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2006年07月03日

 ■ 殺された若者の恨み

次回予告とかしつつも、次回予告はメインコンテンツの方にいれる事にしたので、もう少し時間をいただきます。
 つか、少なくとも男女平等に関して進歩的である俺を納得させられないような本が、バックラッシュを起す男尊女卑ウヨ厨どもを納得させられるとでも思うのか?

週刊ブックレビュー武田さんが『若者殺しの時代』を取り上げていたので(しかし、武田さんも意地の悪い本を選んだものだ。他のゲストの方がなんかかわいそうだった)、この本についてもう少し。

 私がこの本で一番素晴らしいと思うのは、80年代を率直に書いている事です。
 80年代というのは、まさに「バブルに向かう時代」であって、この時代を社会人として過ごした個人は「懐かしさ」を覚えつつも、同時にバブル崩壊に至る失敗の時代、いわば「失われた10年を形作った10年」であり、その「気恥ずかしさ」を感じているために、この時代を積極的に語ろうとする人間はほとんどいないのです。近年「昭和30年代」ばかりが語られるのは、当時が「完璧な時代であった(本当は幻想だけど)」からです。
 だから、80年代を毛恥ずかしいままに書き記した、この本は素晴らしいのです。

 そして、私はこの本に対して「恨み」を覚えずにいられないのです。

 1975年生まれの私にとって、80年代は、5〜15歳ぐらいまでを過ごした、まさに自分の人格を作り上げた年代が、この80年代なのです。
 で、この80年代に社会でなにが起っていたかといえば、堀井が「1983年のクリスマス」として記したこと、つまり「若者が経済化されて行く」ということが80年代に起っていたわけです。
 1章の「一杯のかけそば」の話は、つまり「家族で一杯のかけそばしか食べられなかった貧乏な家族が、長男は医者、次男は銀行員になって、成功しました。めでたしめでたし」というもので、つまり「貧乏な家族の経済的成功を翼賛している」話なのです。そしてこれが「いい話」として世の中に広まったのです。実際私も中学校の先生が配ったコピー(著作権は?)を読まされた記憶があります。
 これがいい話だったのは、貧乏と言うものがリアルに感じられた当時は「貧乏人(こっちに重心)が社会的に成功する(職業は記号)」であったからで、現在この話を眺めてみると、「貧乏人(という記号)が、お医者様や銀行員になって、贅沢をできるようになった(こっちに重心)」という話で、ずいぶん嫌味な話だな。というのが堀井の読み解き方なのです。
 そして、この頃から時代はバブルに突入し、まさにこの「お医者様や銀行員の兄弟」たちの享楽が始まるのです。そうした流れで消費されたのがこの「一杯のかけそば」というストーリーでした。

 そして、2章の「クリスマス」の話は、かつては「なんとなくお祝い」であったクリスマスが、女性週刊誌によって「経済強者たるカップルたちの祭り」に変わって行く過程を描いています。3章のディズニーランドの話も、同じ流れの延長上にあります。
 3章の結びで堀井はこう言います。

 80年代をとおして、僕たちは僕たちの共同体の抱いていた幻想をひとつずつバラバラにしてお金にしていったのだ。何だってバラバラにできるし、何だってお金になる。それがおもしろかったのだ。
 僕たちがおもしろがってバラバラにしたあと、スーツを着た大人たちがやってきて、それをすべて大がかりな金儲けのラインに組み込んだ。もちろんそのラインによって、いろんな人が豊かになっていったのだとおもう。おそらくまわりまわって僕たちも豊かになっているんだろう。でも、いったんバラバラにしてしまったものは、社会に組み込まれてしまい、もう二度ともとのかたちに戻すことができなくなってしまったのだ。

 この部分を「古き良き時代が失われた」と読むことも可能ですが、事態はそう単純ではないのです。
 それは「確かにそのことによって豊かになった」時代があったからです。
 古きよき時代は金になる。それは正義だったのです。金銭こそが正義だった時代がそこにあったのです。

 そして我々、当時のティーンズたちは、当たり前のように、このような「何でもお金にすること」を「絶対善」として受け取ってきたのです。流行に乗り、そこにお金を落すことは、絶対的に正しいことだったのです。それこそ戦時中に「鬼畜米英をやっつけること」や「支那人を虐殺すること」が正義そのものであったのと同じことです。


 私は、そうした時代に対して「恨み」を感じずにはいられないのです。
 時代はテレビや雑誌というマスメディアを通して我々の目に耳に入り、我々に「約束」をしました。
「消費さえしていれば、君たちもあの狂乱の仲間入りができるのだよ」と。
 そうです。80年代からバブル崩壊までにかけて、マスメディアで語られていたこれらの出来事は、すべて我々に対する約束だったハズなのです。
 しかし、約束は一方的に破られました。
 我々はバブルの狂乱どころか、ロクな金や地位も得られず、さらには無能者の集まりのように、まさに当時狂乱を得ていた連中に罵倒されがら現在まで生き長らえさせられているのです。

 だから、こうした「恨み」を抱いている私にとって「80年代がしっかりと描かれること」は極めて重要なのです。この時代が描かれなければ、我々がどのように不幸なのかということが、さっぱり周囲に伝わらないのです。
 恥ずかしい時代を恥ずかしいままに書く。それをできるのは、当時を主体的に生きた人たちだけなのです。

 だから私は堀井憲一郎のこの仕事を支持します。

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