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2006年12月31日
 ■ 今年も一年ありがとうございました

さて、今年最後の更新ということで、特にテーマも設定せずに、だらだらと文章を書きたいと思います。

 今年一年を考えると、なんといっても論座でのデビューは大きいですね。人生のターニングポイントであることは間違いないわけです。
 ただ、そこへの助走は、これまでの「左翼のモノマネ」であることから脱却し、「自分自身で論考を深めていく」姿勢を明確にしたことから始まっています。
 「反『バックラッシュ!』」から、最近の一部Blogによる私に対する文字ゲバルトは、いろんな意味で自分の物事の見方を変えてくれた出来事であったと思っています。
 平和平等などと叫びつつ、その内実は左翼のモノマネでしかなく、自らの活動がなんら反戦も平和も平等も達成させないことになんら責任も取らず、自己責任を批判しながら自己責任を押しつけ、格差の中層に仁王立ちして、そこから脱しようとする弱者に煮えたぎった油を流すような、そんな卑劣な連中があまりに多いということを知りました。
 私は来年以降も、そういう連中に現実をハッキリと見せつけてやるための言論活動をしていこうと思っています。

 これがラジオだったら、この話題の後に、遠藤賢司の「ド・素人はスッコンデロォ!」をかけたいところだ。

 既成概念の枠から決して!
 はみ出そうともせずに!
 人の作品の!
 モノマネ再生の海に!
 得意げに溺れてる!
 俺が欲しいのは!
 むき出しの!
 魂の叫び!
 ただそれだけなのに!

 ド・素人はぁぁぁぁぁぁぁスッコォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンデロォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!!

 もちろん私は、平和平等が達しえないことに責任あふるる、由緒正しいド・素人でありたいので、そのための努力を重ねていく所存です。

 あとはなにかあったかな。
 日記では殆ど触れなかったけど、ここ1年でTVゲームを巡る世界が、かなり変化を見せました。
 それは決して次世代ゲーム機というものが出揃ったという意味ではなく、TVゲームというものに対する価値観の変化です。
 かつては「子供たちの共通の話題」であったTVゲームが、機体性能の進化で、趣味の物としての次世代ゲームに変化し、それがさらに変化しているということです。
 そして、この一年の変化に名前を付けるとすれば、私は「TVゲームのマルチメディア化」と名付けたいです。
 マルチメディアなんて、もはや懐かしの言葉としても浮かばないほど古くさい言葉ですが、Wiiの体現しているものは、当時に想像されていたマルチメディアだとしか見えないのです。WiiリモコンはPAXパワーグローブのパクリ(笑)。
 もしくは、Wiiでのゲームは腕が疲れるらしいから、体力的制約で「ゲームは1日1時間」ってことかな。

 うーん。でも任天堂もSCEも、お互いを競合だとは思ってないんだろうけど、すると家にメインのゲーム機を2台置かなきゃいけないってことか? いや、絶対そういうことにはならないと思うんだけどな。社会というのは、強い方に寄っていくモノだから。
 Wiiが売れ続ければ、Wiiでも普通のRPGがでて来るだろうし、一方でその逆もいくらでもあり得る。メーカーの思惑がどうであれ。

 いいやもう。
 ゆっくり「年忘れニッポンの歌」を見よう。
 んじゃ、また来年。

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2006年12月30日
 ■ 企業社会の本音

フリーターを探せ ワーキングプア依存のもろさ
 なんだこのバカな記事(爆笑)

 なんで企業のチェーン展開を支えるために、フリーターが犠牲を強いられなければならないのか。
 人が集まらないなら給料を上げればいいのに、「働きがい」を給料代わりにするバカさ加減。
 格差の存在を前提にした企業形態など、崩壊して然るべきだ。

「仕事をやってもやらなくても同じ給料では、モチベーションも上がらない。鉄人には社内の会議にも出席してもらい、ほとんど社員に近い扱いをします」(同社エリアマネージャーの片平豊彦さん)

 って、たった時給1000円で社員並みにこき使うことが、彼らの中では「フリーターにヤリガイを与えている」ということになっているらしい。なんてバカなんだろう。

 共著『10代のぜんぶ』(ポプラ社)などがある博報堂生活総合研究所研究員の原田曜平さんは、

 「人間関係のしがらみの少ない社会で生きてきた彼らは、『おまえがいなきゃダメだ』と言われたい。ちょっと古くて嘘くさいような人間同士のきずなを求めている」

 フリーターが「きずなを求めている」んじゃなくて、「きずなを給料の代替物にしたい」んだろう、お前らが。

 フリーターは「きずな」も「働きがい」も「自分らしさ」も求めていない。
 グローバルな価値基準としての金銭の授与だけが、フリーター達の苦役に報いる唯一の方法である。

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2006年12月27日
 ■ なんかもう、これでまとめでいいかも

アレがこんなことを書いています。

 論理構造を明確にするために、話を3つに分けます。

1、

掲示板であれ、gegengaさんのところでの対話であれ、あれを「イジメ」ととるのは、おかしいわけですね。

「他者への要求」を「赤木智弘」の名の署名とともに行えば、その「要求するという行為」に関して「要求の内容と形式」を他者から「評価」され、「批判」されるという「赤木智弘責任」が発生し、「赤木智弘」が「要求するという行為」の「責任主体」となる、というのは当然のことで、この場合、「赤木智弘」にその「応答責任」を他者が要求することを「イジメ」とはまず言わないわけです。

2、

しかも、その「要求」の内容は、以下の通りです。

「強者男性」に「分配」が偏っている「強者女性」を「弱者男性」にも「再分配される資源」として扱いたいが、彼女たちには「意志」というジャマなものがある。なので、「道徳的義務」を課すことで、彼女たちが「オレの命令」に逆らえば「社会的制裁」が行われるようにして、彼女たちの「意志」を根こそぎにする「暴力」を社会は彼女たちに加えるべきである。

