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2006年09月28日
 ■ 「深夜のシマネコ読書録」を開始しました

現在、少々いろいろ自分の中で整理中(特に部屋の掃除は大事業だ)ですので、日記の更新がおざなりになってしまっていることをお詫びいたします。

「青い三角定規」高田真理さん自殺
 これは自殺ではない。れっきとした殺人事件だ!
 彼を殺したのは、車という乗り物の「過剰」を直視せず、ただ各人のモラルの問題という自己責任論を掲げて、飲酒運転事故の加害者を叩きまくったマスコミだ!!

現在、休眠中のはてなダイアリーを復活させて、書評専用のBlogにしました。
「深夜のシマネコ読書録」
 第1回は庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』です。

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2006年09月16日
 ■ 格差問題を大ざっぱに分類してみるテスト

思いつきにつき、メモとして。

 昨日書いたような「左翼と若者弱者の離反」が起るのは、それぞれが論じている「格差問題」が、同じ言葉を使いながら、まったく内容の違うものだからではないだろうか?

 とりあえず「格差問題」を3つにザックリ分けてみる。

 1、現行の社会システムが必然的に発生させてしまう格差の問題
 これは、もともとこの手の問題が「格差問題」と言われる直接的なきっかけになった佐藤俊樹の『不平等社会日本』や、山田昌弘の『希望各社社会』で論じられているような、日本のシステムが必然的に格差を生み出してしまう問題としての「格差」である。
 佐藤俊樹は、職業が決して各人の能力に従った適正に沿ってあてがわれるのではなく、親がホワイトカラーなら、子供もホワイトカラーになりやすいという関係性を見つけ、決して日本は平等ではなく、一億総中流の社会が過去のモノ(団塊世代の時点で、既に過去になっている!!)であることを暴き出いる。
 山田昌弘は教育システムや家族のありように注目し、社会から「ローリスク(一般のサラリーマンとして、普通に勤め上げる)」な選択肢が失われつつあり、それが二極化に繋がっていると警告している。
 こうした「社会システム要因説」は、格差問題の本線であり、本来ならばこのことの議論こそが、格差問題を真に解消するために必要なことだと考える。
 しかし、この問題はその「格差問題」という言葉の扱いやすさ故に、意味がねじ曲げられて現在に至っている。
 これをねじ曲げたうち、影響が大きかったであろう問題が、以下の2つだ。


 2、古典的な差別問題、弱者問題としての格差問題
 社会システムとしての社会問題という考え方から、格差問題は左翼にとって親和性の高い問題のハズであった。
 しかし、親和性が高いが故に、左翼にとっての「格差問題」は、「一億総中流の終焉によって、職業は固定化し、ローリスク選択への希望が失われていく」という1の論点から、旧来的な「ブルジョア−プロレタリアート」「男性−女性」といった、左翼にとって触りのいいだけの問題が、「格差問題」という文脈で語られ始めます。
 その多くは、普通に平凡な生活を送る、ローリスクを選択できたような人たちが自分を弱者認定し、国や政府を相手に文句をいうという、まさに旧来的な方法で語られました。

 3、ニューカマー批判としての格差問題
 格差問題が徹底的にゆがめられる事となったのが、ホリエモンや村上ファンドといった「成金」を目の前に、「一生懸命働いている我々が云々」というルサンチマンに彩られた、ITバブル批判的な格差問題。
 同時に若者批判も包有しているのが特徴で、議論の精度は、2ちゃんねるで言うところの「祭り」と変わらない。
 しかし、問題は2ちゃんねるの祭りが大抵は時間とともに沈静化するのに対して、大人たちの「祭り」は、誰かを確実に吊るし上げるまで終らない点。結局ホリエモンも村上も、イチャモンつけられて潰されましたとさ。
 一見、2の「ブルジョア−プロレタリアート」に見えない事もないけど、これは具体的な「あいつ」がバッシングの目標なのであって、「資本家」という括りで批判しているのではない。

