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2007年04月28日
●バージニア工科大学の銃乱射事件に、TVゲームはまったく関係ありませんでした。
TVゲームの影響を否定する人の中には、アメリカという銃社会に安直に原因を求める人もいるようです。
しかし、『ボーリングフォーコロンバイン』でマイケル・ムーアが提示していたように、銃が合法な社会だからといって、イコール銃犯罪数が多いということにはなっていません。
そもそも、人間が殺人などに走る動機は、そんなに簡単なものではないはずです。
TVゲームの影響か否かと言う以前に、ドラマや映画、スポーツ、そして銃社会といった、そんな単純な要因を妄想して良しとするべきではないのです。
つか、そんなこと考えても意味がないので、よほど高度な考察をするのではない限り、殺人は単なる「現象」として捉えるべきだと、私は思うし、どこかに病理があるとすれば、それは殺人の側ではなく、殺人を過大視する側にあると思いますね。
●9条について、いまさらながらに考えてみる。
たぶん現状で改憲をしたとしても、日本が「戦争のできる国」になるとは思わないし、同時に、現状が「戦争ができない国」でもないと思う。
政府が日米同盟を最重要視する限り、自衛隊だろうが日本軍だろうが、米軍の肩代わりをするに過ぎない。
戦術核についても同じことで、核武装といっても、米軍の戦術核を配備するようなことでは、日本として国際的に自立したなどとは言えない。
にもかかわらず、右派は当然のこととして改憲を主張するし、左派は護憲を主張する。
いわば、大して違いのないようなことに、どちらも必死になっている。
そうした中で、どうも私たちの存在が軽視されている感がある。
改憲したって、護憲を貫いたって、フリーターをめぐる状況にはなんら関係がない。
もちろん、論座に書いたように、改憲すれば多少の可能性が生まれるのかも知れないが、それはあまりに低い確率に過ぎない。
私にはそのような運動に大きな意味があるとは思えない。
しかし、右翼左翼という組織は、そこに大きな意味を設定する。
9条に対する態度で左右を切り分け、右だからネオコンでネオリベだ、左だから平等平和だなどと、お互いに決定的な差違があるかの様に振る舞う。
しかし、どちらにしても大切なのは自分の周囲の経済状況であり、自分の家族であるというエゴイスティックな態度は変わらない。
自分たちの周囲のみの平和を絶対視し、そのために周囲以外を貶めてもなんとも思わない。9条を守ろうと変えようと、そのことは変わらない。
だから、私が至るべき結論は、「9条はどうでもいい」ということになる。
9条という分かりやすい対立軸の存在が、左右の抗争の中に現代社会の病理を癒す光明があるかのように見せてはいるが、本当はそこには何もない。9条を巡る対立は、野球チームのどっちが勝ったか負けたかレベルの、平凡な日常をやり過ごすための娯楽に過ぎない。逆に言えば、9条議論は、日常をやり過ごしても生きていけるだけの給与を得ている人たちのためのモノだ。
しかし、私たちのようなフリーターは、日常をやり過ごすことはできない。
やり過ごしていては、やがて訪れる不幸な結果を回避することはできない。
だが、社会が9条に注力するかぎり、我々はただ日常をやり過ごす大きな流れのなかに巻き込まれることになる。
だから私は、9条を巡る議論そのものを否定しようと思う。
平和を否定し、既得権益を否定する。ただやり過ごされる日常を否定しようと思う。
だから私は戦争という方法論をもって、日常を断ち切ることを考える。
物理的なカタストロフィーによる、強制的な流動化。他人の善意や正義感に期待しなくても、流動性を呼び込める方法。
決していい手段とは言えないが、それ以外に可能性が見当たらない。
結局、9条の話といいつつ、ここに着地してしまうことが歯がゆくもあるのだが。
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