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2007年01月30日
 ■ QMA4キタコレ

ようやく地元にQMA4キターーーーーーーーー。
 ひとまず3回プレイして、2位2位3位。
 修練でも前回の超賢が必ず2、3人いる感じで、全問正解でも秒差で負けたりと、どうも優勝までいけない。ので、組が今だにユニコーンのまんま。
 まぁ、今回は組が「上がったら下がりにくい」仕様(10戦平均で12位以下なんて、ヘタレペガユニスパの俺でも、今までに1回あるかないかだと思う。多分そのうちに「8位以下」ぐらいに修正されるんじゃないかな?)なので、このまんまでもいいかなと思ってみたり。
 組が上がったら、それこそ「3では普通にケル常駐でしたが何か?」なんて連中がウヨウヨしているんだろうし。

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2007年01月26日
 ■ DQNは、想像のはるか斜め上を飛んでいく

そのまんま東氏が再チャレンジに成功だと?
 安倍晋三さんは、我々の想像のはるか斜め上を飛んでいっているようで。

 これが「再チャレンジの成功例だ」とするならば、そのまんま東の立候補に対して、国や政府が何らかのサポートをしたということか? もしくは、何らかのサポートをする用意があるのか?
 再チャレンジ政策を公約に掲げていたはずの安倍晋三が「再チャレンジの成功例」だというのだから、それは安倍政権が進める再チャレンジ政策の概要と成果を指すものであって、決して「そのまんま東が、がんばった」という意味にはならない。
 しかし、当然のように、今回の選挙結果はそのまんま東とその周辺の人たちが、がんばって得た成果であり、そこに政府は関係ない。だいたい自民党は別の人間を公認していただろう。
 ならば、安倍晋三は一体なにを差して「再チャレンジの成功例」などと言ったのか。

 結局のところ、安倍政権のいう再チャレンジが、まさに「自己責任論」でしかないことを証明していると言える。
 政府は社会の落伍者に対して何らサポートはしないけれども、その中で這い上がった人間がいれば、その人間に対して「再チャレンジの成功例」とは言う。それだけのことだ。(東は落伍者ではないのだが……)

 この件で真に重要な視点は、再チャレンジ政策に必要とされている本質を安倍晋三がまったく理解していないことである。
 格差社会においての「再チャレンジ政策」とは、市場からこぼれ落ちた(ひとまず、原因は置いておく)労働者を、再び労働者市場に戻すための足場となるべき政策であり、労働者が目指す場所は「県知事」でも「IT社長」でも「会社役員」でもなく、通常の正社員であるはずだ。
 しかし今回、安倍晋三は「都知事選」という極めて特殊な事例に対して「自分の再チャレンジ政策はそういうものなんだ」と言った。このことは、安倍晋三が再チャレンジ政策なるものが一時の人気取り政策でしかなく、社会全体に広げるセーフティーネットとして一般化するつもりなど全くないことを意味している。
 安倍晋三の再チャレンジ政策は、そういうものなんだ。

QMA4が出まわり始めてます。
 引き継ぎにしようか、それとも新しいキャラを作ろうか。

APAグループの件が今さら出てくるのは、やっぱり安倍晋三の支持率低下が影響してるんだろうな。(APAグループの元谷外志雄代表は「安晋会」の副会長)
 この辺の話は「きっこの日記」に出てくるだろうから、そっちでどぞー。

某所でアレな人同士の議論ゴッコが今だに続いているようですが、あのまま行くと「女は男よりも生得的な肉体自体に金銭的価値があるのだから、男には仕事を優先的に与えてバランスを取る」とか「男が仕事をして社会から金銭を得て、女は家庭に入って男から金銭を受け取るという流れをつくる」という方法をとらないと男女平等にならないことは明白だな。
(だからこそ私はこの部分に立ち入ることを極力避けて、これまでの男女平等運動のありように敬意を評し、強者女性が弱者男性をパートナーとして選択するように求めている。たとえそのことがバカバカしく見えたとしても、強者が弱者を意図的に救うことを精神に内包させ、それを一般化(道徳化)しなければ、男女にしても経済にしても、あらゆる「格差」は決して縮小しない)
 しかし、彼女らは「仕事上の男女平等」と「被保護者としての女性」いう既得権益(とか言うと、連中は「女性の会社役員は1.2%」などの、全く関係ない話をする)を手放したくないから、そこからは必死に目を逸らしつづけるのだろう。
 現に「だから男が肉体価値を高める努力をすべき」なんて言ってるしね。「化粧をしないのは自己責任」「痩せていないのは自己責任」「健康で明るくてセックスアピールが適度にないのは自己責任」。自己責任を振りかざす連中が平等と叫ぶなんて、バカバカしくて呆れるね。(苦笑)
 彼女たちは一生成長しないね。というか、成長しなくても「女は男が養ってくれる」と、思っているから安心なんだろう。本当に自立したいと思っている女性には、迷惑な話だろうなぁ。

 私はこれからも性差別に反対していきます。

 おまけ:彼女がものすごい勢いで結婚を迫ってきて鬱

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2007年01月23日
 ■ ただ「あるある」が悪いのではなく

