2006年03月17日
 ■ 「知性下流社会」シリーズ その11(その2) 第5章「自分らしさを求めるのは「下流」である?」

タイトル上「その2」ということになっているが、1の内容を再び含める形で、5章そのものをしっかりと検証したいと思う。なのでこれは1の続きではない。
 今回、主に注目するのは、図表と文章についての三浦展特有のレトリックの部分。ここでの印象操作を明確にすることによって、やはりゴミデータの集まりでしかない6章の解説を省くところを目指したいと思う。

 まずは表5-1の男性側と、表5-2を並べてみた
 ひとまず、誤植であろう点を解説しておくと、表5-2のn値の上中下の順に12,40,48(%)となっているのは、表5-1を見ても分かるように、団塊ジュニアの数値であって、団塊世代の数値は順に14,48,37(%)である。ここは単なる誤植であろうが、本当に誤植なのか、三浦展がこの数値を利用してしまい計算間違いをしているのかは、生データがない以上、確認することはできない。

 さて、この2つ、ページをまたいで、紙の裏表の関係にあるから関連性を見逃しがちだが、こうして並べてみると、同じデータであることが分かる。しかし、団塊世代の「ゆとり」「仲間・人間関係」「創造性」「活動的・アクティブ」というデータは明示しておらず、これらの数値が下流化に関係してるか否かということを読者が判断することはできない。
 このことは、そもそも三浦展が団塊ジュニア世代男性の「低階層ほど高いもの」との比較のみに団塊世代のデータを当てはめて見ているということであり、団塊世代のデータを「人間として正しい意識の持ち方」という基準として扱っていることを意味している。
 しかし、次の表5-3を見ていただきたい(分かりやすいように男性の部分を着色した)のだが、実は団塊ジュニア男性(以下、すべて「男性」を省略する)のデータの傾向は、新人類とさして変わらぬ数値であり、昭和ヒトケタとの比較をとっても、ポイント的には団塊よりも昭和ヒトケタに近いのである。
 昭和ヒトケタとの近さについて詳しく説明すると、昭和ヒトケタを基準にした場合、団塊ジュニアの上中は昭和ヒトケタとほぼ同値で、下のみ差が7.4ポイントと大きく開いている。一方の団塊は上中ともに9ポイント前後の差が見られ、下に至っては10ポイント強の差が見られるのだ。
 そう考えると、むしろ団塊の世代こそが「自分らしさ」ということに関しては他の世代から離反しているのであり、これを基準として団塊ジュニアの意識を判断することは、決して正しい方法とはいえないであろう。

 では、この部分を三浦展はどう解釈しているのか。

 団塊世代の「上」が若い時から発しつづけてきた「自分が好きなことをすればいいのさ」というメッセージが、過去30年間、次第に社会的風潮として広がっていき、同時に、社会の豊かさが増していく中で、その風潮が後続世代の「下」にまで浸透したと考えたほうが自然であろう。」(p.158-160)

 しかし、これは本当に「自然であろう」と言えるのだろうか?
 三浦展は無視しているが、私たちは既には昭和ヒトケタ世代と新人類、団塊ジュニアの数値の近さを知っているのだから、むしろ団塊世代の「自分らしさ」ということに対する異様な関心のなさの方に目が向いてしまう。特に「中」の47.9という数値は、突出して低い値である。
 パーセンテージで数値が括られているから気付きにくいのだが、「中」は上や下よりも圧倒的に人数が多い、すなわち比重が大きいのである。図5-3のパーセンテージから団塊の「自由に自分らしく生きること」を選んだ人数を割り出せば、上が9人、中が23人、下が21人となり、合計53人となり、実は団塊のほぼ半数が「自分らしさ」という価値観を認めていないことが分かる。*1
 こうした土壌で「自分が好きなことをすればいいのさ」というメッセージが本当に社会的風潮として広まったのか? と、大きな疑問が残るのである。

 次に表5-9「団塊ジュニアの主な職業別自分らしさ志向」と題された表に注目する。

 まず、題に「主な」の言葉があるとおり、母数であるn値を全部足し合わせても男女それぞれ100にはならない。省かれたと思われる中で、重要なのは「無職」のデータだろう。特に女性のほうに、いわゆる「家事手伝い」のデータがないのは不自然としか言いようがない。
 第2章でも触れたが、三浦展は保守層の女性観の重要な一角を占める「家事手伝い」という存在に関して、全くと言っていいほど触れておらず、意図的に避けている節がある。
 また、ただでさえ100しかない母数が、職業によって細分化されているため、母数が3や5といった、もはや統計的になんの意味もない値までもが、パーセンテージへの置き換えによって、データとして扱われてしまっている。特に男性の「パート・アルバイト、フリーター」の項は、母数がわずか5であるのに、網掛けを施して「フリーターの60%が自分らしさを大切だと考えている」などと主張してしまっている。これは相当に恥ずかしい。サイコロの偶数と奇数が出る確立はそれぞれ50%だが、わずか5回サイコロを振っただけで、そのことを証明しろと言われても無理な話であることは、誰でも簡単に想像がつくだろう。
 しかし、こうした表にされて、パーセンテージの中に隠されてしまうと、なにかこれが意味のある数値のように見えてしまう。

 この『下流社会』のような本が売れ、その主張の内容が支持されるということは、すなわち日本人の数的リテラシー能力が異様に低いことが証明されたということだ。
 だから私はこのシリーズを「知性下流社会」と位置づける。
 三浦展というアホたれがインチキたれ流して、ゼニを稼ぐことなど放っておいてもいいのだが、このような本を信じてしまう日本人の知性の下流化を見逃すことはできないのだ。

*1 ついでに、世代ごとに「自由に自分らしく生きること」を回答した(おおよその)人数を割り出してみた。(数値は上、中、下、合計の順)
 団塊ジュニア  7,23,36,66
 新人類    10,25,27,62
 団塊      9,23,21,53
 昭和ヒトケタ  5,31,23,59
 人数に直すと、団塊ジュニアの「下」の人数が突出している。三浦展の主張を考えれば、パーセンテージじゃなくて、人数を使ったほうがよかったのでは?

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2006年03月14日
 ■ 「知性下流社会」シリーズ その11(その1) 第5章「自分らしさを求めるのは「下流」である?」

「知性下流社会」シリーズ その11
第5章「自分らしさを求めるのは「下流」である?」

 今まで「嫌下流社会」と「知性下流社会」の2つが混在していましたが、今後は「知性下流社会」に統一することにします。
 理由としては、議論を決して「反下流社会」に限定することなく、日本人の知性低下に広く言及することを目的とするためです。その1つとして、この三浦展批判があります。

 ここから本題。
 この第5章では、「自分らしさを求める人間ほど、下流意識に苛まれている」ということを三浦展は主張している。
 しかし、我々は既に「上中下」という概念が、あくまでも当事者の自由なイメージのそれでしかないことを理解しているので、ここで示される図表を素直に下流化などとは見ない。

 三浦展は、集計の結果から「自分らしさ=下流への道」という構図を見いだしているが、これは明らかに「現時点で自分が「下」だと思っている人のほうが、「自分らしさを大切にしたいと思っている」」ということに過ぎない。
 「自分らしさを大切にしたいと思っている」というのはどういうことかといえば、現状において自分らしさが大切にされていないからこそ、もっと自分らしさを大切にしたいと考えているということだ。そういう人が「下」に多いと考えられる。
 逆に「上」と考える人は、既に自分らしさを達成しているからこそ、自分らしさを大切にするという意識がないと考えられる。
 結局、少なくとも「自分らしさを大切にすれば下、大切にしなければ上」などという、一方通行の関係性は成り立たないし、そもそも「自分らしさ」の指し示すイメージは個人によって待ったく違う物なので、統計的になんら意味があるとは考えられない。
 ましてや、「自分らしさを達成するためにフリーターになる」など、あまりに団塊ジュニア世代が味わった就職市場の異様な厳しさを完全に無視した妄言でしかない。
(「金」のイメージとともに、「自分らしさ」という言葉のイメージも追加するべきか?)

 ……この章の批判はこれですべてなのだが、三浦展の指し示す図表のいい加減さを明示しておきたい。
(以下は次回に)

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2006年03月02日
 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その10 「原風景」がないのは三浦展、重松清、お前らのほうだ

今回も『下流社会』の本から少し離れます。立て続けに三浦展の論理展開を白日の元に晒す資料が見つかったので。
 今回は『週刊ポスト』(2006年3月10日号)での、「父親たちよ、いまこそ古くさいオヤジとなれ!」と題された、三浦展と重松清の対談です。
 三浦展は週刊ポストで連載を持ってまして、それのスペシャルみたいな扱いですね。
 ちなみに、連載でやっているのは、件の「欲求調査」を持ち出して、分析ゴッコをしているだけの『下流社会』の本と全く同じ内容です。彼はどうもあの「欲求調査」1本で、一生食って行くつもりらしいです。
 内容もくだらないので、立ち読みですましてますが、前回は確か「若い株の話をしている若者よりトイレ掃除のオバちゃんの方が頑張っている」などと書いてましたが、三浦展の言う「コンビニで生活が成り立つ若者」だって、トイレ掃除してますよ。接客業のバイトにトイレ掃除は付き物なのですから。
 ならば「バイトの若者も頑張っている」とも言えばいいのに、それは決して言わないのです。

 さて、今回対談している重松清は、私が持っている『下流社会』の帯を書いています。そこには「意欲を失いがちな現代人への警世の書である」とあります。
 つか「現代人」って、お前はじゃあ原人か何かか? との疑問も湧きますが、ひとまずは置いといて、対談の方に行きましょうか。

 まず、二人は町田で対談しているようで、三浦展の言う「郊外」の概念を用いて、「フリーターが多く、高校生が午後の3時にふらふらしている街」すなわち「下流社会を象徴するような街」と言っています。
 でもって、彼らにとっては渋谷は「上流」なので、自分たちに自身のない若者は、町田を渋谷化して、外に出ていかないで済むようにしているそうです。
 三浦展の言う渋谷というのはすなわちパルコのことですね。
 ちなみに、町田−渋谷間の電車運賃は小田急と井の頭を乗り継いで450円。往復だと900円ですから、高いとも言えないし、安いとも言えません。
 でも、どうなんでしょう? いまの若者にとって「渋谷」って求心力のある街なんでしょうか?
 確かに、三浦展がパルコにいたころは、確かに渋谷や原宿などに求心力があったのだと思いますが、90年後半からはそうでもないでしょ。
 今はIT連中は「ヒルズ族」とか言われて、六本木ヒルズにいるけれども、90年代後半には彼らは渋谷にいて、そこがIT系のたまり場だったわけです。
 それは、渋谷で育った団塊ジュニア世代の最年長ぐらいの連中が、自然と渋谷に集まったからで、逆に言えば渋谷に求心力を感じるのは、彼らが下限という印象があります。

 こうした分析は、ともすれば三浦展の考え方と違いがないように見えますが、求心力が無いということは、町田の若者は「渋谷は上流だ」などとは考えてないということです。この辺のカルチャーの変化は、もう少し詳細に考える必要があります。