 とりあえず、メモとして、思いつくままにここまで。後はまた後日。

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2006年09月15日
 ■ 格差社会を容認する類の弱者が望むもの

この記事についての注意。
 この文章は2006年9月15日に書かれたものであり、いまの私は、この文章のママの考えかたをしていません。
 また、私の男女問題の認識につきましては『若者を見殺しにする国』(双風舎)の中に記していますので、必ずそちらを一読していただけるよう、よろしくお願いいたします。

 Blog記事というのは、あくまでも著者の考えかたの断片を記しているに過ぎず、その言説を行うためのさまざまな仮定された条件を読み解いて、始めて著者の考え方が読み解ける物であると考えています。
 この記事は、私が論壇デビューする前のものであり、さまざまな考え方や書きかたの実験を含んでいます。
 特に「過去の記事」というのは「その時点で考えていたこと」に過ぎません。一度でも過去になにか書いたら、一生、その発言について責任を取れという考え方を私は好みません。

 本当なら、過去の文章に手を入れるのは好きではないのですが、Wikipediaによって、過去の一記事のみによって、さも私が女性差別をしているかのように吹聴されているという被害がありますので、このような形で特別に記載させていただきます。 (2009年6月11日 追記)


「ニュースの現場で考えること」「格差社会は悪くない。悪いのは、あなただ!」というエントリーを読んで、大変納得してしまいました。
 「弱者はもう格差社会を容認しているのだ」と。そして、その容認はこれまでの「不公平な平等策」にあるのだと。

 我々弱者が最も憎むのは「不公平さ」です。
 弱者は「世の中が不公平だから、我々は弱者なのだ」と感じています。
 そして、その不公平がどこから来るのかといえば、政府の不公平な弱者救済策であると感じています。
 「我々がこれだけ苦しんでいるのに、我々の手には援助がまったく得られない。にもかかわらず、我々以外には援助を得ている人間がいる」と思っているわけです。
 ですから、我々が憎むものは「不公平な弱者救済を掲げる人間」と「不公平な弱者救済を受ける人間」です。
 「不平等な弱者救済を掲げる人間」とは、社民党や共産党といった左翼です。
 「不公平な弱者救済を受ける人間」とは、エントリー先に書かれているような、公務員や農業従事者、さらには職業で言えば、箱物行政で利権を得る土方。そして私の意識で言えば、もはや差別などほとんど無きに等しいのに今だに非差別者としての特権のみを得ている、女性や在日や部落。こうした人たちです。
 彼らが優先的に救済される社会においては、我々のような「新しい弱者」は弱者として認識されません。
 そのような不公平が我々にのしかかるからこそ、我々は右翼や小泉を支持してしまうのです。
 弱者にとって「不公平の是正」は「格差問題」よりもはるかに重要なことなのです。

 で。
 ここで終ってまた一ヶ月前のような話のくり返しになっても困りますので、話をここから展開させます。

 で、このような状況において、右傾した若者弱者と、左は対立しています。
 しかし、その対立は直線的に相反する、真っ当なベクトルを持ったものではありません。
 若者たちは左の言いたてる「不公平な弱者救済」に対して、不信不満を持っています。
 一方で左側は、政府のネオコン的政策に対する批判、すなわち「格差問題」に対する提言をくり返しています。
 図にするとこんな感じです。

ネットウヨクは左翼を批難し、左翼は政府を批判するから、批判が噛み合っていない

 ネットウヨクの非難が左翼に向いているのに対し、左翼はあくまでも政府批判の立場であり、非難に対してまったく対峙していません。ハッキリいえばネットウヨクを無視・嘲笑している。そのくせ、ネットウヨク以外の若者に対しては、味方をしているつもりになっています。
 そうして、左翼が若者を無視している間に、自民党はB層取り込み策を弄して若者をオルグしています。

