2006年09月15日
 ■ 格差社会を容認する類の弱者が望むもの

この記事についての注意。
 この文章は2006年9月15日に書かれたものであり、いまの私は、この文章のママの考えかたをしていません。
 また、私の男女問題の認識につきましては『若者を見殺しにする国』(双風舎)の中に記していますので、必ずそちらを一読していただけるよう、よろしくお願いいたします。

 Blog記事というのは、あくまでも著者の考えかたの断片を記しているに過ぎず、その言説を行うためのさまざまな仮定された条件を読み解いて、始めて著者の考え方が読み解ける物であると考えています。
 この記事は、私が論壇デビューする前のものであり、さまざまな考え方や書きかたの実験を含んでいます。
 特に「過去の記事」というのは「その時点で考えていたこと」に過ぎません。一度でも過去になにか書いたら、一生、その発言について責任を取れという考え方を私は好みません。

 本当なら、過去の文章に手を入れるのは好きではないのですが、Wikipediaによって、過去の一記事のみによって、さも私が女性差別をしているかのように吹聴されているという被害がありますので、このような形で特別に記載させていただきます。 (2009年6月11日 追記)


「ニュースの現場で考えること」「格差社会は悪くない。悪いのは、あなただ!」というエントリーを読んで、大変納得してしまいました。
 「弱者はもう格差社会を容認しているのだ」と。そして、その容認はこれまでの「不公平な平等策」にあるのだと。

 我々弱者が最も憎むのは「不公平さ」です。
 弱者は「世の中が不公平だから、我々は弱者なのだ」と感じています。
 そして、その不公平がどこから来るのかといえば、政府の不公平な弱者救済策であると感じています。
 「我々がこれだけ苦しんでいるのに、我々の手には援助がまったく得られない。にもかかわらず、我々以外には援助を得ている人間がいる」と思っているわけです。
 ですから、我々が憎むものは「不公平な弱者救済を掲げる人間」と「不公平な弱者救済を受ける人間」です。
 「不平等な弱者救済を掲げる人間」とは、社民党や共産党といった左翼です。
 「不公平な弱者救済を受ける人間」とは、エントリー先に書かれているような、公務員や農業従事者、さらには職業で言えば、箱物行政で利権を得る土方。そして私の意識で言えば、もはや差別などほとんど無きに等しいのに今だに非差別者としての特権のみを得ている、女性や在日や部落。こうした人たちです。
 彼らが優先的に救済される社会においては、我々のような「新しい弱者」は弱者として認識されません。
 そのような不公平が我々にのしかかるからこそ、我々は右翼や小泉を支持してしまうのです。
 弱者にとって「不公平の是正」は「格差問題」よりもはるかに重要なことなのです。

 で。
 ここで終ってまた一ヶ月前のような話のくり返しになっても困りますので、話をここから展開させます。

 で、このような状況において、右傾した若者弱者と、左は対立しています。
 しかし、その対立は直線的に相反する、真っ当なベクトルを持ったものではありません。
 若者たちは左の言いたてる「不公平な弱者救済」に対して、不信不満を持っています。
 一方で左側は、政府のネオコン的政策に対する批判、すなわち「格差問題」に対する提言をくり返しています。
 図にするとこんな感じです。

ネットウヨクは左翼を批難し、左翼は政府を批判するから、批判が噛み合っていない

 ネットウヨクの非難が左翼に向いているのに対し、左翼はあくまでも政府批判の立場であり、非難に対してまったく対峙していません。ハッキリいえばネットウヨクを無視・嘲笑している。そのくせ、ネットウヨク以外の若者に対しては、味方をしているつもりになっています。
 そうして、左翼が若者を無視している間に、自民党はB層取り込み策を弄して若者をオルグしています。

 どうしてこのような状況になっているのか。
 それは左翼のいう「格差社会」が、あくまでも「お金持ち−庶民」という構図でしかなく、貧困層と化している若者弱者の問題にまったくと踏み込んでいないからです。
 貧困層である若者弱者にとって、左翼のいう庶民は「裕福層」の側に入るのですから、若者弱者から見れば左翼がやっていることは「強者同志の利権の奪い合い」にしか見えないのです。
 悪いのは明らかに左翼です。ボタンの掛け違えは両者の責任ではありますが、そうした掛け違えを是正し、明確な意見の対立をもって相互理解に勤める責任は、強者たる左翼側にあります。ましてや、自民党に若者がオルグされているのであれば、それを妨害するためにも、左翼が若者弱者と真摯に向き合うことは絶対に必要なのです。
 左翼勢力が若者弱者と真摯に対峙しさえすれば、若者だってバカではないのですから、真摯に向き合ってくれる左翼と、傲慢に上から取り込む自民勢力であれば、当然前者を選んでくれるはずです。
 しかし、左翼はいつまでたってもそれをしない、いつまで経っても自分たちは庶民の側に立っていて、弱者のために頑張っているのだと信じている。そうした傲慢な姿勢に、若者だけではなく、強者である庶民までもが左翼を捨て始めている。それが前回のタイゾーあたりのワケのわからない議員が当選した衆院選あたりから、現在に至るまでの現状でしょう。

 若者弱者は「不公平」を嫌悪しています。
 だから、不公平をどうにかしないといけません。
 しかし、「不公平」の反対は「公平」ではありません。
 若者弱者の考える「公平な社会」とは「自分が優遇される社会」です。
 それは実は不公平な社会なのです。だから若者弱者は民族や老人、女性に対する差別を行なって「公平な社会」を実現しようとします。
 左翼は「それはおかしい」と言います。
 しかし、若者弱者が今まで舐め続けさせられてきた辛酸と、自称弱者である庶民たちが味わってきた蜜の差を考えれば、それは当たり前のことなのです。
 公平な社会とは、今現在すべてがフラットな社会の事ではありません。
 人生のトータルとして公平が保たれる社会です。
 いままで甘い汁を吸ってきた、団塊世代や、男性と対等にしろと叫びつつ、その実は男性の加護を受けて有利に生きてきた女性たちが貧困にあえいで、今まで辛酸を舐めさせられ続けてきた若者弱者が裕福になる社会が、若者弱者が夢見る公平な社会なのです。
 機会の平等が達成されなかった失敗は、結果の平等で償うしかないのです。「フリーターがフリーターのままで幸せになる社会」ではなく、「フリーターが正社員になり、正社員がフリーターになる社会」こそが、結果平等で機会平等の失敗を償わなければならない社会が至るべき正当な姿です。
 そして、若者弱者たちがそのような精神状態に至った責任も、不況になって以降、なんら若者に対する救いの手を差し伸べなかった左翼にあるのです。
 いわば弱者若者の左へのバックラッシュは、問題を解決を先送りしてきた、左翼に対する高額な利子と言えましょう。

 問題が分かったら、四の五の言わずにとっとと解決しろよ。クソ左翼め。

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2006年08月29日
 ■ 主観か客観か?

掲示板へのレスです。

Re:1528 フェミニストさん

わたしは正直、「弱者《男性》」というカテゴリーを前面に押し出すことにはあまり賛成できません。
今のところあくまで「弱者《男女》」、つまり「プレカリアート」の叫びと読み替えて「限りない共感」を示していますが、それでは不十分ですか?

 私の目指すところは、あなたの共感ではなく、現実的に弱者男性が弱者でなくなることです。
 十分不十分ではなく、話が違います。

そして、おっしゃるフェミニズムへの呪詛は、どこまでが「彼ら」のもので、どこまでが「あなた自身」のものですか?
この問いへのお答えがどうであろうと、「プレカリアートへの共感」は変わりませんが、「赤木さん個人≒物書きとしての赤木さんへの評価」は変わります。

 「私のモノ=主観」と「彼らのモノ=客観」という単純な図式は説得力があるように見えますが、その実は所詮は言葉の定義上だけのむりやりな二元論化に過ぎません。
 森達也さんがドキュメンタリーや報道、ジャーナリズムなどについて事あるごとに「公平中立不偏不党などありえない」という話をするのは、確かに取材側が「ある主体」でしかありえないのだから、ある主体が主観的に描き出した客観は、しょせん「主観的な」客観性(主体的に構築された客観性を、カタカナで「キャッカン」とでも呼びましょうか)でしかない。という意味でもあるでしょう。
 しかしそれと同時に、そうした事を報じる側、作り手に対して、「客観性を正義とした視点は張り子の虎にしかならない」というメッセージを送っていると、私は受け取っています。

 私が「男性弱者を救済しない左傾論壇」を避難するのも、「かつての問題」「問題として認識されているもの」「既にある論文」「ニュース記事」といった、キャッカン的なものを積み重ねて論拠とするが故に、目前に起きている新規の問題に対してまったく目を向けることのできない現状があるからです。そうした論壇においては、結局のところ既に問題と認識されている「色つきの弱者(女性、部落、在日)」しか救われないということになってしまう。
 そして、そうした左傾論壇の態度を目の前にして、われわれのような男性弱者は「彼らはああいう弱者マジョリティーのためだけに活動して、同時に我々を貶めている」と認識するしかないのです。

 ですから、私はそもそもの問題提起は極めて「主観的に」行ないました。
 しかしそれらは私自身が「極力、他の弱者がどう考えているかを取り入れていこう」と考えて、いろいろ苦しんだ後の「主観」ですから、主観自体に「彼ら」の呪詛が多数含まれています。自ら朱に染まって赤くなっているということです。
 結局、どこからどこまでが自分で、どこからどこまでが「彼ら」なのかなど分かりません。ただ分かっていることは、客観性を論拠の中心に据えるキャッカン的な態度では、決して弱者男性の問題を語り始めることは不可能だったということです。

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2006年08月28日
 ■ 私がすべきこと 論壇がすべきこと

話を進めるための掲示板へのレス
 無駄に炎上してしまっているので、今回は1点だけ。
 あと、今週中に「『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その3)」を出します。

[1505] そのうえで赤木さんへ 投稿者:フェミニスト 投稿日:2006/08/28(Mon) 05:51

わたしはあなたを擁護しているように見えるでしょうが、厳密には、あなた「個人」を擁護しているわけではありません。
あなたの提示した問題がただ否定され嘲笑される情景に、かつてのフェミニスト先駆者たちの異議申し立てが
「モテない女のひがみ」「ただのわがままだ」と矮小化され個人化され無視されたのと似たものを見たからです。
類または構造としての「弱者男性」問題の「コア」を見逃すことは避けたかった。
ましてフェミニストがそれを潰すようなことはあってはならないと思う。

一方で、皆さんがあなたに対して批判的なのは、あなたの提示する類的または構造的問題の向こう側に
あなた「個人」の存在が見え隠れするからだろうとも思います。
わたしは、あなたの類的または構造的な問題提起を肯定するけど、それをあなた「個人」に全面適用することには懐疑的です。
だって、あなた「個人」がそれほど絶望的な状況にあるとは思えないもん。
(もちろん本当のところはもっと情報がないとわかんないけどね)

ここから先は「物書きとして」という話になるけど、あなた自身、ネタとベタの区別が十分にできてないんじゃないかな。
だから徒に議論を混乱させるという部分もあるだろうと思います。
また、物を書いて世に問う以上、「当事者だから」で何もかも免罪されるわけでなく、書かれた事柄に即して叩かれも潰されもします。
ちょっとマキャベリスティックな話になっちゃうけど、言説の政治学という面ではまだまだだなーとは言っておきます。

 まず、フェミニズム一般への反発、というかバックラッシュの本質は、決して八木秀次という「ラスボス」が若者を焚き付けて、バカな若者がそれに騙されているというものではありません。
 男性が男性であるがゆえに救済を拒否され、驚異的なまでに変質した日本社会のひずみに押しつぶされている若者たちが、唯一アクセスできる「公」であるネットを通して、「自分たちを抑圧するもの」に対して呪詛の声を挙げている現象こそがバックラッシュなのです。
 そういう意味で、そうしたかつての女性差別に対する呪詛の声が、学問や社会運動という「まとまり」として展開されたのがフェミニズムの本質でしょうから、かつてのフェミニズムと、私の持つ弱者男性の問題が非常に「近い」ものであることは、同意します。
 また、その近さ故にフェミニズムが男性弱者にとっての標的になっていると考えます。

 しかし、かつてのフェミニズムがその「男性と女性」という生得的で分かりやすい特性であったが故に「差別しやすく反発しやすい(女性が女性として生まれたのは、自己責任ではない事は明白)」ものであったのに対し、男性弱者は自己責任論と巧妙に搦め取られているために「差別しやすいが反発しにくい(フリーターやニートがそうであるのは自己責任ではない事は明白とは言えない)」性質を持っています。
 故にその反発は自ずと「個人的なもの」にならざるを得ず、男女差別のような社会構造的な問題として提起しにくいのです。

 しかし、どうにせよ「個人的な反発」なしに、こうした問題が社会的にまとまることはあり得ませんし、私が現段階ですべきことは、「とにかく大声を出して、個人的な反発があることを明示する」ことであると考えました。
 本来なら私のような人間がブログで挙げた声を、若者に近しい論壇が、その学問的素養をもって十分な説得力をもってまとめあげ、我々の社会に対して増幅し発信するべきなのです。ですから、「フリーター・ブロガー」と「宮台・文化サヨク(私の言う「左傾論壇」の若者社会により近しい側)」(この分類は分かりやすいと思うので、つかわせていただきます>Oさんへ)の間にパイプが出来ることこそが重要なのです。

 しかし、現実には掲示板にいる「論壇に片足を突っ込んだ方」みたいな、その知識をもって、不勉強なフリーター・ブロガーを論破して楽しむという、社会的問題ではなく自分の快楽にのみ忠実な「論壇モドキ」が論壇に多いのです。
 以前この掲示板で、「ある教授だか助教授だかの人が、少年犯罪データベースを紹介していた」というコメントを書いたら、管理人に微妙な反応を返された。という書き込みがありました。
 これを私はその教授だか助教授だかの人が、素人である少年犯罪データベース管理人が一生懸命まとめあげたデータを、ただ一方的に利用し、何もデータベース側に返していないことに対する管理人の反発ではないかと考えました。
 この管理人さんは以前から「私は統計が得意ではないので、誰かしっかりとした統計データを提供してほしい」と書いていますが、そうした訴えに対して、統計が出来るであろう教授先生がまったく反応せずに、ただ「こんな便利なデータがある」とタダ乗りしてしまう。
 Webの発展は我々のような弱者にも表現の場を提供したけれども、現状では弱者がWeb上でまいた種を、紙媒体をもっているような強者がタダで採取してしまっている現状があります。

 あなたのおっしゃる「言説の政治学」という言葉がどのような事を差しているのかは分かりませんが、私はこんな方向性を考えています。
 それが「まだまだ」だというなら、それこそ「まだまだではない人たち」が私の「大声」を「社会の声」に変換していくべきなのであって、「お前が1から10まで全部やれ」と言われても、困ってしまいます。それでは「(広義の)社会学」の存在意義は無いに等しいでしょう。

<ビラ配布>「住居侵入」否定し無罪 東京地裁
 まぁ、無罪なのは当たり前として、むしろ「警察用語を駆使して通報した“自称”住人」の話はどうなったのかと。

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2006年08月25日
 ■ 話を進めていこう

永らく掲示板を放置プレイしておりましたが、それにレスをつけながら、少々話を進展させて行きたいと思います。
 ただし、話の進展を前提にしますので、特にそれに関わりがないと私が判断したレスについては、申し訳ありませんが、触れないということで。