 さて、次の部分は重要ですので、引用します。

三浦 いまの三十代前半は、中学高校時代にバブルを経験して、でも自分たちは勉強をしなくちゃいけないから遊べなかった。ようやく就職をしたら、バブルが弾けたという、努力の割には報われなかった世代です。一方、二十代は、もっと幼い頃にバブルを経験しています。それこそ幼稚園でルイ・ヴィトンのバッグを買ってもらったりとか。

重松 幼い日々の原風景にバブルがあった。

三浦 そう。魂のいちばん奥底で「働かなくても金が入る」というのを擦り込まれたせいで、大人になっても働けなくなってる人が出てきてる。親もバブルで浮かれてたから、子供に「働かなくちゃダメだぞ」とは教えてないんですよ。

重松 逆に、幼い頃から英才教育を受けた子も出てくる世代ですよね。

三浦 宮里藍のようにね。だから、将来は文化国家か破綻国家か、文化やスポーツの面ですごい人材が出てくる一方で、全然ダメな層も出てくる。そういう二極化は出ちゃうでしょうね。ふつうに真面目で中流で、という意識が子供時代に形成されてませんから。

 ここには、2つの問題点があります。
 まず、三浦展の三十代前半のに対する分析はその通りでしょう。しかし、二十代の「幼稚園でルイ・ヴィトンのバッグを買ってもらった」などという、あまりに単純な分析はどうなのかと。
 確かにバブルは狂乱を産み出しましたけど、その当事者である東京在住の人間と、日本の大半を占めるその他の地方都市では、全くそのイメージが違うわけです。多分地方の人たちは、テレビの画面でボディコンを着たお姉ちゃんたちが扇子を振って踊っているイメージでしか、バブルを認識できないんじゃないでしょうか?
 そのようなテレビの中の風景を「原風景」と捉える、あまりに的を外しているのではないかと考えます。もっとも、1都3県のレベルでしか物事を見ていない、この二人にとっては、それで十分なんでしょうけど。

 もうひとつは、重松が三浦の話を受けて「逆に」と言っている部分ですね。
 この二人の中では、「働かなくても金が入る」と考えている人と、「英才教育を受けた子供」が「二極化」だということになっているのでしょうが、私はこの両者の本質は同じだと考えます。いずれも親に依存し、個人としての自立を果たしていません。
 そして、このような「親の英才教育」を正当な事と考える思想は、「子供は親の所有物である」とする思想です。
 ここで三浦展は「ふつうに真面目で中流で、という意識が子供時代に形成されてませんから」と述べますが、私は子供が親のものであるという思想に至った相対関係として、「普通に真面目で中流でという「子供の意識」を認めない社会」の存在があるのではないでしょうか。
 つまり、完全に「親=社会」の奴隷として働き続けるか、それが嫌ならアウトローになるしかないという、どっちに転んでも悲惨な二元化があると考えます。

 そして、この後「原風景がどうの」という話になってきます。
 ここで重要なのは、二人が「僕の原風景は」という話を一切しないことです。完全に世代論のみで「原風景」という言葉を語っています。
 そんな中で三浦展がこう言います。

 三浦 ですから、重松さんたち新人類の世代から、故郷喪失化が始まっている。親自身に確固とした原風景が失われはじめた世代なんです。よっぽど自覚的な人じゃないと、「子供にこういう風景を見せておきたい」というふうには接してこなかったんじゃないですかね。親自身がインベーダーゲーム世代だから、子供にもゲームを平気でやらせてる、みたいな。

 えーと、原風景って「子供にこういう風景を見せておきたい」なんて話でしたっけ?
 というか、当人の心情の奥底に沈殿するはずの原風景までも、「こういう風景を見せておきたい」と親がコントロールするなどと、子供を親の所有物として扱うことに、三浦展が当然だと思っている様子が、ここにも見受けられます。

 第一、原風景というのは決して「兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川」という風景のことではありません。それはあくまでも「目で見た」風景でしょ。原風景ってのは普通「当事者にとっての、心の奥底に残る心象風景」の事を言うんですよ。
 もちろん「兎追いし」が原風景の人もいるけれども、それは人それぞれ違うわけです。それこそ田舎にだって都市にだって、人間関係や社会の中にだって、いくらでも原風景は広がっているわけです。それは人間のアイデンティティーを左右する概念だし、人間の最も大切な部分でもあります。
 しかし、現在の年寄りたちは、「子供たちに変わらない風景を」などといいつつ、子供たちの原風景をコントロールしようと必死なのです。
 私がテレビで見た例ですが、その町は古くからの町並みが残る所だったそうです。しかし、電気屋などが派手な看板を付けたりして、そうした町並みが少しずつ失われて言ったそうです。
 そこで、町の大人たちが立ち上がって、電気屋などを改築して、昔風の外観に立て直したそうです。取り組みの代表者は「子供たちに変わらぬ町並みを残したい」と誇らしげでした。
 でもよく考えてください。子供たちにとっては、「古くの町並みと、少し新しい町並みが混在する風景」が、子供たちにとっての「町並み」だったわけです。大人はその風景を昔風に「変えてしましました」。
 これも結局、大人たちが自分たちの好ましいと思う風景を、子供をダシにして演出するだけの欺瞞だったわけです。
 「風景」という言葉には、そういう意図が透けてみえます。

 そして、重松清が「原風景をつくる要素として、ビデオの功罪はとても大きいんじゃないか」などと言い出すのです。
 理由は「自分の子供を大きく取ると、周囲の風景は映らなくなるから」だそうで。これも完全に「親による、子供の原風景コントロール」の思想によっています。つか、完全に親の話じゃないか。子供はファインダーを通して子供を見ないだろ。浮遊霊じゃないんだから。しかも、後でビデオを見るのも親だよ。

 三浦 劇作家の別役実さんが昔からおっしゃっていたんですが、現代人の意識には「中景」がない。「近景」と「遠景」はあっても、その中間の「中景」がすっぽりと抜け落ちている。

 三浦展が別役実さんの名前なんかだすなよ!
 まぁ、怒りは治めるとしても、別役実は1937年生まれだよ? その別役実が「昔から言っている」というなら、その「現代人」の括りには、お前らが含まれるんだよ。
 原風景の話にも、自分の事を一切話さず、現代人と言えば自分たちがそれに属することにも気付かず、一体お前らはなんなんだよ。

 そして中景の話になるのだが、三浦展が「「いつかこうなりたい」と「でも、いまはこうだ」の間を繋ぐプロセス」云々が見えていないという話をするのはまだマシとして、なんか上司との飲み会が中景だの、ライブドアの肥大と終焉が中景の焼失だの、働くことのリアリティーがどうの、別役実がどこで中景の話をしていたかは知らないけど、絶対そんなことは行ってないだろうという展開。

 そして、三浦展はお得意の「ジャスコ」の名前をだし、駅前の商店街が壊されるのが問題などと発言。さらにそれの例えとして、こんなことを。

三浦 (略)いま必要なのは、プロレスですよ。八百長だろうがなんだろうが、たとえダメージを受けても、ちゃんと翌日また試合ができるようにならないと。でも、いまはプロレスがすたれて、K-1やプライドといったガチンコ勝負でしょう? 殺し合いになっちゃう。それでは困るんですよ。

 前田日明が「UWFは殺し合いではございません!!」と叫んだのはいつの日か……

 つか、K-1やプライドは殺し合いにはなりませんよ。プロレスよりダメージがデカいのは確かだけど、ちゃんとジャッジがいるし、医者もいるんだから。つか、若者を誹謗中傷して、完膚なきまでに潰してるのはどこの誰だよ。お前だろ。なにを他人事みたいに。

三浦 困った時に助けてくれる地域社会や会社といった「中景」がなくなったから、いきなり政府や国という「遠景」にすがる。そういう安直なナショナリズムに陥るのを、僕は一番警戒しているんです。

 自分たちが育ち親しんだ、文化やライフスタイルといった「中景」がなくなったから、いきなり「世代論」や「性差」や「原風景」という「遠景」にすがる。そういう安直で差別的なロマン主義に陥るのを、僕は一番警戒しているんです。

重松 下流社会への流れは、やはり止めようがないとお考えですか?

三浦 洪水みたいなものですから、食い止めるのは非常に難しい。でもせめて土嚢は積んでおかないと、とは思います。このままでいいはずない、と。

 土嚢で自分たちの権力は守るけど、若者はそのまま溺れて死んでしまえってことですね?

 さて、後半はだれてしまいましたが、最後の部分と、まとめはちゃんとやりましょう。

三浦 『三丁目の夕日』もそうだし、ビートたけしさんの語る足立区の下町の風景なんて、いろんなおじさんやおばさんがいて、ほんとうに「中景」が豊富ですよね。その風景をもう一度思い出してみることが必要でしょうね。

重松 ノスタルジーではなく、むしろ、いまこそ必要なんだ、と。そうなると、当然、昔気質の頑固オヤジや、若手を飲み会に誘う課長だっていないと(笑い)。

三浦 そうそう。「ウチのお父さんは古くさいから」でいいんですよ(笑い)。

 と、こういう「男性権威の最大肯定」という、身も蓋もない性差別で話は終るわけです。

 さて、これを通して読んだところ、私が一番奇妙に感じたのは、ここで話されている会話の中に、ほとんど「僕が、私が」という会話が出てこないのです。原風景やらノスタルジーやら、子供の頃の経験が人間を大きく変えるような話をしておきながら、「私はこう育った」と言うような話が無いのです。唯一でてくるのは「上司と飲み会に行った」という話だけ。最も重要な「子供の頃の話」は一切出てきません。
 「子供の頃」例示はあくまでも「『三丁目の夕日』やビートたけしの足立区の話」などという、メディアを通した仮想の風景でしかないのです。

 そうです。世代論も男女差別もノスタルジーも、彼らがリアリティーももっているそれらは、すべて仮想なのです。自分をヌキにして、誰かがこう言っていた、こんな情景が映画で映っていた。彼らはそういう「原風景」しか持っていないのです。
 だいたい、三浦展は新潟生まれのくせして、『三丁目の夕日』(東京)やビートたけしの話(足立区=東京)にリアリティーを持っている自分というものに対して、なんで疑問を抱かないのでしょうか?

 先にも述べましたが、「原風景」とは、各人の心の奥底に沈殿した心象風景のことです。それは人の一生に影響を与えるほどの風景なのです。それがメディアで伝えられるような「日本人の原風景」なる珍妙な風景に塗り替えられるようなら、その人自身が「原風景」を持っていないのです。原風景の喪失を問題とするなら、こちらを先に問題にすべきです。

 あと、原風景なんていっても、それは決して美しいものとは限りませんよ。
 子供時代を戦争の中で生きた人たちは、空襲や死体の山を原風景として記憶している場合も多いでしょうし、私の原風景は別の言葉で呼べば「トラウマ」です。
 そして、別に辛い思い出を原風景とするのも、美しい思い出を原風景とするのも、各人の自由な心情にあるのです。
 原風景とは、決して、親や三浦展に押しつけられるような、単純なものではないのです。

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2006年03月01日
 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その9 三浦展のいう「中流」とは?