 どうしてこのような状況になっているのか。
 それは左翼のいう「格差社会」が、あくまでも「お金持ち−庶民」という構図でしかなく、貧困層と化している若者弱者の問題にまったくと踏み込んでいないからです。
 貧困層である若者弱者にとって、左翼のいう庶民は「裕福層」の側に入るのですから、若者弱者から見れば左翼がやっていることは「強者同志の利権の奪い合い」にしか見えないのです。
 悪いのは明らかに左翼です。ボタンの掛け違えは両者の責任ではありますが、そうした掛け違えを是正し、明確な意見の対立をもって相互理解に勤める責任は、強者たる左翼側にあります。ましてや、自民党に若者がオルグされているのであれば、それを妨害するためにも、左翼が若者弱者と真摯に向き合うことは絶対に必要なのです。
 左翼勢力が若者弱者と真摯に対峙しさえすれば、若者だってバカではないのですから、真摯に向き合ってくれる左翼と、傲慢に上から取り込む自民勢力であれば、当然前者を選んでくれるはずです。
 しかし、左翼はいつまでたってもそれをしない、いつまで経っても自分たちは庶民の側に立っていて、弱者のために頑張っているのだと信じている。そうした傲慢な姿勢に、若者だけではなく、強者である庶民までもが左翼を捨て始めている。それが前回のタイゾーあたりのワケのわからない議員が当選した衆院選あたりから、現在に至るまでの現状でしょう。

 若者弱者は「不公平」を嫌悪しています。
 だから、不公平をどうにかしないといけません。
 しかし、「不公平」の反対は「公平」ではありません。
 若者弱者の考える「公平な社会」とは「自分が優遇される社会」です。
 それは実は不公平な社会なのです。だから若者弱者は民族や老人、女性に対する差別を行なって「公平な社会」を実現しようとします。
 左翼は「それはおかしい」と言います。
 しかし、若者弱者が今まで舐め続けさせられてきた辛酸と、自称弱者である庶民たちが味わってきた蜜の差を考えれば、それは当たり前のことなのです。
 公平な社会とは、今現在すべてがフラットな社会の事ではありません。
 人生のトータルとして公平が保たれる社会です。
 いままで甘い汁を吸ってきた、団塊世代や、男性と対等にしろと叫びつつ、その実は男性の加護を受けて有利に生きてきた女性たちが貧困にあえいで、今まで辛酸を舐めさせられ続けてきた若者弱者が裕福になる社会が、若者弱者が夢見る公平な社会なのです。
 機会の平等が達成されなかった失敗は、結果の平等で償うしかないのです。「フリーターがフリーターのままで幸せになる社会」ではなく、「フリーターが正社員になり、正社員がフリーターになる社会」こそが、結果平等で機会平等の失敗を償わなければならない社会が至るべき正当な姿です。
 そして、若者弱者たちがそのような精神状態に至った責任も、不況になって以降、なんら若者に対する救いの手を差し伸べなかった左翼にあるのです。
 いわば弱者若者の左へのバックラッシュは、問題を解決を先送りしてきた、左翼に対する高額な利子と言えましょう。

 問題が分かったら、四の五の言わずにとっとと解決しろよ。クソ左翼め。

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 ■ 能力そのものの評価は、当人に対する正当な評価ではない

最近、飲酒運転がどうたらな報道が盛んなようですが、飲酒運転は公共交通の重要性を軽視し、自動車会社の発展の為に自家用車の所有をさも「成功体験」であるかのように喧伝し、自家用車を走らせるために高速道路や各種道路をつくってきた国の経済策によって引き起こされている問題であり、決して個人のモラルの問題ではありません。
 そもそも、人が一人移動するのにわざわざ、数トンもの鉄の塊である「自家用車」ならぬ「自己用車」を動かしているのですから、それで事故が起きないほうがおかしい。歩行者同士なら、曲がり角でぶつかって「ああ、すみません」ですむ出会い頭が、どっちかが車であれば、途端に大事故に変貌してしまう。
 別に飲酒運転に限らなくても、そのような事故はそこいらじゅうで毎日のように起っているわけで、そうした現状を無視して、さも飲酒そのものが事故の原因であるかのような報道は、恣意的過ぎます。原因では飲酒ではなくて、「車」という、人の移動に適さない移動手段そのものなのです。

