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2006年12月27日

 ■ なんかもう、これでまとめでいいかも

アレがこんなことを書いています。

 論理構造を明確にするために、話を3つに分けます。

1、

掲示板であれ、gegengaさんのところでの対話であれ、あれを「イジメ」ととるのは、おかしいわけですね。

「他者への要求」を「赤木智弘」の名の署名とともに行えば、その「要求するという行為」に関して「要求の内容と形式」を他者から「評価」され、「批判」されるという「赤木智弘責任」が発生し、「赤木智弘」が「要求するという行為」の「責任主体」となる、というのは当然のことで、この場合、「赤木智弘」にその「応答責任」を他者が要求することを「イジメ」とはまず言わないわけです。

2、

しかも、その「要求」の内容は、以下の通りです。

「強者男性」に「分配」が偏っている「強者女性」を「弱者男性」にも「再分配される資源」として扱いたいが、彼女たちには「意志」というジャマなものがある。なので、「道徳的義務」を課すことで、彼女たちが「オレの命令」に逆らえば「社会的制裁」が行われるようにして、彼女たちの「意志」を根こそぎにする「暴力」を社会は彼女たちに加えるべきである。

これ、「論旨のねじ曲げとすり替え」でしょうか。

これは、「強者女性」に対して継続的かつ反復的に加えられる「言説による歴史的暴力」です。それを批判したからといって、「イジメ」にはならない。

それが、gegengaさんが「可愛そうなら何をしても許される、わけではない」という所以です。

3、

「弱者男性」が「強者女性」との結婚も含む格差の是正要求の叫びをあげることには、限りなく共感するし、支援だって可能な限りのことは惜しみなく行う。

しかし、以上のような要求による「言説の歴史的暴力」の行使に無自覚な「赤木智弘」に対しては誰もそうしない。「赤木智弘は弱者男性である」が、「弱者男性は赤木智弘である」というわけではないからです。

ところで、私は実は、「すべてはあなたたちをひっかけ、いろいろなことを考えさせるネタでした」と赤木さんが宣言するのを待ちわびているのですが、まだなんでしょうか。ネタを引っ張り過ぎると、笑いがとれなくなるというのは、「お笑い」の常識かと。

 無茶苦茶だ。

 1について、
 「赤木智弘責任」などという責任の一方的な押しつけ。
 こちらが真面目に返答すればするほど、それをいいかげんにねじ曲げて「悪の赤木智弘像」を作り上げて行くのだから、そのような妄想に対する責任などを押しつけられるのは不当と言うほかはない。
 それと、彼ら自身の責任はいったいどこに消失したのか。
 意見の集約もなく、相手の返答も聞く気は無く、ただ悪人としての虚像を作り上げ、個人をイジメる(イジメという言葉が嫌ならゲバルトに変えてもいい)ことに終始した、彼らの責任は一体どこに消失しているのか。

 2について、
 論旨の完全なねじ曲げ。
 そもそも「意思」なるものは、社会システムと不可分なものであって、決して「個としての自由意志」などというものは存在しない。誰かが「私は黒人が嫌いだ」と思う時には、必ず社会からの黒人に対する視点が内包される。
 弱者問題において意思が最大限に尊重されるならば「フリーターなど雇いたくない法人の意思」が真っ先に尊重されてしまう。
 すなわち、強者の意志が最大限に尊重されることによって、弱者の意志が貶められることこそが、格差そのものなのである。
 フェミニズムにしても部落問題にしても、そうした運動は「差別への意志」の存在こそを問題にしてきたのであり、「意思は自由なのだ」などという素朴な感覚(「意思は絶対に自由なのだ」と叫びたい、青臭い感覚と言ってもいい)は明確に否定されるべきである。

 また、「道徳的義務」なる部分についても、私は「道徳的に」とは書いたが、「義務」などとは書いていない。(「権利と義務」という文脈で義務とは書いたが、その義務は権利の存在を前提にすることぐらいは、日本語の用法として最低限認識して欲しい)
 「道徳」という言葉が義務と強力に繋がることは間違いないが、それでもそうした際どい言葉を使わない限り、「強者が弱者を救うことへの意思を持つこと」の必然性に辿りつくことはできない。強者にしてみればそんなところに辿りつかないで欲しいのだろうが、辿りつかなければ我々弱者は死を待つほかはないのだ。

 また、アレはセンテンス全体で「彼女たち」という言葉を使って、さらに「言説による歴史的暴力」などと書いて、これが「男性である赤木智弘から、女性への抑圧」として表現しているけれども、「強者が弱者を養う」というのは、かつて「男は仕事、女は家庭」という時代に、男性に対して当然のようになされていた抑圧であり、それは現在でも存在している。
 今でも男性は「家族を養ってはじめて一人前」であり、だからこそ仕事を持てずに家庭ももてない若者弱者は、その人権を執拗に否定される。
 そうした抑圧が男性の側に明確に存在する一方で、女性はそれを一方的に拒否できるというのは、男女平等に反する。

 3について、
 「支援する」とあっさりと言うが、そもそもそのような支援がいつになってもなされないからこそ、格差はいつまでたっても是正されていないという現状がある。
 それは、アレが支援を「可能な限り」と表現していることに重なる。「可能な限り」とは、具体的には「強者の余裕の範囲で」という事にすぎない。だからこそ強者の収入が減る「ワークシェアリング」や、強者の自由恋愛に不利益を与える「強者と弱者のカップリング」は強く否定される。今回の私に対するゲバルトも、強者による弱者救済の「拒絶」である。

 しかし、弱者の救済は、強者に対する不利益分配から目を逸らしていては絶対に達成されない。
 ゲバルトでいい気になっている彼らに論理的対話を求めるという無茶はしなくもいいけれども、弱者救済のために、各自自分で考えた、自由な支援を強くお願いしたい。

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