今回は『下流社会』の本から少し離れて、別のところに掲載されていた、三浦展の論理を紹介します。
 出所は『月刊コンビニ』(2006年3月号)という業界誌です。その辺の書店で発見できる類の本ではないので、友人が見つけてくれなければ、絶対に闇に消えていた資料でしょう。
 ここで三浦展は、『下流社会』ではまったく示していなかった「中流という言葉の定義」について触れています。重要な部分なので、そっくり引用します。

 

消費の変化をお話しする前に「中流」の意味について少し考えてみましょう。私たちは「中流」に対して、ふだん、どのようなイメージを抱いているのでしょうか? 中流の典型といえば、具体的にどのような人たちを指すのでしょう? サラリーマンもそれに近いのですが、典型といえば、彼らの奥さんになると私は考えます。消費社会ですから、中流の象徴は(お金を使う)主婦になります。大正時代にも、数は少ないのですがサラリーマンは存在していました。しかし戦前(1945年以前)の専業主婦は消費している時間的余裕がありません。お手伝いさんを雇えないような月給取りの奥さんなのですから、半分は「お手伝いさん代わり」であり、消費の主役にはなりえなかったのです。消費の主役は上流の奥さん連中でした。三越や帝国劇場に通っていた階層です。
 戦後になって中流化が進み、サラリーマンが増えました。消費のパイも増えて、専業主婦が消費の主役になりました。当時の若いOLなどは、2〜3年で仕事を終えて(≒結婚して)、専業主婦の道を選んだのです。女性は、結婚して、主婦になり、子供を産んで、家を買って、車を買って、そこで初めて中流と呼べる階層になったのです。
 では、これからの日本社会は中流から下流へと変化していくのか、そうなるとすれば、消費はどのように変化していくのでしょうか。
 その根底には、家族構造の変化があります。簡単に言えば、結婚している人たちは中流といえるのです。下流社会が拡大しているとすれば、それは結婚していない人たちの増加を意味しているのです。「しない人」というか「できない人たち」の増加です。
 高所得者であっても、結婚しない人たちは大勢います。しかし、一般的な傾向として、所得が少ないから結婚が難しくなるのです。金銭的に中流であっても、あるいは一人暮らしなので豊かな暮らしをしているといっても、結婚していない人たちの気持ちは中流にはなりません。中流という言葉には、結婚して、子供をつくって、マイホームと車を買って−−といったイメージがあるからです。
 これからも、日本の社会が下流化にシフトするのか、という問に対しては、これからも晩婚化、少子化が進むのかという問と同じ意味なのですから、「止まらない」と答えたほうがよいでしょう。

 いろいろツッコミ所はありますが、総論的な部分からみると、つまり三浦展のいう「中流」とは、いわば「一億層中流社会」という言葉に総称されるような、イメージとしての中流に過ぎないということです。
 それは高度経済成長時代において、サラリーマンの夫と、その妻が、団地に住んで、2人ぐらいの子供を持ち、3Bや3Cといった、便利な生活必需品に囲まれて生活するイメージの総称が「中流」なのです。
 私はこの点を思い違いしていました。「下流」と言うからには、何らかの「下への流れ」を示していて、「中から下への変化」すなわちベクトルを支える意味として「流」という言葉を使っていると思っていました。
 ただ、それに関する混乱した記述が『下流社会』の中に見られました。だからこそ、私は『下流社会』を読み解くために、三浦展の意図に極力添うような形で、「下流」という言葉の「流」に「金銭的意欲」という意味を付与したわけです。

 ところが、三浦展は、あくまでも固定化した幸福なイメージで語られる「高度経済成長時代の成功例イメージ」としての家庭を「中流」と称しているのであって、決して現実の人間を分析しているわけではないことが、この中流の定義から判明しました。

 高度経済成長時代の成功例イメージが現実でないというのは、それがあくまでも都市生活者の一部の生活様式が、TVを中心としたマスメディアに喧伝され、メディア・リテラシーの低かった三浦展らの年代の人間が、それを素朴に信じたということに過ぎない、ということです。
 たとえば、今現在、ニートやネットで株で稼いで働かないいい加減な若者像みたいなものが、マスメディアによって喧伝されますが、我々はそれが本当のことでないことを、よく知っています。
 それは、高度経済成長時代においても同じことで、いわゆる「団地族」のような生活は、都市生活者の一部に流行した生活様式でしかなく、都市と離れた工業地帯や農村においては、もっと別のありようの「中流」な人々がたくさんいたのです。
(高度経済成長時代の人たちが、マスメディアの影響をモロに受け、仮装と現実の区別が完全につかなくなってしまった人たちであるということは、もっと詳細に示す必要がある)

 結局のところ、三浦展は「中流」という高度経済成長時代の仮想現実を手に、現在のリアルな若者たちの生活観を「下流」として、卑下しているだけに過ぎないということです。
 三浦展はさも「中流から下流へ」というベクトルの変化があるように論じています(図1)が、ここで使われている「中流」という言葉が、ベクトルとは何ら関係ないただの文字列と、それに付与されたイメージの塊でしかないことが判明したのですから、そうした論理は否定されます。
 現実は、いわゆる「中流社会」というイメージの総体が、時が経つにつれ変化し、全く価値観の違う「中流社会’」が取って代わった。それと同時に、日本経済が不況になり、「若い人=弱者」の側から貧困にあえぐようになり、生活が苦しいまま現在に至っている(図2)という、2段階の変化なのです。
 現在、三浦展の世代が「自分たちは中流」とタカを括っていられるのは、不況時にリストラが過剰に注目され、新規採用人員のカットがほとんど無視されたように、「若い人=弱者」からの搾取から目を背けているからです。

 総論と外れた、個別の部分で三浦展の「中流」定義を吟味すると、実に恥ずかしい差別論理に寄っていることが目につきます。それこそ「結婚が唯一の女の幸せだ」ぐらいのことを平気で言ってます。
 そして、「下流化=晩婚化、少子化」などと、全くワケの分からないことを平気で書いています。「女性が早く結婚せず、子供を産まなくなったから、日本は不幸になった」とでも言いたいのでしょうか?
 これも、三浦展が「中流イメージの変化」と「景気の後退」を、あくまでも「個別の2段階変化」だと捉えてないからこそ言える暴言でしょう。

 返す返すも、これが『月刊コンビニ』のような、業界誌でなされた発言であることは不幸です。
 もっと多くの人の目に止まる場所に書かれていれば、三浦展を「単なる性差別者」として、追放することは簡単であったように思います。


 ここからは個別の発言を抜き出して批判したいと思います。
 しかし、このインタビューは6ページにわたっているのですが、業界誌ですからインタビュアーもコンビニについての質問しかせず、先生にご意見をお伺いしているという態度ですから、何ら面白いことはなく、三浦展も『下流社会』で述べたことをくり返すだけですから、それほど注目に値する発言はありません。冒頭で中流の定義についてまとめられているのは、奇跡のようなものです。
 それでもいくつか注目すべき発言はあります。

(「なぜ少子化が進行するのか」という質問に対して)

 コンビニでアルバイトをして生活していけるような環境が、結婚しない人たちを増やしているのではないでしょうか。

 あまりに現実を知らない発言です。当然コンビニのアルバイトだけでは生活などしていけません。親がいて、実家に要られるような若者なら、将来を悲観しつつも、ギリギリ生活していけるでしょうが、親のない中年フリーターなどは、他のバイトを兼業している場合がほとんどです。つまり三浦展の言う「コンビニバイトで生活していけるような環境」など、ないのです。
 ないのになぜ存在するのか? といえば、それはまさにそういう仕事しか弱者には回ってこないということです。
 そういう意味で、現実では「コンビニバイトで生活していけないから、結婚しない人たちが増えている」のです。
 文章に起してしまえばわずかな違いですが、三浦展の言葉が責任を若者に押しつけているのに対して、後者は弱者がコンビニでしか働けないような社会を批難する言葉になっています。

 成城石井や紀ノ国屋を利用することが「上」だと思っています。

 引用した部分は短いですが、かなり重要な発言です。
 まず、「成城石井や紀ノ国屋」という発言から、三浦展が上流モデルをまさに「1都3県」にしか適応できていないことが明白です。田舎にはそんな高級スーパーはありません。
 というか三浦展は、そのレベルでしか問題を考えていないのです。実際『下流社会』の論拠とされる「欲求調査」が、1都3県でしか行なわれていないのですから。
 そして、もう一つ。ここで使われているのが「上流」ではなく「上」という単語であるということ。
 三浦展は『下流社会』においても、ほとんど「上流」という言葉を使ってないんですね。
 意図的なのか無意識なのかは知りませんが、これは、私が彼の「中流の定義」に対して示した「中流」と言う言葉が、あくまでもベクトルではなくて、「ただの文字列と、それに付与されたイメージの塊」であるということを示しているのだと考えます。
 三浦展の言う「上流」「中流」「下流」という言葉に、流動性はなく、ただ「こうした人たちは上流で、こうした人たちは下流である」という、「分断された層」が三浦展の中にイメージされているだけなのです。
 「分断された」というのは、相互に流動性が無いということです。上中下で示すならば、上が中になったり、下が上になることがあるハズなのですが、三浦展の論理では、中流は「高度経済成長時代の幸せな家族像」、上流は「成城石井や紀ノ国屋で買い物をする人たち」という、固定化されたイメージであり、下流の「現在の自分の満足して、上を目指そうとしない若者」との交換可能性など、全く存在しないのです。

 中流以上の人たちは、ブランドの確かな商品を選択します。一方、下流の人たちになると、それがナショナルブランド(NB)かどうかは気にしません。
(中略)
 NBと呼ばれるメーカーが育った背景には、中流の拡大が挙げられます。NBを買うことが中流の証しであったし、今も、自分は中流でありたいと願う人たちはNBを買い続けるでしょう。

 「ナショナルブランド(以下NB)」というのは、要は「みんながよく知ってるメーカー品」ってことです。
 単純に例示をすると、乾電池を買う時に、ナショナルを選ぶのが中流以上で、ダイソーの「マンガン電池」とか書かれているのを買うのが下流ってことですね。
 まぁNBについては、OEMなんかの関係性でツッコミたいことはいくらでもあるのですが、その辺は極力省きまして、一つだけ。
 「では、NBとそれ以外を区分するラインはどこなのでしょう?」
 たとえば、「太陽誘電のDVD-R」を愛用している人は、下流なのでしょうか?
 「ダイニチの石油ファンヒーター」を愛用している人は、下流なのでしょうか?
 この両者はどちらも「みんながよく知ってる」メーカではないけれども、太陽誘電は、三菱やTDKなどの有名メーカーにOEM品を供給している、ちょっと詳しい人ならよく知っている、高い品質を認められているメーカーですし、ダイニチも石油ファンヒーターの分野では有名なメーカーです。
 他にもエアコンの「ダイキン」はNB? とか、どこまでをNBと認めるかという線引きは非常に難しいのが現実です。