これ、「論旨のねじ曲げとすり替え」でしょうか。

これは、「強者女性」に対して継続的かつ反復的に加えられる「言説による歴史的暴力」です。それを批判したからといって、「イジメ」にはならない。

それが、gegengaさんが「可愛そうなら何をしても許される、わけではない」という所以です。

3、

「弱者男性」が「強者女性」との結婚も含む格差の是正要求の叫びをあげることには、限りなく共感するし、支援だって可能な限りのことは惜しみなく行う。

しかし、以上のような要求による「言説の歴史的暴力」の行使に無自覚な「赤木智弘」に対しては誰もそうしない。「赤木智弘は弱者男性である」が、「弱者男性は赤木智弘である」というわけではないからです。

ところで、私は実は、「すべてはあなたたちをひっかけ、いろいろなことを考えさせるネタでした」と赤木さんが宣言するのを待ちわびているのですが、まだなんでしょうか。ネタを引っ張り過ぎると、笑いがとれなくなるというのは、「お笑い」の常識かと。

 無茶苦茶だ。

 1について、
 「赤木智弘責任」などという責任の一方的な押しつけ。
 こちらが真面目に返答すればするほど、それをいいかげんにねじ曲げて「悪の赤木智弘像」を作り上げて行くのだから、そのような妄想に対する責任などを押しつけられるのは不当と言うほかはない。
 それと、彼ら自身の責任はいったいどこに消失したのか。
 意見の集約もなく、相手の返答も聞く気は無く、ただ悪人としての虚像を作り上げ、個人をイジメる(イジメという言葉が嫌ならゲバルトに変えてもいい)ことに終始した、彼らの責任は一体どこに消失しているのか。

 2について、
 論旨の完全なねじ曲げ。
 そもそも「意思」なるものは、社会システムと不可分なものであって、決して「個としての自由意志」などというものは存在しない。誰かが「私は黒人が嫌いだ」と思う時には、必ず社会からの黒人に対する視点が内包される。
 弱者問題において意思が最大限に尊重されるならば「フリーターなど雇いたくない法人の意思」が真っ先に尊重されてしまう。
 すなわち、強者の意志が最大限に尊重されることによって、弱者の意志が貶められることこそが、格差そのものなのである。
 フェミニズムにしても部落問題にしても、そうした運動は「差別への意志」の存在こそを問題にしてきたのであり、「意思は自由なのだ」などという素朴な感覚(「意思は絶対に自由なのだ」と叫びたい、青臭い感覚と言ってもいい)は明確に否定されるべきである。

 また、「道徳的義務」なる部分についても、私は「道徳的に」とは書いたが、「義務」などとは書いていない。(「権利と義務」という文脈で義務とは書いたが、その義務は権利の存在を前提にすることぐらいは、日本語の用法として最低限認識して欲しい)
 「道徳」という言葉が義務と強力に繋がることは間違いないが、それでもそうした際どい言葉を使わない限り、「強者が弱者を救うことへの意思を持つこと」の必然性に辿りつくことはできない。強者にしてみればそんなところに辿りつかないで欲しいのだろうが、辿りつかなければ我々弱者は死を待つほかはないのだ。

 また、アレはセンテンス全体で「彼女たち」という言葉を使って、さらに「言説による歴史的暴力」などと書いて、これが「男性である赤木智弘から、女性への抑圧」として表現しているけれども、「強者が弱者を養う」というのは、かつて「男は仕事、女は家庭」という時代に、男性に対して当然のようになされていた抑圧であり、それは現在でも存在している。
 今でも男性は「家族を養ってはじめて一人前」であり、だからこそ仕事を持てずに家庭ももてない若者弱者は、その人権を執拗に否定される。
 そうした抑圧が男性の側に明確に存在する一方で、女性はそれを一方的に拒否できるというのは、男女平等に反する。

 3について、
 「支援する」とあっさりと言うが、そもそもそのような支援がいつになってもなされないからこそ、格差はいつまでたっても是正されていないという現状がある。
 それは、アレが支援を「可能な限り」と表現していることに重なる。「可能な限り」とは、具体的には「強者の余裕の範囲で」という事にすぎない。だからこそ強者の収入が減る「ワークシェアリング」や、強者の自由恋愛に不利益を与える「強者と弱者のカップリング」は強く否定される。今回の私に対するゲバルトも、強者による弱者救済の「拒絶」である。

 しかし、弱者の救済は、強者に対する不利益分配から目を逸らしていては絶対に達成されない。
 ゲバルトでいい気になっている彼らに論理的対話を求めるという無茶はしなくもいいけれども、弱者救済のために、各自自分で考えた、自由な支援を強くお願いしたい。

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2006年12月25日
 ■ 「ご縁が無い」が穏便だって!?

この件については、もう付き合ってられないので、そろそろまとめに入ろうと思っているのだけれども、その前に少々見過ごせない書き込みがあった。

ここのコメント欄 91番

91. Posted by kuroneko 2006年12月25日 16:21

ロストさま

>赤木さんが結婚できないのは
縁がないってことだよね。

 学校時代の同級生とつるんで、友達のお嬢さんだの知り合いのご子息だのをお見合いさせていた母親を見ていたわたしは、「ご縁が無い」で穏便にすますというのには、最も共感します。
 
 赤木さんからめでたく話題が離れたし、いじめ云々はそもそものエントリーと関わらないから、もういいかもね。

 いじめに関しては話の種が一個あるから、来年、松でも取れたら自分のところで書きます。

 ご縁が無いという言葉が穏便とは……

 就職できずに苦労している人の中には「今回はご縁がないということで」という言葉を何十回も聞いた人もいるだろう。
 そういう人たちにとって「ご縁が無い」という言葉は、その人が社会に立ち入ることに対する拒絶を意味する。
 日本の「会社−社会」において、会社に入れないというのは、社会の一員ですらないということを意味する。そしてそれは人間として扱われないことを意味する。
 「ご縁が無い」というのは、その当人に対して「お前はこの社会で生きる価値がないのだ」と宣言しているに等しい、極めて無慈悲な言葉である。そんな言葉が穏便とは……

