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2006年08月07日

 ■ 宮台真司の「まったり詐欺」 〜バブル受益世代の自己肯定文脈に騙されるな〜

『サイファ 覚醒せよ』文庫版あとがき:「実存的な曖昧さへ」を読んで、「まだこいつはこんな悠長な事を言っているのか」と愕然とした。

 ハッキリいえば、このような思想は、その生活に対して十分な金銭という土台が築かれていることが前提条件なのだ。
 ただ曖昧なままに生きていれられる強度など、金銭のない生活の上では容易に瓦解する。
 ならばこうした論理が適用されるのは、若い人や現在道を迷っている人たちではなく、既に金銭という土台を手に入れた、既存の強者である。
 そしてそうした強者のうち、女性に対して、「NANO主婦」という新たな付合がつけられているそうだ。
 もちろん、私自身はこのようなレッテル張りに賛同しない。だいたい、主婦なんて昔っからその程度のものだろう。(念の為に書いておくが、男性会社員だって同様に「その程度のもの」でしかない。別に彼らが主体的な意味をもって会社にいるわけではないだろう)
 このような他者に対するバッシングは、すべて自己に対する誇大妄想から発生している。そして社会全体にとっての自己は「昭和」であるとか「団塊」であるとか「正社員」といった、マジョリティーの記憶である。
 宮台の論理は、こうした差別は否定するが、一方でそもそもの土台の問題に対してはサッパリ言及しない。ここでも「過剰流動性」という言葉が使われているが、そもそもこの言葉は「金余り」の意味である。その言葉で社会を語ろうとすれば、自ずと「金銭という土台が崩れていること」を強力に否定することになるし、そもそも金銭的御恵に預かる状況にない人間のことを、すっぱり切り捨てることになる。
 そして、現に宮台の思想はもはや彼の同世代、すなわちバブル受益世代にしか届かないものになっている。

 以前に双風舎の谷川さん(!)と話していた時に、「宮台真司の名前も、今の学生達にはもうほとんど知られていない」というような話を聞いて驚いた記憶がある。
 だが、確かにバブルの夢を引きずっていた当時に、つまり私がまだ20数才の頃に見ていた宮台の思想と、バブルの夢などとうに捨てた現在に見る宮台の思想を比べてみれば、現在において宮台の論理はいかにも古くさい。そうなると、90年代サブカル界では有名人だった彼の名前が忘れられるのも当然だろう。

 だが、80年代から90年という、黄金期の復興を夢見る左傾論壇は、今だに宮台の名前を重用している。
 というか、当時の論理をもちいて、それがそのまま現在にも通用すると考えている。
 そうやって若者を当時の「懐かしき栄光の日々」の中に囲い込もうとしている。

 しかし、騙されてはいけない。
 そうした囲みのなかにおいては、我々はいつまでたっても弱者のままで放置される。
 弱者がいて、彼らが実存に悩めば悩むほど、彼らの論理は重用されるのだ。
 拉致議連が決して拉致被害者を助け出そうとしないように、若者を古くさい論理のうちに取り込もうとする左傾論壇の論理は、決して我々を救い出すつもりなどない。
 我々が生きにくいのは、決して我々自身の意識の問題、すなわち自己責任ではなく、我々に支払われるべき金が、我々に支払われないという社会問題なのだ。

本題と関係ない自分用メモ
 昨今の「経済学ブーム」は、経済学がブームになっているというよりは、かつてのサブカル系社会学ブームが、経済学に取って代わったと考えるべきである。
 というか、今は実用学問ブームか。
 新書ブームもそれを下支えしているのは、学問の砦に守られた「大先生」たちである。大先生であれば、ゲーム脳だろうが、品格だろうが、準引きこもりだろうが何でもいいのが新書ブームである。
 新書ブームは、かつての新興宗教ブームと同じ意味を持っている。公安はアーレフを見張るより、出版社の出入りを見張ったほうがいいのではないか(笑)

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