 車で人一人を移動させるというのは、チェーンソーで刺し身を切るがごとく、非常にオーバースペックで無駄な行為です。
 そうした過剰さを是正するには、バイク(できれば原付。250ぐらいならまだしも、中型や大型バイクは、やっぱり無駄)や自転車、またはセグウェイのような新しいテクノロジーを利用した乗り物など、省エネルギーですむ個人的な交通手段を利用発展させるべきなのです。

 しかし、各種マスコミはトヨタや日産、ホンダといった自動車会社から多額の広告収入を得ているので、絶対にそうしたことは言えません。
 また、一般人の心情にとっても、自動車会社というのは日本の経済発展を支えた礎であり、また現在も日本の経済大国としての威勢を具現化している存在であり、それを批判するというのは容易ではない。
 だからこそ、心ある個人ジャーナリストがこうした問題をハッキリと指摘しないといけないのです。

 車が走れば事故が起る。車を減らせば事故は減る。
 そのような当たり前の事が言えない現状をなんとかしなければいけないと考えます。

私もつい先日知ったのですが、佐野の小学校で教師による担任女児に対する猥褻事件があったそうです。

 下野新聞サイトより

■ 教諭が女児の体触る 佐野、県教委が調査へ

 佐野市の小学校の男性教諭(33)が4月から9月にかけ、休み時間中の教室内で、担任する低学年のクラス女児10数人全員をそれぞれ呼び寄せ、体を触るわいせつな行為をしていたことが12日までに分かった。教諭は同校の調査に「とてもかわいいのでやった。悪いことだと分かっていた」と事実関係を認めている。事態を重く見た同校は13日、全学年の保護者への緊急説明会を開く。県教委は処分を視野に入れ本格調査に乗り出す。

 同校によると、教諭は四月中旬から、五分間の休み時間中に教室内で、担任しているクラスの女児を一人ずつ呼び寄せ、自分のひざの上に乗せて体を触るようになった。七月からは、ほぼ毎日こうした行為を続け、九月までにクラスの女児すべての体を触ったという。

 教諭は学校側に「何でも話せる関係や児童との触れ合いを求めた。ばれたら大変なことだという認識はあった」とした上で「衣服を脱がせたり、密室に呼び出して体を触ったことはない」と説明しているという。被害を受けた女児で学校を欠席する児童はいなかったという。教諭は今月六日から学校を休んでいる。

 しかし、私が問題だと考えるのは、まちBBSにあった、この書き込みです。

34 名前: まちこさん 投稿日: 2006/09/13(水) 21:19:52 ID:FIT3c0v2 [ p6041-ipad11hiraide.tochigi.ocn.ne.jp ]

教育委員会では現段階では学校名は公表出来ないそうです。もう分かってるのにね。
父兄へのメール配信も行ってないとのことです。何の為のシステムなのでしょう。
外部に不審者が出た時は情報を配信するが、内部、身内の不祥事はひたすらだんまりを決め込む。 機能しないシステム必要ないのでは?

 このコメントにほぼ同意。
 「ほぼ」なのは、教師の名前を隠すことが身内への配慮になる一方で、いたずらされていた生徒の保護ということもあり、その点を考えると「公表するべし」とは言い切れない。

 そもそも、ほとんどの不審者メールシステムは「他者」を不審者と考える一方で、身内に対しては極めて一方的な信頼を必然としてしまっている。
 「学校の校門を堅く閉ざし、警備員を配置する」というのも、「外から生徒を守る」一方で、「中で何が行なわれていても一切分からない」という問題が発生してしまう。
 その矛盾を突破するために「地域に根づいた学校の教師は、絶対的に正しい」という価値観を生成するわけです。それが同じように国家(北朝鮮や中国のような悪辣な国家という「外」に対抗する)や警察(凶悪な外国人犯罪者や異常者という「外」に対抗する)などにも生成される。

