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2006年09月16日

 ■ 格差問題を大ざっぱに分類してみるテスト

思いつきにつき、メモとして。

 昨日書いたような「左翼と若者弱者の離反」が起るのは、それぞれが論じている「格差問題」が、同じ言葉を使いながら、まったく内容の違うものだからではないだろうか?

 とりあえず「格差問題」を3つにザックリ分けてみる。

 1、現行の社会システムが必然的に発生させてしまう格差の問題
 これは、もともとこの手の問題が「格差問題」と言われる直接的なきっかけになった佐藤俊樹の『不平等社会日本』や、山田昌弘の『希望各社社会』で論じられているような、日本のシステムが必然的に格差を生み出してしまう問題としての「格差」である。
 佐藤俊樹は、職業が決して各人の能力に従った適正に沿ってあてがわれるのではなく、親がホワイトカラーなら、子供もホワイトカラーになりやすいという関係性を見つけ、決して日本は平等ではなく、一億総中流の社会が過去のモノ(団塊世代の時点で、既に過去になっている!!)であることを暴き出いる。
 山田昌弘は教育システムや家族のありように注目し、社会から「ローリスク(一般のサラリーマンとして、普通に勤め上げる)」な選択肢が失われつつあり、それが二極化に繋がっていると警告している。
 こうした「社会システム要因説」は、格差問題の本線であり、本来ならばこのことの議論こそが、格差問題を真に解消するために必要なことだと考える。
 しかし、この問題はその「格差問題」という言葉の扱いやすさ故に、意味がねじ曲げられて現在に至っている。
 これをねじ曲げたうち、影響が大きかったであろう問題が、以下の2つだ。


 2、古典的な差別問題、弱者問題としての格差問題
 社会システムとしての社会問題という考え方から、格差問題は左翼にとって親和性の高い問題のハズであった。
 しかし、親和性が高いが故に、左翼にとっての「格差問題」は、「一億総中流の終焉によって、職業は固定化し、ローリスク選択への希望が失われていく」という1の論点から、旧来的な「ブルジョア−プロレタリアート」「男性−女性」といった、左翼にとって触りのいいだけの問題が、「格差問題」という文脈で語られ始めます。
 その多くは、普通に平凡な生活を送る、ローリスクを選択できたような人たちが自分を弱者認定し、国や政府を相手に文句をいうという、まさに旧来的な方法で語られました。

 3、ニューカマー批判としての格差問題
 格差問題が徹底的にゆがめられる事となったのが、ホリエモンや村上ファンドといった「成金」を目の前に、「一生懸命働いている我々が云々」というルサンチマンに彩られた、ITバブル批判的な格差問題。
 同時に若者批判も包有しているのが特徴で、議論の精度は、2ちゃんねるで言うところの「祭り」と変わらない。
 しかし、問題は2ちゃんねるの祭りが大抵は時間とともに沈静化するのに対して、大人たちの「祭り」は、誰かを確実に吊るし上げるまで終らない点。結局ホリエモンも村上も、イチャモンつけられて潰されましたとさ。
 一見、2の「ブルジョア−プロレタリアート」に見えない事もないけど、これは具体的な「あいつ」がバッシングの目標なのであって、「資本家」という括りで批判しているのではない。

 とりあえず、メモとして、思いつくままにここまで。後はまた後日。

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