そういえば「(今のところ)論座だけ」の扉絵は、毎日でも仕事をしたのだから、そろそろ換えないといけないな。

あるある大辞典の件ですが、普通に「あるある大辞典なんて(「あるある」だけではなく、全ての健康情報番組は)、健康情報お笑い番組じゃん」と思ってた自分にとって、今回の過剰な報道や、街の反応に驚く。というか、こんな大騒動になるほど、この番組を信じている人がいるほうにビックリ。
 たかだか数人の被験者による、測定条件すらまともに設定していない自称「実験」のデータなど、捏造でも本物でも無意味。

 結局、問題は騙す側ではなくて、こんなものに騙されてしまう側にあって、こうした報道においても「我々はあるあるに騙されていたのだ!」と騙されている。
 スーパーや納豆業界も被害者気どりだが、あるある的な「健康効果」を散々唄って商品を売ってきた過去があるのだから、彼らだって騙してた側であることに違いはない。あるあるの放送内容が事前に大手スーパーに流れていたのは周知の事実。
 一般視聴者もこのようなバラエティー番組に飛びつき、安直に金で健康を手に入れられると考えていたのであり、自ら好き好んで騙されていたといえる。
 そして何よりも、このような共犯関係が、「国民はすべからく健康維持のために尽力すべし」という「ネオ公衆衛生思想」的言説を優位にしていたのであり、そこに対する反省も批判もなく、ただ「我々は騙された」と絶叫するだけでは意味がない。それだけに「朝ズバッ!」でみのもんた(今さら書くまでもないが、みの自身もネオ公衆衛生思想布教番組の代表的な1つ「思いっきりテレビ」の司会者である)が「あるある」を罵倒していたのは、いったいなんの冗談だ?

 私は以前に『若者殺しの時代』を紹介した()が、この本に描かれている「何でもバラバラにしてお金にしていく」という経済手法は今だに続いている。健康や安全や教育についての「自己責任論」はそうした経済活動を補完するために重要となる。
 いま社会で言われている「自己責任」は「当人の責任で、何をしても良い」という容認では、決してない。
 当人が健康を損なったり、事故にあったり、窮地に陥った、事後的にいわれる糾弾としての「自己責任」である。
 自己責任を全うするためには、過剰な「自助努力」を行なわなければならない。そしてその自助努力に天井はない。

 健康の例で言えば、今までのように漫然と健康保険をかけていただけでは、入院費すら払えるかどうか危うい。だから、保険を見直して、掛け金の高い保険に加入しろと、テレビCMが訴えかける。ここ数年、テレビで保険のCMを目にしない日はない。
 食品もただ漫然と好きなものを消費するのではなく、健康効果や痩身効果を考えて消費しなければならない。日本人は常に必要な栄養素が不足しており、それを補うために、サプリメントや青汁を摂らなければならない。
 昔は普通にかかる病気だった「カゼ」も、今やインフルエンザが猛威をふるい、ノロウィルスなどの恐ろしいウィルスが出てくる時代になってしまった今では、高機能なマスクを使用したり、うがい薬をつかったり、ビタミンCを多く摂ったりと、十分な予防対策が必要となる。
 中年太りは「メタボリック症候群」という恐ろしげな名前となり、痩身を心がけるために、スポーツクラブに通ったり、高価なトレーニングウェアやシューズに身を包んで、i-Podで距離を計算しながら、ジョギングをしなければならなくなった。
 成人病はかなり前から「生活習慣病」と呼ばれるようになっている。これらの病気は成人であればかかって当然の病気ではなく、生活習慣を改善して、予防しなければならない病気となった。そのために油はエコナクッキングオイルを使うべきだ。

 こうして、大量の「商品」を消費しなければ、健康に対する自己責任を全うできないという恐怖感を、我々は持っている。
 しかし結局のところ、ここまでしても病気になってしまえば「それは自己責任だ」と糾弾されるのだ。

 ただ「あるある」だけを批難して、これからも「思いっきり」や「ガッテン」を信奉し続けるのか、それともネオ公衆衛生思想の構造的な誤りに目を向けて、現代の自己責任のありようを問い直すのか。
 きっと前者にしかならないんだろうなぁと諦念しつつ、後者の流れに期待してみたい。

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2007年01月19日
 ■ 「仕事しました」な話 → 新聞というハードウェアのありようについて

仕事のアナウンスをしておかないと。
 20日、明日ですね。
 毎日新聞で毎週土曜日の朝刊に掲載されている「論点」欄に、「再チャレンジ政策」を論じた文章が掲載されます。
 全国紙の朝刊ですよ。しかも広告欄を除いた誌面の3分の1にデカデカと。