 今、地方経済は厳しい環境にあります。
(中略)
 衣料品だって2,000円以下のものしか買いません。ワイシャツは1,980円。いかに安いものをゲットするか、それが喜びになっています。だからユニクロが成長するのです。

 地方の話を出してますが、さすが1都3県しか目に入っていない人の発言です。ここで例示するなら、ユニクロじゃなくてしまむらでしょ。どうせ日経の上だけで地方経済を知った気になっているんですね。日経はねじ曲がった意味で、ユニクロが大好きですからね。
 あと、ユニクロに2,000円以下の商品って、そんなにあるっけ? 今のユニクロはそんなに「安い」というイメージではないと思うんだけど。

 あえて男女差別を承知で言えば、僕は(下流社会への傾斜を防ぐためには)男性の正規雇用を優先すべきだと考えています。

 あえて、もなにも、三浦展が差別論者であることは既に判明しています。
 で、問題は、現在の不況を生み出した人たちを免罪していることです。
 私なら、同じ効果を得るために「老人を早期退職させ、若者の正規雇用を優先するべきだ」と言います。
 結婚云々はともかく、若い人は欲しいものや必要なものがたくさんありますので、彼らに金を回せば、経済は循環します。年寄りに金をわたしても、既に欲しいものを得つくした彼らは貯金に必死になり、経済を停滞させます。
 そもそも年寄りは既に必要以上に過ぎた金を得ているのですから、その分を返却するべきだと思うのですが、そういう話は別の機会にすることにしましょう。

 今は、非正規と正社員の格差が大きいのですが、同一労働同一賃金を進めていくと、非正規の中にも格差が生まれるようになります。非正規でも能力の高い人は正規の下の人より賃金が上になるのですが、非正規の下の人は、今よりもさらに低くなる可能性があります。
(中略)
 格差が今以上に拡大するのです。

 同一労働同一賃金に関しては、私も興味がありますが、これについても三浦展は非正規側から賃金を取り上げることしか考えてないようです。
 そもそも「正社員」と言われる人たちが、賃金を多く取り過ぎているのが格差の問題ですから、彼らの賃金を切り下げればいいだけのことです。このことと「下流化」は関係ありませんし、これによって景気が悪化するとも言えません。
 しかし、三浦展が「下流化」論理を達成するためには、中流や上流の給料が下がるのは困るわけですから、このような硬直化した考え方になるのです。

 これがラストです。ここは全部引用します。

− 最後に、著者『下流社会』がベストセラーになりました。ヒットの要因をどのように考えますか。

三浦 これから下流社会が拡大するのか? 僕は1つのシナリオを書いたわけです。必ずそうなると断言したり、予測しているわけではありません。それでも、これだけ売れたということは、「そうだ」と納得した人が多かったということでしょう。30歳を過ぎて、給料が上がらなくなった人たちがいるのですから。
 給料が増え続けると期待すること自体が、そもそも中流と言えるのです。もともと働かなくてもお金がある人たちは上流であるし、どんどん働くからもっと給料をよこせという考え方が、ここでいう「上」になります。働きたくないからお金もいらないよ、という気持ちが「下」になるし、「下」でも目標を持ちつづけていれば、下流にはなりません。
 「下」というのは今の状態を示すわけですから、「下」の状態を肯定した時点で下流、これでは駄目だと奮起したら下流ではなくなります。本当はいろいろな要素が混在しています。ホリエモンは状態こそ「上」でしたが、精神は下流です。

 ここでは、最も重要な「上中下」についての定義を語っています。
 しかし、あまりに無茶苦茶です。
 まず、「働かなくてもお金がある人たちは上流」と、「流」を私の定義で言う「現実的な金銭的余裕」である「層」という意味で使っています。そして、「どんどん働くからもっと給料をよこせという考え方が、ここでいう「上」」と、「上」を金銭的意欲、つまり私の定義で言う「流」という意味で使っています。
 しかし、これが下流になると、「働きたくないからお金もいらないよ、という気持ちが「下」になるし、「下」でも目標を持ちつづけていれば、下流にはなりません」
 と、前者の「下」を、私の言う「流」の意味で使っているのにもかかわらず、後者では「下」を私の言う「層」の意味で使ってしまっています。そして最後の「下流」の意味は「流」ですね。
 そしてさらに「「下」というのは今の状態を示す」などと、私の言う「層」の意味で使ってしまい、全く整合性を欠いています。

 しかし、これだけでは、三浦展が「上中下」を無茶苦茶に扱っているという十分な証拠にはなりません。
 これが無茶苦茶であることを示すためには、『下流社会』に戻って考えないといけません。

 三浦展が調査した「欲求調査」や、総務省の「国民生活世論調査」における「上中下」の定義は、あくまでも「当人が上中下のいずれと考えているか?」というものでした。そして、調査での数値を、三浦展はなんら適切に変換することなく図表にしています。
 具体的に言えば、金銭的には貧乏でも、その人が「自分はしたいことをできているから上」と思っていれば「上」に分類されるのです。

 こうなると、「「下」というのは今の状態を示す」、つまり「「上中下」という言葉は、「層」の意味である」という、三浦展の主張は完全に崩壊します。『下流社会』の図表に示される「上中下」は、当人の意識であって、決して「今の状態」、すなわち「現実的な金銭状況=私の言う「層」」や、「金銭に対する意欲=私の言う「流」」などを示してはいないことは明白なのです。

 つまり、三浦展は全く違う意味の言葉を分類せずにごちゃまぜにしているということです。
 もちろん、そこから出てきた結論が、まともなものであろうハズがありません。

 そして最後に「ホリエモンは状態こそ「上」でしたが、精神は下流です」などと、金銭以外の部分についてまで安直に下流という言葉を当ててしまっています。

 ニートという言葉が、家事手伝いをニートに加えたり、年齢の定義を無視して「中年ニート」なる珍妙な言葉に使われたりと、無軌道な拡大をくり返すのと同様、下流という言葉も、その意味を拡大しようとしています。
 それは、安直に生まれた差別言語に共通する特徴なのかもしれません。

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2006年02月17日
 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その8 で、結局「上中下」ってなに?

「嫌下流社会」シリーズ その8
 で、結局「上中下」ってなに?

 第5章に入る前に、ここで『下流社会』の図表の中に書かれている「上中下」とは何かということを明確にしておきたい。
 第3章の一部の考察で既に示したように、図表で扱われる「上中下」という概念はこうである。

 三浦展は、まず「あなたの生活水準は次のどれにあてはまると思いますか」と尋ね、「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」の5つから1つを選択させた。
 そして、「上」「中の上」を合わせて「上」、「中の中」を「中」、そして「中の下」と「下」を合わせて「下」としたものである。
 これは、内閣府が行なっている「国民生活に関する世論調査」の調査方法をそのままマネたものである。
 「国民生活に関する世論調査」ではこういう質問項目になっている。

Q8 〔回答票9〕 お宅の生活の程度は,世間一般からみて,どうですか。この中から1つお答えください。

(ア) 上
(イ) 中の上
(ウ) 中の中
(エ) 中の下
(オ) 下
    わからない

 「意識調査」においても、ほとんど同じ質問がされたと思われる。

 で、このことが何を意味するかといえば、『下流社会』でいう「上中下」という概念は、あくまでも「本人の意識の上」の「生活の程度」というものでしかないということだ。
 つまり、本人がどう思っているかという主観的な観念であって、決して収入やライフスタイルといった、客観的な意味合に点数付けなどをして、そこから立ち上げたデータではないのだ。
 具体的には、これを客観的なデータとみなすためには、まずは年収1,000万以上は10、150万未満は0、車の車種ごとに高級車は5、大衆車は3、車がなければ0。などと、収入やライフスタイルごとに指数を設定し、何ポイント以上が「上」で、何ポイント以下なら「下」などと分析する必要がある。
 こうした作業を経て初めて、客観的な「上中下」を表すことができる。その場合「上中下」は、イコール「層」の概念となる。

 というわけで、これはあくまでも主観的な観念でしかないわけなのだが、たとえ主観であっても、その意味合いの見極めは慎重に行なう必要がある。
 この調査上で、解答者が自らを「上中下」のいずれに自分を当てはめるかというのは、この質問からは全くうかがい知ることができない。
 それこそ、年収が何千万もあり、人も羨む生活をしている人が、人生に不満をもって自分を「下」と称するかも知れないし、貧乏でも自分の生活に満足して「上」と称する人がいるかもしれない。
 そしてその不満や満足は、あまりに多種多様過ぎて、他人には計り知ることができない。もちろんアンケートの項目をこと細かくしていけば、大まかには見えてくるかも知れないが、それでも明確ではない。
 だから、この分類ははっきりと「何かの上下」ということはできず、このアンケートの文章にあるとおり「お宅の生活の程度」という極めて曖昧な言葉でしか定義できない。
 この曖昧な「上中下」という言葉を、「流」と理解し、現代社会を切り取ろうと三浦展が考えて記したのが『下流社会』なのであるが、その短絡的な考察と、自らの偏見を一切考慮しなかったが故に、このような駄本として流通。そしてさらにそれを利用しようとする愚者が溢れているのが、『下流社会』を巡る悲惨な現状である。


 まとめとして、以下に、今まで出てきた概念をまとめる。

 ・実際(客観的な)の金銭的余裕である「上中下‘層’」
 ・(主観的かつ客観的な)金銭的意欲である「上下‘流’」
 ・(主観的な)自己判断である「上中下」という「生活の程度」

 この3つの違い、特に図表で使われているのは、すべて「生活の程度」と呼ぶしかない非常に曖昧な表現である。ということをしっかり頭に叩き込んで、以降の章に望んでいただきたい。

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2006年02月02日
 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その7 「第3章 団塊ジュニアの「下流化」は進む!」

この章の本題は、内閣府の「国民生活に関する世論調査」なるものの解釈の仕方についてなのですが、これを解説するためにはさまざまな図表を準備する必要があります。
 そこで、ひとまず、この『下流社会』のキモとなる「欲求調査」の正体についてこの章で触れていますので、その部分のみやります。

 この『下流社会』のほとんどの図表は「欲求調査」の数字である。では、この「欲求調査」とは、いかなるものであろうか? それがこの章の冒頭にさらっと説明されている。

 88ページ

 本章ではまず、昭和ヒトケタ世代、団塊世代、新人類世代、団塊ジュニア世代を比較した「欲求調査」をもとに4世代の世代別・男女別の階層意識を比較する。
 なおサンプルは1都3県在住の800人で、世代別・男女別に各100人である。

 まぁ、恐ろしいことがさらっと書かれているものだ。この調査はあくまでも1都3県という狭い範囲でしかない。12ページに記載されている欲求調査の概要に「千葉県」という文字が見えることから、いわゆる「南関東」の範囲でしか調査していないと考えられる。
 都市と地方の間に経済格差が存在するなどというのは、中学校の社会科でも習う常識であり、この時点で調査の結果に疑問が湧く。
 また、地方から都市に出てきた若者と、地元の親元で暮す若者の経済観念が違うのは当然のことであるから、特に団塊ジュニアの調査結果をそのまま日本全体の傾向だとみなすことは難しいのではないか。

