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2006年07月07日

 ■ 悲劇を想定しつつ、それを金に変える死の商人の話

劇場版サイレントヒルが8日からロードショウ。
 で、上映館情報見たら、いつのまにか地元の映画館でも上映するとの情報が。
 うわぁぁぁぁぁ、失敗した。
 というか、1ヶ月ぐらい前には地元で上映するなんて情報は全くなくて、どうせメンズデイやモーニングやレイトショーに日時を合わせるのは不可能だからってんで、少しでも安く見るために前売券を買っておいたんだが、地元でやるんなら日時合わせられるじゃん。
 いや、まぁいいけどさ……。
 地元の映画館だと、メンズデイ狙いで平日の人が1桁ぐらいしかいない回でしか見たことないから、前売券があるということで休日にでも見に行ってみるかな。それとも空いてる方がやっぱりいいかな。

もう「日本“海”にミサイルが!!」ってのは、「消防署の“方”から来ました」とまったく同じ詐欺用語として考えるべきだよな。
 こういうバカが多いから、混乱を避けるためにも「東海」にすればいいんじゃね?

もう「『グロテスクな教養』2周目」というくくりでは書かないけれども、「『バックラッシュ!』非難」でも論理の中心になっている教養主義について触れてみたい。
 教養主義とは、いわゆる我々が「教養」という言葉を聞いた時に想像する意味とは全く違い、実態は「東大周辺エリートのお坊ちゃんが、高校や大学のモラトリアムにおいて、人生について悩むフリをする」という擬似知的行為の事と言える。
 つまり、こうした教養主義は、それ自体は「エリートである彼ら自身の人生に全く意味を持たないもの」であって、自分たちがエスカレーター式に社会に出てトップクラスの人生を送ることに対しての「免罪符」としての機能しかもっていない。
 「我々は若い時分に人生に悩んで、このような成功を手に入れたのだ」
 そしてもちろん、一般の大学とは縁のない大衆は「ソクラテスかプラトンか」などとまったく悩まずに、当然のように家の仕事を継いで貧困に喘ぐしかなかった。

 そして、『バックラッシュ!』という本自体がもつ構造も、まさに「男女平等論者が、格差社会(仕事不平等社会)を放置する免罪符としての反バックラッシュ」というものに他ならない。
 宮台は「バックラッシュは想定内」などと言うが、それはむしろ想定していたにもかかわらず、何ら手を打っていないということの告白に過ぎない。そして、こうした「お金をたくさん持ってる知的エリート層」というのは、別にそれに対して手を打たなくても、自身は生活の保証がされているのだから、想定されたことに対して責任を取る必要がない。
 むしろあとから「それは想定されていたことです」などといいつつ本でも出したほうが生活の足しになるのだから、想定される悲劇に対して無責任なのは当然ともいえる。いわゆる「死の商人」と同じようなものだ。
 現在「知的エリートが田吾作」なのは、大衆の僻みではなく、実際に宮台を含む知的エリートと呼ばれる人たちの存在が結局なんの意味もなかった、もしくはそうした悲劇を己が利益の為に利用したからこそ田吾作呼ばわりされているのであって、それを丸山眞男の時代に責任転嫁するのは非常にみっともない。

 あんまり宮台を集中攻撃するのもかわいそうなので、次は上野千鶴子に触れてみたい。

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