 で、それとはまったく関係のない話をしますけど、「論点」欄は広告欄を除く新聞1面に、3人の論者が登場して、各自の視点から同一のテーマを語る企画欄なのですが、それぞれが13桁×93行。すなわち1200字弱の文字数が書くわけです。
 この話を最初に受けて、文字数をざっと計算した時に思ったのは「新聞1面の3分の1が1200字程度って、少ないよな」ということです。
 ご存じのように、最近の新聞は昔の物よりもかなり文字が大きくなっています。新聞社は文字を大きくすることをアナウンスする時に、必ずといっていいほど「文字が大きくなって、読みやすくなった」というのですが、やはり文字数を使わなければ伝えにくい物事もあり、文字数が減ればやはり論じられる内容が減ることは否めないわけです。
 で、文字数が減ってフォントサイズが大きくなる一方で、なぜか新聞のサイズは決して小さくならない。
 いわゆる「大衆紙」「高級紙」でいうところの「高級紙」の体を守ることが優先であり、新聞のサイズを時代に合わせて変えようという考え方自体が、そもそも存在しないのです。
 しかし、外国では大衆紙はもちろんとして、高級紙もタブロイド化していく流れにあるようです。(イギリスの例
 最近、産経新聞が「サンケイエクスプレス」というタブロイド紙を創刊しましたが、20〜30代をターゲットにするというものですから、むしろ産経本紙自体はタブロイド紙との区別、すなわち本紙のサイズに対する執拗なこだわりを露呈させるという、海外の流れとは真逆の考え方です。そしてそれは他社も同じことです。(確か朝日も「若者向けのタブロイド紙」を出してなかったか?)

 そして、携帯や音楽プレイヤーなど、さまざまなものが小型化していく中、相対的に新聞は「物理的に大き過ぎるメディア」と化してしまっています。満員電車の中では「新聞を開く」方が「満員電車で携帯電話のニュースサイトを見る」よりも迷惑な行為であることは明白です。家にあれば4つに畳んでもおおきな場所をとりますし、資源ゴミとしてステーションに持っていくのも面倒です。  「社会人は新聞ぐらい読まなければ」という風潮は根強くありますが、ネットで即時にニュースを仕入れる時代には、ネット上の速報で概要を知って、その場で詳細を検索するという使い方がスタンダードで、満員電車で朝刊のニュースを読んで、会社で詳細を検討するなんてやっているのではあまりに遅いという考え方も出てきています。  また、今はまだ「宅配制度」のおかげで部数を保っていられますが、拡張団問題や再版制度すら脅かしかねない値引き問題があり、これも何らかのきっかけさえあれば、崩壊してもおかしくない感があります。
 一方、パソコンでのインターネット。そして、ネットと密接に結びつく簡易情報ツールたる携帯電話は、その地位を着実に固めています。さらには、ワンセグ携帯の存在が、ただでさえテレビに奪われがちな信頼できるニュースソースとしての立場を脅かしており、新聞というハードウェアの地位は決して安泰ではありません。

 そしした状況を考えても、文字が大きくなって文字数が減っているのだから、タブロイド化、さらにはA4化など、新聞を小さくすることは必須であると思うのですが、状況の変化を恐れる新聞社の状況から、なかなかそうはいかないようです。

「JCcast」第0回につづき、第1回が公開されています。
 小田嶋隆の『テレビ標本箱』を軸にしながら、ナンシー関の話などをしております。
 つか、「ナンシー関論」だな、これは。

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2007年01月17日
 ■ また何か書きました

JCのポッドキャスト「JCcast」開始。
 私も何かしゃべってます。
 まだ準備段階なので、さしたる準備もない状況で1時間近くもしゃべってますが、できれば15分*3本ぐらいにしたいところ。
 個人的には、もうちょっと意図的に声を作ってしゃべる訓練をしたいと思う。しゃべるのは苦手です。

あー、ひと仕事書きおえた。
 また紙媒体で仕事をしました。明日か明後日に具体的な内容をアナウンスします。(今日書いてもいいいんだろうけど、まだきっちり終ったという実感がないので。直しもあるかもしれないし)
 論座のような6,000字超という仕事量ではなかったので余裕に構えていましたが、やっぱり最後の詰めになると、ああ書くべきかこう書くべきかと悩みは尽きず。
 媒体的に文字数の制限がキチキチなので、あっちを少しいじると、こっちもいじらなければならなくなって、いろいろ右往左往してましたね。
 内容的には論座のような過激さはありませんが、書くべきことはハッキリと書いています。

ホワイトカラーエグゼンプション(以下、WE)は、とりあえず見送られるそうで。
 一見「労働者の勝利」と思える結果だけど、私はそうとは思いませんね。
 私は日本の階層を「富裕層」「安定労働層」「貧困労働層」の3つに分けるけれども、このWEは「安定労働層」を直撃する内容でした。
 しかし、WEに対するマスコミ(もちろん彼らは「安定労働層」に含まれます)を中心とした過剰な反発が起きたことは、安定労働層と貧困労働層の分断統治を目指す政府としては「いい煽り」になった可能性があります。
 どうにせよ、安定労働層と貧困労働層間の格差は是正されなければならないので、WEに反発した側が、間髪入れずに直接税の累進課税性を高めたり、消費税をアップさせて一律課税を廃止し贅沢税化させたり、高齢者の再就職に反対したりなど、貧困労働層に配慮した政策を提言していかないと、また次に政府がWEなどを持ち出した時には、貧困労働層が政府側に就く可能性が高くなると考えます。