 地下鉄サリン以降の日本社会に必要なのは、外に不信を押しつけるのではなく、ひとつひとつしっかりと時間をかけて対応していく、そうした辛抱強さではないでしょうか。

掲示板へのレス

[1638] RE:[1631] Re:[1626] なぜ「風潮」かというと 投稿者:フェミニスト

誤解してもらっちゃ困るのは、わたしが「物書きとして」と言う時、「社会的弱者」としての赤木さんは括弧に入れられてるのよね。その代わり、物書きとしてどうあろうと弱者としての赤木さんの叫びの真理性には何の変わりもない、と繰り返し言っている。両の側面は基本的に独立なんです。好むと好まざるとにかかわらず。これらを切り離さないと、例えば学校の成績評価で、「この子は家庭の経済事情が困難だから2のところを4にしておこう」といった類と同じことになっちゃうんですね。
まさかとは思いますが、「弱者としての立場」が「物書きとしての能力」の等価物になると考えていらっしゃったりはしませんよね?

 ポカーン……
 正直、唖然としてしまいました。
 「「弱者としての立場」が「物書きとしての能力」の等価物になると考えていらっしゃったりはしませんよね?」とおっしゃいますが、それが等価物(もしくはより近い代替物)にならないのであれば「何かを論じること」は無意味でしょうに……

 教養のもっとも欺瞞的な部分は、まさにこの部分です。
 その人の立場の違いを差し置いて、さも「能力の上下によって、我々は媒体や金を得ている」と平気で言い切ってしまう。現実には媒体や金があることによって、能力が決定されるのにもかかわらず。

 教育という観点で「格差」を考えた時に、「お金持ちの子供は家庭教師など、教育機会を得やすく、高等な教育を受ける事ができ、学力は向上しやすい」「貧乏人の子供は学校だけが頼りで、学力は向上しづらい」という事があります。
 このときに「弱者としての立場」と「能力」を別のものだと考えてしまえば、それはまさに「ネオリベ的」な価値観にしかなりません。
 こうした社会では金持ちの子供はその学歴を持って、そのまま金持ちになる権利を生まれながらに得ていて、貧乏人の子供は貧乏人のままで当然ということになる。生まれながらに何もかもが決まっているのだから、誰も努力をしない社会ということになります。そんな社会で何かを論じることは無意味ですね。
 弱者からの批判はそれが正統であろうが、弱者の批判であるがゆえに無視され、強者の批判はそれがいくら的外れであろうが、強者であるがゆえに重用される。そこでは「能力」の判断などなされません。ただ媒体を持っている人間がその媒体を利用して伝えることだけが正しいということになる。
 フリーターの問題にしても、立場と能力が別のものであれば、それこそ「30代のフリーターは能力を得てないのだから自業自得だ」ということにしかならない。国や社会が「不況だから」と、雇用の不均等を放置し、能力獲得の機会を無くしたことは、無罪放免になってしまいます。

 そして、私は「「弱者としての立場」が「物書きとしての能力」の等価物」にならないような左傾論壇よりも、山野車輪のようなヘタクソな絵かきでも「こっち寄り」という理由で重用する(金や媒体を与える)カタカナウヨクの方に若者が傾倒するのは当たり前だと言っているのですよ。

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2006年09月10日
 ■ メールアドレス変更しました

業務連絡。
 spamがあまりに多いために、メールアドレスを変更しました。今後はこちらのアドレスを利用していただけますよう、お願いいたします。画像ですのでタイプの手間がかかってしまう点は申し訳ございません。
 ちなみに今までのメールアドレスもずーっと使えますので、これまでにやりとりのある方は、変えなくても問題ありません。
 これで当面は新規のメールがspamに埋もれる心配もしなくて済みますし、Webベースですから外出先でもメールを受け取れるようになります。

 今後とも「深夜のシマネコ」をよろしくお願いいたします。

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2006年09月08日
 ■ 患者の方ばかり見た医療も考えもの

