2006年09月16日
 ■ 格差問題を大ざっぱに分類してみるテスト

思いつきにつき、メモとして。

 昨日書いたような「左翼と若者弱者の離反」が起るのは、それぞれが論じている「格差問題」が、同じ言葉を使いながら、まったく内容の違うものだからではないだろうか?

 とりあえず「格差問題」を3つにザックリ分けてみる。

 1、現行の社会システムが必然的に発生させてしまう格差の問題
 これは、もともとこの手の問題が「格差問題」と言われる直接的なきっかけになった佐藤俊樹の『不平等社会日本』や、山田昌弘の『希望各社社会』で論じられているような、日本のシステムが必然的に格差を生み出してしまう問題としての「格差」である。
 佐藤俊樹は、職業が決して各人の能力に従った適正に沿ってあてがわれるのではなく、親がホワイトカラーなら、子供もホワイトカラーになりやすいという関係性を見つけ、決して日本は平等ではなく、一億総中流の社会が過去のモノ(団塊世代の時点で、既に過去になっている!!)であることを暴き出いる。
 山田昌弘は教育システムや家族のありように注目し、社会から「ローリスク(一般のサラリーマンとして、普通に勤め上げる)」な選択肢が失われつつあり、それが二極化に繋がっていると警告している。
 こうした「社会システム要因説」は、格差問題の本線であり、本来ならばこのことの議論こそが、格差問題を真に解消するために必要なことだと考える。
 しかし、この問題はその「格差問題」という言葉の扱いやすさ故に、意味がねじ曲げられて現在に至っている。
 これをねじ曲げたうち、影響が大きかったであろう問題が、以下の2つだ。


 2、古典的な差別問題、弱者問題としての格差問題
 社会システムとしての社会問題という考え方から、格差問題は左翼にとって親和性の高い問題のハズであった。
 しかし、親和性が高いが故に、左翼にとっての「格差問題」は、「一億総中流の終焉によって、職業は固定化し、ローリスク選択への希望が失われていく」という1の論点から、旧来的な「ブルジョア−プロレタリアート」「男性−女性」といった、左翼にとって触りのいいだけの問題が、「格差問題」という文脈で語られ始めます。
 その多くは、普通に平凡な生活を送る、ローリスクを選択できたような人たちが自分を弱者認定し、国や政府を相手に文句をいうという、まさに旧来的な方法で語られました。

 3、ニューカマー批判としての格差問題
 格差問題が徹底的にゆがめられる事となったのが、ホリエモンや村上ファンドといった「成金」を目の前に、「一生懸命働いている我々が云々」というルサンチマンに彩られた、ITバブル批判的な格差問題。
 同時に若者批判も包有しているのが特徴で、議論の精度は、2ちゃんねるで言うところの「祭り」と変わらない。
 しかし、問題は2ちゃんねるの祭りが大抵は時間とともに沈静化するのに対して、大人たちの「祭り」は、誰かを確実に吊るし上げるまで終らない点。結局ホリエモンも村上も、イチャモンつけられて潰されましたとさ。
 一見、2の「ブルジョア−プロレタリアート」に見えない事もないけど、これは具体的な「あいつ」がバッシングの目標なのであって、「資本家」という括りで批判しているのではない。

 とりあえず、メモとして、思いつくままにここまで。後はまた後日。

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2006年09月15日
 ■ 格差社会を容認する類の弱者が望むもの

この記事についての注意。
 この文章は2006年9月15日に書かれたものであり、いまの私は、この文章のママの考えかたをしていません。
 また、私の男女問題の認識につきましては『若者を見殺しにする国』(双風舎)の中に記していますので、必ずそちらを一読していただけるよう、よろしくお願いいたします。

 Blog記事というのは、あくまでも著者の考えかたの断片を記しているに過ぎず、その言説を行うためのさまざまな仮定された条件を読み解いて、始めて著者の考え方が読み解ける物であると考えています。
 この記事は、私が論壇デビューする前のものであり、さまざまな考え方や書きかたの実験を含んでいます。
 特に「過去の記事」というのは「その時点で考えていたこと」に過ぎません。一度でも過去になにか書いたら、一生、その発言について責任を取れという考え方を私は好みません。

 本当なら、過去の文章に手を入れるのは好きではないのですが、Wikipediaによって、過去の一記事のみによって、さも私が女性差別をしているかのように吹聴されているという被害がありますので、このような形で特別に記載させていただきます。 (2009年6月11日 追記)


「ニュースの現場で考えること」「格差社会は悪くない。悪いのは、あなただ!」というエントリーを読んで、大変納得してしまいました。
 「弱者はもう格差社会を容認しているのだ」と。そして、その容認はこれまでの「不公平な平等策」にあるのだと。

 我々弱者が最も憎むのは「不公平さ」です。
 弱者は「世の中が不公平だから、我々は弱者なのだ」と感じています。
 そして、その不公平がどこから来るのかといえば、政府の不公平な弱者救済策であると感じています。
 「我々がこれだけ苦しんでいるのに、我々の手には援助がまったく得られない。にもかかわらず、我々以外には援助を得ている人間がいる」と思っているわけです。
 ですから、我々が憎むものは「不公平な弱者救済を掲げる人間」と「不公平な弱者救済を受ける人間」です。
 「不平等な弱者救済を掲げる人間」とは、社民党や共産党といった左翼です。
 「不公平な弱者救済を受ける人間」とは、エントリー先に書かれているような、公務員や農業従事者、さらには職業で言えば、箱物行政で利権を得る土方。そして私の意識で言えば、もはや差別などほとんど無きに等しいのに今だに非差別者としての特権のみを得ている、女性や在日や部落。こうした人たちです。
 彼らが優先的に救済される社会においては、我々のような「新しい弱者」は弱者として認識されません。
 そのような不公平が我々にのしかかるからこそ、我々は右翼や小泉を支持してしまうのです。
 弱者にとって「不公平の是正」は「格差問題」よりもはるかに重要なことなのです。

 で。
 ここで終ってまた一ヶ月前のような話のくり返しになっても困りますので、話をここから展開させます。

 で、このような状況において、右傾した若者弱者と、左は対立しています。
 しかし、その対立は直線的に相反する、真っ当なベクトルを持ったものではありません。
 若者たちは左の言いたてる「不公平な弱者救済」に対して、不信不満を持っています。
 一方で左側は、政府のネオコン的政策に対する批判、すなわち「格差問題」に対する提言をくり返しています。
 図にするとこんな感じです。

ネットウヨクは左翼を批難し、左翼は政府を批判するから、批判が噛み合っていない

 ネットウヨクの非難が左翼に向いているのに対し、左翼はあくまでも政府批判の立場であり、非難に対してまったく対峙していません。ハッキリいえばネットウヨクを無視・嘲笑している。そのくせ、ネットウヨク以外の若者に対しては、味方をしているつもりになっています。
 そうして、左翼が若者を無視している間に、自民党はB層取り込み策を弄して若者をオルグしています。