 次は、『下流社会』で多用される「上中下」たる概念が説明されている。

 88ページ

 階層意識は、具体的な質問としては「あなたの生活水準は次のどれにあてはまると思いますか」と尋ね、「上」「中の上」「中の中」「中の下」「下」の5つから1つを選択させた。

 そして、三浦展はこの5つを「上中下」に変換する。

 90ページ

 次に「上」と「中の上」を合わせて「上」、「中の中」を「中」、「中の下」と「下」を合わせて「下」とした

 引用の最後に「。」がついてないのは、これが表3-1の説明の途中に書かれているからだが、この本全体の図表に記される「上中下」についても、この区分けを採用していると考えて間違いないだろう。

 今回のような経済的なもののみならず、アンケートに「上中下」のような、価値判断を伴うラインを用いる場合、中間的な選択肢が多ければ多いほど、その結果を棒グラフにした場合に「山型」になるような結果が出ることが多い。
 この件における三浦展の方法論は、そうした山型の結果を避けるために、答えやすい「中の上」「中の下」を用意し、最終的に上と下に組み入れることで、山型の結果を避けようとしているのだろう。この点は、別に間違ってはいない。

 しかし、その正しさを証明しようとしている次の文章は、非常に間が抜けている。

 90ページ

「下」が48%というのは、1958年の内閣府調査に近い結果だ。

 と、官公庁の数字と近いということで、その正しさを証明しようとしているのだが、その「1958年の内閣府調査」とやらはどこにあるのだろう?
 男性についての内閣府調査は92-93ページに細かく記載されているが、左端が1970年なのだから、1958年の数値は発見できない。
 よくよくさがすと、1章の25ページようやく発見できる。なるほど、「欲求調査」で階層意識を5つに分けたのは、この内閣府の調査を真似たというわけか。
 しかし、近くに乗せておくべき図表を、遠くに配置するというのは、三浦展の問題というよりは、光文社の編集の問題だろう。せめて1958年の数値だけでも90ページ前後に持ってきてほしい。

 で、25ページの図を見ると、確かに1958年では「中の下」と「下」を足すと49%になり、三浦展の主張は正しく、欲求調査の結果も妥当であろうということになる。
 ……本当に?

 三浦展の「欲求調査」は2004年の11月に行われているのだから、それを1958年のものと比べることに、意味など一切ないに決まっている。当然2004年の調査と比べるのがスジである。さらにいえば、この25ページのデータは国民全体のパーセンテージであろうから、団塊ジュニアとの比較には使えない。
 そこでようやく文章の近くにある92-93ページの表が使えることになる。

 ここで「団塊ジュニア」の定義を確認するが、「欲求調査」では団塊ジュニアは1971年〜1975年生まれと定義されているので、それに従う。すると、ちょうど「25〜29」と「30〜34」をまたぐ形になっていることが分かる。
 私自身、これを細かく分析する気はないし、数値自体の差異も大きくないので単純に双方の「下」のパーセンテージを足して、2で割ることにすると、39.1という値が出てくる。
 三浦展が提示した数値は49%なのだから、これと比べるとおおよそ10ポイントの差が発生していることになる。
 この差を大きいと考えるか、小さいと考えるかについては判断を避けるが、少なくとも1958年の数値とほぼ同じなどという、意味のない比較をもって、「欲求調査」の数値に信憑性を持たせようとする三浦展の手法は、非常に姑息であると言える。
(ひょっとしたら、「今の若者は1958年の人たちと同じぐらい下流意識を持っている」と言いたかったのかもしれないが、そうだとしても、その主張の意味は全く見えない)

 96ページ

 ちなみに内閣府調査のサンプル数は2004年の30〜34歳男性246人、女性325人であり、「女性1次調査」の方がサンプル数が多いので、統計学的には信憑性が高いはずだ。
 また、「女性1次調査」は1都3県在住者の調査であることによる違いもあると思われる。

 たしかに、「国民生活に関する世論調査」は、その対象が全国であり、1都3県でしかない女性1次調査とは、違うのかも知れないが、滑稽なのは単純に「サンプル数が多ければ、統計学的に信憑性が高い」などと、三浦展が信じて疑わないことだ。
 当然のことだが、サンプル数などは、数ある要因の中の1つに過ぎない。
 サンプリングが十分に無作為であるか否か、設問の偏り、有効回答率、アンケートの方法、アンケートを行った人間の態度、etcetc……。アンケートの結果に響く要因は、探そうとすれば数限りない。
 もちろん、全ての要因を詳細に検証するのは不可能だが、少なくとも「せめてこれぐらいは」というものがある。
 特にアンケートにおいては「調査票」の偏りがないと証明できるものが信憑性が高いと考えられる。そのためには調査表が公開されていることが必須である。
 「国民生活に関する世論調査」の調査票は、Webに公開されている。
 では、この「女性1次調査」なるものの調査票はどこにあるのか? ついでに「欲求調査」の調査票もどこにあるのか? 信憑性を口にするなら調査の詳細ぐらいは、人から言われなくても自ら公開すべきである。概要だけでは意味がない。

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2006年01月26日
 ■ 4章、その他の細々とした部分について。

 しかし、『下流社会』を読んでいて思うのは、いったい三浦展は「上中下」という単語をどういう意味で扱っているのだろうか? ということだ。
 私はこの本を極力正確に理解するために、いわゆる現実的な金銭的余裕を「層」、そして金銭的意欲(以前「金銭的意識」と書いた部分は、すべて「金銭的意欲」に変更します)を「流」として考えているということは、前に述べた。理由は三浦展自身が「はじめに」でそう述べているからだ。
 しかし、私には三浦展が自身で定義した以外の意味で上中下を利用しているように思える。何より、この章において「上中下」という単語は使っていても、層や流という単語を使っていない。
 そんなあやふやな状態で家族形態のデータ解釈の中で三浦展はこう記している。

 つまり、若いうちは親元にいて、その後、結婚して夫婦だけで暮らし、子供ができたらできれば親元に住むのが最も「下」になりにくい生き方だということである。あまりにも保守的だが、実態はやはりそれが幸せのパターンのようである。

 一見、何事もない文章のようだが、三浦展は「上=幸せ」と見ていることが見て取れる。
 しかし、これはあくまでも金銭的余裕を表す「層」とも、意欲を表す「流」とも、全く異なる概念である。それをなんの注釈もなく混在させる三浦展の方法は非常に不誠実なものだ。
 さらに、それを「幸せ」と考えた時に、それは微妙に「流」に影響を与える。つまり、現状が幸せで「このままで十分幸せだ」と思えば、それはさらなる金銭的意欲を発揮しない「下流」の意識に近いと考えることができる。この点について三浦展はまったく気付く素振りもない。ただ無邪気に「上と答えている人たちは幸せだ。下と答えている人たちは不幸だ」と思いこんでいる。
 このアンケートに答えた人たちはどのような意味で「上中下」を理解したのだろうか?
 たとえば、金銭的には下層でも、けっして自分たちを不幸だと考えていない人たちは、自分を上中下のいずれだと答えたのだろう?
 三浦展の都合によってズタボロにされたゴミデータから、それをうかがい知ることはできない。

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2006年01月25日
 ■ 「嫌下流社会」シリーズ その5 「第4章 年収300万では結婚できない!?」

第4章 年収300万では結婚できない!?
(第3章は結論はやたら簡単なワリに、グラフを用意したりと説明のための準備がいろいろと必要なので、ちょっと後回しにします。)

 まず、「表4-1」について。
 12ページに記してある「欲求調査」の調査結果から、上層、中層、下層のそれぞれの生活水準を点数で表して、上層では80点以上が増えており、下層では60点以下が増えているというのだが、これが一体なんの点数なのかが、読者には全く分からない。
 生活水準というのだから、何か「あれを持っていれば何点、年収がいくらなら何点」という点数なのかも知れないし、逆に3章で扱ったような「個人的にはこのくらい」という層意識を点数かしたものかもしれない。
 そんなことをいっても、このアンケートがどのようなものであったかは、この本に記された内容だけでは闇の中だ。もし、この「欲求調査」に関する詳しい資料があったら教えてほしい。

 それからしばらくは意味不明なゴミデータが続く。何らかの意味がありそうなことは書いているが、実際にはなんの点数なのかもなんのデータなのかも一切不明のままだ。ここで注目したいのは、その全てを表にして、パーセンテージであらわし、「網掛け強調」をしている点だろう。
 なるほど、パーセンテージで表せば、表の貧相な内実を覆い隠すことができるし、自分の主張に近しい部分を網掛けしておけば、見た目で印象づけることができる。しかし、じっと目をこらしてn値を見れば分かるが、その母集団のあまりの少なさに、恥ずかしくなること請け合いである。
 特に「表4-2」は、パーセントを「人数」に直してしまえば、小学生ならば先生に誉められるレベルの代物でしかないことは一目瞭然だ。特に「上」の貧相な数値に、思わず目を覆いたくなる。
 また、この女性の「下」の数値を見ていただきたいのだが、網掛けされているのは300万未満の35.5%の箇所だが、数値の最大値は300万〜の48.4%の箇所である。
 つまり、網掛け部は、あくまでも筆者の主張上、注目してもらいたい位置を強調しているに過ぎず、データとしての注目点では決してないということに注意したい。

 次に、この章のメインである、124ページの「図4-2」に触れる。
 これを見ると、さも年収300万と500万の間に大きな格差が存在し、両者の結婚率に2倍もの差があるように見える。
 しかし、冷静になってよく見てほしい。何かおかしくはないだろうか?
 まず、150万未満が「0%」というのがおかしい。同じ意味で、1000万以上が「100%」というのもおかしい。この1000万円以上が100%なのは、女性の方も同じである。
 確かに、年収150万円未満で結婚している男性を見つけるのは難しいかも知れないが、1000万円以上で結婚してない男性を我々はよく知っている。たとえばプロ野球選手で1軍にいるような選手は年収1000万円以上であるが、全員が結婚しているかといえば、そんなことはない。
 そもそもパーセンテージに関することで、0%であるとか100%であるとかいう数値が出ること自体がおかしいのだ。これは母数がよほど少ないことを意味している。
 先程の表4-2でも触れたとおり、この図の根拠もあの母数のやたら少ない「欲求調査」によるものであり、その母数は100名である。これではこの不自然な数値は当然であろう。
 不自然といえば、所得の区分も不自然だ。普通こうした折れ線グラフでは、縦横の数値は等分で表されるものであるが、この所得は0〜150満未満(150万)、150万〜300万(150万)、300万〜500万(200万)、500万〜700万(200万)、700万〜1000万(300万)と、極めて不自然な値を取っている。
 しかし、それを考慮しても、このグラフでは年収300万と500万の間には、大きな差があるように思える。だが、もっとよく見てみよう。左上のほうだ。おかしな文章に気付かないだろうか?
 この図4-2は「男性の所得と既婚(初婚)率の相関」と名付けられているが、そのあとに「(既婚の場合は夫婦合計の所得)とある。

 ……
 ……
 ……事の重大さに気付くことができただろうか?

