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2006年07月02日

 ■ つまりはどっちも「具体性」の話か?

「やさしくしてあげる」とは具体的にどうすることなのか

 俺がこれを読んで思ったのは


気丈に振舞っていたその子も、家に帰れば悲しくなってしまったのでしょう。気になったお父様が問いただしたときに、息子の名を口にしたそうです。お父様は担任の先生と相談し、その出来事を文書にしてお手紙を学校側に出しました。その手紙が息子の担任の先生のもとへ行き、先生も息子を叱り、先生と息子で謝りに行ってくださったそうです。


 ここでの「お父様」と「担任の先生」の行動は一体なんなのだろうと。
 リンク先が既に消えているので詳細は分かりませんが、お母さんが死んでしまった子が、家で泣いていたのでしょう。その理由を聞いたら、「息子」の名前が出てきたと。
 普通なら、話はここで終るのです。「お父様」とやらが「女の子」に何か適当にフォローを入れてあげて、それで終わりでいいはずです。
 ところが、わざわざその程度のことを担任と相談。御丁寧に文章にして学校に提出。散々「息子」を問題児扱いして、わざわざ謝らせるという嫌らしさ。
 そして、その「お父様」の暴走を全く止めない「担任の先生」。子供の問題行動(と呼ばれるもの)に対する対応が、小売り店のクレーム対応とまったく同じなのは、教育としていかがなものか。

 私はこの部分を一番の問題だと考えるのですが、リンク先の方はもちろん、はてなブックマークを見ても、このことに言及している人はいないようです。そして、大抵は「子供に対して死をどのように教えるか?」という「教養」のための談義になってしまっています。

 そして、教養談義は、大人が子供の失敗を寄ってたかって糾弾することを許容し、大人の失敗に対して非常に寛容です。理由は非常に簡単で、教養談義とは「上の視点から下を語る」ことに他ならないからです。そしてそこに「なにが下なのか」という論点が加わらなければ、普通に「大人は上、子供は下」と、書き手の「下」である「息子」を糾弾し、書き手と同等である「お父様」や「担任の先生」を問題視しないということが前提となってしまいます。

 さらに悪いことに、このケースでは母親までもが「私が意図していたことと大きく反していた行動を息子はとってしまった」と息子を糾弾している。
 だいたい「学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」などと言いながら、「してあげた」息子を糾弾するというのだから、サッパリ意味が分かりません。

 「学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」と言われた時に、息子がどうするかというのは、具体的に2通り考えられます。
 1つが母親が意図した「しないことをする」こと(リンク先によると、母親は結局「意図」を説明できなかったようだけれども、普通に考えればこれだろう)。そしてもう1つが今回息子がしたような「なにかをする」ことです。
 母親の意図であろう「しないことをする」とは「母親の死について触れない」ということです。しかし、この「しないことをする」というのは、子供にとってかなり複雑な考え方です。人間がかなり古くから数字という概念を持ちながら、ゼロという数字が発見されて普及するまでに長い時間を必要としたのは、まさに「ないという数値がある」という概念の複雑さゆえです。
 すると、当然「〜をしてあげなさい。」と言われた息子は「なにかをする」ことを選択せざるを得ません。そして母親の死に対してなにかをするということは、当然、母親の死に触れることになります。
 もちろん、その時に触れる側が「肉親の死」や「ペットなどの死」という会話の材料を持っていれば、悲しみをわかち合うこともできるでしょう。しかし、そうした材料がなければ、今回の息子のような失敗に至ります。
 このような息子の行動は十分に予測できることで、ならば「学校に出てきたらやさしくしてあげなさい。」などと言った母親の行為が問題の発端なのです。

 結局、この問題は「最近の子供の貧弱な死生観」などという、いかにもマスメディアが偽造しそうな教育問題ではなく、本質的に日本を暗く覆う、「大人のバカさ加減」です。このかわいそうな「息子」(この程度のことをこんな大ごとにされてしまった「女の子」もかわいそうだ)の周囲もそうですが、この問題で大人の側を一切糾弾しない側の人間も。

掲示板のワタリさんへのレス

さらに、そうして年収300万円以下の層と年収1000万の層の相互憎悪を招かないのか、と。
そのうえ、そのことによって、2世・3世政治家や旧華族・旧財閥、それに資産ナン億の超・上流の思うがままにならないか、と。