毎日新聞クオリティー
講演:凶悪事件の背景、小川・毎日新聞委員が解説−−川崎 /神奈川
 「だから、教育基本法を改正して愛国心を涵養するべきだ」って結論ですかねぇ?
 いつどこで犯罪の質が「考えられなかった事件」などというものに変わったのか、この人は少年犯罪データベースあたりを手始めに、ネットで調べてみたらいいと思う。
 「新聞社側が伝えたい情報だけを伝えられる新聞もいいが、さまざまな事柄に対してさまざまな視点からの玉石混淆な情報を得られるネットも使ってほしい」ということで。
 もし、ネットが嫌なら、『犯罪不安社会』をどぞー。

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2007年01月13日
 ■ これはひどい

「「平等」か「生存」か」の内容が酷かったので、批判的なコメントを書いたら、「歩行と記憶」さんに勘違いされてショボーン。
 俺がいきなりそんな意味も分からない一方的な批判文章を、今までやりとりをしてきた方に突然書くと思いますか? 思いますか。そうですか。そうですね……思うよな……。

 さて、そういうわけで、私が「「平等」か「生存」か」の何が気に食わなかったのかということを、書くとします。全部は書いてられないので、2点だけ。もちろんその他の部分についても、全くの的外れであることは言うまでもない。(俺は「親ゆとり教育」だし、TBSに在日が入社したことだって、彼の思っているようなことはまったく思っていない)


 最初に1点。
 要は私がなんの為に「赤木智弘はニセ弱者なのか」というエントリーを出したのかが分かっていない。
 もちろん、主題としての「立場を偽装するもの」というニセ弱者論に対する批判があるけれども、それと同時に「私は決して望んでフリーターになったのではない」「普通のサラリーマンになりたい」ということを明確にすることも目的にしている。
 それに対して、

第一、赤木氏は「普通のサラリーマン家族」がうらやましいと言うが、そんな家族、本当に羨ましいか?羨ましいとしたら、何が?

家族?

車?

家?

もしどれかだとしたら、やっぱり僕はそういう気持ちは分からない。東京タワーの上で自分の人生に自己満足して、「明日からもこうして生きていく〜♪」なんて言う平等、こっちから願い下げだ。まだギリギリの生活の方が良い(もちろん一番良いのがのんびりしながら自由に生きれる生き方であり、それを僕は目標とするが)。

 と、こんなことを書いてしまう。
 いや、sjs7が別にそれをうらやましいと思わないなら、別にそれはそれでいいよ。好きでやる分には、勝手にフリーターでも何でもやってればいい。
 でも最低限、私が「「普通のサラリーマン家族」がうらやましい」と言っていることだけは認識してほしい。そして多くのフリーターか「フリーターなんか続けたくない」と思っていることを認識してほしい。
 sjs7がそれをうらやましく思わないからって、「普通のサラリーマンになりたいと思っている私」を批判する必然性は全くない。

 次に、「ご縁が無い」という言葉について。

深夜のシマネコBlog: 「ご縁が無い」が穏便だって!?で
 ご縁が無いという言葉が穏便とは……

 就職できずに苦労している人の中には「今回はご縁がないということで」という言葉を何十回も聞いた人もいるだろう。
 そういう人たちにとって「ご縁が無い」という言葉は、その人が社会に立ち入ることに対する拒絶を意味する。
 日本の「会社−社会」において、会社に入れないというのは、社会の一員ですらないということを意味する。そしてそれは人間として扱われないことを意味する。
 「ご縁が無い」というのは、その当人に対して「お前はこの社会で生きる価値がないのだ」と宣言しているに等しい、極めて無慈悲な言葉である。そんな言葉が穏便とは……

 無自覚にも運良く社会の中にいられるkuronekoには、そのような弱者の苦しみなど、想像もつかないのだろう。  いくら教育基本法の改正に賛成しようとも、安倍政権を批判しようとも、弱者の味方のフリをしていようとも、こうした言葉の端々に、書き手の傲慢は姿を現してしまうのだ。

 という風にいびるのを見ると、そりゃ確かにあなたの琴線にはふれる発言かもしれないが、相手も(この発言に関しては)悪意があって言った訳じゃないんだから、そこまで糾弾するなんてやっぱいびりだよなぁと。

 「悪意がなければいい」っていうなら、ほとんどの交通事故は無罪だな。
 冗談はともかく、この「ご縁が無い」という言葉の問題は、まさしくその「悪意がない」ということだ。悪意、すなわち「意思」の問題である。

 「村八分」という言葉があるけれども、この言葉は明確に「八分は無視する」という意思を表している。
 そして、「ご縁が無い」という言葉は、ハッキリいえば「村十分」に等しい、完全に関係性を絶つ言葉だ。
 しかしこの言葉には、関係を絶つという「意思」はない。一方が一方に対して、関係性を明確に絶つ意思を伝えながら、それを「ご縁」という、曖昧な言葉で濁して伝える。そこに「関係性を絶つ側の意思」そして「責任」は見えない。

