングルマシンに見えるほど。
 で、運良くシルバージャックポット払い出しに立ち合えたんだけど、全体のスケールが大きい分、ジャックポットの払い出し演出は単純に上から降ってくるという、ドラゴンパレスやフォーチュンオーブ(以下 FO)と同じ方法で、ちょっとしょぼいイメージ。
 払い出しも基本的には2000枚レベル(最大は5000枚か?)で、2までのFOと同等。なんかグランドクロス販促のために、FO3を1,000枚レベルに格下げしたんじゃないかという疑念を感じる。
 もちろんサテライトが多い(16席、最大32人)分、全部お客さんで埋まっていれば、プログレの溜りは早いんだろうけど。

 ちなみに個人的には一回見ちゃえば別にプレイする必要性はないかなと。
 まぁ、預けが8万枚あるホームに入ればやりますけど、わざわざ他店でメダル買って(しかも預けが1ヶ月だか3ヶ月だかで消滅するチェーン店で)までやる気はないなぁ。

個別ページ表示 | トラックバック (0)

2006年07月15日
 ■ 倫理はどこにある?

少しの間、適当な日記を。
 まぁなんかいろいろあるので、部屋の掃除(現状:アリ塚のように本がここかしこに積まれている)と、youtubeひとりハルヒ祭り。最初から最後まで、2日かけて見ました。

 第1話で唐突に劇中劇で話が始まり、最終話で見事にそのまんまなオチ(誉め言葉)で終わる構成は見事でした。
 「セカイ系」と言ってしまえばそのままですが、ストーリー自体はあくまでも学園生活(=社会)を中心に構成され、最終話では確かにセカイ系的オチでストーリーは閉められるものの、物語が冬の話、すなわち時間軸的に最終話後の話であろう第9話の存在を考えるに、あくまでも最終話の話も「学園生活の些細さ」の一端に括られるべきなので、むしろ「メタセカイ系」と言うべきなのかも。

 まぁ、へんな分析やめておきましょう。
 とにかくyoutube様々。DVDを始めとするハルヒ関連グッズは売り上げがいいらしいが、アニメコミュニティーや2ちゃんねるはもちろん、youtubeも十分に貢献していると思う。
 別に「Web2.0」などと煽りたてる気はないが、こうした事例が日本の著作権に対する観念を、もう少し柔らかいものに変えていってくれるとありがたい。

「S氏の時事問題」より
人材派遣大手が「フリーター支援協会」設立へ

 法人に倫理観なんてないとは知っているが、今さらながらに、ほとほとあきれ果てる。
 我々が欲しいものはそんなドヤ券ではなく、人間としての最低限の尊厳だ!!
 この社会に人間はいないのか!!

社会性低い大学生→『準ひきこもり』命名 ネットで賛否 富山国際大 樋口講師が論文

 法人どころか、人間にも倫理観などなかった!!!
 石田衣良が「私はフリーターでした」といいつつ、フリーターを侮辱したように、爆笑問題が、自分たちも元ニート、フリーターでありながら、ニートを侮辱したように、この大学講師も「私も準ひきこもりでした」などといいつつ、ちょっと気が弱いだけの若者を侮辱している。しかも新書(また新書か!)を出して金儲けまで企んでいるとは、どこまで腐っているんだろうか。

 景気が良く、就職も超売手市場だった時期に社会人になった連中に、今の若者の気持ちなど分かるはずがない。ならば語る権利もないはずだ。
 にもかかわらず、些細な共通項を見つけ出し、さも「自分には若者を語る権利がある」かのように嘯き、メディアを利用して金儲けをする。
 メディア側も単なる肩書きをさも「重要な実績」であるかの様に扱い、こうした人間に対しては文章を大々的に発表する機会を豊潤に提供し、一方で若者の気持ちを明確に記している当の若者の文章は「若者は声を挙げない」と嘘をついて無視をする。
 このような不平等は絶対に許されてはならないのに、それが存在する現状の酷さはどうだ。
 現実を見ろ!! くそったれども!!

個別ページ表示 | トラックバック (1)

2006年07月12日
 ■ わわわわ、ワーク……しぇしぇしぇしぇしぇ……

精神衛生上、数日は『バックラッシュ!』の話から手を引こうと考えていたのですが、その前にどうしても1つだけ突っ込んでおきたいところが。

共感はできても賛同してはいけない「『バックラッシュ!』を非難する」
 まぁ、本文はどうでもいいんですが、一番最後の追記部分に注目してください。

【追記】 「弱者男性の主夫化」以外の弱者男性に対して「尊厳と生きるために必要な金を提供しえる方法」について書こうと思っていたのですが書き忘れていました。金銭的な問題に関してはベーシックインカムが考えられますし、あくまで職を行き渡らせることを基本に考えるのであればワークシェアリングを導入しやすい制度にすることが考えられます。例えば、フルタイム労働を前提とした企業主体の福祉厚生を社会化するなどですね。詳しいことは述べませんが、ほかにもいろいろ可能性が考えられ、「弱者男性の主夫化」だけが唯一の方法とは決して言えない。また、「弱者男性の主夫化」が(社会的な解決として)現実的でない理由は本文中に述べた通りです。

 わわわわわ、わわわわわワーク……しぇしぇしぇしぇしぇしあああああしぇしぇしぇああああああああああありんぐ……わーくしぇありんぐ? ワークシェアリング! ワークシェアリングktkr。
 今の日本において堂々と「ワークシェアリング!!!」だなんて!!
 最近テレビにたまにジュリアナで扇子もって踊ってた「荒木師匠」が出ることがあるじゃん。あれ見てるみたいだよな。「うわー、こんな時代もあったなー」「うわー、なんかなー」って感じがそっくり。
 10年前ならその言葉を使う価値もあったけど、あれから時間が経って勝ち組負け組が明確化した今、その言葉を使うことになんの意味があるというのか。