わたしたち年収が100万とかそこらのものたちが、なんとか年収1000万円のものと組んで、上流の暴走を防がないといけないと思うのですが、どうでしょうか。かつて労働者階級と中産階級が、ともに貴族を打倒したように。

 最初にここで使う用語を明確にしておきます。
 「上層階級」=いわゆる上流階級。年収1000万レベルの「中産階級」は、「上層の下」です。 
 「中層階級」=正社員層。将来の展望がなんとかひらけ、夫婦共稼ぎでも家族を養える層。一億総中流の層であり、いわゆる「中産階級」とは別の考え方をしています。
 「下層階級」将来の展望をもてない給料の層。

 いずれの層においても、「学歴と世代」において巨大な格差が存在し、流動性は非常に小さなものであると考えます。


 まず、私が意図しているのは「プレカリアートとして、いかに仕事の権利を勝ち取って行くか」という点であって、決して「上層階級の暴走を押さえる」ということではありません。
 確かに「上層階級が職業の低賃金化を押し進めている」とは言えますが、だからといってそれをそのまま「上層階級を打破しよう」みたいな動きに持って行くのは、古くさい左翼の論理です。
 上層階級を打破して、それで平等になるならいいですが、中層階級が下層階級を平等に受け入れるなどというのは、希望的観測でしかありません。少なくとも現在の「若者バッシング」を推進しているのは、上流階層の人間だけではありませんよね。

 我々はやはり「どのような平等を欲しているのか」ということを明確にしないといけないと思うのですよ。そしてそれは「一般市民と同じように仕事をして、社会生活を営める平等」であるべきです。
 しかし、「いかに上層の暴走を防ぐか」のような論理は、さも「我々が上層に至ることのできる平等」を欲しているように感じてしまいます。
 かつて六本木ヒルズに堀江と言う人がいましたが、彼がNHKの番組などでフリーター(やニート)に対して言っていたことは、「俺は努力してここまでになったんだ。お前らも努力をしろ」というものでした。
 私はやはりこうした言葉に反発を感じるんですね。それではまるで「フリーターは億万長者になるか、そのままかのどちらかだ」と言われているようなものです。もちろん、別にプレカリアートは億万長者になりたいワケではない。
 しかし、実際のフリーターに対する言説は、そのような「スーパーマンかルンペンか」のどちらかを選択させるようなモノばかりです。よくありがちな「フリーターは夢を追いすぎている」みたいな暴言も、そうした言説を前提に存在しています。

 どうしてそのようなことになってしまうかといえば、日本人の大半が「非社会人が社会人になるシステム」の問題点にまったく気づいていない、もしくは経済のために気づいていないフリをしているからです。
 詳しい説明は別の所に譲りますが、要は社会人化のためのプロセスは「卒業−就職」と直結しています。、これまでは長年の高度もしくは安定した経済成長によって、たまにパイプが少しつまっても、経済成長によってシステム回復が容易でした。
 しかしバブル崩壊で、このパイプラインが完全につまって堰から水(我々の事です)が溢れてしまい、さらに自然にはつまりが解消できない状態になってしまいました。
 本来ならこうしたときには「人工的な復旧システム」が用いられるべきですが、そうしたシステムを戦後ずーっと経済成長を続けてこられた我が国では、復旧システムをロクに用意してなかったのです。
 本来なら、当然この責任はバブル以前の社会人に押しつけられるべきですが、彼らはその責任を回避し、我々に責任を押しつけているのです。そして、その責任の押しつけ方こそが「お前らがスーパーマンになれ」という論理です。そして、私はワタリさんの言う「年収1000万円のものと組んで、上流の暴走を防がないといけない」というのも、スーパーマン論理の1つであると考えます。

 くり返しますが、我々がプレカリアートであることを全面に押し出して主張するなら「普通に仕事をして、普通の市民としての生活を送れること」を我々が目指すべき平等として考えるべきです。ならば当然そのための社会システムの整備を求めるべきなのです。
 しかし、それ以上の何かを要求して、我々に、もしくは我々自身が「スーパーマンであるべき」と考えるならば、そのことこそが「上層や中層の人間の思うがママ」の状態であると考えます。

次回予告 『バックラッシュ!』を批難(批評ではない)しまーす。

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