 どうしてこのような状況になっているのか。
 それは左翼のいう「格差社会」が、あくまでも「お金持ち−庶民」という構図でしかなく、貧困層と化している若者弱者の問題にまったくと踏み込んでいないからです。
 貧困層である若者弱者にとって、左翼のいう庶民は「裕福層」の側に入るのですから、若者弱者から見れば左翼がやっていることは「強者同志の利権の奪い合い」にしか見えないのです。
 悪いのは明らかに左翼です。ボタンの掛け違えは両者の責任ではありますが、そうした掛け違えを是正し、明確な意見の対立をもって相互理解に勤める責任は、強者たる左翼側にあります。ましてや、自民党に若者がオルグされているのであれば、それを妨害するためにも、左翼が若者弱者と真摯に向き合うことは絶対に必要なのです。
 左翼勢力が若者弱者と真摯に対峙しさえすれば、若者だってバカではないのですから、真摯に向き合ってくれる左翼と、傲慢に上から取り込む自民勢力であれば、当然前者を選んでくれるはずです。
 しかし、左翼はいつまでたってもそれをしない、いつまで経っても自分たちは庶民の側に立っていて、弱者のために頑張っているのだと信じている。そうした傲慢な姿勢に、若者だけではなく、強者である庶民までもが左翼を捨て始めている。それが前回のタイゾーあたりのワケのわからない議員が当選した衆院選あたりから、現在に至るまでの現状でしょう。

 若者弱者は「不公平」を嫌悪しています。
 だから、不公平をどうにかしないといけません。
 しかし、「不公平」の反対は「公平」ではありません。
 若者弱者の考える「公平な社会」とは「自分が優遇される社会」です。
 それは実は不公平な社会なのです。だから若者弱者は民族や老人、女性に対する差別を行なって「公平な社会」を実現しようとします。
 左翼は「それはおかしい」と言います。
 しかし、若者弱者が今まで舐め続けさせられてきた辛酸と、自称弱者である庶民たちが味わってきた蜜の差を考えれば、それは当たり前のことなのです。
 公平な社会とは、今現在すべてがフラットな社会の事ではありません。
 人生のトータルとして公平が保たれる社会です。
 いままで甘い汁を吸ってきた、団塊世代や、男性と対等にしろと叫びつつ、その実は男性の加護を受けて有利に生きてきた女性たちが貧困にあえいで、今まで辛酸を舐めさせられ続けてきた若者弱者が裕福になる社会が、若者弱者が夢見る公平な社会なのです。
 機会の平等が達成されなかった失敗は、結果の平等で償うしかないのです。「フリーターがフリーターのままで幸せになる社会」ではなく、「フリーターが正社員になり、正社員がフリーターになる社会」こそが、結果平等で機会平等の失敗を償わなければならない社会が至るべき正当な姿です。
 そして、若者弱者たちがそのような精神状態に至った責任も、不況になって以降、なんら若者に対する救いの手を差し伸べなかった左翼にあるのです。
 いわば弱者若者の左へのバックラッシュは、問題を解決を先送りしてきた、左翼に対する高額な利子と言えましょう。

 問題が分かったら、四の五の言わずにとっとと解決しろよ。クソ左翼め。

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2006年08月06日
 ■ コメントに対する返答

件の場所がコメント欄を差し止めてしまったので、仕方なしにこちらでコメントに対する返信を掲載。どれだけの人が見てくれるかは知らないけど

crafty さんへ

>先延ばし、なにも解決しないというのは、
>再配分、つまり強者がコストを払わなければ意味が無いということでしょうか。

 その通りです。
 現在においては「弱者から強者へ」の金の流れはあっても、「強者から弱者へ」の金の流れがまったくありません。というか、そうした流れが一方通行になってしまったからこそ、現在の格差問題が発生しているのです。
 ですから、なんとか「強者から弱者へ」という金の流れを作り出さなければなりません。

>それなら、やはり再配分を結婚という形で実現するよりは、お金の形でルームシェアのコストを援助させたり、
>ベーシックインカムを保障する方が多くの弱者男性にとっては現実的な気がします。

 問題は「それを誰がするのか?」です。
 だれもしないからこそ、「結婚」という極めて個人的な場所にまで引き下がってそれをしなければならないのです。また、誰かさんは政府のせいにして再配分を拒否しますが、個人レベルでも再配分は達成できるということの実践でもあります。
 私がこんなことをしなければならないハメになっているのは、もちろんいわゆる「ネオリベ」の仕業であることはもちろん、そうしたネオリベ思想が蔓延る現状に対して、何もせずにただ傍観し、口先だけで「ワークシェア」だの「男女平等」だの言って金を稼いでいるようなバカ鸚鵡みたいな連中の仕業でもあります。

>それとも弱者男性が単に生活が送れるだけじゃ駄目で、結婚したり子供を持てなければ意味が無いのでしょうか。
>赤木さんは、問題は弱者男性が死なずに生活を送ることで、
>結婚はそのための手段である、とおっしゃっているようなので、これは違うと思いますが。

 ええ、生活さえできれば、それ以上のことは各個人が決めるべきことです。
 しかし、生活できる人間と生活できない人間がいる場合に、生活できる人間がただ自分の利益のみを考えて生きるならば、それはネオコン思想だと罵られるのも当然でしょう。


nector さんへ

>macskaさん、赤木さん双方に、議論する能力の欠如がみられます。
>http://www.kt.rim.or.jp/~jda/intro/intro4.htm
>このあたり呼んでみては如何でしょうか。

 わたしはそういう議論のありようを「教養主義的」として批難しているのです。
 仕事に追われて本を読んだりする余裕のない実際の弱者と、生活も安泰で仕事で本を読めるような特権階級の人間が、そうしたパーソナリティーを不問にされて「「誰が」ではなく「何を」議論したのかが重要だ」などと言われてしまえば、どうしたって特権階級の人間が議論に勝つに決まっているのです。それはまさしくネオコンの思想でしょう。
 社会についての議論は、各自の利益が絡むために、純粋な議論とは絶対になりえません。科学の問題をやっているわけではないのですから、非純粋さをその議論を非難するための根拠とするべきではありません。(昨今の科学偏重的な考え方も、教養主義の暴走か?)
 本当に正しい社会議論をするためには、「誰が何を言ったのか」こそが最重要なのです。


HAKASE さんへ

>まず,最初にお願いですが,「比較する際は基準を明確にすべき」という点について同意いただいているか否かを明確にしてはいただけませんか?

 私はこれまでの話について、ずーっと基準を明確にしています。それは「生活できるかできないか」ということです。
 にもかかわらず、あちらの人が必死に「ある一面では強者(or弱者)なのだ」とかワケの分からないことを言っているので、困っています。

>もし同性愛者の家族等との関連について具体的な状況を知らないために,比較ができないのでしたら,まずはそう書いていただけないでしょうか?ちなみに,私自身もいろいろな問題に対して詳細を知らないために私個人では比較をすることができない事柄がたくさんあります.そして,そのことは,「基準があいまいな状態で,具体的な事例のともなわないで,2者を単純に比較をすること」に対して私自身が疑念を感じる理由のひとつにもなっています.