Re:1390 IGさん

ドイツでネオナチが台頭して来たのも経済の悪化による若者の就職難が
そもそもの原因と言われてますし、なんでこの前例を生かさなかったんでしょうね

 いわゆる「極右の台頭」というのは、大抵は「わが身に対する不安感」から来るものですから、当然それを阻止するために「不安を抱かせない社会」を構築すののが、左傾論壇の本来の仕事です。
 しかし、昨今の左傾論壇はそこを勘違いし、危機的な状況までもを「それは危機的では決してないのだ」として、論理の構築を忌避してしまっています。それこそ、弱者男性の危機的な状況を、さも「わがまま」のように取り扱ってしまう。
 そのような考え方は、弱者男性の左傾論壇に対する嫌悪感を強くさせ、ウヨクへ傾倒を増長してしまうでしょう。

Re:1392 kajiwaraさん

ただでさえ少ない強者女性の中で、さらにそのような意志を持った女性を見つけるというのは、もはや「宝くじに大当たりすれば弱者男性ではなくなります」というのと同じレベルのような気がします。

 そうです。私が言っていることは、まさに「宝くじが当たって初めて男性弱者は幸福になれる」ということです。
 では、強者女性が弱者男性と結婚するのが、宝くじ的確率なら、一方の「ワークシェアリング」とやらはどのくらいの確率でしょうか? ウヨや一般人はもちろん、サヨクですら若者に職を譲ろうとなどしない状態で、ワークシェアリングがなされる確率はどのくらいでしょうか?
 一方で、日本と北朝鮮、もしくは中国の間で、戦争が起きる確率はどのくらいでしょうか?
 艱難辛苦を味合わせ続けさせられる弱者男性が、多くの人々が徴兵される中で「階級」という新しい階層を得て、少なくとも「他の人と同じ階層(例え二等兵であっても)」に復帰できる確率はどのくらいでしょうか?
 戦後民主主義の大物、丸山眞男は、陸軍は海軍に比べ「擬似デモクラティック」だったと言っています。それはもともとの職業や地位を一切無視し、兵士としての階級のみが順序を決めるという意味です。
 そうした中で大学出の丸山二等兵は、中学にも進んでいない一等兵に執拗にイジメ抜かれたんだそうです。[苅部直2006 『丸山眞男 −リベラリストの肖像』]
 丸山寄りの視点に立てば「かわいそうだ」ということになりますが、一方で丸山のような知識エリートに囲まれた幸せな環境などを持たなかったであろう「中学にも進んでいない一等兵」の視点で見れば、戦争こそが知的エリートである丸山よりも高い身分を、彼のために保障したのです。

 私は、ワークシェアリングが施行されるのは「天文学的確率」だと考えますし、北朝鮮との間で戦争が起る確率は「宝くじの高額当選」だと考えています。
 そして、強者女性と弱者男性のカップリングが「宝くじの高額当選」なら、戦争を起すのと同程度の確率で、弱者男性が「右傾せずに」幸せになることができるのです。
 左傾論壇が天文学的な確率を、さも間近に実施できるような事を言い続けるならば、とうぜん弱者男性は右傾化していくでしょう。しかし、それよりも確率の高い方法論を同時に提供していくなら、少なくとも弱者男性は安易には右傾化しないのではないかと考えます。
 そしてもっとも重要なのは、弱者男性はそうした宝くじ的確率にしか希望を見いだせない立場だからこそ、弱者なのだということです。

Re:1397 harutoさん

「個人の意志により弱者を養う」というモデルを、結婚という制度を利用して考えるところに無理がある、そう思います。

 この点についても既に書きましたが、まさに「全部目が1のサイコロを用意するべき」なのです。
 無理があろうとなんだろうと、弱者の救済は行なわなければなりません。
 この問題では、日本の「左」と言われる人々の存在意義そのものが問われているのです。

Re:1402 ひよさん

また、ポストバブル世代であっても、能力のある人間は糧を得ています。

 その主張が、逆に「糧を得ている人間が、社会的に「能力がある」と判断されている」のではないという証拠、すなわちどっちともいえる相関関係ではなく、明確な因果関係であるという論拠を提出してください。
 また、逆に「一億総中流」の社会においては、その人たちが能力があったから、生活するだけの糧が得られて、総中流が達成されていたのでしょうか? その点についても論拠を提出してください。
 ちなみに、それが証明できれば、世界的な影響を与える論文になるでしょうね。大物社会経済学者の登場バンザイ!!

で、これはネタやアイロニー抜きで伺いたいのですが、
「0.1%でも」と書いていらっしゃいますが、これは全「弱者男性」に対する割合と考えて良いでしょうか。
その場合、その0.1%にご自分が含まれないとしても、「強者への結婚強制」という方策は十分に意義を果たしたと思われますか?
実際、ごく(ごくごくごく)一部の弱者男性は既にキャリア女性との縁を得て主夫生活を送っていますが、それでは不十分ですか?

 0.1%が達成されているなら、次は0.2%を目指すべきです。それが達成されれば次は0.3%です。別におかしくもなんともありません。

Re:1438 ZLSECさん

もし絶対弱者女性という人々がいて(各自どんな女性か想像してみてください)、
自分よりも強い立場の弱者・強者男性は自分と結婚して救済すべきだなんて言っていたら、
あなたはどう思いますかね?

 それは、わりと普通のことでしょう。
 お見合いなんかで、強者男性に対して弱者女性、すなわち「女性ニート=家事手伝い」(実際に「家事手伝い」はニートに分類されています)を紹介するというのは、普通のことです。
 一方で、女性強者にフリーター男性の見合いを勧めるなんてことはないでしょう。

 と、そういう意味で読んだのですが、「強い立場の弱者・強者男性」ってなんですか? 立場が弱いから弱者だといっているのに……?

某読書会のあとに、次の高速バスまで少々時間があいた(今思えば、王子に行けばよかったな)ので、八重洲地下のゲーセンでQMA3。
 大魔道士でカンスト1回状態。組ランクがあがらないと賢者になれない。とはいえ、ここ4回の成績は220ポイント超のAランク2回と180点レベルのBランクが2回。QMA3では「過去5回の平均が200点以上で、組ランクが上がる」と言われているので、ここで220点ぐらいとれば、確実に賢者になると思われ。
 そんな緊張感でプレイ。3回戦は4位でギリギリ通過であったが、この時点でここまでの合計が190点ほど。
 決勝は優勝こそ逃したものの、2位で合計250点ぐらい。リザルト画面になって、合計点発表と共に画面が暗くなって「ペガサス組になりました」賢者キターーーーー。
 結局、今まですべて通して、カンストは大魔道士−賢者間での1回だけでした。おめでとうおめでとう。

 しかし、今思えば、お酒飲んでいた頭で、しかも夜9時台というゴールデンタイムによく決勝まで残れたなぁ。

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2006年08月19日
 ■ 弱者隔離への欲望

私は今までウヨ厨のいうような「日本の家族を崩壊させたがっているサヨク」の存在など、ふざけた妄想に過ぎないと思っていました。
 そしたらいましたね。本当に。

 「記憶と歩行」06/08/11のコメント欄より。

terutell 『その、赤木さんという方が、どうして、強者男性に、養ってくれ、といわないのか、わからないんです。別に、生活のために強者女性と結婚しなくても、生活のために、強者男性のなかから気の合いそうな人を選んで友情に基づいた共同生活を送ればいいんではないでしょうか? なんで女性に要求するの?』

serohan 『おはようございます。
terutellさんのコメントに、共感をしながら読んでいました。
>女の人が「男を慰めたり支えたり」することを生き甲斐にしているんではないかと、思っている男性は多いと思いますよ、
本当にそうだと思います。おそらく、赤木氏も無意識のうちに、そのような概念があるのかもしれません。

 うひゃあ!! 本当にいるよ、家族概念を崩壊させたがっているサヨクが。

 私が望んでいるのは、あくまでも「普通の一般人として、家族を持ち生活をしたい」ということです。
 これはきっとサヨク以外の普通の生活者には、容易に納得しうる考え方だと思います。
 それがなぜかそれに対して「強者男性との共同生活」やら「弱者男性同志のグループホーム」などという、意味のよくわからないあさっての方向の話を持ち出す人間がいる。たとえるなら、俺が「朝食にはご飯とみそ汁と納豆と漬け物を食べたい」と言ったら、それに対して「どうして蚕やザザ虫を食べたいと言わないのか分からない」などといわれるようなものです。実に意味不明。意味が分かる人がいたら、ぜひ解説お願いします。

 そんなこんなで意味不明な迷走はやがて、(06/08/12のコメント欄

下のterutellさんの適切なツッコミとこちらの記事を拝読して思ったのですが、赤木さんの助けて欲しいってのは、性的自尊心を満たして欲しい(性欲の充足だけではなく社会的にカノジョや嫁さんがいる男であると認識されること)、ということと経済面での将来的な展望、いわゆる自分の食い扶持という項目を、あえてごっちゃにして言ってますよね。

 などという、「アイツはセックスをしたいだけなのだ」というレッテル張りに収束してしまう。(カッコ書きで言い訳をしているけど、カッコ書きの中の事だけを言いたいなら、単純に「自尊心」でいいハズだ)
 ならば、日本の家庭は全部セックスで成り立っているのかと聞いてみたいですね。共生や愛情という概念は一体どこに消えてしまったのか。

 こうした心ない誹謗中傷を受けて考えるに、こうした人たちは弱者である我々を、一般の家族概念から追い出して、なにか別のモノに隔離してしまいたいという欲望を持っているのではないかと考えます。
 かつて日本にエタやヒニンがいた頃は、居住地によって彼らを隔離していましたが、土地が資産になってしまった現在においては、弱者の隔離のために土地を提供するなどということは出来ませんから、ライフスタイルを共生することによって、彼らを隔離し、同時に主体的に選び取ったライフスタイルであるのだから「自己責任だ」ということにしたいのでしょう。
 ワタリさんがそのような弱者に対するライフスタイルの強制を批判して「フリーターは漂流しているから悪いのか?」というエントリーを挙げていますが、こうしたことを含めて、ライフスタイルの多様化を良しとするはずのサヨクが、弱者を「ある」ライフスタイルに隔離するという考え方を積極的に支持しているのは極めて興味深い。彼らにとって、ライフスタイルの選択は強者のみが得られるべき勲章なのでしょうか?

 宮台先生が「フリーターがフリーターのままで幸せになれる社会」を標榜し、我々をフリーターという職種に押し込めようとするように、今後は産業界でも「弱者のため」と称しながら、我々を決して幸せになれないライフスタイルに押し込めようとする勢力が増加していくでしょう。というか、パソナなんかが既にそういうことをやってますね。
 そうした中で一方に(戦後)伝統的な家族社会は正社員層によって存続させられ、格差は確実に固定化していきます。

 そうした状況において、我々弱者ができることは、なるべく早いうちに伝統的な家族社会に入り込んでしまうことです。
 自立という「威勢」を重視するのではなく、そうした環境からさっさと逃げて家庭に入ることの方が、はるかに自分を守ることに繋がるのです。
 だから私はお嫁さんを募集していますし、私のような男性と結婚することは、現在仕事を持っている女性にとっても、伝統的な家族社会の側に入ることを明示できるために、この格差社会において自分のランクを高いほうに固定できる可能性が高いのです。家庭に入るために仕事を捨てなければならないなら、多少のオルタナティブ性をおいても、主夫を手元に置いておいたほうが仕事は安泰です。

 そういうわけで、私は弱者にレッテル張りをしたいサヨク層から、いくら誹謗中傷をうけたとしても、自分の尊厳を守るためにも、私を養ってくれるお嫁さんを募集し続けます。
 あなたは独身であることを責められたりすることはなくなりますし、私も幸せになれます。二人で幸せになりませんか?
 この件についてのご相談は、お気軽にメールをください。

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2006年08月10日
 ■ 『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その2)

私の『バックラッシュ!』批判に対して、古くからの読者は「今までやってきたことと、まったく違う。彼は変わってしまったのか?」等、感じているのかもしれません。
 しかし、この件に関して、表面的な方法は変更しましたが、少なくとも自分の中では「ゲーム脳」あたりから私のやっていることは一貫しています。
 それは、権威主義に対するラジカルな批判です。

 そもそも「ゲーム脳」のような妄言がどうして世の中に大きく広まったのかを考えれば、森昭雄の持つ「日本大学教授」という肩書きが大きく作用していたと考えられます。
 たとえ専門分野が違ったとしても、そうした肩書きがあることによって、それが学問的だったり科学的だったりする、完全な真実だと思いこんでしまう。最も顕著な例になると、ただの歯科医が饒舌に子供の問題を語ってしまう丸橋賢のようなものまであります。
 そうした擬似科学が世間に蔓延った時に、では正しい科学は何をしているのかといえば、これをまったく無視するという方法を取ります。向こうは向こうでこれが擬似科学だと分かっているから、相手にしない。
 相手にしないと言えば聞こえはいいですが、彼らが擬似科学を相手にしない間に、当の擬似科学は社会に蔓延して「定説」として扱われてしまうわけです。
 ゲーム脳については、精神科医である斎藤環を唯一の例外として、この本の科学的な間違いを指摘しつづけたのは、名もなきWebの人たちでした。しかし、名もなきWebの人たちは、その名前のなさゆえに、いくら正しいことを発信しても、十分には社会に広まらないのです。軍備の潤沢なイスラエル軍に対して、パレスチナ人が石を投げて細々と抵抗するようなものでした。
 Webの人たちはそうした抵抗をくり返しながら、このような擬似科学が擬似科学として、正当な科学者に批判されるのを待ちつづけてきました。
 そして、ゲーム脳の話が既にほとんど離散し、もはやその他の擬似科学に拡散した最近になって、ようやく一部の脳科学者から少しずつ反論が出て来ましたが、メディアに対する返答のレベルであって、研究としての批判ではありませんでした。そういう意味で『ゲーム脳の恐怖』以上にゲーム脳について詳しく記述されている文章がないのが現状です。
 このような現状では、森昭雄に「彼らはゲーム会社に金を貰って言っているのだ」と罵倒されても、文句は言えないでしょう。

 こうした構図の中には「2つの権威主義の形」が見えます。
 1つが、肩書きに対する、一般市民の盲従。
 そしてもう1つが、学者などの権威者に対する、責任追求の安直な放棄です。

 本来、学者という人種は、論文や各種メディアでの表現に対して、明確な責任を負うべきなのです。
 稲作農家であれば、お米の出来に責任を持つ、工員であれば目の前の製品に、工場経営者であれば全体の製品に責任を持つ。
 ならば当然、学者は論文や各種メディアでの表現に対して、明確な責任を負うべきなのです。
 こうして書けば当たり前のように聞こえるかもしれませんが、ならば森昭雄は「ゲーム脳」という明らかな擬似科学に対して、何らかの責任を取ったのでしょうか?
 いいえ。『ゲーム脳の恐怖』の印税は当然当人が受け取っていますし、各種の講演料も受け取っています。そして今だに日本大学の教授であり続けています。