 わたしがあの辺の連中に対して、延々と文句を言いつづけたのは、彼らが平和や平等と言うことを口にしながら、その一方で現実に弱者を救う行動をまったく取ろうとしないということであり、それは「強者としての責任」の所在を問うていた。
 そのことに対し、連中は最終的に「ご縁が無い」という言葉を使った。すなわち、強者の側から弱者に対する関係性の切断を宣言し、なおかつそれについての責任は一切取らないという発言をした。
 まさに、彼らの無責任な態度を如実に表す一言だったといえる。だからこそ、この発言を私は最も重要視したし、糾弾したのだ。

 結局、sjs7には、私の書いていることの意味、そのすべてがまったく見えていないのだとしか思えない。

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2007年01月10日
 ■ 赤木智弘はニセ弱者なのか?

研幾堂の日記 より なんとも奸智邪悪な

なんでも筆者もまたフリーターであるそうだが、丸山真男を読んでいて、しかも「論座」に文章を掲載もしてもらえる「フリーター」とは、一体、いかなるフリーターなのであろう。私は、それは位置取りの偽装であると思う。そういう立地点でのものと偽装したいのであろう。

 なんとも能天気な。
 というか、「私がフリーターである」ということが偽装だったら、
 もし、本当は俺がどっかの大学の研究員なりなんなりで、ちょこちょこっと論文を書いて、大学から給料をもらって、それで生活ができるんだったら、どれだけ幸せなことか。
 私は今までの人生の中で何度、眠りに就く前の布団の中で「明日起きたら、この人生が全部夢で、本当は妻や子供がいて、幸せな生活を送っているということになってないだろうか……」などと考えたことか。
 ああ、本当に私のこの人生が偽装であってほしい。
 でも残念ながら偽装じゃない。……本当に残念ながら。

 私に対する「ニセ弱者ではないのか?」という嫌疑は、既にいくつかの場所で目にしている。
 彼ら曰く、「本に活字を載せることのできる弱者など、存在としておかしい。だから赤木智弘はニセ弱者だ」と。

 現状において、弱者というのはもっぱら、誰かが「この人は弱者です」と紹介するものだった。
 NHKのワーキングプア特集などについても、NHKという権威者が「この人はこれこれこういう事情で弱者です」と紹介するものであり、彼らの姿は「編集」によって作り上げられている。
 雑誌も編集という手法を用いて作り上げられるものであり、その中での私も「編集の中の一環」でしかなく、そういう意味では研幾堂日記の著者が最終的に「なんとも奸智邪悪な、よたび」において、私の文章の存在を「論座編集部の意図」であるかのように読み解いていく姿勢は、あながち間違いとも言えない。

 しかし、そうであったとしても、私が弱者であることには変わりはないし、論座に寄せた文章が私の自由な知性の産物であることは疑いようがない。余計なことを付け加えて置くならば、あの文章はほとんど私が最初に書いたままで掲載されている。
 もうひとついうならば、その意図は論座編集部の意図ではなく、私の意図である。
 『諸君』や『正論』あたりの「ナショナリスティックで、右傾化した方向付けを、先の人々に「解消的な」ものとして与える」手法を用いて、ウヨ厨に対して隣接的な言論を投げかけ、「向こう側からこっち側へ」の視点の移動を意図している。
 それは同時に、安直な弱者概念に目を奪われ、自らの活動に対してあまりに純粋に「我々は正義を成している」と勘違いしているブサヨの視点を移動させることにも繋がる。すなわち、双方に対しての視線の配り直しを求めている。
 このような視点移動よって目眩、もしくは呼びかけに対する違和感、居心地の悪さ思い起させることができれば、私の意図は十分に達成したと言えよう。
 そして私のそうした意図を、同時に論座編集部も意図しているならば、それこそはいわゆる「論壇誌」が社会の公器として存在する真に正当な理由ではないのか。読者の精神衛生や学者先生のためのこづかい稼ぎ装置であり続けることが、論壇誌の存在意義では無いはずだ。
 私に最初に声をかけてくれた編集の方は、大変にクレバーな方なので、そうした役割を私に期待していたはずだし、その役割を果たすことは、私としても望むことだった。こうして、たまたま運良く私の文章が論座に掲載されることになった。

 だが、私がその役割を果たすために、どうしても必要なことがあった。
 それは私が自分の意思において「自分を見世物」にする覚悟だ。
 私がかつて使用していた「東天王ヨブ」というハンドルから、本名を名乗ることにしたのは、そうした覚悟の最初の表われだった。
 考えてもみてほしい。今のネットで実名を名乗ることが、特にずっと匿名を名乗ってきて、それを実名に直すことに、どれだけ自覚的な覚悟を必要とするかということを。
 そして、今度はさらに自分の実名を論壇誌に掲載して、なおかつ「31歳 フリーター」を名乗る必要にかられる。
 人に正々堂々と名乗れる肩書きがある人間は幸せだ。そして論壇誌に名前を載せるような人たちは、その大半が「○○大学教授」とか「○○代表」などといった立派な肩書きがある。そこに「31歳 フリーター」と書くのだ。
 そんなもの、誰が書きたいものか。正々堂々と正面切って「私はフリーターです」などと名乗りたいと言う人間がどこにいる?