 無自覚にも運良く社会の中にいられるkuronekoには、そのような弱者の苦しみなど、想像もつかないのだろう。
 いくら教育基本法の改正に賛成しようとも、安倍政権を批判しようとも、弱者の味方のフリをしていようとも、こうした言葉の端々に、書き手の傲慢は姿を現してしまうだ。

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2006年12月21日
 ■ まん延するニセ科学

視点・論点「まん延するニセ科学」
 菊池誠氏による、10分弱という時間の中で完璧ともいえる、素晴らしいニセ科学批判。周囲の人にもどんどん見せるべき。

 「マイナスイオン」「ゲーム脳」「水からの伝言」と、主だったニセ科学をあげて、科学と社会の関係について論説している。すなわち「分かりやすい結論をもとめる社会が、ニセ科学を欲している」というわけです。
 テキストでじっくり読みたいという方は、「「ニセ科学」入門」をどうぞ。こっちはゲーム脳がないのは残念だけど。
 ちなみに視線が変なのは、手元のレジュメをカメラ横のモニターで見る形式になっているからですね。

 ただ、心配なのは、NHKが「著作権違反だ」とかいって、ファイルの削除を求めること。
 特に日本のコンテンツホルダーはYoutubeに対して極めて攻撃的な姿勢を見せている。
 しかし、少なくともこのVTRには、タレントが出演しているわけでもなく、内容も広く公開されるべき学術的論考なのだから、公共放送としての体を守るためにも、このファイルの削除を要求しないことをNHKに求たい。
 ちなみにアメリカのCBSは、自らがユーザーの一人となって、映像をYoutubeにアップしている。私企業ですらこうした姿勢を見せるのだから、公共放送の名乗る以上は尚更、著作権者ではなく社会全体の利益を考慮した姿勢をとるべきである。

温度に合わせて色を変化させる蛇口
 一見キワモノ感が漂いますが、触覚の他に視覚でも水の温度を確認できるというのは、ユニバーサルデザイン的に正しい商品です。
 要は発光ダイオードとサーモを合体させただけのこんな単純なアイデアに、どうして誰も気付かなかったのでしょうか?
 少なくとも私は、目で蛇口から出ている水の温度を知ることができる商品を知りませんが、類系の品物は既にあるのでしょうか?

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2006年12月20日
 ■ 誠実な、あまりに誠実な

労働市場改革:正社員待遇を非正規社員水準へ 八代氏示す

 素晴らしい。
 まぁ、俺が戦争を引き合いに出さなければいえなかったようなことを、学者先生というのはアッサリ言うことができて、不公平だとは思うけれども。

 非正規雇用者を本気で救おうと考えるならば、正規雇用者との格差の是正を行なわなければならず、そのためにもっとも必要なことは、双方の賃金格差をなくすことであって、この提案はまさにその原理原則に則った内容と言える。
 「平等!」と叫べばそれが達成できると考えている連中には分からないのだろうが、平等には金という後ろ楯が絶対に必要なのだ。金のランクが平等になって初めて民族や性別や出身地というファクターを解決できる。そのためにできることは、まさに労働層の賃金格差の是正、それも、今すぐできることが明確な下方修正が必要だ。
 なぜ上方修正でないのかといえば、上方修正のためには社会全体のパイを引き上げなければならず、時間がかかる。
 フリーターの問題が生まれて既に10年の月日が経ち、今後の人生を考えれば、平等のための賃金是正は1秒も早く行われなければならない。我々は上方修正できるだけの経済の拡大を待ってなどいられないのだ。我々が40代50代になってから支援が行なわれたって、もう遅いのだ。その頃まで生きていられかすら分からないというのに。
 安倍政権が無茶な法人減税と個人増税を行なう時に、平等を叫ぶ人間は文句を言う。安倍は「経済成長」すなわち法人の成長を最優先と考えるが、それに対して平等論者たちは「個人にも利益を分配せよ」と憤る。
 それとまったく同じように、自分たちの家庭の成長を最優先とする平等論者に対して、我々は「我々貧困層にも利益を分配せよ」と憤る。
 こうした状況を平等論者たちは「分断統治」と称し、「富裕層に騙されるフリーターやニート」とバカにするが、ならばなぜ自分たちからこちらに歩み寄ろうとしないのか。

 本来、今回八代が示したような案は、学者先生からではなくて、平等論者たちから提案されるべき事案だった。そして、正規雇用者と非正規雇用者の真ん中より上気味に経済レベルが調整されるような提案をし、実行するべきだった。本来、ワークシェアリングとは、そういうことだったはずだ。
 しかし、今回これが富裕層の学者先生からされたために、「非正規雇用者のレベルにまで落す」という事態に至ってしまった。これは、できもしない「非正規雇用者の正規雇用者レベルへの引き上げ」にこだわった平等論者の失態である。(北方領土問題のようだ)
 この案に対して、平等論者たちは当然のように文句を言うだろうが、それは彼らが本来自らするべきだったことに対する抵抗の告白、すなわち、分断統治と言うところの「分断」を平等論者自らが生み出して維持しているのだという事実を、無自覚に自白しているに過ぎない。

 ただ、補足しておくとしては、正規社員待遇を下方修正する救済は「非正規労働者の人権」ベースの救済であって、けっして経済ベースでの救済ではない。だから、経済学者がこういうことを言うのは極めて不自然だし、そのこと自体は糾弾されても仕方がない。対外市場ばかりを重視し、国内需要がどうなっても構わないという論理は、経済学として極めて杜撰な論理だろう。もっとも、経済学自体がそんなシロモノかもしれないが。