 ところで、なぜそれほどまでに「家族との関係」が重要なのでしょうか?
 同性愛者が、すくなくとも自分の生活を保証できる賃金を得ている場合に、もし家族がそうした嗜好を見抜き、そのことを批難し、露骨に差別を加えて来たとしたなら、その人は家族との関係を絶って生活すればいいだけの話ではないのですか?

>それから,私からの2つ目の提案についてですが,赤木さんがおっしゃっていることの趣旨は(細かい点を別にすれば)おそらく同性愛者でもある私は十分に実感を持って理解していると思います.私も,実生活においては,よほど重大な問題でない限りは,自分のことをノンケの知人にはなかなか話せないですから.

 別に、そんなこと話さなければいいだけの事じゃないですか。
 話したっていいですが、それで関係を絶たれるようなら、それはそれでしかたないんじゃないですか?

>生死の問題まで出すほどのことですから,それを差し置いてでも解決すべき問題があるのかとも思っていましたが,書き込みの状況から察するに,赤木さん個人の状況に限定すれば,現状では,まだ,そこまで深刻というわけではなさそうですし,今のところは自分の経験を述べるのは無理だというのでしたらそれはしかたがないと思います.

 30過ぎた人間が、仕事を欲しながら、生活のできるだけの賃金が得られないというのは、日本社会においてはそうとう深刻な問題なんですけどねぇ。
 あと、あなたがこれまで言った「家族」や「知人」の問題の何が重大なのか、サッパリ分からないのですよ。というか、そんなことで「同性愛者は差別されてる」なんて言ってるんだったら、まさに「同性愛者に対する差別なんて全くない」といっていいレベルでしょう。
 その程度のことで「赤木さんがおっしゃっていることの趣旨は(細かい点を別にすれば)おそらく同性愛者でもある私は十分に実感を持って理解していると思います」などといわれても、こちらとしては「そんなくだらない問題と一緒にするな」と憤りを感じます。

 弱者男性なんか、家族には当然のように疎ましくされ、知人との関係など恥ずかしくて持ちようがない。しかし、それでも自分ひとりでは生活できないから家族と暮さなければならないという、あなたには想像もつかないであろう苦痛を常に味わってますよ。それが分からないから「そこまで深刻というわけではなさそう」などと言えるんでしょう。

>ご自身の体験であるか否かは別としても,困難な状況について当事者が具体的な例を出せないと,(特に周囲の人たちが気付きにくい問題点についてはなおさら)周囲のひとたちと協力しながら状況を改善していくことは難しいと思います.それをせずに抽象的な問題提起や論の展開をするだけでは状況改善は(不可能ではないにしろ)難しい,という点については,理解しておいていただければと思います(十分承知の上でのことかもしれませんが).

 それについては同意しますが、弱者男性の具体例というのは恥辱と屈辱に満ちたものです。それをなんの保証もなしに「さらけ出せ」というのは、かなり厳しい話のように思います。


xanthippe さんへ

>奥さんがほしい!っていうキャリア女性はおりまするよ。東京あたりで夜の12時過ぎに電車から吐き出されてくるような女性たちの多くは、それに近いことを言っているのではないですかね?知人の娘さんもそうです。

 じゃあ、その知人の娘さんを紹介してくれませんかね。
 まぁ、もっとも本音はどうか知りませんが。

>ただ、キャリア女性ではあってもジェンダーによる拘束(差別)を受けている現実はあって、仕事を続けるのであれば、結婚して子どもを生むなんてこととてもじゃないが無理、と多くのキャリア女性は考えている。 多くの女性には「仕事か結婚して子供か」、の二者択一しかないんですよ。今のところね。

 だから、私は「子育てをします」と宣言しています。
 ただ、妊娠に関しては体の機能的に男は代替できないのですから仕方ありません。個人的には試験管ベイビーでいいと思いますがね。

>強者女性というのは多分、「仕事も結婚子育ても」をゲットした人だけですよ。二者択一で仕事を選ぶしかない女性は強者とはいえないと思いまするなあ。弱者ですよ。

 私が言っている「弱者」とは、自身で生活できるだけの賃金を得られない人のことです。弱者は仕事に就けないからこそ弱者なのです。生活できるだけの賃金を得られる仕事に就ける時点で時点で強者なのです。

>んだから、こういう弱者女性を支え、励まし、おだて、余分な心配をさせないように家庭を守り、家計管理や子育てに励み、必要な時にはパートで家計を支え、あるときには熟練ホストのようにサービスし、仕事のアドバイスも適切にこなせる秘書の役割まで果たすことができる男性がいれば、良い組み合わせになるんじゃないですかね?料理がちょっとできるだけじゃ無理でしょうけどね。

 仕事のアドバイスをする主婦って聞いたことないなぁ。むしろ「男の仕事に女は口を出すな」でしょ。

ついでに、書き込んだものの承認待ち(でも、承認されることはない)のmacskaへのコメント

>わかりました。前言通りあなたを議論の相手とはみなしません。
>今後二度とわたしのブログにコメントを書き込まないでください。
>ただし、気が変わって撤回する気になったなら、macska AT macska DOT org までメールでご連絡をいただければ柔軟に対処しないわけでもありません。

 残念ながら、そういうわけにもいきません。
 他の方へのコメントを保留にしてしまっているので、それに答えないといけないからです。私はあなたと違って「ちゃんとやるべきことはやらなければならない」という責任感がありますからね。
 別に議論の相手と見なさないならば、あなたが私にコメントを返さなければいいだけの話です。
 それに、私はあなたの言いがかりについて、あなたに対してではなく、他の人たちに対して、自分の名誉を守るために、返答せざるを得ない状態になっています。
 だから、あなたのコメントに対して返答をしますが、あなたは私にコメントを返さないでください。それでいいでしょ。


>> 10年も口約束だけで、それをまったく果たす気なんかないくせに、なんで
>> そんなに偉そうなんですか?
>赤木さんこそ、どうしてそんな偉そうなことをわたしに言うんですか?
>10年前に口約束をした人がいるのであれば、その人を問い詰めるべきでしょう?

 そういう口約束をしたのは、左傾論壇そのものですよ。
 とうぜんそこに含まれるあなたは、その責任を負うわけです。

>しかし、この問題において一般的な意味でいう自己責任論(すなわち、弱者男性が苦しい立場に置かれているのはかれら自身のせいであるという論理)をわたしが主張したことは一度もありません。

 わたしに対するコメントでは、何度も何度も言ってますけどね。「それはコメントであって、主張ではない」とでも?