 つまり、こういうことだ。
 年収300万の独身者が、年収200万の相手と結婚したとすれば、それは年収500万として扱われる。
 結婚しなければ、男性一人の収入だから年収300万、結婚すれば夫婦揃っての収入だから年収500万。そして、この項目では支出は勘案していないから、働き手が増えることによる所得のマイナスはない。つまり、この図は最初っから「結婚をすれば年収が上がるようにできている」のだ。この図はさも「年収が上がれば結婚率が上がる」かのように描かれているが、実際は結婚している人間ほど、収入が上がりやすい「仕掛け」を施したグラフなのである。
 さらに言えば、この図においては、年収200万円程度なら、結婚の有無で容易に上下するので、年収300万〜500万で結婚していない66.6%と、年収500万〜700万で結婚している78.3%の間の収入差は、実はそれほど明確なものではない。また、結婚している年収300万〜500万の33.3%は、年収150万〜300万の独身者に近い収入なのかもしれない。というように、珍妙な仕掛けのために、この図では年収での結婚率の多少を調べる事がまったく不可能である。

 あと、もう一つ、決して無視するわけには行かないことがある。
 それは、「この年収はいつの時点の年収なのか?」という点だ。
 つまり、結婚を決める場合、最も重要なのは「その時点の年収」だろう。もちろん、今後の収入増加も考えるだろうが、この調査は実際の年収を調査しているのだから、この調査において、結婚にとってもっとも重要なのは「結婚を決めた時点での年収」だ。
 しかし、このグラフでは、それが一切分からない。まさかもう50年ぐらい連れ添った老夫婦の、現時点でのデータをとっているのではなかろうとは思っても、それを裏づけるデータは一切示されていない。このグラフの元になっている「欲求調査」には昭和ヒトケタ世代も調査対象になっているから、ありえない話ではないのだ。少なくともこのグラフには「男性」としか書かれていない。

 ここまで理解してもらったうえで、改めてこのグラフを見ると、これが意味不明の、ねじ曲がった棒が空中に浮いている絵か何かに見えてくるハズだ。それはまさにこのグラフの正体である。このグラフは一切何も表してなどいないのだ。


 結局、こんなゴミデータを並べて作り上げたのが、この『下流社会』という本である。
 本当に、この本に書かれている事を信じてしまう人たちは、何を考えて生きているのだろうか?

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2006年01月15日
 ■ 第4章 年収300万では結婚できない!?

第4章 年収300万では結婚できない!?
(第3章は結論はやたら簡単なワリに、グラフを用意したりと説明のための準備がいろいろと必要なので、ちょっと後回しにします。)

 まず、「表4-1」について。
 12ページに記してある「欲求調査」の調査結果から、上層、中層、下層のそれぞれの生活水準を点数で表して、上層では80点以上が増えており、下層では60点以下が増えているというのだが、これが一体なんの点数なのかが、読者には全く分からない。
 生活水準というのだから、何か「あれを持っていれば何点、年収がいくらなら何点」という点数なのかも知れないし、逆に3章で扱ったような「個人的にはこのくらい」という層意識を点数かしたものかもしれない。
 そんなことをいっても、このアンケートがどのようなものであったかは、この本に記された内容だけでは闇の中だ。もし、この「欲求調査」に関する詳しい資料があったら教えてほしい。

 それからしばらくは意味不明なゴミデータが続く。何らかの意味がありそうなことは書いているが、実際にはなんの点数なのかもなんのデータなのかも一切不明のままだ。ここで注目したいのは、その全てを表にして、パーセンテージであらわし、「網掛け強調」をしている点だろう。
 なるほど、パーセンテージで表せば、表の貧相な内実を覆い隠すことができるし、自分の主張に近しい部分を網掛けしておけば、見た目で印象づけることができる。しかし、じっと目をこらしてn値を見れば分かるが、その母集団のあまりの少なさに、恥ずかしくなること請け合いである。
 特に「表4-2」は、パーセントを「人数」に直してしまえば、小学生ならば先生に誉められるレベルの代物でしかないことは一目瞭然だ。特に「上」の貧相な数値に、思わず目を覆いたくなる。
 また、この女性の「下」の数値を見ていただきたいのだが、網掛けされているのは300万未満の35.5%の箇所だが、数値の最大値は300万〜の48.4%の箇所である。
 つまり、網掛け部は、あくまでも筆者の主張上、注目してもらいたい位置を強調しているに過ぎず、データとしての注目点では決してないということに注意したい。

 次に、この章のメインである、124ページの「図4-2」に触れる。
 これを見ると、さも年収300万と500万の間に大きな格差が存在し、両者の結婚率に2倍もの差があるように見える。
 しかし、冷静になってよく見てほしい。何かおかしくはないだろうか?
 まず、150万未満が「0%」というのがおかしい。同じ意味で、1000万以上が「100%」というのもおかしい。この1000万円以上が100%なのは、女性の方も同じである。
 確かに、年収150万円未満で結婚している男性を見つけるのは難しいかも知れないが、1000万円以上で結婚してない男性を我々はよく知っている。たとえばプロ野球選手で1軍にいるような選手は年収1000万円以上であるが、全員が結婚しているかといえば、そんなことはない。
 そもそもパーセンテージに関することで、0%であるとか100%であるとかいう数値が出ること自体がおかしいのだ。これは母数がよほど少ないことを意味している。
 先程の表4-2でも触れたとおり、この図の根拠もあの母数のやたら少ない「欲求調査」によるものであり、その母数は100名である。これではこの不自然な数値は当然であろう。
 不自然といえば、所得の区分も不自然だ。普通こうした折れ線グラフでは、縦横の数値は等分で表されるものであるが、この所得は0〜150満未満(150万)、150万〜300万(150万)、300万〜500万(200万)、500万〜700万(200万)、700万〜1000万(300万)と、極めて不自然な値を取っている。
 しかし、それを考慮しても、このグラフでは年収300万と500万の間には、大きな差があるように思える。だが、もっとよく見てみよう。左上のほうだ。おかしな文章に気付かないだろうか?
 この図4-2は「男性の所得と既婚(初婚)率の相関」と名付けられているが、そのあとに「(既婚の場合は夫婦合計の所得)とある。

 ……
 ……
 ……事の重大さに気付くことができただろうか?

 つまり、こういうことだ。
 年収300万の独身者が、年収200万の相手と結婚したとすれば、それは年収500万として扱われる。
 結婚しなければ、男性一人の収入だから年収300万、結婚すれば夫婦揃っての収入だから年収500万。そして、この項目では支出は勘案していないから、働き手が増えることによる所得のマイナスはない。つまり、この図は最初っから「結婚をすれば年収が上がるようにできている」のだ。この図はさも「年収が上がれば結婚率が上がる」かのように描かれているが、実際は結婚している人間ほど、収入が上がりやすい「仕掛け」を施したグラフなのである。
 さらに言えば、この図においては、年収200万円程度なら、結婚の有無で容易に上下するので、年収300万〜500万で結婚していない66.6%と、年収500万〜700万で結婚している78.3%の間の収入差は、実はそれほど明確なものではない。また、結婚している年収300万〜500万の33.3%は、年収150万〜300万の独身者に近い収入なのかもしれない。というように、珍妙な仕掛けのために、この図では年収での結婚率の多少を調べる事がまったく不可能である。

 あと、もう一つ、決して無視するわけには行かないことがある。
 それは、「この年収はいつの時点の年収なのか?」という点だ。
 つまり、結婚を決める場合、最も重要なのは「その時点の年収」だろう。もちろん、今後の収入増加も考えるだろうが、この調査は実際の年収を調査しているのだから、この調査において、結婚にとってもっとも重要なのは「結婚を決めた時点での年収」だ。
 しかし、このグラフでは、それが一切分からない。まさかもう50年ぐらい連れ添った老夫婦の、現時点でのデータをとっているのではなかろうとは思っても、それを裏づけるデータは一切示されていない。このグラフの元になっている「欲求調査」には昭和ヒトケタ世代も調査対象になっているから、ありえない話ではないのだ。少なくともこのグラフには「男性」としか書かれていない。

 ここまで理解してもらったうえで、改めてこのグラフを見ると、これが意味不明の、ねじ曲がった棒が空中に浮いている絵か何かに見えてくるハズだ。それはまさにこのグラフの正体である。このグラフは一切何も表してなどいないのだ。


 結局、こんなゴミデータを並べて作り上げたのが、この『下流社会』という本である。
 本当に、この本に書かれている事を信じてしまう人たちは、何を考えて生きているのだろうか?

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2006年01月13日
 ■ 第2章 階層化における消費者の分裂 (その2)

第2章 階層化における消費者の分裂 (その2)
 三浦展は「お嫁系」「ミリオネーゼ系」「かまやつ系」「ギャル系」の分類から、それぞれの立場の女性に対し、インタビューを行っている。
 それぞれ冒頭の数行を引用するので、ざっと見比べていただきたい。

・お嫁系

 女性誌で化粧品関係の記事を書くアルバイトをしています。バイト代は月に15万円、親からは生活費として月3蔓延ほどもらっています(今は就職活動中なのでバイトは休業中)。就職は出版社を目指しています。大手出版社に落ちたら、中堅出版社も受けます。中学生の頃から出版社で雑誌を作りたいと思っていたので。
 仕事柄、世の中で話題になっているもの、流行しているものには敏感で、バイト代はすべてファッションに使っています。でも飲食店には「ホットペッパー」のクーポンを使えるところに行ったりしますよ。

・ミリオネーゼ系

 現在、夫と子供と3人で大田区内に賃貸マンション住まい。住居費は25万円。夫の年収は1200~1300万円くらい。住居費と生活費合わせて40万円は夫が支払う。自分は毎月40万円貯金。貯蓄額は2000万円。そのほか、親からもらった株券が2000万円ほどある。夫が貯金しているかどうかは知らない。クルマはBMW525に乗っている。今度はレクサスもいいなと思う。持ち家の予定はまだない。夫がその気にならないので。

・かまやつ系

-1年間の洋服代はいくらですか?
「んーと……けっこう買ってるかも。10万円もしないとは思うけど」
-世間一般と比べてあなたの生活レベルは100点満点で何点ですか?
「世間一般? 生活レベルってどういう?」
-経済的な面もあるし、知力とか生活の質とか中身とかいろいろな意味で、教養とか、文化的な側面とか全部ひっくるめて。
「ああ、どうなんでしょう。世間一般と比べて、ですよね。まぁ50点ぐらいですか」
-その理由は?
「まぁ植木屋さんをやっているってことで、東京にいてもちょっと自然と触れ合ったりできるし」

・ギャル系

-世間一般と比べて、あなたの生活レベルは100点満点で何点くらいですか。
 30点くらい。朝、ちゃんと起きれない。だらけすぎなので。
-現在の生活への満足度は。
 40点くらい。父親がすごく厳しいので、早く家を出たい。
-結婚は?
結婚は専門を卒業したらすぐにでもしたい(ただし、現在彼氏なし)。専業主婦志向。仕事をしていたら夫と生活が合わなくなるから。子供は2人欲しい。22、23歳で産みたい。