どっかの有名な病院が、助産師ではなく看護婦に内診をさせていた件について。
 「内診はなぜ助産師でなければいけないの?」(All About)

今回、助産師を十分に雇わず活躍させず、豪華な食事や入院の救急車など医療とは関係のないことに力を注いで分娩数日本一となった病院が摘発されたのは、大変象徴的です。

妊婦さんの需要がないところに、供給はありません。今、お産で食べていく人たちは、助産師を雇うお金があれば、インテリアやエステに予算を配分していく方がずっといいのです。それが顧客の需要なのです。

 最近よく「病院ランキング」みたいなのがありますが、そうしたものがお金でランクをやりとりしているかはともかく、利用者の声にしたって、インテリアやエステに豪華な食事、そうした表層的な部分でしかランク付ができないのは当然です。(同じ意味で、「その医院で死産した」なんてのも表層に過ぎないわけです。いいかげんでもたまたま運良く子供が生まれることもあれば、徹底的に母体をサポートしても、死産に至る場合だってあるのですから)
 そうであれば当然のようにランニングコストが高いだけで、口コミランキングの向上に奉仕しない助産師などは、排除したいというのが営利企業である医院の本音でしょう。

 表層的なアメニティが喧伝される中、物事の本質がないがしろにされていく。
 それはどこぞの国の政治状況と同じですね。「美しい国」とかなんとか。

「保守派からも始まった靖国神社批判」(鈴木邦男)
「反米嫌日戦線「狼」」の記事より)

 まぁ、私は遊就館なんぞに興味は無くて、別にそこに何が展示してあろうと、「単なる歴史館」以上の意味はないと思っています。だからナベツネが遊就館を論点に靖国参拝批判しても、そんなのはヘタレの横槍に過ぎない。
 私は「クニ(日本国や天皇がまったく含まれないとは言わないけど、それよりは友人知人や故郷だろう)」のために戦った英霊たちを、あのような施設に閉じ込めて、金儲けやイデオロギーの道具にすること自体を批判します。軍人コスプレコミケなんか、後楽園遊園地でも借り切って勝手にやれ(笑)。

 私の主張はともかく、中国韓国がどれだけ文句を言っても変えなかった記述内容を「アメリカの利益に反する」と言われた途端にコロッと変える靖国神社の節操の無さはヒドイ。
 しかもアメリカからではなく「岡崎久彦」なるどこぞの馬の骨の書いた産経新聞のコラムで指摘されただけのものを即変更するとは。

 結局のところ、この人たちの言う「我が国」とは、日本じゃなくてアメリカの事だってのはよく分かりました。

「♪大豆のうた」
 ダンス(4番の「ダンスあり」ってやつ)を見ていると、自分の悩みがとってもちっぽけなものに思えてきます。

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2006年09月06日
 ■ 自民党の方が若者の事を理解している……だって!?

売国奴安倍晋三の出馬表明。

 マスコミは「美しい国日本」という部分を強調しているようだけど、俺は「(各種既得権益者のためではなく)普通の人々のための政治を行なっていきたい」という部分に注目する。
 「普通の人」というのは誰のことかと言えば、安倍晋三が否定する「既得権益者」を含む全ての人々の事。全ての人々が自分の事を「普通の人」だと思っているし、そうした意味ではこの発言は一見、何も言っていない発言のように思える。
 しかし、「普通の人」であることを土台に、そことは少し違うことにアイデンティティーを持っている精神的に裕福な人たちに比べて、普通の人であることを土台に持たない人々がいる。それが「若者弱者」だ。
 当然私を含む彼らは、「自分たちは普通の人のハズである」と思いながらも、普通の人が得られる「給料や尊厳」という重要な土台を得られないでいる。
 そうした中での「(各種既得権益者のためではなく)普通の人々のための政治を行なっていきたい」という言葉は、さも、若者弱者に対する「私はあなたたちの味方です」という宣言であるかのように聞こえるのである。