 つーかさぁ。そんなの時代に取り残されたバカな学者さん以外の誰が、今の日本の現状で本当に成立させられると思ってんの?
 ほら、2007年問題とか言われてるのあるじゃん。「団塊世代の優れた技師が引退するので、技術がなくなってしまう。なので、団塊の世代を再び雇え」みたいなやつ。あれなんか、要は団塊の世代とかいうバカたれが「この仕事は俺にしかできない」「若造なんかに任せておけるか」って、慣れれば誰でもできるはずの仕事を利権化して、まともに継承してこなかったという問題なんだよ。
 団塊のバカ……というか、正社員という利権を持っているバカは、みんながみんな「俺の仕事は俺にしかできない大変な仕事なんだ」と思いこんでいて、そのことが自尊心になっているわけだ。だから当然そこに「ワークシェア」なんて文脈を持ち込んでも「俺の仕事が若造にできるはずがない」って言うんだよ。本当は教えれば簡単に伝わるんだけど、それはできない。自分にしかできない仕事があると思いこむことが、仕事人間、すなわち日本型大人の存在意義だからね。
 それは決してマッチョな人だけではなくて、左傾論者も「ワークシェアリングをするべきだ」といいつつも、「でも俺の仕事は俺にしかできない」と思いこんでいる。要はどっちも若者に仕事なんか渡そうとしない。右も左も、日本人は本人しかできない仕事をすることで「大人」を確定させてきたのだから、それを否定することなんて絶対に不可能だ。だから日本の会社は不況のはじめにロクに大人をリストラせずに、若者の採用を極小に押え込んだ。責任で言えば、大人が全ての会社の全ての社員が全員退職する必要があったのにもかかわらずだ。
 その結果、若者にはバイトや派遣の仕事といった「時給750円ワーク」だけが譲渡されるわけだ。そして仕事の足りない若者が、その他の仕事の足りない若者と、時給を分け合いながら、へとへとになって仕事をしている。こりゃ素晴らしいワークシェアリングの末路だ。あまりに情けなくて笑いが止まらないよ。

 現実をロクに見ていない、引用先の中の人には分からないだろうけど、君の夢見る「ワークシェアリング」の禍々しい姿が、いま現状として表われているんだよ。


 いいか?
 「男女平等」も「ワークシェアリング」も、この言葉を使う時は、「既にこの言葉が現状に取り込まれ、(悪い意味で)換骨奪胎されていること」に注意を払うべきだ。
 そして、どうしてもこの言葉を使いたいなら、たっぷりと注釈をつけたうえで、こっそり小声で、別の主張の裏に隠して、この言葉を使え。
 俺ですら男女平等を叫ぶという行為を、このように「反々バックラッシュ」という捻じれた行為を通してしか叫ぶことができないのだから。
 そしてせっかく使うなら、心の奥底で恥ずかしく思いながらも「それでも主張しなければならない」という羞恥心と絶対的な意思の間でこの言葉を使え。

 それができないのなら、そんな言葉つかわないことだ。どっかの先生のように上辺だけの知的な、大衆を見下したおしゃべりで終るのがオチだから。

個別ページ表示 | トラックバック (1)

 ■ 「『バックラッシュ!』を非難する」への反響について

前回の「『バックラッシュ!』を非難する」について、少将補足を。

 「強者男性」「強者女性」という分類が勘違いされているようです。
 私の意図する「強者」というのは「≒正社員」。いうなれば「家庭を持とうかな」ぐらいの展望を持つことのできる生活力のある人たちの事であり、決してホリエモンレベルの収入がある人間のことではありません。森永卓郎言うところの「年収300万」(もしくは、将来的にその程度に年収が上がるだろうと期待できる)なら「強者」です。

 この辺をちゃんと指摘しなかった事は失敗ですね。
 ジェンダーフリー運動などで女性が総合職になれるようになったのは、つい最近の事であり、多くの女性が一般職に甘んじてきたという批判もありましたが、定職につけない弱者男性からすれば、一般職女性は十分に「強者女性」です。
 そういうことを「お茶汲みOL」の話で明確にしたつもりだったのですが、もう少し丁寧に前提を明示しておくべきでした。

「『バックラッシュ!』を非難する」への反響について

 個人的にはもっとボロカスにバカにされるかな? と思っていたので、意外と好意的に読んでくれている方が多いんだなぁ。というのが印象です。
 実際、あれを書いて、アップするまでに結構悩んだんですよ。「こんな書き逃げのような文章、アップしていいのかなぁ」と。
 けれども、やはり『バックラッシュ!』(前回もそうですが、双風舎の本は『』付けの『バックラッシュ!』。 いわゆる男女平等に対する反動という意味の場合は「」付け、もしくはカッコなしで「バックラッシュ」としています)によって男女平等という問題が、ただ「バックラッシュはすべて間違い、もしくは勝手な決めつけだ」というように理解され、バックラッシュが起きる現状そのものに対する視線が逸らされることに、弱者男性の立場として「寒さ」を感じ、ほっとけなかったので、前回の「挑発文」をアップしました。
 結果、はてなブックマークなどをみるに、「言葉は悪いが、その内容には一理あるのではないか?」と、上記のような単純なバックラッシュ理解に楔を撃てたのではないかと思います。やるべきことはできたな。と。


P.S 前回の文章を批判する方へ。
 そんなに社会の現実を見たくないのか?  せめて妄想の中でいいから、私のこうした感情がどういう背景から出てくるものなのかを少しは考えてほしい。

個別ページ表示 | トラックバック (0)