 で、結局のところ私が思ったのは「ひょっとしたら八代先生らは本気で弱者を救おうと考えているのではないか?」ということ。
 確かにそれが同時に富裕層の得になるのかもしれないが、それは私の立場で見れば「副作用」程度のことだ。
 もちろん、薬学の世界でも「ある作用について研究していたら副作用が有益なものであると判明」する場合なんかがあって、確か育毛剤のロゲインや、睡眠導入剤のドリエル、それと甘味料のアスパルテームなんかは、そんな副作用のシロモノだったはずで、副作用の拡大には注意する必要はあるし、ひょっとしたら弱者救済の方が、富裕層の権益拡大の副作用なのかもしれないが、とにかくこの給与水準引き下げが、弱者の人権的救済に繋がる可能性は決して小さくはないと私は考える。
 経済学者として、経済拡大が難しい中、弱者を救う方法論として所得の下方修正を考えているのだとすれば、例え出てきた結論がトンチンカンなものに見えたとしても、それは労働者層の分断を放置しつづけた平等論者よりも、よっぽど誠実な態度と言えるのかもしれない。
 まぁ、だったらついでに団塊世代の年金大幅カットぐらいの大風呂敷を広げてもいい気はするけど。

『ハイペリオン』を借りてきた。あの書評にこの本は欠かせない。
 他の図書館からの取り寄せで、「予約の本が到着しました」の連絡が来てから3、4日放置していた。そこで一言「今日でよかったのか?」と言ってみようと思ったけど、もちろん言いませんでした。
 そして、本もぺらぺらとめくってみたけど、挟まっているのは返却日のお知らせだけでした。とはいえ、貸し出し担当は男性司書さんだったので、何かが挟まってたら、公園のベンチでツナギを着た男が待っていて……アッー!

「僕の見た秩序。」の記事より。
 ナンバーポータビリティー開始以降、いろいろと予想外なことになっているソフトバンクだが、そのソフトバンクと携帯市場を共に席巻しようと目論んでいるのがシャープで、自社ブランド「AQUOS」の名前を付けた携帯を供給している入れ込みっぷりだ。
 しかし、そのシャープがこういうおもしろ広告を出してしまうというのは、ナンバーポータビリティー開始早々に味噌をつけてしまったソフトバンクに対する嫌味のようにも感じてしまう。
 ……いや、そんな意図はなくて、単純になんの考えなしに広告をつくっちゃっただけなんだろうが、それがこんなミラクルになってしまうソフトバンクの呪いって凄いね。

 ここしばらく紅茶づいていて、1日3〜6杯飲んでいる。(しかもマグカップで)
 最初はティーバッグだったものが、この際だからとティーポットを買って、今はちゃんと茶葉で淹れている。
 ただ、よくわからないのはジャンピングの具合だ。
 ちゃんとジャンピングしているとおいしくお茶が入るらしいのでいろいろやっているのだが、蛇口から直接汲んだ水を沸かして、勢いよくポットに注ぐと、ジャンピングするのだが、それがせいぜい全体の1割の茶葉が1〜2分ジャンピングするだけ。その他は底に溜るか、上に浮くか。上に浮いたのはやがて落ちてくる。
 でも、この具合がいいのか悪いのかがよくわからない。こんなものなのか、それともうまくいけばもっと多くの茶葉が長い時間ジャンピングをするのか。
 なんてことを考えながら検索してみたら、ジャンピングってのは日本でしか流通していない用語みたい。
 まぁあれだ。ジャパニーズスタンダードっていうの? というか本場にこだわる権威に従順な態度?
 結局、こんなこんなで、自分がおいしいと思えば、それでいいんじゃないかという結論で、ジャンピングとか特に気にせず、適当に淹れて普通に自分がおいしいと思う紅茶を飲むことにしますよ。

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2006年12月18日
 ■ オリコンが烏賀陽さん個人に対して、5000万円の損害賠償訴訟

武田さんのところから、あわてて転載。
これは訴訟などではない。カネという武器を使った暴行だ!!

■「オリコン」が烏賀陽個人を被告に5000万円の損害賠償訴訟■
(情報の正確さを考えて、転載の文章を削除し、烏賀陽さんのサイトへのリンクに直しました。 12/19 赤木)

(以下、19日になってからの追記です)
 烏賀陽さんとは、読書会で直接お会いしたことがあります。
 いかにも音楽が好きそうな雰囲気で、とても紳士的で、決して的を外さない話をしてくれる人だったことを覚えています。こっちがあやふやな質問をしても、質問の意図を読みとり、的を外さないように返答するってのは、結構難しいんですよ。

 その時にちょうどこの辺の話もしました。烏賀陽さんは「オリコンとPOSデータの違いはあるけれども、最終的にはおおよそ同じような値に収束する」と言っていました。けっして「オリコンのデータはいいかげんだ」などとは言っていませんでしたよ。
 (ここからは私の意見)もちろん、CDは初動が大切で、オリコンランキングはマスコミによって広く伝えられますから、これを操作できるというのは、いろいろと問題もありそうですが、逆に言えば「そういうもの」とさえ分かってしまえばいいだけのことで、その辺は欺瞞性を分かっていながら、それでも小数点以下の数値に一喜一憂せざるを得ない視聴率と同じことではないかと。

 とにかく、個人に対する5000万円の訴訟などというのは、それこそ司法を介した間接的な脅迫であり、決して許される行為ではありません。

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 ■ 子供を利用して……

もう、彼らをまともに相手にするのはやめました。
 彼らは一生、自分たちで作ったハリボテの巨人を相手にしていればいいと思うよ。

あ、そうだ、もう一つだけ。
 今回の件で、皆様にご心配をおかけしたことをお詫び申し上げます。
 オメデタ気分に水をさされたので、少々苛立ってしまいました。
 今後はこのような醜態を晒さぬように、気を引き締めていきます。

少し前のニュースですが、「サイコミステリー『ルール オブ ローズ』が欧州で販売中止」
 私はこのゲームを発売日に買ったので、このゲームの「残酷さ」をよく知っています。
 基本的には「イジメ」が物語のベースになっているので、もちろん暴力描写はあるわけです。破壊的な暴力ではなくて、陰湿な暴力が。
 まぁ確かに銃や戦車で相手を殺すよりも、こっちのほうが精神的にきますから、そういう意味で「子供に対する販売」が禁止されるのだというのなら、まだ分かります。しかし、今回は販売中止です。レーティングの問題ではないのです。