>> 『バックラッシュ!』の紹介を見ましたが、どう見てもあなたはご立派な
>> 経歴を持つ「大先生」じゃありませんか。
>何か大きな誤解をされているようですが、少なくともあなたから「強者」と呼ばれるような立場ではありません。

 誤解でも何でもなく、『バックラッシュ!』の執筆者のほとんどが明確な強者ですよ。いやぁ、本に書かれて恥ずかしくない、ご立派な経歴の方ばっかりで。
 そいえば、どっかのBlogで鈴木謙介が職業欄にフリーターだとか書いていた画像がありましたが、あれほどフリーターをバカにした話はありませんね。


>でも、わたしを含めここで赤木さんに反論している人のだれも、男性弱者の問題をないがしろにしていません。他の問題も重要であると言っているだけです。ところが赤木さんは、他の差別はほとんどないと言っても良いほどだと言い放ち、自分の問題だけが最優先だと主張しています。つまり、他の団体はこれまでやってきたこともいまやっていることも全部放り出して、あなたのことだけをあれこれ手助けしてあげなければ「差別主義者」だとあなたは決めつけている。そんな調子で、さまざまな反差別運動のあいだの協力関係が築けるはずがないでしょう?

 千日手ですね。
 もっとも私が言えるのは、あなたがたが積極的に男性弱者救済に協力しなければ、バックラッシュの流れは、これまで以上に強まることは間違いないということです。
 そして、多くの弱者男性は、バックラッシュによって古くさい弱者利権が消え去ることを期待しています。
 リベラリストたる私としては、そのような事態にはなってほしくないのですが、あなた方がそういう態度なら、それもしかたないと観念するしかないようですね。残念ですが。


>強者は弱者の問題などまったく想像の外にある、それはよくあることです。だからそれが今の議論にどう関係するのか、あなたは全く説明していません。もしあなたと議論している人たちがその「弱者の問題などまったく想像の外にある」強者だというなら議論に関係ありますが、ここで議論している人は一人の例外もなくみんな「給料をロクに受け取れない弱者の問題」を想像の内に置いています。すなわち、議論に全く関係ない。

 この話は、この問題の土台そのものです。
 女性や部落や民族が、いまだに差別されていると言い張るのも、
 あなたが自分を弱者であることをまったく認めないのも、
 弱者男性の早急な救済を認めないのも、
 すべては左傾論壇が「給料をロクに受け取れない弱者の問題」を想像の内になど置いてないからです。
 それが分からないなら、それは「経済格差に対する知識がない」と言うほかありません。


>> さしずめ女性優位論壇にとっては「赤木智弘が書かなければ、男性弱者など
>> 存在しない。男性弱者って言うな!」といったところでしょうか。
>そう言う人はどこかにいるかもしれませんが、少なくともいまここで議論している中には一人もいません。もし「いる」と思っているなら、被害妄想に過ぎません。

 へぇ〜。私はそういう人をけっこう近場で見かけたんですがね。


>わたしが「それを解決するには、再分配するしかないでしょう?」と言っている部分を引用しながら、「なんであなたは再分配の実施を否定するのですか?」と問うというのは、いったいどういう神経をしていたら可能になるのでしょうか? 支離滅裂です。

 言うことと、やることはイコールではありません。
 あなた方がそういうことを言いながらやらないで済んでいるのは、まさにあなた方が強者だからですよ。


>> とっとと再分配してくださいよ。なんでそれを必死に否定するのですか?
>わたしに決定権限があれば、とっくに再分配を実施していますって。しかし、わたしは再分配を一度も否定していないのに、あなたにかかると「必死に否定している」ことにされてしまう。そんな間違った決めつけによって「差別主義者だ」「ネオリベだ」と言われても、「議論の通じない相手だな」と思うだけです。

 最近、宝島社とか飛鳥新社から、くだらないウヨクのための読み物がよくでてますが、そういう人たちにはウヨクである弱者にお金を再配分する「決定権限」があるようです。


>> じゃあ、私は一体どういう側面で強者なのでしょうか?
>まず、男性ですね。それから、お嫁さんを募集されているところをみると、おそらく異性愛者ですね。これまでの在日朝鮮人差別や部落差別に関する無見識から想像するに、生まれながらに日本国籍であり、被差別部落出身として差別を受けてもいない。賃金労働をしているというところからして、重度の障害者でもなさそうです。また、わたしと同様に先進国にたまたま生まれついたことによって恩恵を受けていますから、それも含まれます。少し軽く考えただけでも6つの側面が見つかりました(他にもいくらでも見つかると思います)。

 男性だから、生活ができるだけの賃金が得られないことに、過剰に悩まなければいけません。女性は就職できなくても、結婚してしまえばいいんですから楽ですね。
 異性愛者だからといっても、賃金がロクに得られないので恋愛なんかできません。
 在日でも部落でもないから、強力な労働団体などの協力が得られず、賃金が得られません。部落だからこそ月20万の固定給を得られたA君の話は、前に出しましたね。
 重度の障碍者ではないから、賃金が得られないことは自己責任だと非難されます。
 先進国に生まれたからこそ、賃金格差が存在しています。どっかのジャングルの奥の部族に生まれたなら、このような差別を受けることもなかったでしょう。

 というわけで、その6つの側面すべてにおいて、私は弱者です。


>> クリティカルな問題なのだから、優先順序を先にしろと言っているのです。
>まず第一に、クリティカルな問題はそれ一つではない。第二に、優先順位を先にしろと主張したいのであれば最初からそう言えばすむわけで、他の差別は「ないと言って良い」と決めつけたり、自分に完全に同調しない相手を「差別主義者」「ネオリベ」などと決めつけて非難する必要はありません。それらの言説についてきちんと撤回したうえで「他の問題が重要なのもわかった、でも今この問題はすごくクリティカルだから少しでも早く対処して欲しい」と訴えるのであれば、まだ話をする価値もあったのですが。

 だから、その問題を延々放っておいたのは誰なんですか?
 そうした態度は、非難されて当然でしょうに。

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2006年07月28日
 ■ 『バックラッシュ!』非難の本質とは?(その1)

「成城トランスカレッジ!」によると、私が火をつけた(と自慢してもいいだろう)「弱者男性に対する問題」という火の手が順調にのびているようでなにより。みんな張り切ってやって欲しい。

 と言いたいところだが、飛び火した先での議論のレベルがあまりにも低くて辟易しているのが正直なところ。
 まぁ正直、最初っからそれ以上の期待はしてなかったんだけど、やはりというかなんというか、単純に「弱者男性をどうするか」「弱者男性と男女平等論の関わりは」という話に終始してしまっていて、私が書いたことの一部要素だけを勝手に抜き出して、さもそれが問題の本質であるかのような「雑談」になってしまっている。

 で、このような論点の捻じれ構造を別の例で例えてみましょうか。

 ゲームをしていますよと。
 そのゲームは、サイコロを1個振って、1の目が出れば勝ち。他の目なら負けというルール。
 ただし、直接賭ける人間はサイコロを振ることはできません。サイコロを振るのは第3者です。この場には第3者が何十人かいるとしましょう。
 で、今までに5回ゲームをして、2、3、5、4、6の目が出ています。
 この時点で直接賭ける人間は既に5回負けています。もうこれが最後の勝負です。負ければ破綻です。
 そこで、サイコロを振る第3者の人たちが議論を交わしています。第3者の人たちは、賭けた人に勝ってほしいと考えています。
 「これまで5回振って、1以外の目が1回ずつでているから、次こそは1の目が出るはずだ」
 「いやいや、サイコロの出目はつねに1/6の確立でしかないんだから、次こそ1の目が出るとは限らない」

 この問題で、私の外で議論をしている人たちは、こういう議論をしている。さて、おかしいのはどこでしょうか?