2006年07月07日
 ■ 悲劇を想定しつつ、それを金に変える死の商人の話

劇場版サイレントヒルが8日からロードショウ。
 で、上映館情報見たら、いつのまにか地元の映画館でも上映するとの情報が。
 うわぁぁぁぁぁ、失敗した。
 というか、1ヶ月ぐらい前には地元で上映するなんて情報は全くなくて、どうせメンズデイやモーニングやレイトショーに日時を合わせるのは不可能だからってんで、少しでも安く見るために前売券を買っておいたんだが、地元でやるんなら日時合わせられるじゃん。
 いや、まぁいいけどさ……。
 地元の映画館だと、メンズデイ狙いで平日の人が1桁ぐらいしかいない回でしか見たことないから、前売券があるということで休日にでも見に行ってみるかな。それとも空いてる方がやっぱりいいかな。

もう「日本“海”にミサイルが!!」ってのは、「消防署の“方”から来ました」とまったく同じ詐欺用語として考えるべきだよな。
 こういうバカが多いから、混乱を避けるためにも「東海」にすればいいんじゃね?

もう「『グロテスクな教養』2周目」というくくりでは書かないけれども、「『バックラッシュ!』非難」でも論理の中心になっている教養主義について触れてみたい。
 教養主義とは、いわゆる我々が「教養」という言葉を聞いた時に想像する意味とは全く違い、実態は「東大周辺エリートのお坊ちゃんが、高校や大学のモラトリアムにおいて、人生について悩むフリをする」という擬似知的行為の事と言える。
 つまり、こうした教養主義は、それ自体は「エリートである彼ら自身の人生に全く意味を持たないもの」であって、自分たちがエスカレーター式に社会に出てトップクラスの人生を送ることに対しての「免罪符」としての機能しかもっていない。
 「我々は若い時分に人生に悩んで、このような成功を手に入れたのだ」
 そしてもちろん、一般の大学とは縁のない大衆は「ソクラテスかプラトンか」などとまったく悩まずに、当然のように家の仕事を継いで貧困に喘ぐしかなかった。

 そして、『バックラッシュ!』という本自体がもつ構造も、まさに「男女平等論者が、格差社会(仕事不平等社会)を放置する免罪符としての反バックラッシュ」というものに他ならない。
 宮台は「バックラッシュは想定内」などと言うが、それはむしろ想定していたにもかかわらず、何ら手を打っていないということの告白に過ぎない。そして、こうした「お金をたくさん持ってる知的エリート層」というのは、別にそれに対して手を打たなくても、自身は生活の保証がされているのだから、想定されたことに対して責任を取る必要がない。
 むしろあとから「それは想定されていたことです」などといいつつ本でも出したほうが生活の足しになるのだから、想定される悲劇に対して無責任なのは当然ともいえる。いわゆる「死の商人」と同じようなものだ。
 現在「知的エリートが田吾作」なのは、大衆の僻みではなく、実際に宮台を含む知的エリートと呼ばれる人たちの存在が結局なんの意味もなかった、もしくはそうした悲劇を己が利益の為に利用したからこそ田吾作呼ばわりされているのであって、それを丸山眞男の時代に責任転嫁するのは非常にみっともない。

 あんまり宮台を集中攻撃するのもかわいそうなので、次は上野千鶴子に触れてみたい。

個別ページ表示 | トラックバック (1)

2006年07月06日
 ■ 『バックラッシュ!』を非難する

ということで、今日は双風舎『バックラッシュ!』に対する非難(批判ではなく)。
 なぜ「批判」かと言えば、双風舎編集部は自身のブログの中で「同書をつくった意味のひとつは、議論のたたき台になるようなものをつくる、というものなので。」と述べてるが、私は決してこの本を議論の叩き台にしてはならないと考える。ゆえる、両者の間に建設的意味を持ちうる「批判」ではなくて、建設的意味をもたない「非難」とする。

 まずは簡単にバックラッシュに至る前提を提示する。

 1、全体として「男は強者」「女は弱者」という色眼鏡でしかモノを見ていないため、結論がすべて「女性優遇」でしかなく、想像される社会が男女平等とはほど遠い。
 2、「社会進出」という名前の会社的な観点でしか強弱を区分していない。「会社での地位=人間の価値」という価値観を推進してしまっている。
 1+2、こうした論理がフリーターやニートという「弱者男性」、そして、自らを強者と規定しない「強者男性」をバックラッシュに駆り立てている。

 フェミナチがこうした論理を大上段から振りかざす以上、弱者男性がバックラッシュに走るのは当然だろう。この本のサブタイトルに「なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」とありますが、これが答えになる。


 細かく書いていきます。
 まず、この本の失敗は「さも、物事を論理的に読み解けば、男女平等に対する誤解は解ける」という教養主義的観念のかたまりでしかないことだ。
 教養主義的観念というのは、いわば「頭で理解を期待する」考え方で、つまり「正しい論理を提供すれば、正しい結果に繋がる」と考えることだ。だからこそ、この本の論者たちは「論理的に」バックラッシュを読み解いている。そしてその論理は極めて正しい。
 しかし、バックラッシュ(または、各種の国粋主義や男根主義など)の発生源は決して理性的なものではなく、感情的な反感である。「女が上に立つのが気に入らない」「女のせいで我々の仕事が奪われている」こうしたほの暗い情念が、バックラッシュのエネルギーになっている。
 であれば、「反バックラッシュ」の論理が解体するべきは、そのエネルギーの発生源であり、それに対して「男女平等は正しいのだ」といったところで、議論は成立しえない。
 これは「話せば分かる」「問答無用」のやりとりみたいなものであって、いくら男女平等論者が正論を叩きつけたところで、対話が成立しないなら、そのことに意味などはないといえる。
 かくして、男女平等論者とバックラッシュはこれまで以上に離反していく。そうなれば私はバックラッシュの側に付くだろうなぁ。