 ここでハッキリさせておく。私は自分の現状を恥じている。普段の自分は常に自己卑下に苛まれている。こんな人生は最悪だと思うし、自分のことなんか大っ嫌いだ。
 しかし、私は名乗らなければならなかった。「強者にとって都合のいいだけの弱者概念」を討つために、自ら弱者であることを名乗らざるを得なかった。
 これが私が弱者だという決定的な証拠だ。名乗りたくもない肩書きを名乗らなければならない現状に至らされている現状こそ、我々が弱者である明確な証拠だ。

 弱者が自らを弱者であると名乗らざるを得ない屈辱。
 私を「ニセ弱者」だと罵る連中は、そんな当然の感情に思いを寄せることすらしないのだろうか。

 上記とは別に、反論しておくべき部分。

興味深いのは、彼らの憎悪の対象が、真面目に働く庶民、年上の安定して豊かな生活を送っている人々、そして、ちゃんとした家庭を維持している人々とされていることで

 私は「真面目に働く庶民」に対する憎悪は、まったく持っておりません。かくいう私自身も「真面目に働くフリーター」なので。
 というか、「真面目に働くこと」と「収入」との関係が、バブル以前の世代とポストバブル世代では、あまりにかけ離れているからこそ、バブル以前の世代に憤るのです。
 「昔の人たちは、みんな真面目に働いていた(から、豊かな生活を送れたのだ)」などというのは、良くある俗流若者論に過ぎません。
 いくら真面目に働こうとも、豊かな生活を送ることのできない社会構造、そしてその社会構造を支持し、支える人たちの存在こそが問題なのです。
 そして私は「その社会構造を支持し、支える人たち」が、「年上の安定して豊かな生活を送っている人々」だと考えているのです。そして「豊かな」というのは、決して浮遊層のことだけではなく、普通に生活を送ることのできる、安定層までもを含むのです。

私には、若年層にそのような意識が所持されていることも、その意識に社会全体の潮流を変えるエネルギーがあるとも言えないと思われる。

 この著者は、俗流若者論を論理のベースに敷いているようです。
 若年層にそういう意識があるかどうかはともかく、エネルギーまでがないと考えるのは、若者をバカにしすぎでしょう。

 あとはなんか、小学生が陰謀論を雄弁に語っているようで、サッパリ分からない。なんでフリーターの若者である自分が、フリーターの若者を軽視しなければならないんだ?
 フリーターの若者は、かつて若者だった連中よりも、真面目に働いてますよ。それはファミレスに行っても、居酒屋に行っても、コンビニに行ってもガソリンスタンドに行っても、そうした若者たちが一生懸命働いている姿を見れば分かることです。そんな真面目に働く彼らは、彼らを働かせて怠けている正社員連中よりも、多くの収入を得るべきなのです。

JCJフラッシュ より、桂敬一氏によるコラム
「戦争への道」のでき方

北海道新聞06年12月29日夕刊「ニュースへの視点」

 「戦争への道」のでき方
  桂 敬 一

 構造化した格差社会がこのまま「平和な社会」としてつづく限り、自分は一生その底辺から抜け出せない。これが戦争で崩壊、流動化してくれれば、水面の上に顔を出すチャンスだって生じる。

 希望はもう戦争にしかない—三十一歳のフリーターが月刊誌にこう書いているのを読んだ。ショックだった(赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」、朝日新聞社『論座』二〇〇七年一月号)。そして実際に戦争への道は、このような若者の期待に応えるためか、着々と敷かれだしている感じだ。

◇ 愛国心教える義務課す

 今月十五日に成立した改正教育基本法は事実上、学校に愛国心を教える義務を課した。また、旧教育基本法一〇条(教育行政)では、行政の教育に対する「不当な支配」については、全国民がその排除を正当に求めていける、とする書き方のものだった。

 ところが改正法(一六条)では、行政は責任をもって「不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより」教育が行われるように努め、そのための権限を行使する、と読める書き方に変わった。

 加えてこの場合の「不当な支配」とは、たとえば日の丸・君が代に反対してきた日教組なども該当し得るという意味のことを、伊吹文明文科相が参院教育基本法特別委員会で示唆したのだ(十一月二十二日)。

 これでは教育行政における「不当な支配」の意味は、完全に逆転することになる。

◇ 防衛「省」呆気なく実現

 恐ろしいのは教育基本法「改正」のかげで呆気なく実現した防衛省昇格法だ。
 それも、この新法のかげですっと実現した自衛隊法「改正」のほうが、怖い。

 その三条(自衛隊の任務)は本来任務として「わが国の防衛」のみを示してきたが、今回三条の第二項として「周辺事態への協力」「国際平和協力活動」が新設、追加されたのだ。