 そう。本当の問題は「次にサイコロで1の目が出るかどうか?」ではなく、「次にサイコロで1の目を出さないと、賭けた人間が負けてしまう事」である。
 ここで単語を置き換えてみよう。
 「直接賭ける人」とは、そのまま私、つまり「弱者男性」のこと。
 単語としては出てきませんが、その「賭けている相手」は、社会そのもの。
 そして、「サイコロを振る第3者」が、今回私が批判している「左傾論壇」。

 左傾論壇はサイコロを振る権利がある。そしてそれはすなわち義務でもある。
 サイコロを振らなければならない時に、サイコロの目がどう出るかを議論する。次は1の目がでるのか、そうでないのか。
 しかし、この段階で「1の目がでない」ということは、すなわち弱者男性の破綻を意味する。破綻という言葉で弱ければ、死でもいい、死を意味する。
 その時に、サイコロの確立論議が、なんの役に立つだろうか?
 本当の問題はこうした状況下においては「是が非でも1を出さなければならない」ということ。
 それこそ、イカサマで懐から1の目だけのサイコロを取り出して振るようなことをして、なんとしてでも1を出してあげること。重要なのはそれだけなのだ。
 1の目が確率的にどうだという、マクロな視点に立った論理ではなく、とにかくこの場で1の目を出さなければいけないという意識こそがこの場でもっとも必要なことなのだ。

 私が元々『バックラッシュ!』を批判したのは、その内容があまりに教養主義的に過ぎることであった。
 私の考える教養主義とは、「ある特定の場所にいる人たち(東大周辺とか、論壇周辺とか)によって行われる、擬似知的議論によって、自分の存在意義を担保する考え方」である。
 「私はこのように悩んだから、こうしてエリートであっていいのだ」「私は努力をしたから、高収入を得ていいのだ」「私は女性のことを考えたから、男女平等論者として正しいのだ」等々、いずれにしてもその結果ではなく、ただ「そう考えた」ということでしかない。
 そして、私は『バックラッシュ!』全体に横たわっていた、「八木秀次ラスボス説」に対して、「そうした考え方は、教養の場にいる「強者男性」側と、同じく教養の場にいる「強者女性」側の議論ゴッコでしかない」と批難した。それこそ「八木秀次を批判できたから、バックラッシュは間違っているのだ」という、バックラッシュの広まりという現実を目の前にした、教養主義バカの無責任な逃避でしかないと考えたからだ。
 そしてまさに今回の「弱者男性を語りたがる連中」による、的を射ない議論の広まりも、こうした「さも、私は男女平等のことを真剣に考えてますよ」という教養主義バカの仕業といえる。

 そして彼らは「何がなんでもサイコロの1を出すこと」という論点にいつまでたっても至らない。
 だって、彼らは別にとってこの問題なんて、しょせんはどうでもいいことだから。
 どうでもいいことを自分の価値付けのためだけに使っているから。

『バックラッシュ!』非難の本質とは?

 巷のブログが上のような調子だから、私はもう少しひねった論点でこの問題を掘り進めようと思う。
 いや、ひねったというよりも、これが私が考えていた元々の論点で、左傾論壇がもっとも触れてほしくないであろう論点だろう。

・左傾論壇にとって「弱者」とは誰か?

macska dot orgによる「鈴木謙介氏論文「ジェンダーフリー・バッシングは疑似問題である」と「弱者男性」論への疑問」は、まさにエセジェンダーフリー論者の本音を吐露した素晴らしい文章である。

そもそも、この「男性」という括りに疑問がある。鈴木氏によれば、ここでいう「(弱者)男性」とは経済構造の変化による流動性の暴走におびやかされる存在だとされるから、逆に言えば経済構造が変化する前の時代に生まれていれば一人で家族を養うだけの収入を得られる「強者」ーーと当時は描写しないだろうけれどもーーとなるはずだった人たちのことだ。そこには何故か、在日コリアンの男性やアジアや南米から出稼ぎに来ている外国人労働者の男性、被差別部落出身の男性、障害のある男性、ゲイやバイセクシュアルの男性など、わたしが「弱者男性」と聞いてまず思い浮かべるような人たちの存在がまったく想定されていない。

 実に素晴らしいではないか。
 現実の社会問題を無視して、「僕の考える弱者はこういう人」という色眼鏡で弱者基準を語る。そしてここから「男性」という括りを外せば、そのまま「女性は絶対的に弱者なのである!!」と力説する姿が目に浮かぶ。
 男性弱者を不幸を踏み台にして、「私たちは弱者である!!」と叫ぶ、勝ち誇った女性像は、まさにエセジェンダーフリー論者の夢であろう。

 私は最初の文章において、「男性強者、女性強者、女性弱者、男性弱者」という分類をしている。
 そしてその上で「いまだに女性が弱者なのか!!」「いまだに在日が弱者なのか!!」「いまだに部落が弱者なのか!!」と説いている。
 この考え方は、かつての「色の着いた弱者」を解体し、すべてを「仕事利権と金」という文脈で捉え直し、今一度弱者の再定義を行なうべきではないかというものであり、決してmacskaが言うような「在日の男性や部落出身の男性の存在を無視した記述」などではない。

 結局のところ、彼らにとっては社会の現状などはさっぱり関係なく、ただ「僕が考えた弱者」こそが弱者なのである。
 そして、「僕の考えた弱者」が弱者認定されていない私のような考え方を必死に批判しようとする。

(次回に続く)
 とりあえずこっちで、この先に近い話をしているので、読んでおいてください。こっちのボリュームの薄さを少々は補完できるでしょう。

途中でスペシャルボーナスがそろっても、明日の為に叩くべし叩くべし。
ジョーカーコレクション 14400枚

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2006年07月12日
 ■ わわわわ、ワーク……しぇしぇしぇしぇしぇ……