 ならば「なぜバックラッシュに対する感情的な反感が発生するのか」を理解することこそが、本当の『バックラッシュ!』の主題であるべきです。だから私はここで一人でそれをやります。フェミナチはいつまでたっても気付きもしないのだから。

 まずは言葉の定義をしておきたい。
 ここまでで既に何度か使っている「弱者 or 強者 and 男性 or 女性」について。
 単独の意味的には文字どおりなのだが、それらの関係については「SocioLogic」の中の人が提唱する「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を採用している。
 すなわち、強弱の順位は「強者男性」>「強者女性」>「弱者女性」>「弱者男性」である。ただし、「>」は、強弱の関係性のみを表す記号であって、その間の数量的な等しさを表すものではない。
(数量的な部分に対する私の実感としては「強者男性」>>>>>>「強者女性」>>「弱者女性」>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>「弱者男性」ぐらいであるように思う)
 そして、この順位を確定するための要素として、私は「仕事」と「家庭能力(≒家事+出産)」の2つを評価する。
 この2つにおいては、プラスマイナスとも「仕事が強」「家事は弱」と考える。
 「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」
 ここで男性側の家事の要素をまったく評価していないことは、ひとまず頭の片隅に入れておいてもらいたい。

 では、現在の男女平等論というよりも、この『バックラッシュ!』の立ち位置を明確に示していると言える、宮台真司の話から、この本の問題点を探ることにする。

 まず、宮台はバックラッシュを「過剰流動性による不安」であるとしている。
 そしてその不安とは「前提不在による混乱」であるとしている。

 しかし、不安こそは、すべてのバックラッシュ現象の背後にあるものです。「流動性不安」、すなわち過剰流動性による不安です。過剰流動性ゆえに、自明性への疑いが出てきて、アノミーすなわち「前提不在による混乱」におちいるわけです。 (p.10)

 しかし、男性弱者が抱えている不安は「過剰流動性」とは正反対の「硬直性」です。「一度フリーターになってしまったら、正社員になることは、非常に困難である」ということです。これは一体どういうことなのだろう。
 ここに、頭でっかちな教養主義的フェミニストたちがロクに見向きもしない問題が潜んでいる。

 そもそもフェミニズムが社会に浸透する前の社会*1において、性差はこのような観念であった。
 「「男性」>「女性」」
 あまりに単純で拍子抜けするかもしれない。もちろん貧富の差はいまよりもっと大きかったし、単純にこれだけなハズもないのだが、いわゆる「ウーマンリブ」に始まる男女平等論は、このこと、つまり「男性は強者」「女性は弱者」を前提にしている。
 そこで「女性が社会に進出することによって、男女平等が実現する」と考えたウーマンリブは女性の社会参加をうながした。
 そして、社会参加というのは、「≒会社に入ること」であった。

 確かに、この運動は80年代までにはうまくいっていた。経済は右肩上がりに成長していたので*2、会社の規模も当然右肩上がりに大きくなり、今までの男性のみならず、女性を社員として扱うだけのキャパシティーが保たれていた。
 しかし、90年度になって一気にバブル経済が膨らみ、そのまま破綻する。
 右肩上がりだった社員のキャパシティーは著しく制限され、また既存の社員を守るために、新卒社員を極力採用しないようになった。そのことはイコール「若者の社会進出が阻害されている」ことを示している。ここに「「バブル以前の男女」>「バブル以降の男女」」という格差が生まれる。
 ここでもう一度、かつての「「男性」>「女性」」という観念を見返してみる。
 ここで「>」の根拠となっていたのは「女性が社会進出していないこと」だった。だからこそ、女性の社会進出をうながし「「男性」=「女性」」にしようとしたのが、ウーマンリブの根拠だ。
 しかし、今度は経済の収縮によって「「バブル以前の男女」>「バブル以降の男女」」という格差が生まれてしまう。この格差も「バブル以降の男女が社会進出していないこと」だ。どちらも「社会進出」こそが格差を示すキーワードである。
 ウーマンリブは社会に流動性をもたらし、男女の格差を是正した。ならばバブル前後の格差はどのようなスローガンが是正しているのであろうか?

 答え「誰も是正していない」。
 ウーマンリブが男女格差を是正するスローガンなら、いま我々の格差を表すスローガンは「自己責任」であって、これは「社会は経済格差を是正しない」という宣言である。
 そのような言説が広く流布される現代において、じゃあ我々のような弱者にとって、どこに流動性があるのか?
 宮台は「すべてのバックラッシュの背後にあるのは、過剰流動性による不安だ」と述べる。しかし、過剰流動性が不安であるのは、あくまでもバブル以前の男女にのみあてはまる。「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図を持ち出すと、こういうことになる。
(「強者男性」←→「強者女性」)>「弱者女性」>「弱者男性」
 このカッコ側、つまり強者男性と強者女性の間にしか過剰流動性は存在していないのである。

 まず最初に私はこの本の失敗は「さも、物事を論理的に読み解けば、男女平等に対する誤解は解ける」という教養主義的観念のかたまりでしかないことだ」と述べた。
 この本に登場する、ほぼすべての論者に言えることだが、彼らは八木秀次をはじめとする「バックラッシュを推進する学者や論者」などに標準を合わせて、彼らを論破していくという形式の文章を書いている。
 しかし、そのことは同時に、実はこの『バックラッシュ!』が「「本に名前が出るような強者男性」VS「本に名前が出るような強者女性」」という、まさに「流動性の中での戦い」でしかないことを意味する。そしてそれはまさに教養論の傲りであり、そのことが本来のバックラッシュの主体たる、こうした知的上層階級ではない「弱者男性」を無視する結果を招いている。