 私は昨今の「新書ブーム」もそうした「責任感の欠如」が根底にあるように感じています。
 強権力者が「これは新書であって、単行本ではないから」と、新書特有の同じ判型で同じような表紙という匿名性を利用し、書き飛ばして金を儲けて、批判されてものらりくらりかわしていればいいのです。もっともらしい理屈を述べたければ「学問の多様性のために、安直な批判はなされるべきではない」とでも言えばいいでしょう。まさに「やったもの勝ち」の論理が新書ブームの中に透けて見えています。
 ただし、問題の本元は個人にはありません。いくら個人が無責任であろうと、その責任を社会が追及すればいいのです。
 しかし、現状を見てハッキリしているように、社会はそうした権威者に責任をほとんどと言っていいほど追求しません。唯一マスコミは責任を追及していますが、それもライブドアだとか村上ファンドだとか、その偏った価値観と野次馬根性でニュースバリューを追求した結果に過ぎません。当然マスコミ自身も所詮は権威者に過ぎないのですから「金持ち喧嘩せず」ということなのでしょう。

 そして、こうした権威者全体に対する不信が、今回の『バックラッシュ!』非難。すなわち、なんだかんだと平等がなされるようなことを言いながら、この期に及んで今だ何ら達成せず、さらには過去の文脈を持ち出して金儲けを企む既存の「言ったもの勝ち左傾論壇」への不信とイコールであることは、言うまでもありません。

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2006年08月06日
 ■ コメントに対する返答

件の場所がコメント欄を差し止めてしまったので、仕方なしにこちらでコメントに対する返信を掲載。どれだけの人が見てくれるかは知らないけど

crafty さんへ

>先延ばし、なにも解決しないというのは、
>再配分、つまり強者がコストを払わなければ意味が無いということでしょうか。

 その通りです。
 現在においては「弱者から強者へ」の金の流れはあっても、「強者から弱者へ」の金の流れがまったくありません。というか、そうした流れが一方通行になってしまったからこそ、現在の格差問題が発生しているのです。
 ですから、なんとか「強者から弱者へ」という金の流れを作り出さなければなりません。

>それなら、やはり再配分を結婚という形で実現するよりは、お金の形でルームシェアのコストを援助させたり、
>ベーシックインカムを保障する方が多くの弱者男性にとっては現実的な気がします。

 問題は「それを誰がするのか?」です。
 だれもしないからこそ、「結婚」という極めて個人的な場所にまで引き下がってそれをしなければならないのです。また、誰かさんは政府のせいにして再配分を拒否しますが、個人レベルでも再配分は達成できるということの実践でもあります。
 私がこんなことをしなければならないハメになっているのは、もちろんいわゆる「ネオリベ」の仕業であることはもちろん、そうしたネオリベ思想が蔓延る現状に対して、何もせずにただ傍観し、口先だけで「ワークシェア」だの「男女平等」だの言って金を稼いでいるようなバカ鸚鵡みたいな連中の仕業でもあります。

>それとも弱者男性が単に生活が送れるだけじゃ駄目で、結婚したり子供を持てなければ意味が無いのでしょうか。
>赤木さんは、問題は弱者男性が死なずに生活を送ることで、
>結婚はそのための手段である、とおっしゃっているようなので、これは違うと思いますが。

 ええ、生活さえできれば、それ以上のことは各個人が決めるべきことです。
 しかし、生活できる人間と生活できない人間がいる場合に、生活できる人間がただ自分の利益のみを考えて生きるならば、それはネオコン思想だと罵られるのも当然でしょう。


nector さんへ

>macskaさん、赤木さん双方に、議論する能力の欠如がみられます。
>http://www.kt.rim.or.jp/~jda/intro/intro4.htm
>このあたり呼んでみては如何でしょうか。

 わたしはそういう議論のありようを「教養主義的」として批難しているのです。
 仕事に追われて本を読んだりする余裕のない実際の弱者と、生活も安泰で仕事で本を読めるような特権階級の人間が、そうしたパーソナリティーを不問にされて「「誰が」ではなく「何を」議論したのかが重要だ」などと言われてしまえば、どうしたって特権階級の人間が議論に勝つに決まっているのです。それはまさしくネオコンの思想でしょう。
 社会についての議論は、各自の利益が絡むために、純粋な議論とは絶対になりえません。科学の問題をやっているわけではないのですから、非純粋さをその議論を非難するための根拠とするべきではありません。(昨今の科学偏重的な考え方も、教養主義の暴走か?)
 本当に正しい社会議論をするためには、「誰が何を言ったのか」こそが最重要なのです。


HAKASE さんへ

>まず,最初にお願いですが,「比較する際は基準を明確にすべき」という点について同意いただいているか否かを明確にしてはいただけませんか?

 私はこれまでの話について、ずーっと基準を明確にしています。それは「生活できるかできないか」ということです。
 にもかかわらず、あちらの人が必死に「ある一面では強者(or弱者)なのだ」とかワケの分からないことを言っているので、困っています。

>もし同性愛者の家族等との関連について具体的な状況を知らないために,比較ができないのでしたら,まずはそう書いていただけないでしょうか?ちなみに,私自身もいろいろな問題に対して詳細を知らないために私個人では比較をすることができない事柄がたくさんあります.そして,そのことは,「基準があいまいな状態で,具体的な事例のともなわないで,2者を単純に比較をすること」に対して私自身が疑念を感じる理由のひとつにもなっています.

 ところで、なぜそれほどまでに「家族との関係」が重要なのでしょうか?
 同性愛者が、すくなくとも自分の生活を保証できる賃金を得ている場合に、もし家族がそうした嗜好を見抜き、そのことを批難し、露骨に差別を加えて来たとしたなら、その人は家族との関係を絶って生活すればいいだけの話ではないのですか?

>それから,私からの2つ目の提案についてですが,赤木さんがおっしゃっていることの趣旨は(細かい点を別にすれば)おそらく同性愛者でもある私は十分に実感を持って理解していると思います.私も,実生活においては,よほど重大な問題でない限りは,自分のことをノンケの知人にはなかなか話せないですから.

 別に、そんなこと話さなければいいだけの事じゃないですか。
 話したっていいですが、それで関係を絶たれるようなら、それはそれでしかたないんじゃないですか?

>生死の問題まで出すほどのことですから,それを差し置いてでも解決すべき問題があるのかとも思っていましたが,書き込みの状況から察するに,赤木さん個人の状況に限定すれば,現状では,まだ,そこまで深刻というわけではなさそうですし,今のところは自分の経験を述べるのは無理だというのでしたらそれはしかたがないと思います.

 30過ぎた人間が、仕事を欲しながら、生活のできるだけの賃金が得られないというのは、日本社会においてはそうとう深刻な問題なんですけどねぇ。
 あと、あなたがこれまで言った「家族」や「知人」の問題の何が重大なのか、サッパリ分からないのですよ。というか、そんなことで「同性愛者は差別されてる」なんて言ってるんだったら、まさに「同性愛者に対する差別なんて全くない」といっていいレベルでしょう。
 その程度のことで「赤木さんがおっしゃっていることの趣旨は(細かい点を別にすれば)おそらく同性愛者でもある私は十分に実感を持って理解していると思います」などといわれても、こちらとしては「そんなくだらない問題と一緒にするな」と憤りを感じます。

 弱者男性なんか、家族には当然のように疎ましくされ、知人との関係など恥ずかしくて持ちようがない。しかし、それでも自分ひとりでは生活できないから家族と暮さなければならないという、あなたには想像もつかないであろう苦痛を常に味わってますよ。それが分からないから「そこまで深刻というわけではなさそう」などと言えるんでしょう。

>ご自身の体験であるか否かは別としても,困難な状況について当事者が具体的な例を出せないと,(特に周囲の人たちが気付きにくい問題点についてはなおさら)周囲のひとたちと協力しながら状況を改善していくことは難しいと思います.それをせずに抽象的な問題提起や論の展開をするだけでは状況改善は(不可能ではないにしろ)難しい,という点については,理解しておいていただければと思います(十分承知の上でのことかもしれませんが).

 それについては同意しますが、弱者男性の具体例というのは恥辱と屈辱に満ちたものです。それをなんの保証もなしに「さらけ出せ」というのは、かなり厳しい話のように思います。


xanthippe さんへ

>奥さんがほしい!っていうキャリア女性はおりまするよ。東京あたりで夜の12時過ぎに電車から吐き出されてくるような女性たちの多くは、それに近いことを言っているのではないですかね?知人の娘さんもそうです。

 じゃあ、その知人の娘さんを紹介してくれませんかね。
 まぁ、もっとも本音はどうか知りませんが。

>ただ、キャリア女性ではあってもジェンダーによる拘束(差別)を受けている現実はあって、仕事を続けるのであれば、結婚して子どもを生むなんてこととてもじゃないが無理、と多くのキャリア女性は考えている。 多くの女性には「仕事か結婚して子供か」、の二者択一しかないんですよ。今のところね。

 だから、私は「子育てをします」と宣言しています。
 ただ、妊娠に関しては体の機能的に男は代替できないのですから仕方ありません。個人的には試験管ベイビーでいいと思いますがね。

>強者女性というのは多分、「仕事も結婚子育ても」をゲットした人だけですよ。二者択一で仕事を選ぶしかない女性は強者とはいえないと思いまするなあ。弱者ですよ。

 私が言っている「弱者」とは、自身で生活できるだけの賃金を得られない人のことです。弱者は仕事に就けないからこそ弱者なのです。生活できるだけの賃金を得られる仕事に就ける時点で時点で強者なのです。

>んだから、こういう弱者女性を支え、励まし、おだて、余分な心配をさせないように家庭を守り、家計管理や子育てに励み、必要な時にはパートで家計を支え、あるときには熟練ホストのようにサービスし、仕事のアドバイスも適切にこなせる秘書の役割まで果たすことができる男性がいれば、良い組み合わせになるんじゃないですかね?料理がちょっとできるだけじゃ無理でしょうけどね。

 仕事のアドバイスをする主婦って聞いたことないなぁ。むしろ「男の仕事に女は口を出すな」でしょ。

ついでに、書き込んだものの承認待ち(でも、承認されることはない)のmacskaへのコメント

>わかりました。前言通りあなたを議論の相手とはみなしません。
>今後二度とわたしのブログにコメントを書き込まないでください。
>ただし、気が変わって撤回する気になったなら、macska AT macska DOT org までメールでご連絡をいただければ柔軟に対処しないわけでもありません。

 残念ながら、そういうわけにもいきません。
 他の方へのコメントを保留にしてしまっているので、それに答えないといけないからです。私はあなたと違って「ちゃんとやるべきことはやらなければならない」という責任感がありますからね。
 別に議論の相手と見なさないならば、あなたが私にコメントを返さなければいいだけの話です。
 それに、私はあなたの言いがかりについて、あなたに対してではなく、他の人たちに対して、自分の名誉を守るために、返答せざるを得ない状態になっています。
 だから、あなたのコメントに対して返答をしますが、あなたは私にコメントを返さないでください。それでいいでしょ。


>> 10年も口約束だけで、それをまったく果たす気なんかないくせに、なんで
>> そんなに偉そうなんですか?
>赤木さんこそ、どうしてそんな偉そうなことをわたしに言うんですか?
>10年前に口約束をした人がいるのであれば、その人を問い詰めるべきでしょう?

 そういう口約束をしたのは、左傾論壇そのものですよ。
 とうぜんそこに含まれるあなたは、その責任を負うわけです。

>しかし、この問題において一般的な意味でいう自己責任論(すなわち、弱者男性が苦しい立場に置かれているのはかれら自身のせいであるという論理)をわたしが主張したことは一度もありません。

 わたしに対するコメントでは、何度も何度も言ってますけどね。「それはコメントであって、主張ではない」とでも?

>> 『バックラッシュ!』の紹介を見ましたが、どう見てもあなたはご立派な
>> 経歴を持つ「大先生」じゃありませんか。
>何か大きな誤解をされているようですが、少なくともあなたから「強者」と呼ばれるような立場ではありません。

 誤解でも何でもなく、『バックラッシュ!』の執筆者のほとんどが明確な強者ですよ。いやぁ、本に書かれて恥ずかしくない、ご立派な経歴の方ばっかりで。
 そいえば、どっかのBlogで鈴木謙介が職業欄にフリーターだとか書いていた画像がありましたが、あれほどフリーターをバカにした話はありませんね。


>でも、わたしを含めここで赤木さんに反論している人のだれも、男性弱者の問題をないがしろにしていません。他の問題も重要であると言っているだけです。ところが赤木さんは、他の差別はほとんどないと言っても良いほどだと言い放ち、自分の問題だけが最優先だと主張しています。つまり、他の団体はこれまでやってきたこともいまやっていることも全部放り出して、あなたのことだけをあれこれ手助けしてあげなければ「差別主義者」だとあなたは決めつけている。そんな調子で、さまざまな反差別運動のあいだの協力関係が築けるはずがないでしょう?

 千日手ですね。
 もっとも私が言えるのは、あなたがたが積極的に男性弱者救済に協力しなければ、バックラッシュの流れは、これまで以上に強まることは間違いないということです。
 そして、多くの弱者男性は、バックラッシュによって古くさい弱者利権が消え去ることを期待しています。
 リベラリストたる私としては、そのような事態にはなってほしくないのですが、あなた方がそういう態度なら、それもしかたないと観念するしかないようですね。残念ですが。


>強者は弱者の問題などまったく想像の外にある、それはよくあることです。だからそれが今の議論にどう関係するのか、あなたは全く説明していません。もしあなたと議論している人たちがその「弱者の問題などまったく想像の外にある」強者だというなら議論に関係ありますが、ここで議論している人は一人の例外もなくみんな「給料をロクに受け取れない弱者の問題」を想像の内に置いています。すなわち、議論に全く関係ない。

 この話は、この問題の土台そのものです。
 女性や部落や民族が、いまだに差別されていると言い張るのも、
 あなたが自分を弱者であることをまったく認めないのも、
 弱者男性の早急な救済を認めないのも、
 すべては左傾論壇が「給料をロクに受け取れない弱者の問題」を想像の内になど置いてないからです。
 それが分からないなら、それは「経済格差に対する知識がない」と言うほかありません。


>> さしずめ女性優位論壇にとっては「赤木智弘が書かなければ、男性弱者など
>> 存在しない。男性弱者って言うな!」といったところでしょうか。
>そう言う人はどこかにいるかもしれませんが、少なくともいまここで議論している中には一人もいません。もし「いる」と思っているなら、被害妄想に過ぎません。

 へぇ〜。私はそういう人をけっこう近場で見かけたんですがね。


>わたしが「それを解決するには、再分配するしかないでしょう?」と言っている部分を引用しながら、「なんであなたは再分配の実施を否定するのですか?」と問うというのは、いったいどういう神経をしていたら可能になるのでしょうか? 支離滅裂です。

 言うことと、やることはイコールではありません。
 あなた方がそういうことを言いながらやらないで済んでいるのは、まさにあなた方が強者だからですよ。


>> とっとと再分配してくださいよ。なんでそれを必死に否定するのですか?
>わたしに決定権限があれば、とっくに再分配を実施していますって。しかし、わたしは再分配を一度も否定していないのに、あなたにかかると「必死に否定している」ことにされてしまう。そんな間違った決めつけによって「差別主義者だ」「ネオリベだ」と言われても、「議論の通じない相手だな」と思うだけです。