精神衛生上、数日は『バックラッシュ!』の話から手を引こうと考えていたのですが、その前にどうしても1つだけ突っ込んでおきたいところが。

共感はできても賛同してはいけない「『バックラッシュ!』を非難する」
 まぁ、本文はどうでもいいんですが、一番最後の追記部分に注目してください。

【追記】 「弱者男性の主夫化」以外の弱者男性に対して「尊厳と生きるために必要な金を提供しえる方法」について書こうと思っていたのですが書き忘れていました。金銭的な問題に関してはベーシックインカムが考えられますし、あくまで職を行き渡らせることを基本に考えるのであればワークシェアリングを導入しやすい制度にすることが考えられます。例えば、フルタイム労働を前提とした企業主体の福祉厚生を社会化するなどですね。詳しいことは述べませんが、ほかにもいろいろ可能性が考えられ、「弱者男性の主夫化」だけが唯一の方法とは決して言えない。また、「弱者男性の主夫化」が(社会的な解決として)現実的でない理由は本文中に述べた通りです。

 わわわわわ、わわわわわワーク……しぇしぇしぇしぇしぇしあああああしぇしぇしぇああああああああああありんぐ……わーくしぇありんぐ? ワークシェアリング! ワークシェアリングktkr。
 今の日本において堂々と「ワークシェアリング!!!」だなんて!!
 最近テレビにたまにジュリアナで扇子もって踊ってた「荒木師匠」が出ることがあるじゃん。あれ見てるみたいだよな。「うわー、こんな時代もあったなー」「うわー、なんかなー」って感じがそっくり。
 10年前ならその言葉を使う価値もあったけど、あれから時間が経って勝ち組負け組が明確化した今、その言葉を使うことになんの意味があるというのか。

 つーかさぁ。そんなの時代に取り残されたバカな学者さん以外の誰が、今の日本の現状で本当に成立させられると思ってんの?
 ほら、2007年問題とか言われてるのあるじゃん。「団塊世代の優れた技師が引退するので、技術がなくなってしまう。なので、団塊の世代を再び雇え」みたいなやつ。あれなんか、要は団塊の世代とかいうバカたれが「この仕事は俺にしかできない」「若造なんかに任せておけるか」って、慣れれば誰でもできるはずの仕事を利権化して、まともに継承してこなかったという問題なんだよ。
 団塊のバカ……というか、正社員という利権を持っているバカは、みんながみんな「俺の仕事は俺にしかできない大変な仕事なんだ」と思いこんでいて、そのことが自尊心になっているわけだ。だから当然そこに「ワークシェア」なんて文脈を持ち込んでも「俺の仕事が若造にできるはずがない」って言うんだよ。本当は教えれば簡単に伝わるんだけど、それはできない。自分にしかできない仕事があると思いこむことが、仕事人間、すなわち日本型大人の存在意義だからね。
 それは決してマッチョな人だけではなくて、左傾論者も「ワークシェアリングをするべきだ」といいつつも、「でも俺の仕事は俺にしかできない」と思いこんでいる。要はどっちも若者に仕事なんか渡そうとしない。右も左も、日本人は本人しかできない仕事をすることで「大人」を確定させてきたのだから、それを否定することなんて絶対に不可能だ。だから日本の会社は不況のはじめにロクに大人をリストラせずに、若者の採用を極小に押え込んだ。責任で言えば、大人が全ての会社の全ての社員が全員退職する必要があったのにもかかわらずだ。
 その結果、若者にはバイトや派遣の仕事といった「時給750円ワーク」だけが譲渡されるわけだ。そして仕事の足りない若者が、その他の仕事の足りない若者と、時給を分け合いながら、へとへとになって仕事をしている。こりゃ素晴らしいワークシェアリングの末路だ。あまりに情けなくて笑いが止まらないよ。

 現実をロクに見ていない、引用先の中の人には分からないだろうけど、君の夢見る「ワークシェアリング」の禍々しい姿が、いま現状として表われているんだよ。


 いいか?
 「男女平等」も「ワークシェアリング」も、この言葉を使う時は、「既にこの言葉が現状に取り込まれ、(悪い意味で)換骨奪胎されていること」に注意を払うべきだ。
 そして、どうしてもこの言葉を使いたいなら、たっぷりと注釈をつけたうえで、こっそり小声で、別の主張の裏に隠して、この言葉を使え。
 俺ですら男女平等を叫ぶという行為を、このように「反々バックラッシュ」という捻じれた行為を通してしか叫ぶことができないのだから。
 そしてせっかく使うなら、心の奥底で恥ずかしく思いながらも「それでも主張しなければならない」という羞恥心と絶対的な意思の間でこの言葉を使え。

 それができないのなら、そんな言葉つかわないことだ。どっかの先生のように上辺だけの知的な、大衆を見下したおしゃべりで終るのがオチだから。

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 ■ 「『バックラッシュ!』を非難する」への反響について

前回の「『バックラッシュ!』を非難する」について、少将補足を。

 「強者男性」「強者女性」という分類が勘違いされているようです。
 私の意図する「強者」というのは「≒正社員」。いうなれば「家庭を持とうかな」ぐらいの展望を持つことのできる生活力のある人たちの事であり、決してホリエモンレベルの収入がある人間のことではありません。森永卓郎言うところの「年収300万」(もしくは、将来的にその程度に年収が上がるだろうと期待できる)なら「強者」です。

 この辺をちゃんと指摘しなかった事は失敗ですね。
 ジェンダーフリー運動などで女性が総合職になれるようになったのは、つい最近の事であり、多くの女性が一般職に甘んじてきたという批判もありましたが、定職につけない弱者男性からすれば、一般職女性は十分に「強者女性」です。
 そういうことを「お茶汲みOL」の話で明確にしたつもりだったのですが、もう少し丁寧に前提を明示しておくべきでした。

「『バックラッシュ!』を非難する」への反響について

 個人的にはもっとボロカスにバカにされるかな? と思っていたので、意外と好意的に読んでくれている方が多いんだなぁ。というのが印象です。
 実際、あれを書いて、アップするまでに結構悩んだんですよ。「こんな書き逃げのような文章、アップしていいのかなぁ」と。
 けれども、やはり『バックラッシュ!』(前回もそうですが、双風舎の本は『』付けの『バックラッシュ!』。 いわゆる男女平等に対する反動という意味の場合は「」付け、もしくはカッコなしで「バックラッシュ」としています)によって男女平等という問題が、ただ「バックラッシュはすべて間違い、もしくは勝手な決めつけだ」というように理解され、バックラッシュが起きる現状そのものに対する視線が逸らされることに、弱者男性の立場として「寒さ」を感じ、ほっとけなかったので、前回の「挑発文」をアップしました。
 結果、はてなブックマークなどをみるに、「言葉は悪いが、その内容には一理あるのではないか?」と、上記のような単純なバックラッシュ理解に楔を撃てたのではないかと思います。やるべきことはできたな。と。


P.S 前回の文章を批判する方へ。
 そんなに社会の現実を見たくないのか?  せめて妄想の中でいいから、私のこうした感情がどういう背景から出てくるものなのかを少しは考えてほしい。

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2006年07月07日
 ■ 悲劇を想定しつつ、それを金に変える死の商人の話

劇場版サイレントヒルが8日からロードショウ。
 で、上映館情報見たら、いつのまにか地元の映画館でも上映するとの情報が。
 うわぁぁぁぁぁ、失敗した。
 というか、1ヶ月ぐらい前には地元で上映するなんて情報は全くなくて、どうせメンズデイやモーニングやレイトショーに日時を合わせるのは不可能だからってんで、少しでも安く見るために前売券を買っておいたんだが、地元でやるんなら日時合わせられるじゃん。
 いや、まぁいいけどさ……。
 地元の映画館だと、メンズデイ狙いで平日の人が1桁ぐらいしかいない回でしか見たことないから、前売券があるということで休日にでも見に行ってみるかな。それとも空いてる方がやっぱりいいかな。

もう「日本“海”にミサイルが!!」ってのは、「消防署の“方”から来ました」とまったく同じ詐欺用語として考えるべきだよな。
 こういうバカが多いから、混乱を避けるためにも「東海」にすればいいんじゃね?