 『バックラッシュ!』の中で鈴木謙介は

 一部では、バックラッシュのような右傾化現象は、ネットを中心とした若年層の出来事だと見なされているようだ。しかし、これは事実に反している。あらゆる世論調査が、近年の「右傾化」と呼ばれている現象の担い手が、高年齢層、とくに主として60代以上の男性であるという結果を導いている。

 と、記している。そしてこの直前に「ネタとベタ」という論理から、それは決して単なる右傾左傾ではないと、鈴木は解く。
 しかし、これはまったく間違っていると思う。問題は現在右傾化しているかどうかではなく、弱者男性が困難な立場にいるか否かだ。
 若者がいつまでも若者であり続けるならばいいが、刻々と年を重ねながらも延々と社会に吸収されないならば、右傾ネタは右傾ベタとなり、右傾ベタは反左翼に移り変わっていく。そうした中で「社会参加≒会社に入る」でしかないウーマンリブの論理は、確実に攻撃の対象となる。正社員であることが利権である以上、ウーマンリブの論理が弱者男性から社会参加の可能性を奪っていることには違いないからだ。そこでは既に正当性は問題とならない。ただ「弱者男性という社会格差が存在する」そのこと自体が問題なのだ。問題はミクロなのであり、マクロ的な分析では誰も救われない。

 にもかかわらず、『バックラッシュ!』においては、具体的に「どうやって弱者男性を救うか」という話ではなく、観念上の弱者たる女性の弁護に終始している。

 いまだに女性が弱者なのか!!
 いまだに在日が弱者なのか!!
 いまだに部落が弱者なのか!!

 弱者男性の憤りは頂点に達しつつある。

 本の帯には「男女平等でなにが悪い!」と書かれている。もちろん男女平等が悪いはずがない。そして問題はこの本がしょせん「女性優遇」の立場でしかなく、弱者男性にとっては非常に「ムカツク」本なのだ。「問答無用」!!
 結局、バックラッシュを封じるためには、弱者男性をどうにかするしかない。
 それこそがネクストステージであり、唯一の男女平等の道である。フェミニストはもはや強者女性の論理でしかないウーマンリブを捨て、弱者男性にスポットを当て、正しく男女平等を推進するべきなのだ。

 ここでもう一度「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を持ってくる。

1、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」

 これを男女平等にするためにはどうするか。
 まずはこの図において「家事と仕事の不平等」が起きているので、これをフラットに変える。

2、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」

 そして、男性に「家事」の評価を適用する。

3、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事- 家事-)」

 仕事と家事のプラスマイナスによって、強者男性と強者女性、そして弱者女性までが平等となる。では、残る弱者男性はどうすればいいのか。答えはもちろん。

4、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」=「弱者男性(仕事- 家事+)」

 男性の家事労働を正当な仕事として認めれば、ここに真の男女平等が実現する。
 この説明を見た時に「それは今までの男女平等主義者の主張と全く同じではないか」と思うかもしれない。
 ハッキリいえばその通りで、男女平等論者の主張は別に間違ってなどいない。
 しかし、実際に行われる男女平等の方法論と主張する方法論の間はズレまくっている。

 ウーマンリブは女性を仕事に駆り立て、社会参加を主張することによって、男女平等を実現しようとした。しかし、正社員の立場が利権でしかない現代において、それは「仕事をしているから偉いのだ」と主張する強者男性とまったく同じ論理をウーマンリブ側が持つことを意味する。
 「お茶を汲むために会社に入ったのではない!!」と主張しながら数十万の月給を得る強者女性に対し、繁雑な作業を時給数百円でやらされる弱者男女は苛立つのである。
 そして、数十万の月給を得る強者男性は、近くにいる強者女性(共働き)、もしくは近くにいる弱者女性(専業主婦)と結婚するのに対し、数十万の月給を得る強者女性は、近くにいる強者男性とは結婚するだろうが、じゃあ弱者男性と結婚するかといえば、そのモデルはまったく見いだすことはできない。
 先程の「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図の3と4を再び見返して欲しいのだが、この「弱者男性の家事スキルを評価するか」というわずか1点の違いしかないこの両者の間には、実はとてつもなく絶望的な距離感が横たわっている。そしてウーマンリブにかまけたフェミニズムは、誰も「弱者男性を専業主夫として扶養しよう」などとは決して言い出さないのである。
 男というのは、よくも悪くも「仕事をして、家族を養う」ということを目標に仕事をしている。それは弱者男性も同じことだ。いつかは仕事をして、家族を養いたいと思っている。だから苦しい。
 しかしその一方で、仕事をする強者女性は、本当に「仕事をして、家族を養う」ことを目標にしているのだろうか? むしろ「男に養われる」加護対象としての女性性と、ウーマンリブ的な男女平等論を、セコく使い分けているのが実態ではないか。

 私はバックラッシュに限らず、男女平等を語る時に「女性が家族を養うことについて、本当に真剣に考えているのか」この視点を忘れてはならない。
 既に各種ウーマンリブ運動によって、強者同志での平等感がかなり強くなった現在、そうして女性たちが受け取った権利に対して、ちゃんと義務が果たされていないのではないか。それが現在日本の男女平等論者が自省的に語らなければならないことなのだと、私は考える。


 こう考えると、八木秀次あたりがどう言ったの言わないのなんて、些細な問題でしかないことに気がつくはずだ。そしてそうした些細な論点で書かれた『バックラッシュ!』の本を男女平等論の叩き台にしてしまえば、そこから導き出される結論も些細なものでしかない。だから私は『バックラッシュ!』を批評ではなくて、非難する。

*1 といってもせいぜい戦後数十年間の話。
 それ以前になってしまうと『バックラッシュ!』で瀬口典子が述べているように、現在の性的役割をなんの疑問もなく当てはめてしまう(「現代社会では、男性が仕事をし、女性が家事をしている。ならば原始時代においても当然、男性が狩りをして、女性は子を育て、家の仕事をしていたハズだ(「マン・ザ・ハンター」モデル)」)ために、本来の行動様式と異なったイメージを持つことになりかねない。
 多分戦前や江戸時代だって、我々が考えるほど明確に当時の人々の生活や意識が分かっているわけでもなかろう。