 どうだろうか? ここではインタビューの内容ではなく、インタビューの記述形式、すなわち三浦展の意図に注目したい。
 三浦展が『下流社会』で行っている主張は、「金銭的意欲を発揮することこそ必要だ」というものである。そしてそれはこの類型において、上昇志向-現状志向のベクトルに表される。つまり「上昇志向をもつ女性ほどいい」と三浦展は言っているのである。具体的には「お嫁系」「ミリオネーゼ系」が三浦展のおめがねにかなう女性である。
 それを理解した上、引用部分を読み返すと、そのあまりにも恣意的な記述形式の違いが嫌でも見えてくる。

 まず、お嬢系とミリオネーゼ系は、さも一人で自分の現状をすらすらと話しているかのような記述形式になっている。一方で、かまやつ系とギャル系は、1問ごとにインタビュアーが登場し、さも、たどたどしく答えている印象を与える。
 しかし、自分から給料やライフスタイルをぺらぺらしゃべって、しかも会話が途切れないような人間がいるだろうか? もし、本当にこのようにしゃべっているとしたら、お嫁系やミリオネーゼ系って人種は、よっぽど口が軽いのではないだろうか?
 当然、これらの会話はすべて三浦展によって編集されたものだ。実際にはすべてかまやつ系やギャル系のような、インタビュアーが質問し、それに対して返答する形で行われたのであろう。マスコミ慣れした業界人に、大いにビジョンを語ってもらうようなインタビューならまだしも、一般人に対するインタビューでここまでぺらぺらしゃべってくれる人はいないだろう。ましてや個人のプライバシーに関することなど普通はしゃべらない。
 ところが、三浦展の主張に添うお嫁系、ミリオネーゼ系は、さも明確なライフスタイルの志向性を持ち、それを自ら完全に理解しているように記述される。
 片や、三浦展が嫌うかまやつ系、ギャル系は、人に聞かれないと自分のライフスタイルも答えられないような、非常に未熟な人種のように記述される。ギャル系に至ってはカギカッコすら付けてもらえない。
 別に、後者も前者のように書こうと思えば書けないわけではなく、その逆だってできないなどということはない。実際、男性の類型であるSPA!系とフリーター系(それぞれ女性のかまやつ系とギャル系に対置できる)に対するインタビューでは、前者のような形式で記述されている。
 結局、三浦展は自ら「このような記述形式を選んだ」のである。
 その理由は明らか。読者に対して前者に自立して明確な意思を内包しているかのような好意的なイメージを持ってもらい、後者に未成熟で意思を持たないという否定的イメージを持ってもらうためだ。
 この『下流社会』において、三浦展はこうした「印象操作」を数限りなく行っている。

■「普通のOL系」は本当に普通なのか?
 三浦展は、このような4つの類型の他に「普通のOL系」という類型を設定している。普通のOL系について、三浦展はこう説明している。

 専業主婦志向ではあるが、裕福な男性の争奪戦に破れて(あるいは早々に戦線離脱して)今は未婚であり、だからといってミリオネーゼのように仕事に生き甲斐を見いだす意欲も能力も不足している。もちろんギャルになるにはそこそこ知性も学歴も高く、美容師やアーチストになるほどの美的センスや自己表現欲求はない。
 だが、多少手に職系やサブカルチャー系の職業には関心があるので、自由な時間を増やすために派遣社員になり、「ケイコとマナブ」を読んでフラワー教室やらアロマテラピー教室やらゴスペル教室やらに通っては自分さがしと癒しとプチ自己表現に明け暮れている。しかし、とてもそれを仕事にするところまではいかず、ふと我に返って、簿記などの資格でも取ろうかなどと思ったりするが、しかしそんな資格を取ったら、ますます結婚が遠のくかしらとも思っている。
 まあ、こんな感じの女性も多い。というか、実はこういう女性がもっとも多数派であろう。そこでこういう女性を一応「普通のOL系」と呼んでおこう。

 これが三浦展の「普通のOL系」に対する記述のすべてである。インタビューもない。
「こういう女性を一応「普通のOL系」と呼んでおこう」という記述から、これがその他の4類型のオマケでしかないことは明白である。
 しかし、「こういう女性がもっとも多数派であろう」というなら、その多数派を視野に入れない類型化などに、はたしてどんな意味があるというのだろうか?
 また、このオマケの分類についても三浦展は極めて恣意的な分析をしている。
 「自由な時間を増やすために派遣社員になり」などというが、専業主婦になることまで視野に入れている普通のOL系は、わざわざ派遣社員なんてやりたくないのではないか? 派遣社員という不安定な立場に立つのはもっぱら、手に職をのかまやつ系か、不況時の異様に厳しい就職戦線に破れ、正社員になれなかった層ではないのか? また「サブカルチャー系の職業」というのも、イマイチ意味が分からない。ただ単語の語感だけではないのか?

 また、いわゆるこのレベルの「普通」な女性は、みんなOLなのだろうか?
 地方の短大ぐらいを出て、就職はせずに、実家で暮している女性は、以上の5分類のどこにあてはめるべきだろうか? と考えると、そうした女性にあてはまる分類が全く見つからないのである。決して私が極端な人物像を描いているのではなく、このような女性はまったく「普通」の女性であることは、同意してもらえると思う。
 お嫁系にあてはめられるか? とも思うのではあるが、実家で暮すような女性は男性に対してそれほどまでに裕福さを望んでいない。仮に望んでいるとすれば都市部に出てくるはずだし、出会いのために一流企業に就職することを目指すのではないか。
 だからといって、当然ギャル系にもあてはまらない。三浦展はギャル系を「学歴は高卒、あるいは高校中退ないし専門学校卒が主」と分類している。
 かといって、当然仕事をしてなければ、ミリオネーゼやかまやつ系、そして普通のOL系のはずもない。
 そう、三浦展は「地方の短大を卒業し、実家で地元の男性との結婚を考える」という「家事手伝い系」という分類をしていないのである。

 家事手伝い系は、いわゆる男女共同参画が叫ばれる前までの「普通」の女性像であった。
 この類型の後に「女性も自己責任の時代」の項目で三浦展が書くように、男女共同参画が進むにつれて、個人として扱われる女性が「学歴、性格、容姿などのすべての要素に評価され、選別され、差別される時代になった」
 しかし、決して女性を取り巻く環境がすべてそのように変化したわけではなく、今だに「女性は仕事などしなくてもいい」とする意識は強いし、女性自身もそのような環境を上手に利用している感がある。むしろ三浦展のような認識は、都市部でしか通用しない感が強い。
 そう考えた時に、三浦展は類型にはっきりと「家事手伝い系」を定義するべきであった。しかし、三浦展は家事手伝い系の存在に気づいていたとしても、決して定義することはなかったであろう。
 なぜなら、家事手伝い系は間違いなくギャル系の分類に重なるものであり、そうなれば三浦展がこの本の「読者層」として定義している中高年層から批判を受ける可能性が非常に高いからだ。
 家事手伝い系を良いイメージで見るのは、もっぱら中高年層であり、彼らのイメージと、この本に書かれるイメージが離反してしまえば、三浦展は批判に晒されることになる。
 マーケティング屋の目的は、ターゲット層に合わせて商品を売ることである。ここで「家事手伝い系は下流だ!!」と正しいことを指摘してしまえば、ターゲット層には総スカンを食らう。そのためには「自らにとって不利益になることを書かない」ことが、マーケッターとしての正義である。
 この本がどういうスタンスを取っているかといえば、「最近は若者の間で、経済格差が開いてきている。それは若者自身による意欲の有無の問題である!」というものである。そのためには、本来の社会的問題である就職機会の不平等や、世代間の圧倒的な格差、不況問題などは決して触れてはならないタブーとなる。この本の読者である中高年は、「必死に努力した結果、経済的成功を自ら勝ち取った」ということにしなければならず、まさか「たまたま好況だったから、終身雇用で現状維持の下流志向でも、たくさんお給料をもらえた」などとおくびにも出してはならない。
 そして当然、ターゲット世代の常識である「女性は家事手伝いで、専業主婦」という下流志向を批判してはならないのである。

 三浦展はあくまでも「マーケティング・アナリスト」でる。そのことをゆめゆめ忘れてはならない。
 彼らにとって、社会やデータは現状を把握するためではなく、自らの利益のために利用するために存在する。
 そして、それこそ三浦展自身が「上流志向」であることの証明なのである。

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2006年01月09日
 ■ 第2章 階層化における消費者の分裂 (その1)

第2章 階層化における消費者の分裂 (その1)

 まず、内容に入る前に章建てのタイトルから考えてみたい。
 「階層化における消費者の分裂」。ここで三浦展が論じたいと考えているのは「消費」であり、決して職業に対する姿勢ではないことに注意したい。

 『下流社会』における三浦展文章は、当人が自分の書いている内容を分かっていないのか、もしくはワザとはぐらかせてこんな書き方をしているのかは知らないが、極めて不誠実な記述に満ちている。
 私が手にしている本は10刷で、帯書きに重松清がこんな文章を寄せている。
「意欲を失いがちな現代人への警告の書である-作家 重松清」
 だが、この本で語られる「意欲」とは、ただひたすらに「金銭欲」「消費欲」のことであって、決して職業に真摯に取り組むような「勤労意欲」は問題にしていない。(むしろ『下流社会』においては、勤労意欲(使命感、倫理観、職業的充実感)に引っぱられて金銭欲を失うことこそ、非難の対象だ)
 だが、世間の『下流社会』を好意的に見ている書評をみると、この点を全く理解せずに、「一生懸命働かない若者」などという差別的なニート論を下敷きにした、安直な若者批判に直結しているケースが多いようだ。そして、三浦展自身、そうした誤解を取り除く作業はしていない。
 「はじめに」でも書いたが、三浦展の論理展開を整理した時に見えてくる「上流」というのは、一貫して「金銭的意欲」のことであり、決して勤労意欲を指すものではない。
 真面目に働く年収500万で平々凡々と暮そうとするサラリーマンより、パソコンの前に座って1,000万を稼ぎ、「来年は2,000万」と考えるデイトレーダーの方が、この本においては「上流」なのだ。
『下流社会』を読む時に、この原則は絶対に忘れてはならない。