 最近、宝島社とか飛鳥新社から、くだらないウヨクのための読み物がよくでてますが、そういう人たちにはウヨクである弱者にお金を再配分する「決定権限」があるようです。


>> じゃあ、私は一体どういう側面で強者なのでしょうか?
>まず、男性ですね。それから、お嫁さんを募集されているところをみると、おそらく異性愛者ですね。これまでの在日朝鮮人差別や部落差別に関する無見識から想像するに、生まれながらに日本国籍であり、被差別部落出身として差別を受けてもいない。賃金労働をしているというところからして、重度の障害者でもなさそうです。また、わたしと同様に先進国にたまたま生まれついたことによって恩恵を受けていますから、それも含まれます。少し軽く考えただけでも6つの側面が見つかりました(他にもいくらでも見つかると思います)。

 男性だから、生活ができるだけの賃金が得られないことに、過剰に悩まなければいけません。女性は就職できなくても、結婚してしまえばいいんですから楽ですね。
 異性愛者だからといっても、賃金がロクに得られないので恋愛なんかできません。
 在日でも部落でもないから、強力な労働団体などの協力が得られず、賃金が得られません。部落だからこそ月20万の固定給を得られたA君の話は、前に出しましたね。
 重度の障碍者ではないから、賃金が得られないことは自己責任だと非難されます。
 先進国に生まれたからこそ、賃金格差が存在しています。どっかのジャングルの奥の部族に生まれたなら、このような差別を受けることもなかったでしょう。

 というわけで、その6つの側面すべてにおいて、私は弱者です。


>> クリティカルな問題なのだから、優先順序を先にしろと言っているのです。
>まず第一に、クリティカルな問題はそれ一つではない。第二に、優先順位を先にしろと主張したいのであれば最初からそう言えばすむわけで、他の差別は「ないと言って良い」と決めつけたり、自分に完全に同調しない相手を「差別主義者」「ネオリベ」などと決めつけて非難する必要はありません。それらの言説についてきちんと撤回したうえで「他の問題が重要なのもわかった、でも今この問題はすごくクリティカルだから少しでも早く対処して欲しい」と訴えるのであれば、まだ話をする価値もあったのですが。

 だから、その問題を延々放っておいたのは誰なんですか?
 そうした態度は、非難されて当然でしょうに。

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2006年07月28日
 ■ 『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その1)

「成城トランスカレッジ!」によると、私が火をつけた(と自慢してもいいだろう)「弱者男性に対する問題」という火の手が順調にのびているようでなにより。みんな張り切ってやって欲しい。

 と言いたいところだが、飛び火した先での議論のレベルがあまりにも低くて辟易しているのが正直なところ。
 まぁ正直、最初っからそれ以上の期待はしてなかったんだけど、やはりというかなんというか、単純に「弱者男性をどうするか」「弱者男性と男女平等論の関わりは」という話に終始してしまっていて、私が書いたことの一部要素だけを勝手に抜き出して、さもそれが問題の本質であるかのような「雑談」になってしまっている。

 で、このような論点の捻じれ構造を別の例で例えてみましょうか。

 ゲームをしていますよと。
 そのゲームは、サイコロを1個振って、1の目が出れば勝ち。他の目なら負けというルール。
 ただし、直接賭ける人間はサイコロを振ることはできません。サイコロを振るのは第3者です。この場には第3者が何十人かいるとしましょう。
 で、今までに5回ゲームをして、2、3、5、4、6の目が出ています。
 この時点で直接賭ける人間は既に5回負けています。もうこれが最後の勝負です。負ければ破綻です。
 そこで、サイコロを振る第3者の人たちが議論を交わしています。第3者の人たちは、賭けた人に勝ってほしいと考えています。
 「これまで5回振って、1以外の目が1回ずつでているから、次こそは1の目が出るはずだ」
 「いやいや、サイコロの出目はつねに1/6の確立でしかないんだから、次こそ1の目が出るとは限らない」

 この問題で、私の外で議論をしている人たちは、こういう議論をしている。さて、おかしいのはどこでしょうか?

 そう。本当の問題は「次にサイコロで1の目が出るかどうか?」ではなく、「次にサイコロで1の目を出さないと、賭けた人間が負けてしまう事」である。
 ここで単語を置き換えてみよう。
 「直接賭ける人」とは、そのまま私、つまり「弱者男性」のこと。
 単語としては出てきませんが、その「賭けている相手」は、社会そのもの。
 そして、「サイコロを振る第3者」が、今回私が批判している「左傾論壇」。

 左傾論壇はサイコロを振る権利がある。そしてそれはすなわち義務でもある。
 サイコロを振らなければならない時に、サイコロの目がどう出るかを議論する。次は1の目がでるのか、そうでないのか。
 しかし、この段階で「1の目がでない」ということは、すなわち弱者男性の破綻を意味する。破綻という言葉で弱ければ、死でもいい、死を意味する。
 その時に、サイコロの確立論議が、なんの役に立つだろうか?
 本当の問題はこうした状況下においては「是が非でも1を出さなければならない」ということ。
 それこそ、イカサマで懐から1の目だけのサイコロを取り出して振るようなことをして、なんとしてでも1を出してあげること。重要なのはそれだけなのだ。
 1の目が確率的にどうだという、マクロな視点に立った論理ではなく、とにかくこの場で1の目を出さなければいけないという意識こそがこの場でもっとも必要なことなのだ。

 私が元々『バックラッシュ!』を批判したのは、その内容があまりに教養主義的に過ぎることであった。
 私の考える教養主義とは、「ある特定の場所にいる人たち(東大周辺とか、論壇周辺とか)によって行われる、擬似知的議論によって、自分の存在意義を担保する考え方」である。
 「私はこのように悩んだから、こうしてエリートであっていいのだ」「私は努力をしたから、高収入を得ていいのだ」「私は女性のことを考えたから、男女平等論者として正しいのだ」等々、いずれにしてもその結果ではなく、ただ「そう考えた」ということでしかない。
 そして、私は『バックラッシュ!』全体に横たわっていた、「八木秀次ラスボス説」に対して、「そうした考え方は、教養の場にいる「強者男性」側と、同じく教養の場にいる「強者女性」側の議論ゴッコでしかない」と批難した。それこそ「八木秀次を批判できたから、バックラッシュは間違っているのだ」という、バックラッシュの広まりという現実を目の前にした、教養主義バカの無責任な逃避でしかないと考えたからだ。
 そしてまさに今回の「弱者男性を語りたがる連中」による、的を射ない議論の広まりも、こうした「さも、私は男女平等のことを真剣に考えてますよ」という教養主義バカの仕業といえる。

 そして彼らは「何がなんでもサイコロの1を出すこと」という論点にいつまでたっても至らない。
 だって、彼らは別にとってこの問題なんて、しょせんはどうでもいいことだから。
 どうでもいいことを自分の価値付けのためだけに使っているから。

『バックラッシュ!』非難の本質とは?

 巷のブログが上のような調子だから、私はもう少しひねった論点でこの問題を掘り進めようと思う。
 いや、ひねったというよりも、これが私が考えていた元々の論点で、左傾論壇がもっとも触れてほしくないであろう論点だろう。

・左傾論壇にとって「弱者」とは誰か?

macska dot orgによる「鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問」は、まさにエセジェンダーフリー論者の本音を吐露した素晴らしい文章である。

そもそも、この「男性」という括りに疑問がある。鈴木氏によれば、ここでいう「(弱者)男性」とは経済構造の変化による流動性の暴走におびやかされる存在だとされるから、逆に言えば経済構造が変化する前の時代に生まれていれば一人で家族を養うだけの収入を得られる「強者」ーーと当時は描写しないだろうけれどもーーとなるはずだった人たちのことだ。そこには何故か、在日コリアンの男性やアジアや南米から出稼ぎに来ている外国人労働者の男性、被差別部落出身の男性、障害のある男性、ゲイやバイセクシュアルの男性など、わたしが「弱者男性」と聞いてまず思い浮かべるような人たちの存在がまったく想定されていない。

 実に素晴らしいではないか。
 現実の社会問題を無視して、「僕の考える弱者はこういう人」という色眼鏡で弱者基準を語る。そしてここから「男性」という括りを外せば、そのまま「女性は絶対的に弱者なのである!!」と力説する姿が目に浮かぶ。
 男性弱者を不幸を踏み台にして、「私たちは弱者である!!」と叫ぶ、勝ち誇った女性像は、まさにエセジェンダーフリー論者の夢であろう。

 私は最初の文章において、「男性強者、女性強者、女性弱者、男性弱者」という分類をしている。
 そしてその上で「いまだに女性が弱者なのか!!」「いまだに在日が弱者なのか!!」「いまだに部落が弱者なのか!!」と説いている。
 この考え方は、かつての「色の着いた弱者」を解体し、すべてを「仕事利権と金」という文脈で捉え直し、今一度弱者の再定義を行なうべきではないかというものであり、決してmacskaが言うような「在日の男性や部落出身の男性の存在を無視した記述」などではない。

 結局のところ、彼らにとっては社会の現状などはさっぱり関係なく、ただ「僕が考えた弱者」こそが弱者なのである。
 そして、「僕の考えた弱者」が弱者認定されていない私のような考え方を必死に批判しようとする。

(次回に続く)
 とりあえずこっちで、この先に近い話をしているので、読んでおいてください。こっちのボリュームの薄さを少々は補完できるでしょう。

途中でスペシャルボーナスがそろっても、明日の為に叩くべし叩くべし。
ジョーカーコレクション 14400枚

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2006年07月12日
 ■ わわわわ、ワーク……しぇしぇしぇしぇしぇ……

精神衛生上、数日は『バックラッシュ!』の話から手を引こうと考えていたのですが、その前にどうしても1つだけ突っ込んでおきたいところが。

共感はできても賛同してはいけない「『バックラッシュ!』を非難する」
 まぁ、本文はどうでもいいんですが、一番最後の追記部分に注目してください。

【追記】 「弱者男性の主夫化」以外の弱者男性に対して「尊厳と生きるために必要な金を提供しえる方法」について書こうと思っていたのですが書き忘れていました。金銭的な問題に関してはベーシックインカムが考えられますし、あくまで職を行き渡らせることを基本に考えるのであればワークシェアリングを導入しやすい制度にすることが考えられます。例えば、フルタイム労働を前提とした企業主体の福祉厚生を社会化するなどですね。詳しいことは述べませんが、ほかにもいろいろ可能性が考えられ、「弱者男性の主夫化」だけが唯一の方法とは決して言えない。また、「弱者男性の主夫化」が(社会的な解決として)現実的でない理由は本文中に述べた通りです。

 わわわわわ、わわわわわワーク……しぇしぇしぇしぇしぇしあああああしぇしぇしぇああああああああああありんぐ……わーくしぇありんぐ? ワークシェアリング! ワークシェアリングktkr。
 今の日本において堂々と「ワークシェアリング!!!」だなんて!!
 最近テレビにたまにジュリアナで扇子もって踊ってた「荒木師匠」が出ることがあるじゃん。あれ見てるみたいだよな。「うわー、こんな時代もあったなー」「うわー、なんかなー」って感じがそっくり。
 10年前ならその言葉を使う価値もあったけど、あれから時間が経って勝ち組負け組が明確化した今、その言葉を使うことになんの意味があるというのか。

 つーかさぁ。そんなの時代に取り残されたバカな学者さん以外の誰が、今の日本の現状で本当に成立させられると思ってんの?
 ほら、2007年問題とか言われてるのあるじゃん。「団塊世代の優れた技師が引退するので、技術がなくなってしまう。なので、団塊の世代を再び雇え」みたいなやつ。あれなんか、要は団塊の世代とかいうバカたれが「この仕事は俺にしかできない」「若造なんかに任せておけるか」って、慣れれば誰でもできるはずの仕事を利権化して、まともに継承してこなかったという問題なんだよ。
 団塊のバカ……というか、正社員という利権を持っているバカは、みんながみんな「俺の仕事は俺にしかできない大変な仕事なんだ」と思いこんでいて、そのことが自尊心になっているわけだ。だから当然そこに「ワークシェア」なんて文脈を持ち込んでも「俺の仕事が若造にできるはずがない」って言うんだよ。本当は教えれば簡単に伝わるんだけど、それはできない。自分にしかできない仕事があると思いこむことが、仕事人間、すなわち日本型大人の存在意義だからね。
 それは決してマッチョな人だけではなくて、左傾論者も「ワークシェアリングをするべきだ」といいつつも、「でも俺の仕事は俺にしかできない」と思いこんでいる。要はどっちも若者に仕事なんか渡そうとしない。右も左も、日本人は本人しかできない仕事をすることで「大人」を確定させてきたのだから、それを否定することなんて絶対に不可能だ。だから日本の会社は不況のはじめにロクに大人をリストラせずに、若者の採用を極小に押え込んだ。責任で言えば、大人が全ての会社の全ての社員が全員退職する必要があったのにもかかわらずだ。
 その結果、若者にはバイトや派遣の仕事といった「時給750円ワーク」だけが譲渡されるわけだ。そして仕事の足りない若者が、その他の仕事の足りない若者と、時給を分け合いながら、へとへとになって仕事をしている。こりゃ素晴らしいワークシェアリングの末路だ。あまりに情けなくて笑いが止まらないよ。

 現実をロクに見ていない、引用先の中の人には分からないだろうけど、君の夢見る「ワークシェアリング」の禍々しい姿が、いま現状として表われているんだよ。


 いいか?
 「男女平等」も「ワークシェアリング」も、この言葉を使う時は、「既にこの言葉が現状に取り込まれ、(悪い意味で)換骨奪胎されていること」に注意を払うべきだ。
 そして、どうしてもこの言葉を使いたいなら、たっぷりと注釈をつけたうえで、こっそり小声で、別の主張の裏に隠して、この言葉を使え。
 俺ですら男女平等を叫ぶという行為を、このように「反々バックラッシュ」という捻じれた行為を通してしか叫ぶことができないのだから。
 そしてせっかく使うなら、心の奥底で恥ずかしく思いながらも「それでも主張しなければならない」という羞恥心と絶対的な意思の間でこの言葉を使え。

 それができないのなら、そんな言葉つかわないことだ。どっかの先生のように上辺だけの知的な、大衆を見下したおしゃべりで終るのがオチだから。

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 ■ 「『バックラッシュ!』を非難する」への反響について

前回の「『バックラッシュ!』を非難する」について、少将補足を。

 「強者男性」「強者女性」という分類が勘違いされているようです。
 私の意図する「強者」というのは「≒正社員」。いうなれば「家庭を持とうかな」ぐらいの展望を持つことのできる生活力のある人たちの事であり、決してホリエモンレベルの収入がある人間のことではありません。森永卓郎言うところの「年収300万」(もしくは、将来的にその程度に年収が上がるだろうと期待できる)なら「強者」です。

 この辺をちゃんと指摘しなかった事は失敗ですね。
 ジェンダーフリー運動などで女性が総合職になれるようになったのは、つい最近の事であり、多くの女性が一般職に甘んじてきたという批判もありましたが、定職につけない弱者男性からすれば、一般職女性は十分に「強者女性」です。
 そういうことを「お茶汲みOL」の話で明確にしたつもりだったのですが、もう少し丁寧に前提を明示しておくべきでした。

「『バックラッシュ!』を非難する」への反響について

 個人的にはもっとボロカスにバカにされるかな? と思っていたので、意外と好意的に読んでくれている方が多いんだなぁ。というのが印象です。
 実際、あれを書いて、アップするまでに結構悩んだんですよ。「こんな書き逃げのような文章、アップしていいのかなぁ」と。
 けれども、やはり『バックラッシュ!』(前回もそうですが、双風舎の本は『』付けの『バックラッシュ!』。 いわゆる男女平等に対する反動という意味の場合は「」付け、もしくはカッコなしで「バックラッシュ」としています)によって男女平等という問題が、ただ「バックラッシュはすべて間違い、もしくは勝手な決めつけだ」というように理解され、バックラッシュが起きる現状そのものに対する視線が逸らされることに、弱者男性の立場として「寒さ」を感じ、ほっとけなかったので、前回の「挑発文」をアップしました。
 結果、はてなブックマークなどをみるに、「言葉は悪いが、その内容には一理あるのではないか?」と、上記のような単純なバックラッシュ理解に楔を撃てたのではないかと思います。やるべきことはできたな。と。


P.S 前回の文章を批判する方へ。
 そんなに社会の現実を見たくないのか?  せめて妄想の中でいいから、私のこうした感情がどういう背景から出てくるものなのかを少しは考えてほしい。

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2006年07月07日
 ■ 悲劇を想定しつつ、それを金に変える死の商人の話

劇場版サイレントヒルが8日からロードショウ。
 で、上映館情報見たら、いつのまにか地元の映画館でも上映するとの情報が。
 うわぁぁぁぁぁ、失敗した。
 というか、1ヶ月ぐらい前には地元で上映するなんて情報は全くなくて、どうせメンズデイやモーニングやレイトショーに日時を合わせるのは不可能だからってんで、少しでも安く見るために前売券を買っておいたんだが、地元でやるんなら日時合わせられるじゃん。
 いや、まぁいいけどさ……。
 地元の映画館だと、メンズデイ狙いで平日の人が1桁ぐらいしかいない回でしか見たことないから、前売券があるということで休日にでも見に行ってみるかな。それとも空いてる方がやっぱりいいかな。

もう「日本“海”にミサイルが!!」ってのは、「消防署の“方”から来ました」とまったく同じ詐欺用語として考えるべきだよな。
 こういうバカが多いから、混乱を避けるためにも「東海」にすればいいんじゃね?