*2 この時点で、私がこの話をどのような展開に持っていくか、分かる人は分かると思う。何度も使っている言い回しだし。

上記の話題に続いて。
 ここで大切なお知らせ。

 私は男女平等の実践として「私を養ってくれるお嫁さん」を募集します。

 いやいや、冗談じゃなくて、ある程度は本気です。現在彼女もいない立場ですので、本気にしてもいいですよ。
 ……つまり、強者女性が弱者男性を養う覚悟をもつことでしか男女平等を実現できないと考えている私は、自分自身をエサにして、本当に強者女性が弱者男性を養う意識はあるのかということを実験してみたいと思います。

 特典もいろいろあります。

 1、「仕事を辞めろ」とか絶対に言わない。 
 共働きで結婚するとなると、じゃあ仕事を続けるのか辞めるのかという話でゴタゴタしがちです。しかし、私が弱者男性である以上、稼ぎ手は女性であるあなたであることは明確ですから、当然仕事を続けていただくことになり、ゴタゴタがありません。

 2、「名字を変えなくていい」
 私は夫婦別姓マンセー論者なので、「俺の家に入れ」とか言いません。仕事にとっても名前は大切ですからね。
 なんなら、私がそちらの名字に変えてもいいです。

 3、「子供も特にいらない」
 女性にとって子供を産むことは、仕事にとって大きなマイナスとなります。時間のかかることですし、肉体的負担も大きいですからね。
 私は「子供がいなければ夫婦じゃない」なんて考え方はありませんので、自由に仕事をしてください。
 また、子供が欲しい場合でも、それは対応します。ただ、大家族だけは勘弁してください。2人以内で。

 4、「あなたの住んでいるところへ引っ越します」
 別に家にこだわりはありませんので、こっちがそちらへ引っ越します。
 ただ、できれば都市部、もしくは都市部にアクセスのいい場所がいいです。田舎より街が好き。

 いきなり結婚もあれですので、とりあえず結婚を前々々々々前提ぐらいに、お付き合いをしましょう。
 メールアドレスはトップページにありますので、よろしくお願いします。

 まぁ、もし本当に応募があって、俺が結婚できれば私も男女平等論についての認識を改めますし、応募がなければないで、「男女平等なんて言ったって、本当に平等にしようなんて誰も考えていないじゃないか」ということを実証したことになります。どちらに転んでも、私にとっておもしろい展開と言えましょう。

 おっ気軽にっ!!! さあどうぞ!!!(って、誰のギャグだっけ?) 俺を養えるもんなら養ってみろ!!!

伊集院光のジャンクに、ネタに扮して「男女同室着替え」の新聞記事を投稿した人間がおり、それが放送されてしまいました。
 バラエティー番組に対してまで、このような政治的な活動が露骨に行われる時代になりました。

たらこキューピー大人気!CM曲がCD化
 そうそう、そういえばこれ上野耕路の作曲なんだよな。

 『バックラッシュ!』キャンペーンブログ成城トランスカレッジにトラックバックを送っています。
 そうだ、はてなはリンク貼らないとTB送れないんだった。

個別ページ表示 | トラックバック (3)

2006年07月03日
 ■ 殺された若者の恨み

次回予告とかしつつも、次回予告はメインコンテンツの方にいれる事にしたので、もう少し時間をいただきます。
 つか、少なくとも男女平等に関して進歩的である俺を納得させられないような本が、バックラッシュを起す男尊女卑ウヨ厨どもを納得させられるとでも思うのか?

週刊ブックレビュー武田さんが『若者殺しの時代』を取り上げていたので(しかし、武田さんも意地の悪い本を選んだものだ。他のゲストの方がなんかかわいそうだった)、この本についてもう少し。

 私がこの本で一番素晴らしいと思うのは、80年代を率直に書いている事です。
 80年代というのは、まさに「バブルに向かう時代」であって、この時代を社会人として過ごした個人は「懐かしさ」を覚えつつも、同時にバブル崩壊に至る失敗の時代、いわば「失われた10年を形作った10年」であり、その「気恥ずかしさ」を感じているために、この時代を積極的に語ろうとする人間はほとんどいないのです。近年「昭和30年代」ばかりが語られるのは、当時が「完璧な時代であった(本当は幻想だけど)」からです。
 だから、80年代を毛恥ずかしいままに書き記した、この本は素晴らしいのです。

 そして、私はこの本に対して「恨み」を覚えずにいられないのです。

 1975年生まれの私にとって、80年代は、5〜15歳ぐらいまでを過ごした、まさに自分の人格を作り上げた年代が、この80年代なのです。
 で、この80年代に社会でなにが起っていたかといえば、堀井が「1983年のクリスマス」として記したこと、つまり「若者が経済化されて行く」ということが80年代に起っていたわけです。
 1章の「一杯のかけそば」の話は、つまり「家族で一杯のかけそばしか食べられなかった貧乏な家族が、長男は医者、次男は銀行員になって、成功しました。めでたしめでたし」というもので、つまり「貧乏な家族の経済的成功を翼賛している」話なのです。そしてこれが「いい話」として世の中に広まったのです。実際私も中学校の先生が配ったコピー(著作権は?)を読まされた記憶があります。
 これがいい話だったのは、貧乏と言うものがリアルに感じられた当時は「貧乏人(こっちに重心)が社会的に成功する(職業は記号)」であったからで、現在この話を眺めてみると、「貧乏人(という記号)が、お医者様や銀行員になって、贅沢をできるようになった(こっちに重心)」という話で、ずいぶん嫌味な話だな。というのが堀井の読み解き方なのです。
 そして、この頃から時代はバブルに突入し、まさにこの「お医者様や銀行員の兄弟」たちの享楽が始まるのです。そうした流れで消費されたのがこの「一杯のかけそば」というストーリーでした。