 これによって、一九九一年の湾岸戦争からイラク戦争にいたる自衛隊の海外におけるすべての活動プラス・アルファが、自衛隊の本来任務とされることになった。狭義の自衛権を逸脱する戦力保持や交戦権を禁じた憲法九条二項が、そのままあるにもかかわらずだ。

 そしてもっともっと恐ろしいのが、これだけの戦後政治の重大な路線転換が図られていたのに、メディアがその問題点を、十一月十五日の衆院教育基本法特別委員会における与党単独採決後、参院での成立まで、縦横に報じ、論じてきたかというと、在京の大手メディアに接する限り、とてもそうとはいえないと感じられたことだ。

 さすがに成立後、十六日には各紙朝刊も、国会が決めたことの歴史的意味を大きく書き立てた。だが、そりゃ俗にいう喧嘩過ぎての棒千切れじゃないか—間に合ううちになんで国民に大声で注意喚起を繰り返さなかったんだと、前日の午後歩き回った国会前の寂しい光景を、あらためて思い返した。

 戦争を求める若者がいる。
 彼らの希望に沿い、世の中の流れがそっちに向かって進んでいけば、もうしょうがないのか。メディアもこれからは、その流れに乗って読者・視聴者を開拓、部数や視聴率を伸ばすしかないのか。

 本当は、その道が間違いで不幸に行き着くしかないということは、メディアこそ深刻に学んだのではなかったか。

 確かに、「戦争への道」は間違いに違いありません。
 しかし、ならば「不利益配分を団塊ジュニア世代にのみ押しつける現状」とやらが正しいかといえば、これもまったく正しくないのです。
 私の苛立ちは、前者の間違いに対しては執拗に抗う人たちが、後者の間違い、すなわち我々の苦境に対して完全に目を背けていることに対してのものです。
 さらには、その人たちこそが、積極的に団塊ジュニアに不利益を押しつけている疑いすらあります。
 組織的な労働運動が既存の労働者を守るために、我々のような別種の労働者を踏み台にしている疑いです。
 戦争に反対する前に、その人たちはこの疑いを晴らす、もしくは改善する責務を負っているハズなのです。
 しかし、そのことを無視し続けるならば、彼らがその「愛国」的でない言動をもって、特高に捕まり、その人権をはく奪される時に、我々は彼らから視線を背け、決して省みることは無いでしょう。それこそ、現在彼らが我々に対してしているのとまったく同じように。

 そうならないためにも、あなた方は、今すぐに現状の間違いを正すことを考えてください。
 後者の間違いを正すことこそが、前者の間違いを正すことなのです。

ICレコーダー買った。
 機種はいろいろと迷いましたが、結局は「ICR-S277RM」にしました。
 機種選定においての必須条件としては
 1、本体のみでのステレオ録音ができる
 2、USB端子内蔵で専用コード不要
 3、バッテリー式ではなく乾電池
 4、汎用的な音声フォーマット

 の4つ。まぁ、この条件については武田さんに聞いたのですが。
 1と2は、本体以外に持ち運ぶものがあると、大変面倒という意味です。購入機種にも外付マイクは付いてますが、本体のみでも通常のステレオ録音はできます。またUSBケーブルもついていますが、これは裏にあるUSB端子を表に回す延長コードで、専用コードではありません。
 3は、外出先で電池が切れた時に、バッテリーだと充電しようがないけど、乾電池ならその辺で買えるので。
 4は、MP3録音の方がいいということですね。WMA録音だとファイルの取り回しが面倒な可能性があります。

 基本はそんな感じで、価格との兼ね合いも考えて機種を決めました。
 そうそう忘れてた。個人的には必須の条件。それは、

 5、「USBマスストレージクラス対応」

 これに対応していれば普通のUSBメモリーと同様に使えるというわけなので、対応表上ではアウトのハズのMacのOS9でも……やっぱり繋がった!!
 ファイルのやりとりに専用ソフトが必要な機種ではこうはいきません。普通にパソコンを扱えるなら、専用ソフトなんて邪魔なだけです。

 あと、買ってから説明書を読んでいて気づいたのですが、さすがにSANYOの機種だけあって、エネループモードがあるんですね。
 詳しくは分かりませんが、低めの電圧でも安定した動作をしてくれるモードなのでしょう。実際エネループを使って動かすことを念頭に置いていたので、ありがたい機能です。
 ちなみに「ICR-S280RM」にはエネループ充電機能があるのですが、こっちは値段の都合で購入を断念しました。
 音楽再生機能には特に必要性を感じていませんでしたが、さすがに今使っている激安MP3プレイヤーよりは高品質高性能で、プレイリストも使えるようなので、常用するのもありかなと。
 まぁ、これでSDカード対応とかしてくれればもっと良かったのですが、メモリ容量で価格差を付けている類の製品が対応するはずも無いな(笑)。