もう「『グロテスクな教養』2周目」というくくりでは書かないけれども、「『バックラッシュ!』非難」でも論理の中心になっている教養主義について触れてみたい。
 教養主義とは、いわゆる我々が「教養」という言葉を聞いた時に想像する意味とは全く違い、実態は「東大周辺エリートのお坊ちゃんが、高校や大学のモラトリアムにおいて、人生について悩むフリをする」という擬似知的行為の事と言える。
 つまり、こうした教養主義は、それ自体は「エリートである彼ら自身の人生に全く意味を持たないもの」であって、自分たちがエスカレーター式に社会に出てトップクラスの人生を送ることに対しての「免罪符」としての機能しかもっていない。
 「我々は若い時分に人生に悩んで、このような成功を手に入れたのだ」
 そしてもちろん、一般の大学とは縁のない大衆は「ソクラテスかプラトンか」などとまったく悩まずに、当然のように家の仕事を継いで貧困に喘ぐしかなかった。

 そして、『バックラッシュ!』という本自体がもつ構造も、まさに「男女平等論者が、格差社会(仕事不平等社会)を放置する免罪符としての反バックラッシュ」というものに他ならない。
 宮台は「バックラッシュは想定内」などと言うが、それはむしろ想定していたにもかかわらず、何ら手を打っていないということの告白に過ぎない。そして、こうした「お金をたくさん持ってる知的エリート層」というのは、別にそれに対して手を打たなくても、自身は生活の保証がされているのだから、想定されたことに対して責任を取る必要がない。
 むしろあとから「それは想定されていたことです」などといいつつ本でも出したほうが生活の足しになるのだから、想定される悲劇に対して無責任なのは当然ともいえる。いわゆる「死の商人」と同じようなものだ。
 現在「知的エリートが田吾作」なのは、大衆の僻みではなく、実際に宮台を含む知的エリートと呼ばれる人たちの存在が結局なんの意味もなかった、もしくはそうした悲劇を己が利益の為に利用したからこそ田吾作呼ばわりされているのであって、それを丸山眞男の時代に責任転嫁するのは非常にみっともない。

 あんまり宮台を集中攻撃するのもかわいそうなので、次は上野千鶴子に触れてみたい。

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2006年07月06日
 ■ 『バックラッシュ!』を非難する

ということで、今日は双風舎『バックラッシュ!』に対する非難(批判ではなく)。
 なぜ「批判」かと言えば、双風舎編集部は自身のブログの中で「同書をつくった意味のひとつは、議論のたたき台になるようなものをつくる、というものなので。」と述べてるが、私は決してこの本を議論の叩き台にしてはならないと考える。ゆえる、両者の間に建設的意味を持ちうる「批判」ではなくて、建設的意味をもたない「非難」とする。

 まずは簡単にバックラッシュに至る前提を提示する。

 1、全体として「男は強者」「女は弱者」という色眼鏡でしかモノを見ていないため、結論がすべて「女性優遇」でしかなく、想像される社会が男女平等とはほど遠い。
 2、「社会進出」という名前の会社的な観点でしか強弱を区分していない。「会社での地位=人間の価値」という価値観を推進してしまっている。
 1+2、こうした論理がフリーターやニートという「弱者男性」、そして、自らを強者と規定しない「強者男性」をバックラッシュに駆り立てている。

 フェミナチがこうした論理を大上段から振りかざす以上、弱者男性がバックラッシュに走るのは当然だろう。この本のサブタイトルに「なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」とありますが、これが答えになる。


 細かく書いていきます。
 まず、この本の失敗は「さも、物事を論理的に読み解けば、男女平等に対する誤解は解ける」という教養主義的観念のかたまりでしかないことだ。
 教養主義的観念というのは、いわば「頭で理解を期待する」考え方で、つまり「正しい論理を提供すれば、正しい結果に繋がる」と考えることだ。だからこそ、この本の論者たちは「論理的に」バックラッシュを読み解いている。そしてその論理は極めて正しい。
 しかし、バックラッシュ(または、各種の国粋主義や男根主義など)の発生源は決して理性的なものではなく、感情的な反感である。「女が上に立つのが気に入らない」「女のせいで我々の仕事が奪われている」こうしたほの暗い情念が、バックラッシュのエネルギーになっている。
 であれば、「反バックラッシュ」の論理が解体するべきは、そのエネルギーの発生源であり、それに対して「男女平等は正しいのだ」といったところで、議論は成立しえない。
 これは「話せば分かる」「問答無用」のやりとりみたいなものであって、いくら男女平等論者が正論を叩きつけたところで、対話が成立しないなら、そのことに意味などはないといえる。
 かくして、男女平等論者とバックラッシュはこれまで以上に離反していく。そうなれば私はバックラッシュの側に付くだろうなぁ。


 ならば「なぜバックラッシュに対する感情的な反感が発生するのか」を理解することこそが、本当の『バックラッシュ!』の主題であるべきです。だから私はここで一人でそれをやります。フェミナチはいつまでたっても気付きもしないのだから。

 まずは言葉の定義をしておきたい。
 ここまでで既に何度か使っている「弱者 or 強者 and 男性 or 女性」について。
 単独の意味的には文字どおりなのだが、それらの関係については「SocioLogic」の中の人が提唱する「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を採用している。
 すなわち、強弱の順位は「強者男性」>「強者女性」>「弱者女性」>「弱者男性」である。ただし、「>」は、強弱の関係性のみを表す記号であって、その間の数量的な等しさを表すものではない。
(数量的な部分に対する私の実感としては「強者男性」>>>>>>「強者女性」>>「弱者女性」>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>「弱者男性」ぐらいであるように思う)
 そして、この順位を確定するための要素として、私は「仕事」と「家庭能力(≒家事+出産)」の2つを評価する。
 この2つにおいては、プラスマイナスとも「仕事が強」「家事は弱」と考える。
 「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」
 ここで男性側の家事の要素をまったく評価していないことは、ひとまず頭の片隅に入れておいてもらいたい。

 では、現在の男女平等論というよりも、この『バックラッシュ!』の立ち位置を明確に示していると言える、宮台真司の話から、この本の問題点を探ることにする。

 まず、宮台はバックラッシュを「過剰流動性による不安」であるとしている。
 そしてその不安とは「前提不在による混乱」であるとしている。

 しかし、不安こそは、すべてのバックラッシュ現象の背後にあるものです。「流動性不安」、すなわち過剰流動性による不安です。過剰流動性ゆえに、自明性への疑いが出てきて、アノミーすなわち「前提不在による混乱」におちいるわけです。 (p.10)

 しかし、男性弱者が抱えている不安は「過剰流動性」とは正反対の「硬直性」です。「一度フリーターになってしまったら、正社員になることは、非常に困難である」ということです。これは一体どういうことなのだろう。
 ここに、頭でっかちな教養主義的フェミニストたちがロクに見向きもしない問題が潜んでいる。

 そもそもフェミニズムが社会に浸透する前の社会*1において、性差はこのような観念であった。
 「「男性」>「女性」」
 あまりに単純で拍子抜けするかもしれない。もちろん貧富の差はいまよりもっと大きかったし、単純にこれだけなハズもないのだが、いわゆる「ウーマンリブ」に始まる男女平等論は、このこと、つまり「男性は強者」「女性は弱者」を前提にしている。
 そこで「女性が社会に進出することによって、男女平等が実現する」と考えたウーマンリブは女性の社会参加をうながした。
 そして、社会参加というのは、「≒会社に入ること」であった。

 確かに、この運動は80年代までにはうまくいっていた。経済は右肩上がりに成長していたので*2、会社の規模も当然右肩上がりに大きくなり、今までの男性のみならず、女性を社員として扱うだけのキャパシティーが保たれていた。
 しかし、90年度になって一気にバブル経済が膨らみ、そのまま破綻する。
 右肩上がりだった社員のキャパシティーは著しく制限され、また既存の社員を守るために、新卒社員を極力採用しないようになった。そのことはイコール「若者の社会進出が阻害されている」ことを示している。ここに「「バブル以前の男女」>「バブル以降の男女」」という格差が生まれる。
 ここでもう一度、かつての「「男性」>「女性」」という観念を見返してみる。
 ここで「>」の根拠となっていたのは「女性が社会進出していないこと」だった。だからこそ、女性の社会進出をうながし「「男性」=「女性」」にしようとしたのが、ウーマンリブの根拠だ。
 しかし、今度は経済の収縮によって「「バブル以前の男女」>「バブル以降の男女」」という格差が生まれてしまう。この格差も「バブル以降の男女が社会進出していないこと」だ。どちらも「社会進出」こそが格差を示すキーワードである。
 ウーマンリブは社会に流動性をもたらし、男女の格差を是正した。ならばバブル前後の格差はどのようなスローガンが是正しているのであろうか?

 答え「誰も是正していない」。
 ウーマンリブが男女格差を是正するスローガンなら、いま我々の格差を表すスローガンは「自己責任」であって、これは「社会は経済格差を是正しない」という宣言である。
 そのような言説が広く流布される現代において、じゃあ我々のような弱者にとって、どこに流動性があるのか?
 宮台は「すべてのバックラッシュの背後にあるのは、過剰流動性による不安だ」と述べる。しかし、過剰流動性が不安であるのは、あくまでもバブル以前の男女にのみあてはまる。「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図を持ち出すと、こういうことになる。
(「強者男性」←→「強者女性」)>「弱者女性」>「弱者男性」
 このカッコ側、つまり強者男性と強者女性の間にしか過剰流動性は存在していないのである。

 まず最初に私はこの本の失敗は「さも、物事を論理的に読み解けば、男女平等に対する誤解は解ける」という教養主義的観念のかたまりでしかないことだ」と述べた。
 この本に登場する、ほぼすべての論者に言えることだが、彼らは八木秀次をはじめとする「バックラッシュを推進する学者や論者」などに標準を合わせて、彼らを論破していくという形式の文章を書いている。
 しかし、そのことは同時に、実はこの『バックラッシュ!』が「「本に名前が出るような強者男性」VS「本に名前が出るような強者女性」」という、まさに「流動性の中での戦い」でしかないことを意味する。そしてそれはまさに教養論の傲りであり、そのことが本来のバックラッシュの主体たる、こうした知的上層階級ではない「弱者男性」を無視する結果を招いている。

 『バックラッシュ!』の中で鈴木謙介は

 一部では、バックラッシュのような右傾化現象は、ネットを中心とした若年層の出来事だと見なされているようだ。しかし、これは事実に反している。あらゆる世論調査が、近年の「右傾化」と呼ばれている現象の担い手が、高年齢層、とくに主として60代以上の男性であるという結果を導いている。

 と、記している。そしてこの直前に「ネタとベタ」という論理から、それは決して単なる右傾左傾ではないと、鈴木は解く。
 しかし、これはまったく間違っていると思う。問題は現在右傾化しているかどうかではなく、弱者男性が困難な立場にいるか否かだ。
 若者がいつまでも若者であり続けるならばいいが、刻々と年を重ねながらも延々と社会に吸収されないならば、右傾ネタは右傾ベタとなり、右傾ベタは反左翼に移り変わっていく。そうした中で「社会参加≒会社に入る」でしかないウーマンリブの論理は、確実に攻撃の対象となる。正社員であることが利権である以上、ウーマンリブの論理が弱者男性から社会参加の可能性を奪っていることには違いないからだ。そこでは既に正当性は問題とならない。ただ「弱者男性という社会格差が存在する」そのこと自体が問題なのだ。問題はミクロなのであり、マクロ的な分析では誰も救われない。

 にもかかわらず、『バックラッシュ!』においては、具体的に「どうやって弱者男性を救うか」という話ではなく、観念上の弱者たる女性の弁護に終始している。

 いまだに女性が弱者なのか!!
 いまだに在日が弱者なのか!!
 いまだに部落が弱者なのか!!