 すると、「性的描写」というのがキーポイントのような気がしますが、少なくともこのゲームに「性的描写」などありません。プロモーションムービーには女の子がスカートをたくし上げて足を見せるようなシーンがありますが、あれは「貴族の挨拶」であって、性的なそれではありません。まぁ、白組が担当した高画質のCGが、そう見せてはしまっているのですが。

 唯一思い当たるとすれば、メグがダイアナにラブレターを送る部分です。
 しかし、それは女子校においての「先輩に憧れる女の子」レベルの話であって、それ自体が性的なものであるとは思いません。ただ、別の事例として、美少女戦士セーラームーンが海外向けになった時に、両思いの天王はるかと海王みちるの二人(共に女性)が「いとこ」ということになっていたらしいので、いわゆる同性愛的描写がソフトなものを含めて禁忌になっている可能性は高いですね。
 いや、メグとダイアナよりは、WとJか。しかし、こっちはさらに性的描写とは関係なくて、むしろ独占欲の問題なので、やっぱり性的な部分があるとすれば、そもそも「女の子同志」というシチュエーション自体を性的なものと捉えているとしか、考えられません。
 ローマ市長が必死になっていることを考えても、そういうことをタブー視しそうな(そして自分たちはやっていそうな)連中が関わっていることは間違いないでしょう。

 最後に、一番大きな問題を考えてみると、やはり「暴力描写」が問題なのではないかと。それも「子供が暴力を行い、子供が暴力を受けること」が問題なのでしょう。だから軍人などの大人であることが大半の各種FPS(一人称視点シューティングゲーム)よりも過剰な「販売中止」という状況に至ったのではないかと考えられます。
 日本でも「子供」をいいわけに個人監視ネットワークが広まっていますが、海外でも事情は同じようです。
 どうも「子供の人権」とは全く別の意味で子供が大人によって利用されてしまっているような感がありますね。

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2006年12月17日
 ■ イジメ かっこ悪い

http://blog.livedoor.jp/gegenga/archives/50638103.htmlのコメント欄で起っていることが何であるかは、それを読んで行けば明白で、結局のところ現状を変えようとする人間と、それをアイロニカルとも言えないような下劣な文字列で引っ掻き回そうとする下等生物が良くて同列、最悪このようなイジメ的状態に化す状況というのが、まさに弱者を弱者たらしめる社会構造だ。
 匿名性は強者と弱者を不可視化し、エセ平等を作り出す。だから私は自分自身を実名にし、掲示板に書き込む人たちにもせめて性別と年収をはっきりさせるようにお願いしました。しかし、結局は実名すらも匿名性の中にまぎれこんでしまう。harutoなどという文字列と、赤木智弘という実名では、その意味も、その価値もまったく違うというのに、匿名が当たり前になってしまった世界ではそのことを認識できなくなってしまっている。
 実名で社会責任を果たしながら発言をすることが軽んじられ、匿名でただおもしろおかしく書き飛ばしたものが重用されるような社会では、ユニークな意見を軽視する嘲笑する風潮しか生まれないのは必然だろう。
 かくして、格差は是正されず、社会常識が試みを圧倒する。平等など夢のまた夢だ……。

106.Posted by gegenga 2006年12月17日 08:57

>harutoがいる限り、どこで何をやっても、私の真摯な訴えは、怨嗟にすり替えられてしまうのだから無駄です。
ここにもharutoさんが来ているから、何をやってもムダなのに、なんでここには来るの?

 全ての流れの卑劣さは、このコメントが象徴しています。
 つまり、私は誹謗中傷から自分の身を守ることすら、認められていないのです。
 もともとこの言葉は「別のところに移ってもharutoがくっついてくるし、kuronekoがなんらかの仲立ちをするつもりもないのだから、コメントの場を移動することは、単に話の流れ(特にharutoによる論旨のねじ曲げ)を見えなくするだけでしかない。なので移動は嫌ですよ」という文脈で書いているのです。
 しかし、gegengaはわざとその文脈を無視して、私に「お前はサンドバッグなのだから、文句を言うな」と言っているのです。

84.Posted by haruto 2006年12月15日 10:42

>gegengaさま

すいません、あとほんとにもうひとつだけ。

生身の女だから、一方的に向けられる「羨望」や「復讐」が幽霊のように取り憑いた「性関係」は耐えがたいなあ、と感じる。生身の女に向かって、何かを要求していることに鈍感なのは、誰なのか。これも自明。

今回の件では、そこに女性はまず違和感と不快感を覚え、「性関係」における「不平等」が残存することにセクシュアル・マイノリティが苛立つ。そして、相対的に経験値の高い男性は、「性関係」の難しさを経験的に骨身にしみて知っているので(笑)、これもいろいろ言う。ってな感じですかね。

 これが、harutoのもっとも悪質な発言ですね。
 私はなにもパートナーに対して「羨望や復讐」などをぶつけているわけではないのに、なんの考察もなくそこに結びつけ、さも私が女性を押さえつけたがっているように論じる。いわゆる旧来のマッチョ的男性観を私に勝手に適用している。そこでは私の「共に生活するパートナーが欲しい」という、人間としてごく当たり前のささやかな願望が、「男性が女性を奴隷化する思想」に置き換えられてしまっている。
 本来、男女平等論者ならば否定すべきこのような論理が「敵を打ち倒すために」利用される。「アイツがそういう考え方をしているから、男女平等の敵なのだ」と。
 しかし、文面をちゃんと読めば分かるように、「そういう考え方」をしているのはharutoの方ですね。「経験値」なる言葉を使って、性体験の豊富な男が正しいのだなどと言っている。
 これはかつて石原慎太郎が「ババアは有害」と言ったのと同じぐらいに性差別的な発言です。女性との性経験が少ないとしても、それによって論理を否定されるいわれはありません。
 「男はヤリチンが偉い」なんて、harutoは一体どこの中学生なのか。