 しかし、いつからなんでしょうかね。
 このように安倍晋三のような既得利権者の言葉が既得利権に対抗するかのように聞こえ、
 逆に左傾論者たちの言葉が、既得利権の保護を訴えるように聞こえてしまうようになってしまったのは。

 左傾論者の中に、麻生太郎がネットで「ローゼン閣下」と呼ばれて親しまれていることを知っている人はどれだけいるだろうか?
 もともと麻生太郎が「漫画好き」であったことは知られていたようだが、それは「ゴルゴ13」であるとか「こち亀」であるとかの、いかにもな「(漢字の)漫画」を愛好していると思われていた。
 しかし彼が「ローゼンメイデン」の愛読者であることが知れると、ウヨク達はさも彼を「(カタカナの)マンガ文化の良き理解者」であるかのように吹聴した。そうした中でやがて「ローゼン閣下」と呼ばれるようになり、親しまれるようになった。

 だが、決して麻生太郎は「マンガ文化の良き理解者」などではない。
 それどころか、「子供向けポルノコミック等対策議員懇話会」の会長として、有害コミックの迫害に荷担している。
 結局のところ、彼はマンガ文化の表面に出てくるようなマンガについては理解があっても、そうした文化の土台となっているアンダーグラウンドの部分を理解しようとは全く思っていないのだ。彼がいくらマンガ好きだといっても、彼が同人誌即売会に出かけるようなことは、絶対にないだろう。
 にもかかわらず、麻生に対して親しみを感じてしまうウヨクは少なくない。

 しかし、その一方で左傾側に対しては「左翼は主婦層をターゲットにしている=マンガを規制しようとしている」として、感情的に反発をくり返している。
 実際には与党(与党とは「自民党」と「公明党」のこと。麻生太郎が自民党員であることすら、こうしてカッコ書きしておかないと伝わらないのかも……)から提出された児童ポルノ法から、マンガの適用を外すのに努力したのは左翼側であることは、あの騒ぎを知っている人なら、当然理解しているはずだ。にもかかわらず、左傾論者に対して麻生に対するような親しみを持つ人はあまり見られない。

 麻生太郎は「マンガ好き」を公言することによって支持を得る。
 一方で表現の自由スキームでマンガの保護を訴える左翼は支持を得ない。
 論理よりも同好の立場を表明したほうが支持が得られる。
 論理は確実に支持基盤を失っている。

 これがどういうことなのか、真剣に考えないといけません。

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2006年09月04日
 ■ 「0」をどのように考えるのか

『バックラッシュ!』の件がまとまらなかったので、少々別の話題を。

 件の「子猫殺し」の話。
 別に「私は猫を飼わない」という人が「生まれた子猫に責任を取れ!」というなら、「責任をとれないのなら飼うな」という話で、スジは通っていると思うのだが、一方で子猫を飼っている人が「ちゃんと避妊手術を受けさせろ!」というのは、私にとっては大変不可解な抗議だし、この抗議の不可解さに気付かないということに「恐ろしさ」を感じてしまう。

 「歩行と記憶」経由で「てるてる日記」のコメント欄を読んで見たが、なるほど、気が滅入る発言ばかりだ。
 この感覚は、いつぞやのイラク人質事件に対する「自己責任論」が噴出した時に感じた絶望感「世の中にはここまで性根が腐っている人間がいるのか……」と同じものだ。

 「犬と猫の去勢手術のFAQ」というのを読んでいても、明らかに「人間にとっていいことづくめ」という、猫を一匹の生体ではなく、一個の愛玩動物として見た理屈しか書かれていない。これが一体、中国で最近まであったと言われている纏足と何が違うというのだろうか?
 「小さい足の女性が美しい」という価値観と、「マーキングなどをしない犬猫が好ましい」という価値観に、違いがあるようには私は思えない。