 弱者男性の憤りは頂点に達しつつある。

 本の帯には「男女平等でなにが悪い!」と書かれている。もちろん男女平等が悪いはずがない。そして問題はこの本がしょせん「女性優遇」の立場でしかなく、弱者男性にとっては非常に「ムカツク」本なのだ。「問答無用」!!
 結局、バックラッシュを封じるためには、弱者男性をどうにかするしかない。
 それこそがネクストステージであり、唯一の男女平等の道である。フェミニストはもはや強者女性の論理でしかないウーマンリブを捨て、弱者男性にスポットを当て、正しく男女平等を推進するべきなのだ。

 ここでもう一度「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を持ってくる。

1、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」

 これを男女平等にするためにはどうするか。
 まずはこの図において「家事と仕事の不平等」が起きているので、これをフラットに変える。

2、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」

 そして、男性に「家事」の評価を適用する。

3、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事- 家事-)」

 仕事と家事のプラスマイナスによって、強者男性と強者女性、そして弱者女性までが平等となる。では、残る弱者男性はどうすればいいのか。答えはもちろん。

4、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」=「弱者男性(仕事- 家事+)」

 男性の家事労働を正当な仕事として認めれば、ここに真の男女平等が実現する。
 この説明を見た時に「それは今までの男女平等主義者の主張と全く同じではないか」と思うかもしれない。
 ハッキリいえばその通りで、男女平等論者の主張は別に間違ってなどいない。
 しかし、実際に行われる男女平等の方法論と主張する方法論の間はズレまくっている。

 ウーマンリブは女性を仕事に駆り立て、社会参加を主張することによって、男女平等を実現しようとした。しかし、正社員の立場が利権でしかない現代において、それは「仕事をしているから偉いのだ」と主張する強者男性とまったく同じ論理をウーマンリブ側が持つことを意味する。
 「お茶を汲むために会社に入ったのではない!!」と主張しながら数十万の月給を得る強者女性に対し、繁雑な作業を時給数百円でやらされる弱者男女は苛立つのである。
 そして、数十万の月給を得る強者男性は、近くにいる強者女性(共働き)、もしくは近くにいる弱者女性(専業主婦)と結婚するのに対し、数十万の月給を得る強者女性は、近くにいる強者男性とは結婚するだろうが、じゃあ弱者男性と結婚するかといえば、そのモデルはまったく見いだすことはできない。
 先程の「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図の3と4を再び見返して欲しいのだが、この「弱者男性の家事スキルを評価するか」というわずか1点の違いしかないこの両者の間には、実はとてつもなく絶望的な距離感が横たわっている。そしてウーマンリブにかまけたフェミニズムは、誰も「弱者男性を専業主夫として扶養しよう」などとは決して言い出さないのである。
 男というのは、よくも悪くも「仕事をして、家族を養う」ということを目標に仕事をしている。それは弱者男性も同じことだ。いつかは仕事をして、家族を養いたいと思っている。だから苦しい。
 しかしその一方で、仕事をする強者女性は、本当に「仕事をして、家族を養う」ことを目標にしているのだろうか? むしろ「男に養われる」加護対象としての女性性と、ウーマンリブ的な男女平等論を、セコく使い分けているのが実態ではないか。

 私はバックラッシュに限らず、男女平等を語る時に「女性が家族を養うことについて、本当に真剣に考えているのか」この視点を忘れてはならない。
 既に各種ウーマンリブ運動によって、強者同志での平等感がかなり強くなった現在、そうして女性たちが受け取った権利に対して、ちゃんと義務が果たされていないのではないか。それが現在日本の男女平等論者が自省的に語らなければならないことなのだと、私は考える。


 こう考えると、八木秀次あたりがどう言ったの言わないのなんて、些細な問題でしかないことに気がつくはずだ。そしてそうした些細な論点で書かれた『バックラッシュ!』の本を男女平等論の叩き台にしてしまえば、そこから導き出される結論も些細なものでしかない。だから私は『バックラッシュ!』を批評ではなくて、非難する。

*1 といってもせいぜい戦後数十年間の話。
 それ以前になってしまうと『バックラッシュ!』で瀬口典子が述べているように、現在の性的役割をなんの疑問もなく当てはめてしまう(「現代社会では、男性が仕事をし、女性が家事をしている。ならば原始時代においても当然、男性が狩りをして、女性は子を育て、家の仕事をしていたハズだ(「マン・ザ・ハンター」モデル)」)ために、本来の行動様式と異なったイメージを持つことになりかねない。
 多分戦前や江戸時代だって、我々が考えるほど明確に当時の人々の生活や意識が分かっているわけでもなかろう。

*2 この時点で、私がこの話をどのような展開に持っていくか、分かる人は分かると思う。何度も使っている言い回しだし。

上記の話題に続いて。
 ここで大切なお知らせ。

 私は男女平等の実践として「私を養ってくれるお嫁さん」を募集します。

 いやいや、冗談じゃなくて、ある程度は本気です。現在彼女もいない立場ですので、本気にしてもいいですよ。
 ……つまり、強者女性が弱者男性を養う覚悟をもつことでしか男女平等を実現できないと考えている私は、自分自身をエサにして、本当に強者女性が弱者男性を養う意識はあるのかということを実験してみたいと思います。

 特典もいろいろあります。

 1、「仕事を辞めろ」とか絶対に言わない。 
 共働きで結婚するとなると、じゃあ仕事を続けるのか辞めるのかという話でゴタゴタしがちです。しかし、私が弱者男性である以上、稼ぎ手は女性であるあなたであることは明確ですから、当然仕事を続けていただくことになり、ゴタゴタがありません。

 2、「名字を変えなくていい」
 私は夫婦別姓マンセー論者なので、「俺の家に入れ」とか言いません。仕事にとっても名前は大切ですからね。
 なんなら、私がそちらの名字に変えてもいいです。

 3、「子供も特にいらない」
 女性にとって子供を産むことは、仕事にとって大きなマイナスとなります。時間のかかることですし、肉体的負担も大きいですからね。
 私は「子供がいなければ夫婦じゃない」なんて考え方はありませんので、自由に仕事をしてください。
 また、子供が欲しい場合でも、それは対応します。ただ、大家族だけは勘弁してください。2人以内で。

 4、「あなたの住んでいるところへ引っ越します」
 別に家にこだわりはありませんので、こっちがそちらへ引っ越します。
 ただ、できれば都市部、もしくは都市部にアクセスのいい場所がいいです。田舎より街が好き。

 いきなり結婚もあれですので、とりあえず結婚を前々々々々前提ぐらいに、お付き合いをしましょう。
 メールアドレスはトップページにありますので、よろしくお願いします。

 まぁ、もし本当に応募があって、俺が結婚できれば私も男女平等論についての認識を改めますし、応募がなければないで、「男女平等なんて言ったって、本当に平等にしようなんて誰も考えていないじゃないか」ということを実証したことになります。どちらに転んでも、私にとっておもしろい展開と言えましょう。

 おっ気軽にっ!!! さあどうぞ!!!(って、誰のギャグだっけ?) 俺を養えるもんなら養ってみろ!!!

伊集院光のジャンクに、ネタに扮して「男女同室着替え」の新聞記事を投稿した人間がおり、それが放送されてしまいました。
 バラエティー番組に対してまで、このような政治的な活動が露骨に行われる時代になりました。

たらこキューピー大人気!CM曲がCD化
 そうそう、そういえばこれ上野耕路の作曲なんだよな。

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 そうだ、はてなはリンク貼らないとTB送れないんだった。

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2006年05月08日
 ■ ブサヨクはいつまで団塊の青春を夢見続けるのか リベンジ

先日の記事はちょっと感情的になり過ぎてしまって、意味が取りづらくて申し訳ありません。
 私の彼らに対する苛立ちというのは、「大学自治」などという、今となってはなんの意味もない「活動のための活動」に対して、それが今だに存続していること。すなわち不要なことのためにマンパワーが使われてしまっていることを批難するならまだしも、それに過剰に同調し「すわ、大問題」のように馬鹿騒ぎする左翼が、あまりにバカバカしく感じるのです。

 テレビブロスの太田光の連載で、栃木リンチ殺人事件を扱っていた。
 太田は被害者が生き埋めにされようとしている時の最後の呟きである「生きたまま埋めるのか、残酷だなぁ」という言葉を取り上げ、「言葉が通じない」という事に対する諦めを論じていた。
 被害者が生き埋めにされようとしているまさにその時に、「やめろ」でも「殺さないでくれ」でもなく「生きたまま埋めるのか、残酷だなぁ」という、誰に話すでもないただの呟きに最後の希望を込めるしかなかったのは、まさに「犯人に対して言葉が通じないという諦念」によるものだと。

 よく左翼は「若い人の声が聞こえない」ということをよく言います。しかし、先日も書いたとおり、Web上をまともに注視していれば、いくらでも若者の声は聞こえてくるのです。
 逆に、前述の「早稲田でのビラ撒き逮捕」の池沼、いえ若者のような人に対して彼らが反応するのは「彼の声は左翼に届いた」ということです。
 その、聞こえた聞こえないの分かれ目がどこにあるのかといえば、その手法です。生活人としてWebで継続的に挙げられる声には耳を貸さずに、ビラ巻という古典的な手法をもって、大学自治のような無意味な雑音に対して、左翼の耳は敏感です。なぜなら、そうした無意味さこそが彼らの青春であり、古き良き学生時代を思い起こさせるからです。
 右肩上がり経済社会の中で、左傾の思想をもちながら会社というぬるま湯にどっぷり漬かって暮してきた「元左翼」にとって、青春の思い出に現実感がなければないほど、ただ美しい思い出に浸ることができるのです。
 フリーターやニートが社会問題を語れば、それは会社にいる彼らの悪徳を思い起こすことになります。しかし、大学自治であれば、かつてと同じように職員を敵として認識していればいいだけであり、彼ら自身はなんの苦痛も感じることはありません。
 しかし、それはもはやなんの意味も持たない「活動のための活動」です。現在論じるべき平和と平等は、それとはまったく別の場所にあります。左翼は正しく若者の声に耳を傾ける努力をするべきなのです。

6割が「5年前より格差」 20代は4人に1人容認
 私はこの件のもつ意味を、世間一般が考えるであろう意味とは真逆にとりたいと思います。
 つまり、年寄りは社会を「格差のないもの」とイメージしており、若者は「格差のあるもの」とイメージしているということです。
 そして、年寄りの「格差のないものイメージ」は、現実の格差に対して極めて冷淡な態度をとります。「格差がないはずなのに格差が生じているのは、何かがおかしいからだ」と判断し、「格差がない」方、すなわち正社員を肯定し、格差の存在、すなわち、フリーターやニートを執拗に批難します。
 一方、若者の格差を前提にした社会認識においては、フリーターやニートも、一般社会人、すなわち正社員と同じような地平に置かれます。そうした意味で極めて「平等」なのです。
(ちなみに、私の立場は、このどちらとも違う意味合いをもつ「第3の道」です。具体的には格差の存在を前提としながら、フリーターやニートを正社員と平等なのではなく、社会的に劣悪な状況に置かれた「弱者(個人の強弱ではなく社会的な強弱)」として認識することを要求します。)

 バブル以前の日本は、人を賃金的に平等にすることによって社会発展をうながしてきました。そしてそれは運良く成功しました。
 しかし、既にその方法論は有効性を失い、格差の存在は前提と化しています。考えれば、調査においての「格差を縮小すべきか否か」という質問自体が、バブル以前の「我々は十分に経済調整ができる」という方法論に乗っ取ったものであり、今や無効な方法論です。
 ならば、もう格差を前提とした論理以外は認めてはならないのです。現実を無視した論理は極めて有害なものであると、私は考えます。

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2006年05月05日
 ■ ブサヨクはいつまで団塊制青春の夢を見続けるのか。

ブサヨクはいつまで団塊制青春の夢を見続けるのか。

 成城トランスカレッジより、「「早大ビラまき青年逮捕事件」についての共同ブログ」

 は? お前ら今さらなにやってんの?
 このIT社会の現在において、わざわざ早稲田大学でビラなんか配って逮捕された池沼なんか放っておけよブサヨク。

 以上が正直な感想。
 本物の社会と抜き差しならない戦いをしている人たちにはロクに手助けしないで、今だに「学生自治」だとかそんなモラトリアムを延々と続けている池沼がいて、その池沼が捕まったからって、すぐに支援しちゃうブサヨクがいる。そんなんじゃ、若い人は誰も左翼をがんばって支えようなんて思わないよ。年金払うよりバカバカしい。
 それでもこうやって、いちいちこの事件にまともに取り組んじゃうバカがいて、コメントなんかを寄せるバカがいる。そんなに左翼の権威が欲しいのか、強欲め!!

 分かるよ。なんでブサヨクがこんな池沼を応援するのかは。
 「ビラ配り」はまさに団塊ブサヨクの青春であって、それと同じことをしている池沼に情が湧いてしまうんだろう。そしてそのことこそが、年配ブサヨクと、役に立たない若い池沼サヨを結びつけて、利権のやりとりが発生する。
 かくして、ブサヨクはこのどうでもいい事件に無駄な時間を費やし、真面目に社会を考える左傾の人間は左翼を見限る。もう少しいいかげんに考えていれば右に転向する。そして左翼に残るのはジジイと池沼ばっかり(藁)。

 この件でロフトプラスワンのイベントが行なわれた時に、松沢呉一さんが極めて冷淡な態度を表明している。

ビラ配りで言えば、迷惑防止条例で、敷地内にピンクビラを貼っただけで逮捕される。仮にそこが完全に私有地でも、公道から見えただけで逮捕。去年の7月からできている。また一昨年、東京都の青少年健全育成条例により、エロ本にシールが貼られるようになったが、あれはメディアをいつでも潰せる状態を作ったということ。一般にはエロの規制だと思われているが、第二条には「犯罪行為を助長する」ということが書かれているので、酒、タバコ、ギャンブルのようなものを書いただけでも潰すことは可能。昨年もWebでソープランドのガイドをしているHPが売春防止法で潰されている。これが他のジャンル(例えばオタク?)だったらもっと話題になっていただろう。

みなさんほとんど関心なかったと思いますが、自分がずっと訴えてきて相手にされなかったこと。既に手遅れ、現実はもう作られている。「エロ本はしょうがないだろう」「ピンクビラはしょうがないだろう」「セクハラはしょうがないだろう」と、問題の根幹を考えずになんとなくやり過ごすことでここまで拡大されてきた。もう既成事実はできているので、あとはさらに拡大するだけ。「エロビラは不快だから当然」というロジックの場合、どのようなビラも不快に感じる人はいるので、どんな内容であれ捕まえることができてしまう。これまで自分は「エロがつぶされていいのだったら、お前らも潰されろ!」と思ってた。それが皆さんのところにようやく来た(笑)。もう手遅れ、やってもしょうがない。でも、カラオケ仲間がいるからここに来た(笑)。

 ブサヨクはどうしてこの呉一さんの意見を汲み取ることができないのだろう。
 ブサヨクは、左翼を標榜するなら、大学自治なんて時代遅れな領域からとっとと離れろ。
 団塊ジジババの青春なんて腐敗物は、その辺のドブ川に放り込め。

 つか、俺はこの事件に、あの重信房子のバカみたいなピースサインに通じるものを見るんだよ……左翼は気味が悪いよ。本当に。

食べ終わった容器は座席の下に
 そういえば、昔は「電車の中で出たゴミは電車の中に捨てる」のが普通のことであったような気がして、調べてみました。

質問:昭和30年代電車の中で食べた駅弁のごみは座席の下に捨てた?(教えて!goo)
 床で寝る人ってのはすごいな。今でも早朝の電車で寝てる人は見ますけどね。まぁ空いてればいいや。

今の若造はマナーがなっていない!!
(リンクは一週間程度限定です。リンク掲載終了後の場合、「第2日本テレビ」の「もぐら骨董道」に行って、何でもいいから掲示板以外のコンテンツをクリック、左側の「時代ゆえ 若さゆえ」と書かれたバナーをクリック、そ一番下から3番目に「今の若造はマナーがなっていない!!」があります)
 かつての電車内の無法っぷりを垣間見ることができます。

 カメラのアングルがあまりに良くて、ヤラセの感じも受けます。あと、この当時の人たちは「カメラを向けられる」という事に対して、どう考えていたのでしょうか? 今の感覚なら自分が食事をしているところをアップで撮られるというのは、決して気持ちのいいことではないでしょうし。
 ただ、作業員の手慣れた様子を見るに、仮にヤラセがあったとしても、こうした状況が日常からかけ離れてはいないように思えます。

昔は車内に残されたゴミが今と比べ物にならないほど多かったように思います。

 昔の長距離列車は今と比べれは速度が遅く、長時間列車の中に拘束されることから、飲み食いは必要不可欠でした。そういう意味で、ゴミの発生は必然です。加えて、上の「教えて!goo」で言うようにゴミ箱がないのであれば、当然ゴミは床に散乱するわけです。

 あと、どこか忘れましたが、駅弁関連サイトの掛紙コレクションの中に「食べ終わった容器は座席の下に」というような文言が書かれたものがあったような気がします。どこだっけ?