 しかし、イジメが状態化しているあの空間では、このような明らかなセクハラ発言があったとしても、決して問題にされません。敵を打ち倒すために、敵にネガティブイメージを付与することは絶対的に肯定されるのです。
 私はあくまでも男女平等の論理をねじ曲げることなく、執拗なイジメに対抗していましたが、彼らは好き勝手にそれをねじ曲げて、イジメに注力しました。あのコメント欄をみれば、それを分かっていただけると思います。

 そして、109からharutoはこれまでの「イジメ」をさも「批判」であるかのように、必死にねじ曲げています。
 しかも、

引用された概念の創造者、文献の著者も、おそらくはここに記し切れない同様のひとびとも、私たち3人以外のここや別のところでコメントを書いた方々も、そしてもちろん私たち3人も、我知らず参加した「意志、意図なき無意識の共同作業」としての「批判」の産物として、72、73のメタコメントは生産された。

 などと、さもこの「イジメ」が、多くの人々の賛同を得ている、正しい行為であるかの様に。
 まさにharutoは「卑劣極まりない人間」と言えましょう。

FAX買った。
 最初は「世界最少」をうたう、パナソニックの506DLに惹かれたが、機能と値段を考えた結果、ブラザーのFAX-360DLに。
 決め手は「見るだけ受信」の機能で、やはり大量のインクリボンを消費する普通紙FAXには最重要の機能だろうと。その他のFAXとしての基本性能も十分と判断しました。

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2006年12月13日
 ■ メモ書き程度に

まぁ、予想していたことだけど、やっぱりいつまで経っても「労働者 VS 資本家」という分かりやすく安直な構図から抜け出せない連中が多いんだなぁ、と。
 もう55年体制なんて完全に終っているし、当時の社会党もすっかり弱小政党に落ちぶれた今、ちょっと周囲を見渡して見れば、そんな構図などもう意味がないことなど、分かるだろうに。
 分かっていて、自らを貧しい労働者ということにしているような知的な卑怯者ならまだしも、どうも本気で分かってない様子……。
 特に、「戦争になっても資本家は逃げられる」とか、一番つまらない反論を平気で書いているのをみると、なんか恥ずかしいね。いや、資本家は逃げるかもしれないし、俺は逃げられないけど、普通に社会生活を営んでいるお前だって逃げられないんだよと。それで反論はおわり。
 あと、人の名前を間違えるなんてのは、社会人としての常識が疑われますよ。でも、群馬県出身or在住なら仕方がないですね(笑)。

 そうそう、「どうして革命ではなく戦争なのか?」という点については、これから書きますよ。数日の時間をくださいね。

論座の原稿料が入ったっぽい(まだ口座確認してない)
 で、せっかくなので任天堂うぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーを買……おうと思ったけど、せっかくもらったお金をそういうことに使うのは、ライターとしてダメだろうということで、仕事に必要なものを買うことにしました。

 1つはFAX。
 昔のモデムがあるので、引っ張り出してきてソフトウェアFAXを使うとか、複合機をFAX付き複合機を買うとかも考えたんですが、まぁ仕事に使うものですから、FAXと言って一般的に想定される形のFAXにしておこうということで。今使ってる電話ももう10年以上使っているもので、留守番機能もぶっ壊れているし。

 あと、あれだ。買おう買おうとずーっと思ってたのに買ってなかったボイスレコーダー。

 それと、もう一つ。
 普段の俺だったら絶対に買わないもの。
 「ほぼ日手帳」
 正直、こんなもの買いたくないんだけど、むしろそうやって自分の嗜好からズレたものを手にしていくことによって、なにか得るものもあるかなと思った次第。こんなものに金だして、使わないのもシャクだから無理矢理にでも使っていこうという気も起るに違いない。

 まぁ、そんなこんなで。

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2006年12月10日
 ■ gegengaさんへのレス

論座の記事のタイトルになっている「丸山眞男をひっぱたきたい」ですが、文章を読んでいただければ分かるように、丸山の名前に意味はほとんどありません。
 まぁ、原稿出してゲラが戻っていたらこのタイトルになっていて「え?そこ?」と思ったんだけど、短い文字数でインパクトがあっていいなと思ったのと、他にいい案も思い浮かばなかったのでOKにしました。
 そもそも、文章を書いている途中では、丸山の事例はいい具合の「低学歴で決して裕福では無い人間が、知的エリートを下に見て引っぱたくことができるステキな事例」として提示したにすぎないんですよ。
 しかし、このタイトルを見て「ああ、ここで丸山眞男の名前を出すということは、戦後民主主義の枠組み自体に反発するという意味にもなるな」と気づいたのです。なんか、意図せずに駄ジャレを言ってしまったような気分ですね。
 また、丸山眞男の名前は、私の今のターゲットでもある既得権益左翼層にはインパクトがありますから、いい「釣り」にもなっているというわけで、このタイトルなのです。

gegengaさんへのレス。(http://blog.livedoor.jp/gegenga/archives/50638103.htmlの記事に対するものです)
 gegengaさんのところのコメント欄は、最大文字数があまりに少なく、ちょっとしたレスを付けるのにも苦労するので、トラックバックという形でレスをします。

-- ここから最後まで --

>自称男女平等論者の皆さんが、「女性が有利な方が正しいのだ」などと異口同音に言いたれていったのがあの件です。
という物言い自体が、あなたを不利な状況に追い込んでいる原因の気がしてなりません。

 安直な自己責任論ですね。
 私がこうしたことを言い出したのは、この3ヶ月程度ですよ。
 少なくともフリーターになった頃はそんなことは思ってもいなかったし、最近は思ってはいても、なかなかそれを言語化しなかったし、まだもっと普通の「いわゆるサヨク」でした。
 しかし、状況的にはずーっと変わっていない。そんなことを言っても言わなくても、不利な状況であることにはかわりがないのです。

なにしろ中学〜高校にかけての私の将来に関する夢は
「バリバリ働いて金持ちになる。
そして、35歳で若いツバメを囲う」ことでしたから。

 夫婦として一緒に生活することが「ツバメを飼う」ですか。すごい差別意識ですね。

ということで。
>仕事をしていない男性を養おうなどという女性はいません。
います。
私が中学生だったのはもう30年近く昔で、そんな時代からいるんです、専業主夫がほしい女は。