 ただし、少なくとも彼女の「子猫殺し」という行為を理解しようと考えている人がちゃんといることだけは、救いと言える。ありきたりなことを言うようだけど。


 「避妊手術はそもそも子供を産まなくなるのだから、それは子供を殺したことにはならないのだ」
 本当だろうか?
 私には避妊手術だろうが、彼女のように子猫を崖に突き落とそうが、その結果は「0」でしかないのだと思う。
 すなわち、最初っから「0」であることを保証するのが避妊手術であって、人間が手を加えて「0」にするのが子猫殺しである。
 避妊手術は最初っから「0」でしかない。
 一方で、3匹生まれた子猫を一匹ずつ殺していけば、「3」が「2」になり、「2」が「1」になり、「1」が「0」になる。
 避妊手術の「0」は「なにもない「0」」。
 子猫殺しの「0」は「0匹という数が存在する「0」」。

 私は子猫を殺すことはそれと同時に「子猫をゼロ匹生かしている」ことだと思う。
 一方で、避妊手術をされた愛玩動物としての猫からは、子猫は絶対に生まれてこない。
 0匹生かす事ができるのなら、そのうち1匹生かすことができるかもしれない。しかし、避妊手術をした猫の飼い主は子猫を1匹たりとも生かすことができない。

 私は少なくとも猫に避妊手術をして平気でいる人間が、子猫殺しを非難する現状は、不可解なことだと考える。


 いま、私が取り組んでいる問題にしても、私が何故『バックラッシュ!』を批難しなければならなかったのか。それはに『バックラッシュ!』書かれた安直なバックラッシュ批判はおかしいと感じている人間がいるということを明確に示すためだ。
 それに対して批判も同調もあろうが、少なくともそのことによって「反バックラッシュという言論が、同じような考え方であるはずの人間(味方になりうる人間)からも批判を受けることがある」ことを認識させる必要があったのだ。
 「そういうことがあるかもしれない」と思いながら反バックラッシュの文章を書くのと、それすらも認識をしていない状態で反バックラッシュの文章を書く(まさに『バックラッシュ!』がそういう内容であった)のでは、結果は違ったものになるはずだと私は信じている。

 坂東さんだってそうでしょ。
 坂東さんにいたっては、自分のBlogに簡単に排除できるような空白的匿名を用いてこれを書いているのではなく、作家の坂東真砂子として文章を書いている。そして我々に何かを問いかけている。
 そのような問いかけに正面から真っ当に考えず、ただ逃げてバッシング。
 分かってはいるけど、そのような卑小な日本人のメンタリティーを、また目の当たりにして、やはり暗澹とした気分にさせられる。

 おまけ
 あの盗作屋田口ランディーが比較的マトモな事を言っていてビックリ。
 とはいえ、これを人工中絶に繋げるあたりが、小説を書く職業の人間にしては、あまりにそのまんま過ぎると思う。もう少し工夫しろよ。
 あと、これをそのまま人工中絶の話にするのは変だ。去勢の意味は、猫と人では、かなり意味合いが違ってくる。
 猫の場合の「去勢」とは、雌雄という意味合い自体を取っ払ってしまう行為(雌雄なき愛玩動物の完成)であることに対して、人間の場合の子宮の取り出しやパイプカットは、それを行なったところで男は男だし、女は女でありつづけ(る? てしまう?)のだから。

気が滅入ったところで、Youtube マッチョドラゴン特集(何故だ?)

マッチョドラゴン
 クラブDJにはおなじみ(?)の激ヤバ音源、幻のPV。
 MTVで流れてもおかしくないクオリティーの失笑をお届け。

ドラゴン体操
 藤波の素っ頓狂で甲高い歌声自体が凶器に近いのだが、ライオンのところの「Oh! Yaer!」はさらにやばすぎ!!
 肝心の体操がだらけすぎでは?

マッチョドラゴン メイキング?
 かおり婦人らしき人が、新幹線でやってくる藤波をお出迎え。という、意味不明なカットで始まるメイキングらしきもの。
 曲はコーラスのみのカラオケバージョン。
 最後のテロップ必見。「退廃した時代に戦いを挑む」って、この曲自体が退廃以外の何だというのだろうか。

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