《 対談してきました | メイン | 若者の貧困を知ることから逃避してはいけない 》
2007年06月20日
●ここ一ヶ月程度で、やったことで、書いてないこと
・ソーダサイフォンを購入。これでいつでも炭酸水が飲める。
現状、2日で1.5本ぐらい、ボンベを消費しています。
・空調服を購入。
あの空調服をついに購入。マジで涼しい。
部屋が西南に位置していて、木造2階なので、夏場はいつも蒸し暑いのですが、今年はこれでしのげるかな?
●「君が代」斉唱の職務命令は合憲、初の司法判断…東京地裁
日の丸君が代がどうとかいうよりも、
マトモな収入が得られない現状を受け入れながら、必死に働いている人たちと、
たかが「君が代」を歌わないために裁判ごっこを繰り広げる人たちの溝というのは、
あまりに深く広い物ではないだろうか?
本当に、左派の雇用に対する意識の「軽さ」はどうにかしなければならない。
●『「普通の人」の哲学』読了。
鶴見俊輔の思想を辿りながら、そのことを自身の生活に反映させていく著者の方法論は誠実な物だろう。
しかし、その一方で私の現状を踏まえてこのことを考えていくと「で? 結局? その程度でしかないの?」という反感にたどりつく。
戦争という狂気のなかで「自分だけは人を殺すまい」とした鶴見のありようと、
生活術として、悠々とした現実に対する「歯止め」を実践する著者、上原のありよう。
そして、この本が書かれてから17年ほどして、現実に団塊ジュニア世代以降の若者を「殺し」ながら、悠々とあり続ける日本社会のありよう。
いくら不利益というか、不自然さというか、「トゲ」を自主的に受け入れようとも、その一方で「殺す側」「殺される側」の関係性はまったく変わらない。自主的な受け入れでは、そのレベルの物しか受け入れる事はできない。健常者が盲の「見え方」を知るために一時的な目隠しをすることはできても、自主的に自分の目を潰すことはできない。しかも「目隠し」すら受け入れる人間はほんの一握りに過ぎないのだ。
そうした関係性を越えた「不利益の受け入れ」をさせるためには、やはり道徳的に、制度的に、受け入れを強要するしかないのだと思う。
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