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2007年01月07日
 ■ 新年のご挨拶

例の連中について触れるのはこれでおしまいにしますが、「http://azuryblue.blog72.fc2.com/blog-entry-44.html」を見ていただければ、連中が「男性という性に対するルサンチマンのみで、問題をぐちゃぐちゃにしていき、私に対する攻撃にねじ曲げていく様子」がよく分かります。連中には最初から私と対話する誠実な態度など、まったく取る気がなく、嘲笑の対象としてしか考えてなかったことは、明白です。
 あと、これを読んだh*****がしょうもないことをごちゃごちゃと書き込んで、話をさらにねじ曲げようとすることは確実ですので、上記URLの2006年のコメントのみを読んでいただけますよう、よろしくお願いします。

新年のご挨拶。
 ご挨拶が遅れましたが、昨年はお世話になりました。本年もよろしくお願いします。
 今年はやはり「弱者問題」を議論の中心として扱って行きたいと思っています。
 弱者問題は決して「ひとにぎりの強者と弱者」という問題ではなく、「ひとにぎりの富裕層と大多数の安定層、そして拡大しつつある貧困層」という問題です。
 現状に横たわる問題群は、決してひとりぎりの富裕層が作り出した物ではありません。
 右肩上がりの経済成長を続けた時代に、すべての人間が直接的、もしくは間接的にかかわり、作り上げてきた物です。
 そうした前提がある以上、ただ罪を富裕層のみに押しつけ、貧困層が安定層の尖兵として駆り出されるような既存の社会運動は、なんの解決にもなりません。
 富裕層のみならず、安定層にも格差社会を産み出した罪を認めさせることこそ、格差問題を是正する第一歩なのです。

 私は格差社会を是正し、全ての人が人間としての尊厳を保つことのできる社会を実現するために、さまざまな方向から物事を書いていこうと考えています。皆様のご支援、ご協力お願いいたします。

【追記】
 私は、自らは格差差別による特権的地位を得ながらも、免罪符として平和と平等をお題目のように唱える連中のためではなく、真に平和と平等を考え、この社会を憂いている人たちのために言論活動をして行きます。

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2007年01月06日
 ■ なんだこのバカ

新年最初だから、少しは考えた文章を書こうと思ったが、なかなかうまくまとまらず、もう6日になってしまった。
 なので、簡単な更新でお茶を濁す。

 「痛いニュース」より

 自動車メーカー社長 「なぜ車が売れないか正直言って分からない」

07年も水面下、しかも85年(実績555万6878台)以来の570万台割れという状況にメーカー首脳も困惑している。

マツダの井巻久一社長は「正直言って分からない」と本音を漏らす。
またホンダの福井威夫社長は「近所を歩いてみると、これまで2台持っていたところが1台に減っているところが目につく」としたうえで、「ガソリン高や道路事情など車が使いにくくなっている。
それに車自体が良くなっているので買い換える必要がなくなっているのではないか」と話す。

トヨタ自動車の一丸陽一郎専務は「薄型テレビや住宅などとの競合で、車を買う優先順位が下がっている。それに車本来が持つ、乗る楽しさや走る楽しさが少なくなったこともある」と反省する。

 この人たちが、どうして分からないのかが、私には分かりません。
 どう考えたって、景気が悪いからです。
 どう考えたって、車の主購買層であるはずの、若者に金が回っていないからです。
 どう考えたって、自動車産業の幻想にこれからも付き合おうっていうバカは、もう日本にはほとんどいないからです。

 モータリゼーションが高度経済成長の記憶と分かちがたく結ばれている日本では、自動車産業はワガママ放題に成長してきました。
 インフラは黙ってたって国が作ってくれるのですから、ただ彼らは車を作れば良かったのでした。
 現場や町工場が作り出した信頼性を、自動車業界は「メイドインジャパン」と言って誇りましたが、その業界が不景気になって真っ先に切り捨てたのは、メイドインジャパンブランドを作り出した人たちでした。
 そして、自動車産業はワガママなボンクラばかりが残ったのです。
 だから、日本の景気が全く良くなっていないことも、主購買層に金が回っていないことも、もう既に自動車産業が見捨てられていることも、全く分かっていないのです。ボンクラですから。

 同じく「痛いニュース」より

【残業代ゼロ】 安倍首相 「日本人は働きすぎ。少子化対策にもホワイトカラー・エグゼンプションは必要」

安倍首相は5日、一定条件下で会社員の残業代をゼロにする「ホワイトカラー・エグゼンプション」の導入について「日本人は少し働き過ぎじゃないかという感じを持っている方も多いのではないか」と述べ、労働時間短縮につながるとの見方を示した。さらに「(労働時間短縮の結果で増えることになる)家で過ごす時間は、例えば少子化(対策)にとっても必要。ワーク・ライフ・バランス(仕事と生活の調和)を見直していくべきだ」とも述べ、出生率増加にも役立つという考えを示した。首相官邸で記者団の質問に答えた。

首相は「家で家族そろって食卓を囲む時間はもっと必要ではないかと思う」と指摘。
長く働くほど残業手当がもらえる仕組みを変えれば、労働者が働く時間を弾力的に決められ、結果として家で過ごす時間も増えると解釈しているようだ。

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 もはや、2ちゃんねらーにすら見捨てられている首相でございます。

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