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2006年08月29日

 ■ 主観か客観か?

掲示板へのレスです。

Re:1528 フェミニストさん

わたしは正直、「弱者《男性》」というカテゴリーを前面に押し出すことにはあまり賛成できません。
今のところあくまで「弱者《男女》」、つまり「プレカリアート」の叫びと読み替えて「限りない共感」を示していますが、それでは不十分ですか?

 私の目指すところは、あなたの共感ではなく、現実的に弱者男性が弱者でなくなることです。
 十分不十分ではなく、話が違います。

そして、おっしゃるフェミニズムへの呪詛は、どこまでが「彼ら」のもので、どこまでが「あなた自身」のものですか?
この問いへのお答えがどうであろうと、「プレカリアートへの共感」は変わりませんが、「赤木さん個人≒物書きとしての赤木さんへの評価」は変わります。

 「私のモノ=主観」と「彼らのモノ=客観」という単純な図式は説得力があるように見えますが、その実は所詮は言葉の定義上だけのむりやりな二元論化に過ぎません。
 森達也さんがドキュメンタリーや報道、ジャーナリズムなどについて事あるごとに「公平中立不偏不党などありえない」という話をするのは、確かに取材側が「ある主体」でしかありえないのだから、ある主体が主観的に描き出した客観は、しょせん「主観的な」客観性(主体的に構築された客観性を、カタカナで「キャッカン」とでも呼びましょうか)でしかない。という意味でもあるでしょう。
 しかしそれと同時に、そうした事を報じる側、作り手に対して、「客観性を正義とした視点は張り子の虎にしかならない」というメッセージを送っていると、私は受け取っています。

 私が「男性弱者を救済しない左傾論壇」を避難するのも、「かつての問題」「問題として認識されているもの」「既にある論文」「ニュース記事」といった、キャッカン的なものを積み重ねて論拠とするが故に、目前に起きている新規の問題に対してまったく目を向けることのできない現状があるからです。そうした論壇においては、結局のところ既に問題と認識されている「色つきの弱者(女性、部落、在日)」しか救われないということになってしまう。
 そして、そうした左傾論壇の態度を目の前にして、われわれのような男性弱者は「彼らはああいう弱者マジョリティーのためだけに活動して、同時に我々を貶めている」と認識するしかないのです。

 ですから、私はそもそもの問題提起は極めて「主観的に」行ないました。
 しかしそれらは私自身が「極力、他の弱者がどう考えているかを取り入れていこう」と考えて、いろいろ苦しんだ後の「主観」ですから、主観自体に「彼ら」の呪詛が多数含まれています。自ら朱に染まって赤くなっているということです。
 結局、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが「彼ら」なのかなど分かりません。ただ分かっていることは、客観性を論拠の中心に据えるキャッカン的な態度では、決して弱者男性の問題を語り始めることは不可能だったということです。

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