 この章の内容に入る。
 さすがに「消費者の分裂」と言うだけあって、消費の主体たる女性中心に話が進められている。あとに男性の分類もあるが、極めて雑なものだしオマケといってもさしつかえないだろう。もっとも本題たる女性の分類も雑なのだが。
 三浦展は「上昇志向(上流)-現状志向(下流)」「職業志向-専業主婦志向」のラインをつくり、4つの分類にそれぞれ「お嫁系」「ミリオネーゼ系」「ギャル系」「かまやつ系」とあてはめる。
 図には、ミリオネーゼがやや小さく、ギャル系が多少上昇志向側に寄ったりしているが、けっしてそれに意味があるとは思えない。あくまでもそれらしく見せるための手法だろう。
 ちなみに「かまやつ女」というのは、「かまやつひろしのような容貌」という意味でかまやつなのだが、若い人にはイメージが湧きやすいとは言えない用語法を見ると、三浦展がどんな人たちに向けて本を書いているのかがよく分かる。
 それと、図の中で「最近の若い女性の中で増加しているファッションの累計」なのだと三浦展はいうが、イメージ的にはファッションだけなら「ジョンとヨーコ」の時代の女性がイメージされるので、決して最近というわけではないように思える。
 そして、この4分類と別に「普通のOL」という分類を作って中央に配置している。これに関して三浦展は「こういう女性を一応「普通のOL系」と呼んでおこう」と、いい加減な態度で〆てしまっている。
 だが、OL系を「普通」だというなら、普通であるという論拠があってしかるべきだろうに、そうした誠実な態度は三浦展にはない。そしてこの「普通」という言葉が、この図の「重大な欠落」を覆い隠している。この点については後に触れることにしよう。

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2006年01月05日
 ■ 第1章 「中流化」から「下流化」へ(未完成品)

第1章 「中流化」から「下流化」へ(未完成品)

 この章で三浦展は、下流が増えることによって、社会の全体的な収入が減ることを説明している。そして、その数値的説明だけなら、この章で私が取り上げるべきことはなにもない。
 だが、決してこの章は数値を解説するだけの存在ではない。この本を読むにあたって、もっとも危険なのは表層的な数値に騙されることだ。三浦展の真の意図(本人が意識しているかどうかは知らない)は数値ではなく、その数値を取り上げている事例の方にある。この本を批判するためには、本来ならAとかBという変数として用意されるべき箇所に書かれている単語に注目する必要がある。

 ここで三浦展が例としてあげているのは、「スーツ」である。
 そして、30ページにはこのような文章がある。

 国民の多くが、中流を目指すため、中流であることを確認するためには消費をしなくなる。あるいは、中流であることを象徴するようなものが売れなくなる。いや、すでに売れなくなっている。

 とんでもなく大仰な文章ではあるが、この言葉がこの章においての三浦展の意図を存分に語ってくれている。つまり、「スーツ」こそが、「中流を象徴するもの」なのである。
 三浦展は、スーツというものを用いて、下流化によってその販売額が目減りすることを指摘するが、その実は数値ではなくて、「スーツが売れなくなっているという問題」そのことこそが、三浦展がもっとも強調したいことなのである。

 かつて、バブルの時代、いや、サラリーマン層が飛躍的に拡大していた時代においては「スーツがビジネスマンの価値を決める」と思われていた時代があった。
 みなさんも社会人になる前に「初任給で、最高のスーツを買いなさい。そうすればそのスーツに似合うだけのライフスタイルが自然と身についてくる」などという話を聞かされた覚えがあるのではないだろうか。
 実際、かつてのオーダーメイドスーツの値段というのは、大卒の初任給とほぼ同額という基本路線があった。また、三浦展が就職をし、初任給を得たであろう1980年前後の大卒の初任給は、ほぼ10万円強(仙台市男女共同参画推進センターによる一覧 PDF資料)であった。
 この本に示されている「上物のスーツ 10万円」というのは、そういう数値なのだ。
 結局、この章の主題は、「初任給で10万円のスーツを買うようなライフスタイルが「中流」を維持した」という、三浦展世代の自画自賛に過ぎない。

 その一方で、三浦展は第6章で「下流」のライフスタイルをこう定義している。

・パソコン(Personal Computer)
・ページャー(Pager) =携帯電話
・プレイステーション(Play Station)=テレビゲーム
以上3つが団塊ジュニアの特に「下」における三種の神器であろう。

 先にあげた引用を用いれば、これらのものは「下流であることを象徴するようなもの」となる。
 だが、これらの品物がスーツと何か違うとでも言うのだろうか?
 スーツが三浦展世代のステイタスだったというなら、この三種の神器でステイタスといえるのは、携帯電話だろう。
「高級なスーツを買うこと」と、「携帯電話を買うこと」の間に、根本的な何か違いがあるのだろうか?
 携帯電話を買い、利用を持続する原因は「もっているのが当たり前だから」だろう。
 携帯の契約数はすでに9,000万件に近づき、PHSまで含めれば、契約件数を日本の人口で割った全国普及率は、70%を超える。この数値は赤ちゃんから老人までの数値であるから、『下流社会』で槍玉に上げられる若者に限れば、その普及率は90%を超えることは間違いない。
 ならば携帯電話を持つ、もっとも重要な理由は「普通であること」であろう。
「みんなが持っているから、自分も買う」。これはまさに三浦展の言う「中流を目指すため、中流であることを確認するための消費」そのものではないだろうか?

 三浦展の言う「中流を確認するためのスーツ」と「下流の神器である携帯電話」は同じものである。
 ただ、唯一違うのが、スーツをみんなが買う状況が、経済的に中層であった若者の中にあり、携帯電話をみんなが買う状況が、経済的に下層である若者の中にあったという部分である。
 つまり、「上物のスーツを買うから中流、携帯を買うから下流」なのではなく、「かつての一億総中層の時代に、上物のスーツを買う文化があり、現在の階層化社会の時代に、携帯電話を買う文化がある」のである。

 ライフスタイルが経済性を生み出すような三浦展の論理は、主客が完全に逆転している。

 そして、さも簡単に我々が経済をコントロールできるかのような幻想を
 我々の意識で経済環境をコントロールできるかのような幻想をふりまいている。

 こうした「主客逆転」こそが、『下流社会』を貫くインチキの正体である。

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2005年12月30日
 ■ バブル野郎殺すにゃ刃物は要らぬ 『下流社会』をぶっつぶせばよい その1

バブル野郎殺すにゃ刃物は要らぬ 『下流社会』をぶっつぶせばよい その1

 年末年始スペシャルとして、気づいたら50万部も売れてしまったらしい(仮に印税を10%とすれば、78円×50万か……)『下流社会』の批判を何回かにわたってやりたい思います。

 まず最初に書いておくと、この本の批判はあまりにも簡単です。この本に頻出する「数値」のデタラメを暴けばいいだけです。しかも面倒な計算も必要ありません。すごい表層的なところにあまりにも杜撰なモノが書き連ねてあります。
 けれども、本当の問題はこの本が50万部も売れてしまって、しかもこの本を評価している人がかなりいるということです。
 そういう人たちは、まともに図表を読むだけの数的リテラシーがないのと同時に、そうした事を無視してでも、若い人を罵倒して、自分たちがさも「努力の人」であったかのように自慢したいと考えているのでしょう。本当は単に好景気の時代に生まれただけのくせに。
 今回の文章は、『下流社会』を批判しつつ、下流社会を誉めるスタンスをもつ連中に対しても非難を加えるものにしたい。そう考えています。
 あと、文章の形式は、各章ごとに批判していくという形式です。

 前書きはこんなもので十分でしょうか? では、ここからはじまりはじまりー。


・はじめに



 三浦展(みうらあつし)は、この本で論じる対象を「下層」ではなく「下流」だと論じている。

 三浦展の論によれば、下層とは「働いても働いても豊かになれない貧乏人」、下流とは「中流であることに対する意欲のない人」なのだという。

 その上で三浦展は世代論を持ち出し、「団塊ジュニア世代は、著しい貧富の差を見たことの無いまま、それを当たり前として下層に落ちるとも考えることなく育った。しかし、社会全体の上昇が終わり、意欲のある者だけが上昇し、それがないものが下降して行く」として、団塊ジュニア世代の「意欲」を問題としている。これがこの『下流社会』全体を貫ぬく、大まかな論点である。



 だが、それは単純に世代論として適応させられる性質のものだろうか?

 三浦展も認識しているように、バブル期、すなわち「かつて」においては、中流であることに対する意欲がなくとも、市場経済の上昇気流によって、日本人は自然と中流であることができた。

 だが、現在は市場経済が停滞し、中流である意欲を持たなければ、中流であることができなくなった。

 ならば、それは日本全体の問題であって、決して世代論的に団塊ジュニアがだらしないなどと論じてよい問題ではないだろう。

 世代論ではなくて、日本人全体がバブルにより「上昇する意欲」を失い、経済が停滞している今現在も、その意欲を取り戻せずにいるという問題意識なら、わざわざ団塊ジュニアだけをことさら批判する必要はない。

 三浦展は「若者は著しい貧富の差を見たことがなく、下に落ちるという恐怖心がないから、「下流でいい」と考えるのだ」と、団塊ジュニアを批判する。

 だが、かつて1992年に『清貧の思想(著 中野孝次)』という本がブームになったときに、この本を支持したのは、著しい貧富の差を見たことがあるはずの年配の方々だった。バブル経済の崩壊が一般庶民にも明らかになり、経済成長を精神の支えとして錦の御旗に仕立て上げてきた日本人にとって、「清貧」というのは非常に受け入れやすいパラダイムシフトとして作用した。

 そしてこの清貧の思想はまさしく「下流」の思想である。「カネやモノに囲まれた暮らしではなく、貧しくとも精神的に充実した暮らしを送ろう」という思想が、三浦展の言う「下流」でなくてなんだというのだろう。



 単純に上昇意欲だけを問題に、それの欠如を「下流」というなら、現在、上層や中層の人たちすらも、上昇意欲がなければそれを下流と論じて構わないはずである。すなわち、既存の金銭的余裕を「層」、金銭的意識を「流」と定義し、この両者を別個の意味として扱えば、この問題定義はスッキリと明確なものになる。

 ところが三浦展は、決して「層と流の違い」に触れることなく、経済的に下層に近い状態にある団塊ジュニアだけを指して、下流と言う言葉をあてはめる。

 自ら「下流」という言葉を定義しておきながら、その実は「層」と「流」の区分は決して明確ではなく、逆に層と流の関係をごちゃまぜにしながら、「下層に近づいているのは、その人が下流であるから」という、根拠無き自己責任論を展開しているに過ぎない。そして、本の中で最後まで、中層が本当に中流志向であるか、上層が本当に上流志向であるかという点を証明することは無いのである。





 ところで、「はじめに」の最後に「調査の概要」という項目があって、その中に必ず「調査企画プロデュース・総合分析:カルチャースタディーズ研究所」という名前が出てくることに気づいただろうか? 本全体をめくって行くと、ほとんどのグラフや図表に、この名前が書かれている。

 実はこの研究所、三浦展が主宰する個人研究所なのである。

 つまり、決して客観的意図による調査結果が既にあって、その結果を三浦展が分析しているのではなく、この問題点を論じるために、三浦展自らがこれらの調査を企画し、発注しているのである。

 もちろん、筆者自ら調査資料を作成するという行為自体になにか問題があるわけではないし、資料そのものが捏造だ! などと主張するつもりもない。

 だが、少なくともこれらの資料は、三浦展の都合によって集められた資料であることは、しっかりと認識しておく必要がある。特にこの本においては、グラフや図表に多くの罠が仕掛けられているのだから。

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