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2007年02月21日
きっこの日記で紹介されていた町屋の豆腐屋の親子心中も酷い事件だと思うけれど、弱い人間に対して、その傷みや絶望を含んで少しでも共感しようとする、本当の意味での想像力が社会全体として希薄になっているのではないか。だから格差社会が流行語として消費されるしかない。
こんな話を聞いた。ある新聞の書評委員系の会議で、赤木智弘の論座寄稿『丸山真男をひっぱたきたい』が話題になったとき、「若いうちって一度は戦争を望むとか言いたがるんだよね、ハッハッハー」で話は終わってしまったのだという。赤木がどういう立ち位置からその原稿を書いたかなんて全然分かっちゃいない。分かろうともしない。知識人ギョーカイ内で、シニカルでウィットに富んだ人間だと自分が思われたいという本当にくだらない虚栄心が、高層マンションとスーパーに包囲されて仕事の先行きがどうにもならなくなって町屋で心中するしかなかった年老いた親子や、30過ぎてもコンビニで働き続けるしかなく、それを選んだわけでも望んだわけでもないのに自己責任だと言われる人間の無惨な気持ちを思いやるより優先されている。これがこの国のエセインテリたちの実情なのだということをよく伝えてくれるエピソードで、当然のことながらそれを聞いて私は密かに立腹しまくった。
保守か革新かという二分法が意味を持たなくなったのは、政治的な文脈だけでなく、「自分はリベラルだ」という自意識のひとが、実はもはや社会を変えようなどとは全然本気で思っていないし、一滴の汗すら流そうとしない、心情的にも態度としてもきわめて保守反動的な立ち位置しか取れていないことにもよる。
分厚く社会を覆う保守的な心情のヴェールに対して散文的表現ではもはや突破できないという諦念を抱いている。『NHK問題』は起爆剤たりえなかったようなので。となれば詩か。「詩とはなにか。それは、現実の社会で口に出せば全世界を凍らせるかもしれないほんとのことを、かくという行為で口に出すことである」(吉本隆明)
丸々転載してしまったが、まぁいいか。
私はリバタリズムが蔓延る背景に、昭和的な「一億総」という考え方があると見ている。
「一億」という数を日本国民全体の総数として考えるようになったのは「進め一億火の玉だ」という言葉が使われた、戦時のことなのだという。当時の日本の人口が7千万。それに植民地の3千万を足して、一億というわけだ。
前者と後者の間には、侵略者と被侵略者という絶対的な格差があるわけだが、それを無視することによって「一億=国民全体」という標語が成り立っている。そして、かつての豊かさを指して一億総中流と言う時にも、もちろんそのような無視が存在している。
日本は第二次世界大戦に対する反省と、高度経済成長によって「平和と平等」を手に入れたことになっているが、それは決して誰かが能動的に運動して手に入れた平和と平等ではなく、ただ単にアメリカの統治政策によってもたらされ、朝鮮戦争景気以降の好景気によって「たまたま手に入った」ものに過ぎない。
たまたま持っていただけのモノに、日本人が自覚を持つはずもなく、その無自覚さが「一億総中流」という、極めて一方的な、平等に対する客観視をもたらした。
それはバブルが崩壊し、景気が悪くなっても継続している。今度は「皆が苦しいのだ」と、いわば「一億総下流」というべき思想に変化を遂げた。
しかし、それは安定経済基盤を持つ層と、不安的な社会基盤しか得られない層の格差を隠蔽する考え方でしかない。
現実にはせいぜい年数回の家族旅行を取りやめる程度の苦しさの人間と、人間としての尊厳すら得られず、生きることに絶望している人間という格差が存在しているのだ。
しかし社会は、この格差を無視している。そして景気の回復によって、かつてたまたま手に入ったものが、今度も手に入るハズであると、極めて甘く現状を捉えている。
そのような「一億総」の思想が蔓延る現状で、私の文章がさも坂井三郎に憧れる軍国少年のような捉えたかをされるのも、必然といえよう。
「私」がかつて昔に考えたことを、現代の若者も考えている。そのような現状に対する短絡さが、社会から「個人」という視点を奪い去っていく。その点は右も左も似たようなものだ。
『丸山真男をひっぱたきたい』で私が伝えたかった事は、「お国のために戦って手柄を立てて凱旋するのだ!」という、彼らのような軍国少年的威勢の良さとは真逆のものである。
戦争で人が死んで、その分の仕事が回ってきてほしい。さらにそこに重ねて、人が苦しむ社会を実現したくないと書いている。
戦争に向かうことでしか自分の苦境は解決しないのだけれども、それでも人が死ぬことを望むことはしたくない。それがあの文章の本心である。
もう一つここに加えるならば、仮に戦争に行って最前線で戦って死亡したとしても、それは「現状のまま」よりも、よほど幸せなのではないかという心情だ。
マトモな実存を得られぬままに、人間のクズと社会から罵声を浴びながら、人を恨んで惨めに首を吊るよりも、お国のために戦って形だけでも勲章をもらい、靖国神社にまつられる英霊の一人として誇りを持って死ぬ。
それは現状では決して得られぬ、人間としての当然の自尊心を得たいという渇望である。
結局、私の文章を「ワッハッハ」ですます人たちは、自分で自尊心を得たいと考えたことがないのだろう。
ただ、社会の中にいて、気がついたら十分なステイタスを与えられ、高みにいた。そういう人たちなのだろう。
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