もう「『グロテスクな教養』2周目」というくくりでは書かないけれども、「『バックラッシュ!』非難」でも論理の中心になっている教養主義について触れてみたい。
 教養主義とは、いわゆる我々が「教養」という言葉を聞いた時に想像する意味とは全く違い、実態は「東大周辺エリートのお坊ちゃんが、高校や大学のモラトリアムにおいて、人生について悩むフリをする」という擬似知的行為の事と言える。
 つまり、こうした教養主義は、それ自体は「エリートである彼ら自身の人生に全く意味を持たないもの」であって、自分たちがエスカレーター式に社会に出てトップクラスの人生を送ることに対しての「免罪符」としての機能しかもっていない。
 「我々は若い時分に人生に悩んで、このような成功を手に入れたのだ」
 そしてもちろん、一般の大学とは縁のない大衆は「ソクラテスかプラトンか」などとまったく悩まずに、当然のように家の仕事を継いで貧困に喘ぐしかなかった。

 そして、『バックラッシュ!』という本自体がもつ構造も、まさに「男女平等論者が、格差社会(仕事不平等社会)を放置する免罪符としての反バックラッシュ」というものに他ならない。
 宮台は「バックラッシュは想定内」などと言うが、それはむしろ想定していたにもかかわらず、何ら手を打っていないということの告白に過ぎない。そして、こうした「お金をたくさん持ってる知的エリート層」というのは、別にそれに対して手を打たなくても、自身は生活の保証がされているのだから、想定されたことに対して責任を取る必要がない。
 むしろあとから「それは想定されていたことです」などといいつつ本でも出したほうが生活の足しになるのだから、想定される悲劇に対して無責任なのは当然ともいえる。いわゆる「死の商人」と同じようなものだ。
 現在「知的エリートが田吾作」なのは、大衆の僻みではなく、実際に宮台を含む知的エリートと呼ばれる人たちの存在が結局なんの意味もなかった、もしくはそうした悲劇を己が利益の為に利用したからこそ田吾作呼ばわりされているのであって、それを丸山眞男の時代に責任転嫁するのは非常にみっともない。

 あんまり宮台を集中攻撃するのもかわいそうなので、次は上野千鶴子に触れてみたい。

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2006年07月06日
 ■ 『バックラッシュ!』を非難する

ということで、今日は双風舎『バックラッシュ!』に対する非難(批判ではなく)。
 なぜ「批判」かと言えば、双風舎編集部は自身のブログの中で「同書をつくった意味のひとつは、議論のたたき台になるようなものをつくる、というものなので。」と述べてるが、私は決してこの本を議論の叩き台にしてはならないと考える。ゆえる、両者の間に建設的意味を持ちうる「批判」ではなくて、建設的意味をもたない「非難」とする。

 まずは簡単にバックラッシュに至る前提を提示する。

 1、全体として「男は強者」「女は弱者」という色眼鏡でしかモノを見ていないため、結論がすべて「女性優遇」でしかなく、想像される社会が男女平等とはほど遠い。
 2、「社会進出」という名前の会社的な観点でしか強弱を区分していない。「会社での地位=人間の価値」という価値観を推進してしまっている。
 1+2、こうした論理がフリーターやニートという「弱者男性」、そして、自らを強者と規定しない「強者男性」をバックラッシュに駆り立てている。

 フェミナチがこうした論理を大上段から振りかざす以上、弱者男性がバックラッシュに走るのは当然だろう。この本のサブタイトルに「なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?」とありますが、これが答えになる。


 細かく書いていきます。
 まず、この本の失敗は「さも、物事を論理的に読み解けば、男女平等に対する誤解は解ける」という教養主義的観念のかたまりでしかないことだ。
 教養主義的観念というのは、いわば「頭で理解を期待する」考え方で、つまり「正しい論理を提供すれば、正しい結果に繋がる」と考えることだ。だからこそ、この本の論者たちは「論理的に」バックラッシュを読み解いている。そしてその論理は極めて正しい。
 しかし、バックラッシュ(または、各種の国粋主義や男根主義など)の発生源は決して理性的なものではなく、感情的な反感である。「女が上に立つのが気に入らない」「女のせいで我々の仕事が奪われている」こうしたほの暗い情念が、バックラッシュのエネルギーになっている。
 であれば、「反バックラッシュ」の論理が解体するべきは、そのエネルギーの発生源であり、それに対して「男女平等は正しいのだ」といったところで、議論は成立しえない。
 これは「話せば分かる」「問答無用」のやりとりみたいなものであって、いくら男女平等論者が正論を叩きつけたところで、対話が成立しないなら、そのことに意味などはないといえる。
 かくして、男女平等論者とバックラッシュはこれまで以上に離反していく。そうなれば私はバックラッシュの側に付くだろうなぁ。


 ならば「なぜバックラッシュに対する感情的な反感が発生するのか」を理解することこそが、本当の『バックラッシュ!』の主題であるべきです。だから私はここで一人でそれをやります。フェミナチはいつまでたっても気付きもしないのだから。

 まずは言葉の定義をしておきたい。
 ここまでで既に何度か使っている「弱者 or 強者 and 男性 or 女性」について。
 単独の意味的には文字どおりなのだが、それらの関係については「SocioLogic」の中の人が提唱する「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を採用している。
 すなわち、強弱の順位は「強者男性」>「強者女性」>「弱者女性」>「弱者男性」である。ただし、「>」は、強弱の関係性のみを表す記号であって、その間の数量的な等しさを表すものではない。
(数量的な部分に対する私の実感としては「強者男性」>>>>>>「強者女性」>>「弱者女性」>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>「弱者男性」ぐらいであるように思う)
 そして、この順位を確定するための要素として、私は「仕事」と「家庭能力(≒家事+出産)」の2つを評価する。
 この2つにおいては、プラスマイナスとも「仕事が強」「家事は弱」と考える。
 「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」
 ここで男性側の家事の要素をまったく評価していないことは、ひとまず頭の片隅に入れておいてもらいたい。

