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2007年06月26日

 ■ 鶏口となるも牛後となるなかれ

鈴木謙介がなにか言っているようで。

 ラジオで言ったほうはまだ詳細が分からないので、「冬枯れの街」さんの方から。

Synodosレクチャー 鈴木謙介×芹沢一也(司会)

鈴木謙介講演会

日時 2007年8月18日 14時30分〜16時30分(14時開場)

タイトル 「サイバー・アナーキズムの時代」

 比較的若い世代による、社会と大人への「異議申し立て」が注目を集めている。ある者は「大人」の「若者」に対するバッシングを糾弾し、別の者は、自らが得ることのできなかった可能性を、「戦争待望論」をちらつかせながら、「既得権」を持つ人びとに対して要求する。「こんな国はもう滅ぼすしかない」と叫ぶ声が、ネタ半分とはいえ喝采を浴びる一方、制度を脱臼させるような社会運動、カーニヴァル的な抗議運動も、じわじわと広がりを見せている。こうした動きを、どのように理解するべきか。重要なのは、これらの異議申し立てが、硬直した社会支配の有り様に対して向けられたものであり、その点で、これまでの日本の文脈における「右翼/左翼」の図式を逸脱した、ある種の「アナーキズム」へと向かう特徴を有しているということだ。

 私見に従えば、こうしたアナーキーな志向性は、運動の当事者の意図を超えて、より流動性の高い社会における、よりネオリベラルな制度をさえ要求しかねない。そしてそれは、インターネットの普及に伴ってバージョンアップした、「サイバー・アナーキズム」とでも呼ぶべき、大きな流れの中に位置づけられるものなのではないか、と私は考えている。今回の講演では、こうした流れについて、現代の事象と社会思想を架橋させながら、今何が求められているのか、そしてそれが向かう意図せざる帰結について論じていく。そのことが、近視眼的で「すぐ結果が出そうな」運動への指向と、抽象的な「社会への語り」とのあいだに挟まれた私たちが、これから何をすべきなのかについて、考え、行動するための一助となれば幸いである。

鈴木謙介(すずき・けんすけ)
1976年生まれ。国際大学GLOCOM研究員。専門は理論社会学。インターネットの社会学的分析を主なフィールドにしながら、現代における社会思想の意義について論じている。著書に『カーニヴァル化する社会』『〈反転〉するグローバリゼーション』『ウェブ社会の思想』ほか。

 ラジオの方の情報だと、「ある者は「大人」の「若者」に対するバッシングを糾弾し」の方は後藤和智さんだそうです。
 そして、後藤さんと私が「近視眼的で「すぐ結果が出そうな」運動」とやらをしていて、それはカーニバル的でアナーキズムで、ネオリベなのだと。

 まずね、鈴木謙介に分かって欲しいのは、少なくとも私のような年長フリーターには時間がないということです。
 年齢だけ考えても、私でも現在31才、もうすぐ32になるわけで、就職氷河期からフリーターにならざるを得なかった世代の先頭はもうすぐ40才になろうという段階ですよ。単純に年齢だけで見たって「やり直し」がきく年齢としてはギリギリどころか「ロスタイム」状態になってしまっている。また、前回書いたような、稼ぎ頭の父親の寿命がそのままフリーターの寿命であるという問題もある。
 そういうことを踏まえて「貧困問題を考える」という場合は、どう考えてもまずは「スピード」のことを考えないといけない。だからこそ考え方が「近視眼的」になるのは、しかたないことであると、私は考えるわけです。
 ウヨ厨がたまに例に出すじゃないですか、「ある左翼政党の人間が、貧困地域の建設現場に行って、「(建設工事の)環境対策はどうなっているのか?」と聞いていた。バカじゃねーか」っていう話。「先の事(環境問題)」ばかりを考えて「今ここ(貧困問題)」の問題を軽視する左派のありようは、貧困問題という人間の命がかかっている問題ではそれこそ致命傷になりかねないのです。

 また、流動性についても「流動性」が単純に全ての階層において存在するなら、それは単純に「いいこと」ですよ。
 しかし、なぜか鈴木謙介はそれを「ネオリベラル」と呼ぶわけです。
 ネオリベラルやリバタリアリズムが抱えている問題というのは、あくまでもそれらが「自由」や「流動性」を自称しながら、実際には階層化を押し進め、流動性を強力に押し止めるからであり、単純な流動性の増大をネオリベラルと称すのは、ワザとやっているのか、それともただの無知なのか。


 鈴木謙介は「近視眼的で「すぐ結果が出そうな」運動への指向と、抽象的な「社会への語り」とのあいだに挟まれた私たち」といいますが、問題はそういうことではありません。
 貧困問題という「今ここ」の問題があり、長期的な問題を捉える学問としての「平等とは」という問題がある。
 私は決して「平等とは」を語ることに否定的ではないけれども、その「平等とは」が実際に我々を救うまでに、一体どれだけの時間がかかるのかと。
 下手すれば解決することに私たちが貧困で全員首を括っていて、問題そのものが存在しなくなっている事だってありえる。それは「就職氷河期世代を研究のためのモルモットにした」ことと何が違うのか。
 長期的な問題意識を持ってもらうのは構わない。しかし、ならば余計に「今ここ」の問題を放置してはならないわけです。

 だから私はずーっと言っているじゃないですか。「金をくれ」と。
 とりあえず緊急対策として、年長フリーターが自分で自分の生活を支えるだけのお金を配分して、それから「平等とは」の問題を考えればいいんじゃねーの? と、私は言っているのです。
 もちろん、その過程で問題は出てくるのでしょうが、その問題は後から解決してもいいはずの問題です。

 しかし、「後から出た問題」について、知らぬ存ぜぬを貫く民衆という問題もあるにはある。
 最近の年金問題に思うのですが、「年金をもらう」ということが、流動的な「報酬」ではなく、固定的な「権利」としてしか理解されないことが、年金の醜悪さなのではないかと。
 つまり、今の老人が日本経済を崩壊させ、若者がロクな収入を得られていない、すなわち賦課方式の正当性が失効している現状においても、老人は「払ったぶんは支払え」と社会保険庁に押しかける。各政党は「老人の権利を守れ」と威張り腐るわけです。
 これはすなわち「後から噴出した問題」に対して、まったく無考慮である国民の姿を映しています。

 だからこそ「後から出た問題は後から訂正すればいい」という考え方に、学者先生方はブレーキをかけたがるのでしょうが、しかし、だからといって今の問題を、近視眼的に解決してはいけないというのは違うでしょう。
 第一、現在の問題は、そもそも「人口爆発問題」の時点で始まっており、これはもう80年以上の問題だし、不況がスタートしてからも10年以上経っているのですから、この時点でなんの答えも希望も見いだせないというのは、それこそ学者先生方の怠慢なのです。

 鈴木謙介には鶏口牛後という言葉を送っておきます。
 あと、そんな「近視眼的で「すぐ結果が出そうな」運動への指向と、抽象的な「社会への語り」とのあいだに挟まれた私たち」なんていう、俯瞰的な立場に簡単にいられると思わないで欲しいのですよ。それじゃあ「俺は右でも左でもない。中道だ」と威張っているウヨ厨となんにも変わらないでしょ。

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