 だから結論としては「別に昔の道徳なんて、実態はたいしたことではなかった」と言いたいだけですけどね。
 あと、日本人が極めて「過去を都合よく忘れる」ってことかなぁ。
 花見なんかの無法っぷりを特集したニュース番組見てて「日本人って、昔っからこんなもんだよなぁ」と思い出したんですよ。

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2006年03月13日
 ■ 更なる論点と、自己批判

右翼は弱者から金を取り上げる。左翼は弱者に金を与えない。
 結局、両者がタッグになって、我々を苦しめているわけですね。
 よく分かりました。ありがとうございました。

いったん終了といいつつ、こぼれ落ちていた論点と、自分の考え方に対する自己批判を少々。

 まずは、こぼれ落ちていた論点から。
 簡単に言うと、「努力したこと」と「経済的成功」の間に因果関係は成立するのか? という疑問。
 ひとまず昨日までの記事では「給料」という視点からこのことを見ていたけれども、その本質は高度経済成長という文句の付けようもない「世代的」成功が、「個人的」成功に結びつけられ、「我々は努力をしたのに、若いやつらは努力をしていない」という話になってしまうということ。「下流社会」なんてのは完全にそういう話だし、これを「ゲーム」という因子にすり替えれば「ゲーム脳」になる。「教育」を因子にすれば「ゆとり教育でおかしくなった」「教育勅語を教えるべきだ」という話で、さらに「世代性自体」を因子にしてしまえば「若者がなにかおかしい」という話になる。
 つまり、高度経済成長という成功体験が、高度経済成長世代の体験をすべて成功の因子であるかのように偽装すると同時に、それと意の沿わないものを失敗の因子であるかのように理解し、失敗の因子を排除しようとすること自体が「高度経済成長世代の傲慢」であると、私は考えている。
 まさに昨今の「高度経済成長世代の暴走」はこれに支えられている。

 けれども、素直に考えれば、高度経済成長と個々人や世代の体験の間に、因果関係などないことは明白。そんなことで経済が急成長するなら、世界中に不況を訴える国などなくなるだろう。
 現代のグローバリズム経済の中では、個々人の経済コントロールなどは大シケの海の中で小舟の櫂を必死に漕ぐが如きもので、ハッキリいえば「運」みたいなものだ。
 その一方で、経済状況にそれなりに影響を与えるはずの政府や国の金融は、高度経済成長世代がコントロールしているくせに、不況にまったく太刀打ちできない。そのことの責任を個々人の意識に押しつけるのは、卑怯以外の何物でもない。
 しかし「高度経済成長世代の行いは、すべて成功の因子」と信じて疑わない連中には、そういう当たり前のことを、さっぱり理解することができない。だから当たり前にされるべき政府批判が、なぜか若者批判にすり変わってしまう。
 こうした状況は、国民が主権者たることを忘れ、次世代を萎縮させ、国全体を萎えさせるという重大な問題である。

 今度は、自分の考え方に対する自己批判。

 私は簡単に「給料」と言ったけど、その給料はどの水準で給付されるべきか。
 私はいまの「生活保護」という制度は、全くその存在意味をなさないと思っている。
 不正給付がどうのという問題ではなく、既に極めて時代遅れの生活レベルでしか、保護ができていないという方の問題だ。
 たとえば「クーラーは贅沢」などというのは、確かにクーラーがなくても生活できることはできるだろうから、構わないが、じゃあ携帯やパソコンなどという、既に基本的なインフラとなっているものに対して、これを給付していくことができないのは大きな問題である。
 ああ、生活保護から離れよう。
 生活保護とか関係なしに、とにかく私が要求する「生活上最低限のレベル」というのは、すなわち「給料」であり、それは人間が「経済的プレイヤー」として自立できるレベルなのである。
 それはもちろん、携帯やパソコンを通してネット接続ができることが前提である。ネット以外でも、スーツを着れて、電車やバスで遠くまで移動できて、ということでないと、経済的プレイヤーとは決していえない。
 既に「地元」社会に経済的多様性はないのだから、個々人のパフォーマンスを存分に生かそうとすれば物理的に電子的に多くの距離を移動できなければならない。
 すると、当然コストは大きくなるのだから、それをどこで調達するのかという批判。
 もちろん、私は「給料」をセーフティーネットとして考えるのだから、「仕事」から当然調達することになる。自然にそれは「社会的末端の仕事をしている人に、ちゃんと人間として自立できるだけの給料を与えられるのか」という話ということになる。

 しかし、社会の末端の人間の給料が上がれば、当然のことながらインフレが起る。
 それは貨幣の流通量ということではなく、貧富の差というものが富めるものの「意識的豊かさ」、すなわち「俺はアイツらよりこれだけ金を持っているのだから、金持ちなのだ」という優越感になるのだから、その優越感を持ち越すために、金持ちがさらに儲けようとする。そういういたちごっこが起るがゆえに、インフレが起る。

 すると、結局はどこまで行っても、結局は同じことなのではないか。というのが、自己批判だ。
 金持ちである高度経済成長世代を批判しながら、結局は高度経済成長世代が若者に平等(個人的資質や努力に差などないのだから、平等に金が降りてくるのが当然)に金を与えてくれることを期待するしかない。そういう諦念が自分の記事に見えてしまっている。

 まぁ、だから少しでもそうしたことを相対化するために、こうやって高度経済成長世代批判をしているわけだけどね。

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2006年03月12日
 ■ 金こそが自由を担保する

金こそが自由を担保する
 今回でこの流れはいったん終了。明日の更新からは下流社会に戻る予定。もっとも、これも下流社会繋がりではあるわけだけど。

 「NWatch ver.5」より

 だったら資本主義社会を壊せば良いじゃないかと、僕は本気でそう思う。今生きている社会構造の中でどう人々を治めるかを考えるのは、保守の役割であって革新の役割じゃない。革新はその「お金がなければ生きていけない」という社会構造を壊せとアジる人達なんだから。

 うん。別に壊せばいいというなら、壊してくださいよ。
 しかし、それをするのはあなたたちですよ。
 自らは資本を腕の中に抱え込み、物欲にまみれた旧来左翼がロクにそれをやらないで、なんで苦痛と苦悩に苛まれる我々がそれを実行しなければならないのか。
 こうした「弱者にスーパーマンになれ」と迫るがごとき論理は、完全に当人の責任を棚上げしています。
 資本主義にまみれたぬくぬく左翼が自らは責任を放棄し、貧乏人に自己責任を迫るなどというのは、イラクの人質事件に対する、自己責任を放棄した批難と、大して変わらないのでは?

確かにその様な方策によって世代間の格差は解消されるかもしれないが、しかしそれはまた別の格差を生み出すだろう。資本主義社会はそれが資本主義である限り必ず格差を生み出す。例えば、この記事では団塊世代がみんな裕福であるかのように語るが、しかし実はホームレスの平均年齢はそのまま団塊世代の年齢と合致することからも分かるように、団塊の世代の中にも格差は存在するのだ。若者に対して国家賠償を行うことは確かに世代間格差は無くすかも知れないが、しかしその裏でこの様な世代内格差は無視される。それが本当に左翼の目指すべき道なのだろうか?

 私は今回の文脈の中で「若者に給料を!」と訴えているけど、それはホームレスに対しても同じことですよ。「ホームレスにも給料を!」。(「給料」というのは「お金と仕事」なので、お金だけを与えればいいという話とは違う)
 つまりは、人間が生きるに必要なセーフティーネットを弱者に適用すべきで、そのセーフティーネットは給料だ。ということが私の考え方の原則です。そして、そのセーフティーネットを準備するのは、差別丸出しの右翼ではなくて、平等ということを言う左翼しかないのです。左翼ってのはそういうことをしたいからこそ左翼なんでしょ。
 ところが、なぜか右翼が積極的に若い人をオルグして、左翼が見て見ぬふり。そこには、高度経済成長世代の「給料は空気」という傲慢があると、私は見ています。

 もっと根源的なことを言ってしまえば、「金こそが自由を担保する」のです。
 左翼が若者の窮状に大して無関心なのは、まさに「♪お金よりも大切なものがある〜(サラ金のCM)」などと傲っているからに過ぎないのです。
 そしてその傲りは、かつての高度経済成長、すなわち寝てても給料が上がった特殊な時代の存在を前提条件にし続けている、大人の左翼の傲慢です。
 思えば、現在の左翼運動体など、大学に行って政治活動などをして生活できていた裕福なお坊ちゃんお嬢ちゃんたちの集まりなんだから、貧乏人のことなんか分かるハズもなく、「セーフティーネットとは、給料だ」なんてことを叫んでも、彼らにとっては「空気なんてその辺にあるじゃないか」としか実感できないのでしょう。だから「それ以上の霞」ばっかり求めて、弱者にとってはなんの役にも立たない。旧社会党や共産党の凋落ってのは、そういうことではないのですか?
 確かに人生にはお金よりも大切なものがあるのかもしれませんが、必要最低限の給料、すなわち人間の尊厳を担保するレベルの金がなければ、人生自体が「ない」のです。

 ここから少しトーンを変えて。
 私は、現状においては資本主義がもっとも優れた「自由な」主義であると考えます。
 その理由は「金」という権力に対するオルタナティブが存在するからです。
 共産主義とその途中の社会主義がなぜ失敗するかといえば、金が権力によっていったん握られる構造になっているため、権力に対する強力なオルタナティブが存在しないからです。

 「金」のオルタナティブ性は、最近で言えば堀江が巨大な経済界にあそこまで肉迫したことが一例として挙げられるでしょう。
 最終的には地検という権力により堀江は潰されましたが、「金があれば権力側に回れる」という交替可能性が現実に存在することが、あの件によって明らかになりました。
 私がネオリベを憎むのは、政府が金の再配分(共産主義と違って、掌握ではない)を放棄し、金そのものの流通を権力側でのみさせようという思想であるからですが、その点についてはネオリベも共産主義も似たようなものです。
 私は権力に対するオルタナティブとして機能する金を幅広く流通させるべきだと考えますし、経済論理からみても、幅広いプレイヤーの存在は必要不可欠なのです。
 ならば、資本主義下の政府の役割とは、まさに「金を幅広いプレイヤーに流通させる」ことであり、現在のフリーターやホームレスなどの経済弱者に対する政策不足は致命的な政府の怠慢なのです。そして、その怠慢の中に左翼勢力も含まれるのです。

左翼は—例えそれが如何に困難であろうと—世界の全ての人が幸福になれる道を探すべきなのだ。

 私はそれを「資本主義社会の下、全ての人間が経済的プレイヤーでいられる社会を形成する」ことであると考えています。これは別段目新しい論理でもなくて、単なるセーフティーネット論です。ただ、唯一「セーフティーネット=給料」と、具体的に考えたことだけが違います。
 「社会保障」という極めて曖昧な言葉で括られていたセーフティーネット論に、「給料」という具体性を持たせることにより、「弱者を誰かに保護されるだけの存在であることを前提に保護するのではなく、十分な社会的主体として活躍できる存在として認めさせなければならない」と、私は強く主張しているのです。人間が「社会的主体」であることが、すなわち「自由」です。私はそう自由を理解しています。
 右翼が弱者の保護を認めない一方で、左翼は「被保護者」としての保護しかしようとしない。右翼が弱者を殺すのならば、左翼は弱者を生かさず殺さずの範囲でしか保護しようとしません。
 そうした左翼の勘違いは、まさに「給料なんて簡単にもらえるじゃん」という高度経済成長世代の傲慢から来ているのです。
 左翼はそうした旧来の考え方を放棄し、給料を得られない存在がいることをベースに、スタンスを組み替えるべきなのです。それができていないからこそ、若者が右翼側になびいていっているという現状があるのです。

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2006年03月10日
 ■ 団塊世代ハ神聖ニシテ犯スヘカラス

団塊世代ハ神聖ニシテ犯スヘカラス

 昨日の「問題は「金」という言葉が有するイメージ」に多くの反響をいただいているようで、嬉しい限りである。
 しかし、なんか私の明示した問題点がちゃんと伝わっていない。ウヨだサヨだのいう論点を利用した私が悪いのかも知れないが、それにしても……
 特にclawさんのところは、clawさん自身も、そのコメントも、問題をあまりに短絡視し過ぎていて、「給料を貰うことが困難な底辺を這いずるしかない若者にとって「金」というのは、人間の尊厳そのものである」という、もっとも重要な視点にまったく降りてきていない。
 山野やタイゾーなんてのは、あくまでも例示に過ぎないのだから、そこに突っかかったって意味はない。

 コメントを一つだけ抜き出しておく。

# anderson 『バブルでエエ目でけへんかったからウヨになるんや〜って、そんなアホな。

 なにを勘違いしているのかは知らないが、私はあくまでも左翼が本当の弱者である若者に対して「何もしていない」ことを批難しているのである。
 左翼が若者を無視する一方で、右翼が意図的であるかないかは関係なしに、若者に対する「真っ当に扱われる道」のようなものを示してしまっているからこそ、若者が右傾化するのである。
 若者に限らず、ほとんどの人間が、自らを丁寧に扱ってくれる方に行きたがるのは、当然の事である。確かに右翼側は若者を「奴隷として」丁寧に扱っているというのは、確かにその通りなのだが、ならば左翼はどのように若者を扱っているのか。部落や在日にかまけて、若者の事などほとんど省みてないのが現状ではないか。
 だから、私は左翼を批難しても、弱者たる若者を批難しない。ここで若者を批判するのは、「黒人労働者のスト破りを批難する白人活動家」のようなものである。(それがまさに、左翼の現状だろう)
 左翼が若者を無視し続ける限り、若者には右傾化し、一部権力者の奴隷に成り果てるしか生存の道はないのである。

(4)左翼は若者に未来の可能性をひとつ(またはそれ以上)もたらす。(clawさん)

 なんてことは、実際に若者に可能性を与えてから言うべきだし、

 結局奪うのではないか、と言うかもしれない。どこが違うのか。少しでも後ろめたさを感じなくていい、そういう影が少なくて済むような金を与えてくれるのが、左翼。金なら同じだと言うのが保守。金以外のものとの両立を目指すのが左翼。金以外のものを差し出せというのが保守。共に取り戻そうと言うのが左翼。奪ったものを奪った相手の目の前にちらつかせることを恥とも思わないのが保守。(mojimojiさん)

 なんてことは、実際に若者に「そういう影が少なくて済むような金」とやらを与えてから言うべきだ。

 左翼は若者から奪うだけで、何も与えていない。
 与えているというなら、理屈ではなく右翼のように実例を示せ。

 さて、単純な反論はここまでで、ここからは「なぜ左翼は若者に金を与えないのか」ということを考えてみたい。
 いや、もう少し考えてみる対象を広く取ろう。「左翼は」ではなくて「大人は」にするべきだ。私は決して右翼が「積極的に若者に金を与えようとしている」などとは考えてなくて、右翼だって若者から搾取することばかり考えていると、考えている。
 実際、お国のために死ねだとか言うのは右翼だから。