 そして、2章の「クリスマス」の話は、かつては「なんとなくお祝い」であったクリスマスが、女性週刊誌によって「経済強者たるカップルたちの祭り」に変わって行く過程を描いています。3章のディズニーランドの話も、同じ流れの延長上にあります。
 3章の結びで堀井はこう言います。

 80年代をとおして、僕たちは僕たちの共同体の抱いていた幻想をひとつずつバラバラにしてお金にしていったのだ。何だってバラバラにできるし、何だってお金になる。それがおもしろかったのだ。
 僕たちがおもしろがってバラバラにしたあと、スーツを着た大人たちがやってきて、それをすべて大がかりな金儲けのラインに組み込んだ。もちろんそのラインによって、いろんな人が豊かになっていったのだとおもう。おそらくまわりまわって僕たちも豊かになっているんだろう。でも、いったんバラバラにしてしまったものは、社会に組み込まれてしまい、もう二度ともとのかたちに戻すことができなくなってしまったのだ。

 この部分を「古き良き時代が失われた」と読むことも可能ですが、事態はそう単純ではないのです。
 それは「確かにそのことによって豊かになった」時代があったからです。
 古きよき時代は金になる。それは正義だったのです。金銭こそが正義だった時代がそこにあったのです。

 そして我々、当時のティーンズたちは、当たり前のように、このような「何でもお金にすること」を「絶対善」として受け取ってきたのです。流行に乗り、そこにお金を落すことは、絶対的に正しいことだったのです。それこそ戦時中に「鬼畜米英をやっつけること」や「支那人を虐殺すること」が正義そのものであったのと同じことです。


 私は、そうした時代に対して「恨み」を感じずにはいられないのです。
 時代はテレビや雑誌というマスメディアを通して我々の目に耳に入り、我々に「約束」をしました。
「消費さえしていれば、君たちもあの狂乱の仲間入りができるのだよ」と。
 そうです。80年代からバブル崩壊までにかけて、マスメディアで語られていたこれらの出来事は、すべて我々に対する約束だったハズなのです。
 しかし、約束は一方的に破られました。
 我々はバブルの狂乱どころか、ロクな金や地位も得られず、さらには無能者の集まりのように、まさに当時狂乱を得ていた連中に罵倒されがら現在まで生き長らえさせられているのです。

 だから、こうした「恨み」を抱いている私にとって「80年代がしっかりと描かれること」は極めて重要なのです。この時代が描かれなければ、我々がどのように不幸なのかということが、さっぱり周囲に伝わらないのです。
 恥ずかしい時代を恥ずかしいままに書く。それをできるのは、当時を主体的に生きた人たちだけなのです。

 だから私は堀井憲一郎のこの仕事を支持します。

個別ページ表示 | トラックバック (0)

2006年07月02日
 ■ つまりはどっちも「具体性」の話か?

「やさしくしてあげる」とは具体的にどうすることなのか

 俺がこれを読んで思ったのは


気丈に振舞っていたその子も、家に帰れば悲しくなってしまったのでしょう。気になったお父様が問いただしたときに、息子の名を口にしたそうです。お父様は担任の先生と相談し、その出来事を文書にしてお手紙を学校側に出しました。その手紙が息子の担任の先生のもとへ行き、先生も息子を叱り、先生と息子で謝りに行ってくださったそうです。


 ここでの「お父様」と「担任の先生」の行動は一体なんなのだろうと。
 リンク先が既に消えているので詳細は分かりませんが、お母さんが死んでしまった子が、家で泣いていたのでしょう。その理由を聞いたら、「息子」の名前が出てきたと。
 普通なら、話はここで終るのです。「お父様」とやらが「女の子」に何か適当にフォローを入れてあげて、それで終わりでいいはずです。
 ところが、わざわざその程度のことを担任と相談。御丁寧に文章にして学校に提出。散々「息子」を問題児扱いして、わざわざ謝らせるという嫌らしさ。
 そして、その「お父様」の暴走を全く止めない「担任の先生」。子供の問題行動(と呼ばれるもの)に対する対応が、小売り店のクレーム対応とまったく同じなのは、教育としていかがなものか。

 私はこの部分を一番の問題だと考えるのですが、リンク先の方はもちろん、はてなブックマークを見ても、このことに言及している人はいないようです。そして、大抵は「子供に対して死をどのように教えるか?」という「教養」のための談義になってしまっています。

 そして、教養談義は、大人が子供の失敗を寄ってたかって糾弾することを許容し、大人の失敗に対して非常に寛容です。理由は非常に簡単で、教養談義とは「上の視点から下を語る」ことに他ならないからです。そしてそこに「なにが下なのか」という論点が加わらなければ、普通に「大人は上、子供は下」と、書き手の「下」である「息子」を糾弾し、書き手と同等である「お父様」や「担任の先生」を問題視しないということが前提となってしまいます。

 さらに悪いことに、このケースでは母親までもが「私が意図していたことと大きく反していた行動を息子はとってしまった」と息子を糾弾している。
 だいたい「学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」などと言いながら、「してあげた」息子を糾弾するというのだから、サッパリ意味が分かりません。

