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2006年07月28日

 ■ 『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その1)

「成城トランスカレッジ!」によると、私が火をつけた(と自慢してもいいだろう)「弱者男性に対する問題」という火の手が順調にのびているようでなにより。みんな張り切ってやって欲しい。

 と言いたいところだが、飛び火した先での議論のレベルがあまりにも低くて辟易しているのが正直なところ。
 まぁ正直、最初っからそれ以上の期待はしてなかったんだけど、やはりというかなんというか、単純に「弱者男性をどうするか」「弱者男性と男女平等論の関わりは」という話に終始してしまっていて、私が書いたことの一部要素だけを勝手に抜き出して、さもそれが問題の本質であるかのような「雑談」になってしまっている。

 で、このような論点の捻じれ構造を別の例で例えてみましょうか。

 ゲームをしていますよと。
 そのゲームは、サイコロを1個振って、1の目が出れば勝ち。他の目なら負けというルール。
 ただし、直接賭ける人間はサイコロを振ることはできません。サイコロを振るのは第3者です。この場には第3者が何十人かいるとしましょう。
 で、今までに5回ゲームをして、2、3、5、4、6の目が出ています。
 この時点で直接賭ける人間は既に5回負けています。もうこれが最後の勝負です。負ければ破綻です。
 そこで、サイコロを振る第3者の人たちが議論を交わしています。第3者の人たちは、賭けた人に勝ってほしいと考えています。
 「これまで5回振って、1以外の目が1回ずつでているから、次こそは1の目が出るはずだ」
 「いやいや、サイコロの出目はつねに1/6の確立でしかないんだから、次こそ1の目が出るとは限らない」

 この問題で、私の外で議論をしている人たちは、こういう議論をしている。さて、おかしいのはどこでしょうか?

 そう。本当の問題は「次にサイコロで1の目が出るかどうか?」ではなく、「次にサイコロで1の目を出さないと、賭けた人間が負けてしまう事」である。
 ここで単語を置き換えてみよう。
 「直接賭ける人」とは、そのまま私、つまり「弱者男性」のこと。
 単語としては出てきませんが、その「賭けている相手」は、社会そのもの。
 そして、「サイコロを振る第3者」が、今回私が批判している「左傾論壇」。

 左傾論壇はサイコロを振る権利がある。そしてそれはすなわち義務でもある。
 サイコロを振らなければならない時に、サイコロの目がどう出るかを議論する。次は1の目がでるのか、そうでないのか。
 しかし、この段階で「1の目がでない」ということは、すなわち弱者男性の破綻を意味する。破綻という言葉で弱ければ、死でもいい、死を意味する。
 その時に、サイコロの確立論議が、なんの役に立つだろうか?
 本当の問題はこうした状況下においては「是が非でも1を出さなければならない」ということ。
 それこそ、イカサマで懐から1の目だけのサイコロを取り出して振るようなことをして、なんとしてでも1を出してあげること。重要なのはそれだけなのだ。
 1の目が確率的にどうだという、マクロな視点に立った論理ではなく、とにかくこの場で1の目を出さなければいけないという意識こそがこの場でもっとも必要なことなのだ。

 私が元々『バックラッシュ!』を批判したのは、その内容があまりに教養主義的に過ぎることであった。
 私の考える教養主義とは、「ある特定の場所にいる人たち(東大周辺とか、論壇周辺とか)によって行われる、擬似知的議論によって、自分の存在意義を担保する考え方」である。
 「私はこのように悩んだから、こうしてエリートであっていいのだ」「私は努力をしたから、高収入を得ていいのだ」「私は女性のことを考えたから、男女平等論者として正しいのだ」等々、いずれにしてもその結果ではなく、ただ「そう考えた」ということでしかない。
 そして、私は『バックラッシュ!』全体に横たわっていた、「八木秀次ラスボス説」に対して、「そうした考え方は、教養の場にいる「強者男性」側と、同じく教養の場にいる「強者女性」側の議論ゴッコでしかない」と批難した。それこそ「八木秀次を批判できたから、バックラッシュは間違っているのだ」という、バックラッシュの広まりという現実を目の前にした、教養主義バカの無責任な逃避でしかないと考えたからだ。
 そしてまさに今回の「弱者男性を語りたがる連中」による、的を射ない議論の広まりも、こうした「さも、私は男女平等のことを真剣に考えてますよ」という教養主義バカの仕業といえる。

 そして彼らは「何がなんでもサイコロの1を出すこと」という論点にいつまでたっても至らない。
 だって、彼らは別にとってこの問題なんて、しょせんはどうでもいいことだから。
 どうでもいいことを自分の価値付けのためだけに使っているから。

『バックラッシュ!』非難の本質とは?

 巷のブログが上のような調子だから、私はもう少しひねった論点でこの問題を掘り進めようと思う。
 いや、ひねったというよりも、これが私が考えていた元々の論点で、左傾論壇がもっとも触れてほしくないであろう論点だろう。

・左傾論壇にとって「弱者」とは誰か?

macska dot orgによる「鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問」は、まさにエセジェンダーフリー論者の本音を吐露した素晴らしい文章である。

そもそも、この「男性」という括りに疑問がある。鈴木氏によれば、ここでいう「(弱者)男性」とは経済構造の変化による流動性の暴走におびやかされる存在だとされるから、逆に言えば経済構造が変化する前の時代に生まれていれば一人で家族を養うだけの収入を得られる「強者」ーーと当時は描写しないだろうけれどもーーとなるはずだった人たちのことだ。そこには何故か、在日コリアンの男性やアジアや南米から出稼ぎに来ている外国人労働者の男性、被差別部落出身の男性、障害のある男性、ゲイやバイセクシュアルの男性など、わたしが「弱者男性」と聞いてまず思い浮かべるような人たちの存在がまったく想定されていない。

 実に素晴らしいではないか。
 現実の社会問題を無視して、「僕の考える弱者はこういう人」という色眼鏡で弱者基準を語る。そしてここから「男性」という括りを外せば、そのまま「女性は絶対的に弱者なのである!!」と力説する姿が目に浮かぶ。
 男性弱者を不幸を踏み台にして、「私たちは弱者である!!」と叫ぶ、勝ち誇った女性像は、まさにエセジェンダーフリー論者の夢であろう。

 私は最初の文章において、「男性強者、女性強者、女性弱者、男性弱者」という分類をしている。
 そしてその上で「いまだに女性が弱者なのか!!」「いまだに在日が弱者なのか!!」「いまだに部落が弱者なのか!!」と説いている。
 この考え方は、かつての「色の着いた弱者」を解体し、すべてを「仕事利権と金」という文脈で捉え直し、今一度弱者の再定義を行なうべきではないかというものであり、決してmacskaが言うような「在日の男性や部落出身の男性の存在を無視した記述」などではない。

 結局のところ、彼らにとっては社会の現状などはさっぱり関係なく、ただ「僕が考えた弱者」こそが弱者なのである。
 そして、「僕の考えた弱者」が弱者認定されていない私のような考え方を必死に批判しようとする。

(次回に続く)
 とりあえずこっちで、この先に近い話をしているので、読んでおいてください。こっちのボリュームの薄さを少々は補完できるでしょう。

途中でスペシャルボーナスがそろっても、明日の為に叩くべし叩くべし。
ジョーカーコレクション 14400枚

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