 今のあなたの旦那さんは働いていないんですか? って、すぐ後に働いているって書いてありますね。
 実際に養うことと、養ってもいいなぁと思うことでは、まったく意味が違います。
 それだったら、大半の家事を女性に任せっきりの男性は「料理ぐらいしたいなぁ」と思っているので、「家事をしたい男性はいます」ということになってしまう。
 でも、大抵の男は半年に一回ぐらいは料理をしても、毎日継続的に作らない。そのような状態を「男性も家事に積極的に参加している」なんて言わないでしょ。

その中で、まず改めるべきは
女が働くことが、男が働くよりも難しい
という、誰がどういおうとあからさまに存在している現状じゃないでしょうか?

こういうと、あなたは
「イヤ、自分のほうがちゃんとした収入を得るのは難しい」
というのでしょう。

しかし、これは、女の立場から言うと

甘ったれてるんじゃねぇよ!!

という話です。

あなたより優位に立つ女は、たくさんいると思います。
いい家の出身で、高学歴で、若くて、または若い頃からキャリアを積んで。
なんていったら、そりゃ、あなたより有利な条件で働いているでしょう。

しかし、あなたとまったく同じ条件の女が、あなたより有利な条件で仕事が得られるとでも思っているのでしょうか?

そんなわけ、ねえぇでしょ?
あなたより不利に決まってるんですよ、あなたと同じ条件の女は。

 私が望んでいるのは、男性女性という性別の差無く、全ての人が対等な立場で社会に参加できることです。
 あなたの言うように「仕事」という限定をしてしまえば、確かに女性の方が不利かも知れません。しかし、仕事と家庭を平等に考えた場合、トータルで不利なのは明らかに男性の方です。現状において、女性は仕事と家庭の双方から社会参加できるのに、男性は仕事の側からしか参加できないのですから。

 どうしてそういうことになっているのかと言えば、結局「仕事をしている人間は偉く、家庭にいる人間は劣っている」という社会通念があるからです。
 女性は性差別と、家庭にいるという社会的状況の双方から劣る人間として扱われてきた。
 そして、女性解放論者たちは「女性が家庭に閉じ込められている」として「女性に仕事という社会参加の回路を開くこと」をその目標としたわけです。
 しかし、仕事の観念からしか女性解放を考えないということは、女性制を開放しても、「家庭にいる人間は劣っている」という社会通念を開放しなかった。それどころか、女性解放運動の仕事へのこだわりは、家庭にいることを卑下したわけです。「男と対等に仕事をしよう」というかけ声は、その裏に「家庭にいる人間は対等ではない」という卑下を含んでいるのは分かりますか?
 それでも、労働市場へ女性制が進出しても、経済が順調で需要があった時代には、その錯誤は問題にならなかったのです。
 ところが、バブルが崩壊し、不況になった途端にその問題が噴出してくるわけです。
 労働市場への供給がなくなる、すなわち仕事を通した社会参加への回路が減ってしまった時に、古くさい「男は仕事、女は家庭」というマッチョイズムと、「家庭にいる人間は対等ではない」という男女平等の論理が結びつき、仕事をもった男性が仕事を持たない女性は支えるけれども、仕事を持った女性は仕事を持たない男性を支えない社会が生まれてしまったのです。
 男女共に仕事を通して社会参加できる人はいいとして、仕事の回路に参加できない女性は、古くさいマッチョの論理を利用して家庭に入ることができる。その一方で男性は仕事をしている女性から見れば「対等ではない」のだから、結婚の対象として見られない。かくしてここに男性差別という性差別を含む現代的な格差が生まれるわけです。

 その格差を是正するために、私は「男性も、家庭という回路を通して、社会参加ができるべきだ」と言っているのです。

ということで、過渡期的措置としての
>「女性が有利な方が正しいのだ」
を理解していないとしか思えないあなたの物言いが
「反ジェンフリで、権力ベッタリのヤツ」
という誤解を生む原因なんじゃないでしょうか?

 過渡期というのは「女性が「私は差別されている」と叫んでいれば、いつまでも過渡期」という意味での過渡期ですか?
 アファーマティブアクションは理解しますけど、それは決して蟻の一穴ではありません。アファーマティブアクションは強力であるがゆえに、副作用も大きいことをしっかり理解し、その適用は明確な指針によってコントロールされるべきです。

そしてその物言いが、本来あなたの味方であるべき人間からも疎まれ
自分をどんどん不利な状況に追い込んでいく。

 私がよく「左翼は(平等論理は)10年間何もしなかった」というのは、自分がいくら平和や平等を叫ぼうとも、私の生活は決して平和でも平等でもなかったという意味です。
 同調している時にはロクに手を貸さないし見向きもしないのに、同調を破ると制裁に走る。
 あなたのような人をみていると、かつての左翼運動家たちが内ゲバに走ったことの意味がよく分かります。

あなたが望むものが、私にはわかりません。

他人が、自分より不幸になることですか?
でも、他人が不幸になったからといって、自分が幸福になるわけじゃありませんよね。

 いいえ、皆が不幸になれば平等になります。
 その時に、一部の富裕層の存在は関係ありません。
 9割の人が不幸であれば、社会はその9割を最頻値として扱わざるを得なくなる。
 その時に男性弱者は始めて「普通の人」になれるのです。

やっぱ、頭をとるしかないっしょ?
ケンカには勝たなきゃ!!