 そう考えると、お題は、「なぜ「大人」は若者に金を与えないのか」ということになる。
 つまり、「若者に金を与えない」のは、右左かかわらず、大人の共有意識と考えることからスタートする。
 で、ここでさっそく疑問が浮かび上がってくる。
 「「大人」っていうのは、誰のことなのか」という疑問である。
 厳密に考えるのも面倒なので、とっとと定義する。
 「35歳以上が大人」だ。
 理由としては、いわゆる「ニート」における「若者」の定義が34歳以下になっていることから、このように考える。
 そして、34歳以下というのは、今の日付現在では「団塊ジュニア以降」ということである。
 すなわち、団塊ジュニア以降は「若者」で、団塊ジュニア以前が「大人」と、こういう定義を行なうことにする。
(ちなみに、この34歳以下は若者だというニート論での区割りは、年金をもらうために国民年金を支払う最低年数の「25年」という所からきていると思われる。こうしたことからも、ニート論はニート当人のための議論ではなく、年金問題解決するために持ち出されているという現状が理解できよう)

 さて、一度、世代論で話を括ってみよう。
 世代論的に考えると団塊ジュニア以前は、たとえば団塊の世代であるとか、新人類世代であるとか、いろいろ言われているが、これらをひっくるめればバブル以前の「高度経済成長世代」ということになる。すなわち、経済的な挫折をほとんどと言っていいほど味わったことのない世代だということ。一方の団塊ジュニア以降は経済的な成功をほとんどと言っていいほど味わったことのない世代である。

 前回でも記したように、高度経済成長世代は、給料を空気のような物として、それを得ていることに何ら疑問を抱かなかった世代である。それは経済が成長を続けていたからだ。
 一方で若者は、社会人になった時にはバブルは弾け、経済の成長もほとんど止まってしまったのだから、給料を得ることが「人間扱い」の第一段階になる世代である。

 ここで小杉太一郎さんの意見を考えてみる。

で、左翼は若者にいったいなにを与えてくれるんだい?という問いかけはまさに現在の左翼の問題点をずばり突いている。だが−これは先ほどの宮崎学氏のサイトに対しても言えることなのだが−お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい考え方だと思う。

 私はこの論点に、高度経済成長世代の傲慢を見る。
 いや、別に小杉さんが高度経済成長世代なのかどうかは関係ない。
 真の問題は、高度経済成長世代の傲慢を、日本人の大半は決して傲慢と見ないということの方にある。
 私が前回提示した問題そのものが理解されないのは、日本人の大半がどっぷりと、この傲慢温泉というぬるま湯に浸かって、現実に目を向けようとしないからだ。

 さて、「お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい」というのは、一体どういうことなのか。
 「一億総中流」という言葉がある。これは1970年ごろから言われるようになった。
 単純に考えれば「みんな真ん中程度の収入を得られるようになった」という意味だが、グラフを見れば分かるように、本質的には「下」が少なくなったという意味である。
 嫌下流社会の方でも述べている通り、ここで扱っている「上中下」というのは、客観的な経済的状況ではなくて、主観的な意識なので、この一億総中流という言葉は、「下、すなわち貧困がなくなったとみんなが思っている」という意味になる。

 そして、小杉さんのいう「お金があれば自尊心=尊厳が得られるというのはちょっと古くさい考え方」という意識はこれから生まれている。つまり「一億総中流社会なのに、今さら貧困はないだろう」ということです。そういうと小杉さんは否定するかもしれないが、現実に格差が広がって賃金が問題になっている今、そのような事を「古い」と断言するためには、ここまで時代を遡らないと、そう言えないのだから。

 ここまでをまとめると、こういうことになる。
 「一億総中流時代になって、貧困をなくしたと、高度経済成長世代は思っている」

 その後、バブルが崩壊し、一億総中流が崩れたと考えられた、すなわち「貧困が再発生し始めたと考えられた」(ただし、先のグラフを見ると分かるとおり、自分が下だと思っている人は増えてないことには注意)時に、右翼は「愛国心のが大切である」というパラダイムシフトを明確に行なった。そして彼らは「戦後」を否定した。
 一方、左翼は戦後高度経済成長時代の中で、貧困が失われたことを重要視し、決して戦後の高度経済成長時代を否定することはない。
 だが、ハッキリいえばこうした左翼の態度こそ鼻につくものはない。

 終戦後の困窮しきったた日本から貧困を追放し、一億総中流を成し遂げた。このことは、高度経済成長世代にとって、自尊心の最大肯定となった。
 しかし、そのことは「高度経済成長世代」という全体において言うことはできても、高度経済成長世代の個々人が高度経済成長を達成したわけではない。あくまでも経済としての総体がそうなったに過ぎない。
 だが、世代論と個人は安直に結びつくもので、高度経済成長世代の多くが、自らの個人的な良否を振り返ることなく、こうした成功を自らの功績として誇りと考えている。
 こうした精神構造の人間が、一方の「経済的成功を味わったことのない」団塊ジュニア以降の世代に対して、偏見を持つのはごく自然なことだろう。
 我々、団塊ジュニア世代以降の若者たちは、いつだって大人の自慢につきあわされることに辟易していた。
 そしてその自慢は、我々への安直な攻撃となって、我々を貶めた。
 だから、我々は高度経済成長世代が大っ嫌いなのだ。自分たちだって大したことなんかしてないくせに、たまたま運良く高度経済成長の時代に生まれただけで威張っているのだから。

 そう考えるようになれば、若い人たちは当然、「高度経済成長世代を否定するために」、戦後を否定する右翼に習って右傾化する。
 もちろん右翼が「戦後を否定している」といっても、高度経済成長を否定しているわけではない。経済成長で得た金を両手一杯に抱えながら、金の他にも大切な何かがあるかのようなポーズを見せているだけのことだ。
 その点で右翼も左翼も同じ穴のムジナだ。両者にとって高度経済成長時代は「神聖ニシテ犯スヘカラス」ものである。右翼も左翼も自分たちが金を抱え込んでいることに対して、なんらおかしさを感じていない。まさに彼らにとって給料は「空気」なのだ。

 さて、では我々はこうした構造に対して、どのような解決策を持つのか。
 私はそのことを考えた時に、「若者にお金を与える」ことが、もっとも簡潔かつ自然な解決方法であると考える。
 つまり「失われた10年」の不幸をモロにかぶった若者たちに対して、国家的な賠償を行なう必要がある。

問題は「金が無い」ということではなく、「金があっても何かが足りない」ということではないだろうか?そしてその問いに対しに対し右翼は「公の気持ちがないのだ!」とか「愛国心がない!」と言い、共同幻想によってその穴を埋めてくれる。では左翼は一体そういう全体主義的答えを出さずに、何で穴を埋めるのか?または、如何に穴がある状況を肯定する社会を作り出すのか?それこそが今左翼に問われている根本問題なのである。

 理想論としては、もっともな意見ではあるが、現実に満足に給料がもらえない若者が多くいて、それに対して大人が偏見を持っている(=すなわち、大人はバカなのだから期待できない)以上、若者に給料を与えることが、解決のもっとも重視されるべきファーストステップである。
 我々は資本主義社会に生きる以上、金が無ければ生きられないのだ。思想だなんだのは、最低限の金が得られてからの話である。
 それを否定し、さも思想だけで生きられるかのように吹聴する左翼が、「エスタブリッシュメントぶっている」と言われても、仕方がないだろう。

#いろいろ考えてみたけど、まだ全然論理展開が荒いなぁ。

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2006年03月06日
 ■ 問題は「金」という言葉が有するイメージ

問題は「金」という言葉が有するイメージ

「CLick for Anti War 最新メモ」の2006-03-03 より
 個の中で引用されていた「嫌韓厨が顔まっかにして泣きながら怒る一言って?」スレッドの引用に、こんなものがある。

【一言】
「山野車輪って、一生『嫌韓流』しか描かないのかなあ?」

【解説】
「代表作は『嫌韓流』です」・・・かなり香ばしい漫画家人生ではある。
思うに山野車輪は、一般的な漫画家が持つメリットのほとんどすべてを
捨ててる気がするんだが。つまり、

・サイン会ができない
・友人に自慢できない
・親戚に自慢できない(「親戚が口をすべらして正体バレ」が怖いので)
・漫画家の友人ができない(同上)
・海外版が発売されない
・テレビに出演できない
・メジャー誌に書かせてもらえない

等々。

 確かに、箇条書きにされた内容はその通りだとしか言いようがない。
 ただ、問題は箇条書きの部分ではなく、ここでされている前提に隠されている。
 具体的には山野車輪を「漫画家」と称している部分である。

 私はハッキリいって、山野の絵がうまいとは思えない。同人誌レベルだと思う。
 具体的には、現在の劣化した富樫の絵を、さらに劣化させた同人作家の絵だなぁ。と思う。
 普通のマンガを描いていたんじゃ、絶対に売れなかったと思う。

 しかし、現状、多くの人が山野を知っている。
 少なくとも、山野の名前は知らなくても、彼の描いた作品を多くの人が知っている。
 そして、多くの厨が山野の作品を買っている。
 山野にはかなりの印税が入ったはずだ。

 結局、山野は嫌韓流を描いたからこそ、こうして「漫画家」と呼ばれて、それが社会に認知されているのだ。
 つまり、山野はそもそも嫌韓流がなければ漫画家として認知されることはなく、引用先の人の言う「漫画家が持つメリット」などを得られなかったわけで、そう考えれば「嫌韓流」は、山野にさまざまなメリットを与えはしたものの、何も奪うものは無かったのだ。

 山野は、ウヨに支えられ、ウヨのおかげで漫画家と社会に認知され、十分な収入を得ている。そしてこれからもウヨのさまざまな出版物に、その生活を支えられるだろう。

 じゃあ、左翼は誰か若者の生活を支えているのか?
 ……ここに支えてもらいたいのに、全く支えてもらえない人間がいるじゃないか。

 小泉政権は決して意図的ではなかったが、杉村太蔵という「ニートみたいなもの」を手に入れた。
 その存在はマスメディアにとっては「面白いもの」であったが、一方でいつも批難され、仕事はもちろん人間性すら団塊の世代に奪われ、底辺で這いずりまわらずをえない若者たちにとっては「うらやましい」対象となった。
 山野も同じで、冴えない漫画家みたいなものが、ウヨの力添えによって本当に漫画家として認められ、収入を得られるようになった。
 それは若者たちにとっては、まさに「シンデレラストーリー」だ。
 当然、彼らはこう考える。
 「俺も、自民党を支持して、韓国の悪口を書けば、いつか認められる日がくるのではないだろうか?」と。

 それを「あまりに単純過ぎる」と笑うのは簡単なことだ。
 だが、それを笑えるのは、笑う側が若者たちの苦境を理解せず、さも自らが「ちゃんと生きてきた」かのように錯覚しているからである。特にウヨ厨を嘲笑う左翼は、自らをエスタブリッシュメントだと思い上がっているから尚更。


 私はそうした思い上がりを「金」という単語のイメージに見る。
 若者は「お金が欲しい」という。そうした風潮を、いわゆる「大人」は批難する。
 やれ「拝金主義」だの「働け」だの「努力が足りない」だの。
 しかし、高度経済成長という幸福な時代に育った人間には分からない。
 「金は天下のまわりもの」であって、決して当人の努力や才能に応じて、正確に分配される物では無いということが。

 そもそも、いわゆる「大人」が年齢を経るにしたがって、給料が順調に上がり、「いつかはクラウン」「いつかは持ち家」などと夢想し、それを実現してきたのは、彼らが生きているのと平行して、経済の驚異的な成長があったからだ。
 あの時代は誰もが「普通に会社にいれば給料が上がった」のであり、決して当時の会社員が何か重大なことをなしとげたからこそ給料が上がったなどということでは、決してない。
 高度経済成長の当時、給料が上がるのは当然だったし、そのことを誰も疑問視しなかった。人は成功を確信している時は、そのシステムを疑問視などしないものだ。
 そうして成長したいわゆる「大人」達は、「給料を得る」事を、空気のように扱っていた。
 誰もそのことに疑問を持たなかったし、それでも日本経済は成長していたのだ。

 それからのちはバブルが崩壊してなんとかかんとかでこんな状態。
 ところが、それでもいわゆる「大人」達は、決して給料を手放そうとはしなかった。彼らはそれを受け取るのが当然だと考えていたし、社会もそれを当然として考えることで成り立っていた。
 そこで、彼らは若者に与えるべき金を奪い取った。
 そうした行為が問題視されなかったのは、ひとえに「大人が若者の金を奪い取っても、若者は当然給料を受け取るものだと考えていたから」にすぎない。
 ここで、「一体どこからその給料はでるのか?」と疑問が浮かぶのが当然である。しかし、給料をもらうことを空気としてしか考えていなかったいわゆる「大人」達は、そんなことを考えもしなかったのだ。

 やがて案の定、若者たちの中で給料をもらえない人が出てきた。
 そこで彼らは疑問に思った。「なぜ、彼らは給料を得ることができないのか」。
 もちろん答えは「経済が停滞しているのに、大人の給料の水準を維持し、その分を若者に支払うべき給料から奪い取ったから」だ。
 しかし、彼らはそうは考えなかった。給料は「普通」に生きてさえすれば、貰えて当然のものだと信じて疑わなかった。
 別にその結論を書く必要性はないだろう。現在の若者に対する無責任な視点のほとんどが、この答えなのだから。


 さて、ここまで書いて、ようやく本題に入れる。
 問題は「金」である。

 給料を空気のように貰ってきた大人にとっての「金」は、「自分たちの標準的な生活に対するプラスα」である。
 給料という土台自体は空気なのだから、「金が欲しい」と言えば、具体的には「もっと贅沢をしたい」「もっといい車に乗りたい」「もっといい服を着たい」という意味になる。逆に「金なんか欲しくない」と言っても、それは給料を貰うことを前提にした言葉である。「清貧」などと言う言葉が流行ったことがあるが、その意味は決して「貧困」ではなく、ただ「あまり金を使わない」という、基礎的な生活に立ち返るという意味でしかなかった。

 一方、給料を貰うことが困難な底辺を這いずるしかない若者にとって「金」というのは、人間の尊厳そのものである。
 もはや給料を「空気」と感じられない若者にとって、「金がない」のは死活問題である。土台は既にないのだから、金を得て初めてそれを土台にすることができるのだ。
 そして、給料という土台の存在を前提としてきた日本社会において、土台が存在しない人間など、人権がないのと一緒なのだ。だから社会は「ニート」などという言葉を捏造してバッシングをくり返しても「おかしい」などとは考えない。
 だから若者は「金が欲しい」という。それはすなわち「人間として認めてほしい」という魂の叫びですらある。


 山野車輪や杉村太蔵は、ウヨや自民党によって「あなたは人間である」と認めてもらう事ができた。
 その実績の存在は、這いずり回る若者たちを十分に引きつけ、魅了した。そして若者たちは希望を持った。

 で、左翼は若者にいったいなにを与えてくれるんだい?

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