 「学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」と言われた時に、息子がどうするかというのは、具体的に2通り考えられます。
 1つが母親が意図した「しないことをする」こと(リンク先によると、母親は結局「意図」を説明できなかったようだけれども、普通に考えればこれだろう)。そしてもう1つが今回息子がしたような「なにかをする」ことです。
 母親の意図であろう「しないことをする」とは「母親の死について触れない」ということです。しかし、この「しないことをする」というのは、子供にとってかなり複雑な考え方です。人間がかなり古くから数字という概念を持ちながら、ゼロという数字が発見されて普及するまでに長い時間を必要としたのは、まさに「ないという数値がある」という概念の複雑さゆえです。
 すると、当然「〜をしてあげなさい。」と言われた息子は「なにかをする」ことを選択せざるを得ません。そして母親の死に対してなにかをするということは、当然、母親の死に触れることになります。
 もちろん、その時に触れる側が「肉親の死」や「ペットなどの死」という会話の材料を持っていれば、悲しみをわかち合うこともできるでしょう。しかし、そうした材料がなければ、今回の息子のような失敗に至ります。
 このような息子の行動は十分に予測できることで、ならば「学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」などと言った母親の行為が問題の発端なのです。

 結局、この問題は「最近の子供の貧弱な死生観」などという、いかにもマスメディアが偽造しそうな教育問題ではなく、本質的に日本を暗く覆う、「大人のバカさ加減」です。このかわいそうな「息子」(この程度のことをこんな大ごとにされてしまった「女の子」もかわいそうだ)の周囲もそうですが、この問題で大人の側を一切糾弾しない側の人間も。

掲示板のワタリさんへのレス

さらに、そうして年収300万円以下の層と年収1000万の層の相互憎悪を招かないのか、と。
そのうえ、そのことによって、2世・3世政治家や旧華族・旧財閥、それに資産ナン億の超・上流の思うがままにならないか、と。

わたしたち年収が100万とかそこらのものたちが、なんとか年収1000万円のものと組んで、上流の暴走を防がないといけないと思うのですが、どうでしょうか。かつて労働者階級と中産階級が、ともに貴族を打倒したように。

 最初にここで使う用語を明確にしておきます。
 「上層階級」=いわゆる上流階級。年収1000万レベルの「中産階級」は、「上層の下」です。 
 「中層階級」=正社員層。将来の展望がなんとかひらけ、夫婦共稼ぎでも家族を養える層。一億総中流の層であり、いわゆる「中産階級」とは別の考え方をしています。
 「下層階級」将来の展望をもてない給料の層。

 いずれの層においても、「学歴と世代」において巨大な格差が存在し、流動性は非常に小さなものであると考えます。


 まず、私が意図しているのは「プレカリアートとして、いかに仕事の権利を勝ち取って行くか」という点であって、決して「上層階級の暴走を押さえる」ということではありません。
 確かに「上層階級が職業の低賃金化を押し進めている」とは言えますが、だからといってそれをそのまま「上層階級を打破しよう」みたいな動きに持って行くのは、古くさい左翼の論理です。
 上層階級を打破して、それで平等になるならいいですが、中層階級が下層階級を平等に受け入れるなどというのは、希望的観測でしかありません。少なくとも現在の「若者バッシング」を推進しているのは、上流階層の人間だけではありませんよね。

 我々はやはり「どのような平等を欲しているのか」ということを明確にしないといけないと思うのですよ。そしてそれは「一般市民と同じように仕事をして、社会生活を営める平等」であるべきです。
 しかし、「いかに上層の暴走を防ぐか」のような論理は、さも「我々が上層に至ることのできる平等」を欲しているように感じてしまいます。
 かつて六本木ヒルズに堀江と言う人がいましたが、彼がNHKの番組などでフリーター(やニート)に対して言っていたことは、「俺は努力してここまでになったんだ。お前らも努力をしろ」というものでした。
 私はやはりこうした言葉に反発を感じるんですね。それではまるで「フリーターは億万長者になるか、そのままかのどちらかだ」と言われているようなものです。もちろん、別にプレカリアートは億万長者になりたいワケではない。
 しかし、実際のフリーターに対する言説は、そのような「スーパーマンかルンペンか」のどちらかを選択させるようなモノばかりです。よくありがちな「フリーターは夢を追いすぎている」みたいな暴言も、そうした言説を前提に存在しています。

 どうしてそのようなことになってしまうかといえば、日本人の大半が「非社会人が社会人になるシステム」の問題点にまったく気づいていない、もしくは経済のために気づいていないフリをしているからです。
 詳しい説明は別の所に譲りますが、要は社会人化のためのプロセスは「卒業−就職」と直結しています。、これまでは長年の高度もしくは安定した経済成長によって、たまにパイプが少しつまっても、経済成長によってシステム回復が容易でした。
 しかしバブル崩壊で、このパイプラインが完全につまって堰から水(我々の事です)が溢れてしまい、さらに自然にはつまりが解消できない状態になってしまいました。
 本来ならこうしたときには「人工的な復旧システム」が用いられるべきですが、そうしたシステムを戦後ずーっと経済成長を続けてこられた我が国では、復旧システムをロクに用意してなかったのです。
 本来なら、当然この責任はバブル以前の社会人に押しつけられるべきですが、彼らはその責任を回避し、我々に責任を押しつけているのです。そして、その責任の押しつけ方こそが「お前らがスーパーマンになれ」という論理です。そして、私はワタリさんの言う「年収1000万円のものと組んで、上流の暴走を防がないといけない」というのも、スーパーマン論理の1つであると考えます。

 くり返しますが、我々がプレカリアートであることを全面に押し出して主張するなら「普通に仕事をして、普通の市民としての生活を送れること」を我々が目指すべき平等として考えるべきです。ならば当然そのための社会システムの整備を求めるべきなのです。
 しかし、それ以上の何かを要求して、我々に、もしくは我々自身が「スーパーマンであるべき」と考えるならば、そのことこそが「上層や中層の人間の思うがママ」の状態であると考えます。

次回予告 『バックラッシュ!』を批難(批評ではない)しまーす。

個別ページ表示 | トラックバック (0)