 私にとっての「(敵の)頭」とは、現在の社会体制そのものであり、決して富裕層ではありません。
 だからそれを「戦争」という外部手段を通して、物理的に破壊しようと考えているのです。

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2006年12月06日
 ■ 論座のプロフィールを読んで来た方へ

論座、まだ誌面確認してない(笑)
 5日はちょっと外に出られなかった。出ようと思ったらもう夜遅いし、ここ数日で一気に冬がきたようで寒いし、明日でいいかな、と。(なんてことを、5日の深夜に書いていたら、もうそろそろ6日の本屋が開く時間が迫ってきた。日記のアップが終ったら、本屋に行くことにする。本は送られて来るだろうから、買わないでいいや)

 で、論座を読んで来てくれた人向けに、私の基本的な姿勢を書いておきます。

 まず、第1に私はリベラルであることを志向しています。

 ちなみにネオリベではなく、福祉国家的な方向で。

 私が平和な社会を批判するのは、この「平和な社会」という言葉が指し示すものが、コンクリートで塗り固められた強固な幸福階層制度を意味しているからに他なりません。
 すなわち、「現状で幸せである人が幸せであることこそが平和である」。このような社会です。
 こうした平和社会観は、「子供の安全安心」という分野でもっとも顕著に見られ、親たちは自分たちの子供が死なないためにと、監視カメラの設置による人権侵害や、スクールバス運行などによる予算の過剰配分を、当然のように主張し、社会もそれを容認しています。
 しかし、こうしたやりようが、一方的に「子を持つ家族」という経済安定層を過剰に扶助するかわりに、我々のような不安定な貧困層に対する予算を減額させますし、そもそもそうした「いつ子供が不信人物に襲われるか分からない」という言論で念頭に置かれる不信人物とは、我々のような不安定層を差しています。
 さらにいえば、子供が不審者に襲われて殺されるような事例は年数件(ネット上のいいソース、どこかにありませんか?)である一方、親の虐待が子供の殺害に至るケースは、たとえば平成15年度の7月から12月の半年だけで24件25人という現状である以上、子供にとって危険なのは子供が独り歩きをするよりも、親と子供の密着の方であることは明白です。
 にもかかわらず、誰も「子供のいる家庭に監視カメラを設置するべきだ」などということは、決して言わずに、不審者の危険ばかりを連呼する。
 子供の安心安全言説の主眼は、子供の安全を守ることではなく、親というか、家族という共同体の権利を守ることにあります。そして同時に、家庭を持つことのできない我々のような不安定な貧困層に対する差別の機能をも有しているのです。

 このような、差別を前提とした安全安心な平和な社会に、私はリベラルの立場として反対します。

 そして第2に、不安定な貧困層である私は、富裕層を打ち倒すのではなく、安定した労働者層を打ち倒すことを考えています。

 現在の格差問題というのは、多くのサヨクが理解しているような、富裕層と労働者層間の貧困、すなわち、労組などに属する労働者が包括的に弱者側に属する、古くからの左翼的イメージの問題ではなく、「富裕層」と「安定した労働者層」と「不安定な貧困層」の3つに別れる経済問題なのです。
 そう考えた時に、もっとも大きな断層は、富裕層と安定した労働者層の間に引かれるのではなく、安定した労働者層と不安定な貧困層の間に引かれます。
 なぜなら、生活圏という観点で、富裕層が不安定な貧困層と密接して関わることはありませんが、安定した労働者層と不安定な貧困層は、極めて近しく交わっているからです。
 コンビニで働いている不安定な貧困層店員と、コンビニで買い物をする安定した労働者層家族。
 派遣として工場で働く不安定な貧困層工員と、それを管理指導する安定した労働者層工員。
 そして、不安定な貧困層を不信人物扱いする、安定した労働者層……。
 労働者を一蓮托生のように理解する古くさい左の論理では、労働者が労働者を卑下し、搾取する現在の格差問題を論じることはできません。

 しかし、多くの左やリベラルを自称する論者が「弱者救済」を口にしながら、その対象は安定した労働者層であり、不安定な貧困層にはほとんど目が向けられていないのが現状です。
 ワーキングプアという、極めて不安定な貧困層救済に近しい社会問題においても、社会に出てからずっと不安定な貧困層であった若者たちにまぎれて、かつては安定した労働者層であったにも関わらず、貧困層に落ち込んだ人間がまぎれてこんでいます。
 現状が不安定な貧困層であるのだから、どっちも助けるべきだ。とはいいますが、片やなんの責任もないのにバブル崩壊に巻き込まれた不安定な貧困層と、一時は安定した労働者層で家庭などを持ち、財産や選挙権などの社会人として行使すべき権利を持っていたにも関わらず、カネを失ってしまった不安定な貧困層では、当然前者が優先されるべきなのです。前者には過失はなく、後者には少なからずとも責任があるのですから。
 しかし、「自己責任」の名の下に、もっぱら責任を追及されるのは、全く責任が無いはずの若者たちです。
 老人たちは努力したのだから救うべきで、若者は自己責任なのだから救うべきではない or 当面我慢してもらう、などという、まったく転倒した論理が声高に叫ばれるのが「弱者救済」という標語の現状です。

 このような状況で、不安定な貧困層は安定した労働者層に対する恨みを募らせています。
 そして、安定した労働者層は不安定な貧困層を卑下しています。
 このように労働者層が断層化した状態で、不安定な貧困層に対して「富裕層を打ち破れ」という声を張り上げても、それは安定した労働者層の尖兵として戦うことを意味してしまいます。もしくは不安定な貧困層が戦う後ろで安定した労働者層が短剣をもって待ち構えているかもしれません。安定した労働者層を信用し、共に戦うことは、現状では自殺行為です。

 だから、私は不安定な貧困層のとるべき進路は、安定した労働者層の打破であるべきだと考えています。もはや富裕層の打破などという解決はありえません。

 第3。捻じれた現状を解決するために。

 ここは考え中。
 とにかく、ワークシェアリングだの、ベーシックインカムだの、同一職種同一賃金などという、できもしない戯言はやめにしよう。バブルが崩壊して10年以上、なんにもできなかったのだから、これからだってできないと考えるのが妥当です。
 でないと、戯言をいうだけでカネを得ている人間が増長するだけでしょう。

 と、まぁ、今のところこんな感じで、この辺についていろいろ書いていくことが私の存在意義だと考えています。
 よろしくお願いします。

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