 では、現在の男女平等論というよりも、この『バックラッシュ!』の立ち位置を明確に示していると言える、宮台真司の話から、この本の問題点を探ることにする。

 まず、宮台はバックラッシュを「過剰流動性による不安」であるとしている。
 そしてその不安とは「前提不在による混乱」であるとしている。

 しかし、不安こそは、すべてのバックラッシュ現象の背後にあるものです。「流動性不安」、すなわち過剰流動性による不安です。過剰流動性ゆえに、自明性への疑いが出てきて、アノミーすなわち「前提不在による混乱」におちいるわけです。 (p.10)

 しかし、男性弱者が抱えている不安は「過剰流動性」とは正反対の「硬直性」です。「一度フリーターになってしまったら、正社員になることは、非常に困難である」ということです。これは一体どういうことなのだろう。
 ここに、頭でっかちな教養主義的フェミニストたちがロクに見向きもしない問題が潜んでいる。

 そもそもフェミニズムが社会に浸透する前の社会*1において、性差はこのような観念であった。
 「「男性」>「女性」」
 あまりに単純で拍子抜けするかもしれない。もちろん貧富の差はいまよりもっと大きかったし、単純にこれだけなハズもないのだが、いわゆる「ウーマンリブ」に始まる男女平等論は、このこと、つまり「男性は強者」「女性は弱者」を前提にしている。
 そこで「女性が社会に進出することによって、男女平等が実現する」と考えたウーマンリブは女性の社会参加をうながした。
 そして、社会参加というのは、「≒会社に入ること」であった。

 確かに、この運動は80年代までにはうまくいっていた。経済は右肩上がりに成長していたので*2、会社の規模も当然右肩上がりに大きくなり、今までの男性のみならず、女性を社員として扱うだけのキャパシティーが保たれていた。
 しかし、90年度になって一気にバブル経済が膨らみ、そのまま破綻する。
 右肩上がりだった社員のキャパシティーは著しく制限され、また既存の社員を守るために、新卒社員を極力採用しないようになった。そのことはイコール「若者の社会進出が阻害されている」ことを示している。ここに「「バブル以前の男女」>「バブル以降の男女」」という格差が生まれる。
 ここでもう一度、かつての「「男性」>「女性」」という観念を見返してみる。
 ここで「>」の根拠となっていたのは「女性が社会進出していないこと」だった。だからこそ、女性の社会進出をうながし「「男性」=「女性」」にしようとしたのが、ウーマンリブの根拠だ。
 しかし、今度は経済の収縮によって「「バブル以前の男女」>「バブル以降の男女」」という格差が生まれてしまう。この格差も「バブル以降の男女が社会進出していないこと」だ。どちらも「社会進出」こそが格差を示すキーワードである。
 ウーマンリブは社会に流動性をもたらし、男女の格差を是正した。ならばバブル前後の格差はどのようなスローガンが是正しているのであろうか?

 答え「誰も是正していない」。
 ウーマンリブが男女格差を是正するスローガンなら、いま我々の格差を表すスローガンは「自己責任」であって、これは「社会は経済格差を是正しない」という宣言である。
 そのような言説が広く流布される現代において、じゃあ我々のような弱者にとって、どこに流動性があるのか?
 宮台は「すべてのバックラッシュの背後にあるのは、過剰流動性による不安だ」と述べる。しかし、過剰流動性が不安であるのは、あくまでもバブル以前の男女にのみあてはまる。「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図を持ち出すと、こういうことになる。
(「強者男性」←→「強者女性」)>「弱者女性」>「弱者男性」
 このカッコ側、つまり強者男性と強者女性の間にしか過剰流動性は存在していないのである。

 まず最初に私はこの本の失敗は「さも、物事を論理的に読み解けば、男女平等に対する誤解は解ける」という教養主義的観念のかたまりでしかないことだ」と述べた。
 この本に登場する、ほぼすべての論者に言えることだが、彼らは八木秀次をはじめとする「バックラッシュを推進する学者や論者」などに標準を合わせて、彼らを論破していくという形式の文章を書いている。
 しかし、そのことは同時に、実はこの『バックラッシュ!』が「「本に名前が出るような強者男性」VS「本に名前が出るような強者女性」」という、まさに「流動性の中での戦い」でしかないことを意味する。そしてそれはまさに教養論の傲りであり、そのことが本来のバックラッシュの主体たる、こうした知的上層階級ではない「弱者男性」を無視する結果を招いている。

 『バックラッシュ!』の中で鈴木謙介は

 一部では、バックラッシュのような右傾化現象は、ネットを中心とした若年層の出来事だと見なされているようだ。しかし、これは事実に反している。あらゆる世論調査が、近年の「右傾化」と呼ばれている現象の担い手が、高年齢層、とくに主として60代以上の男性であるという結果を導いている。

 と、記している。そしてこの直前に「ネタとベタ」という論理から、それは決して単なる右傾左傾ではないと、鈴木は解く。
 しかし、これはまったく間違っていると思う。問題は現在右傾化しているかどうかではなく、弱者男性が困難な立場にいるか否かだ。
 若者がいつまでも若者であり続けるならばいいが、刻々と年を重ねながらも延々と社会に吸収されないならば、右傾ネタは右傾ベタとなり、右傾ベタは反左翼に移り変わっていく。そうした中で「社会参加≒会社に入る」でしかないウーマンリブの論理は、確実に攻撃の対象となる。正社員であることが利権である以上、ウーマンリブの論理が弱者男性から社会参加の可能性を奪っていることには違いないからだ。そこでは既に正当性は問題とならない。ただ「弱者男性という社会格差が存在する」そのこと自体が問題なのだ。問題はミクロなのであり、マクロ的な分析では誰も救われない。

 にもかかわらず、『バックラッシュ!』においては、具体的に「どうやって弱者男性を救うか」という話ではなく、観念上の弱者たる女性の弁護に終始している。

 いまだに女性が弱者なのか!!
 いまだに在日が弱者なのか!!
 いまだに部落が弱者なのか!!

 弱者男性の憤りは頂点に達しつつある。

 本の帯には「男女平等でなにが悪い!」と書かれている。もちろん男女平等が悪いはずがない。そして問題はこの本がしょせん「女性優遇」の立場でしかなく、弱者男性にとっては非常に「ムカツク」本なのだ。「問答無用」!!
 結局、バックラッシュを封じるためには、弱者男性をどうにかするしかない。
 それこそがネクストステージであり、唯一の男女平等の道である。フェミニストはもはや強者女性の論理でしかないウーマンリブを捨て、弱者男性にスポットを当て、正しく男女平等を推進するべきなのだ。

 ここでもう一度「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」を持ってくる。

1、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」>「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」

 これを男女平等にするためにはどうするか。
 まずはこの図において「家事と仕事の不平等」が起きているので、これをフラットに変える。

2、「強者男性(仕事+)」>「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事-)」

 そして、男性に「家事」の評価を適用する。

3、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」>「弱者男性(仕事- 家事-)」

 仕事と家事のプラスマイナスによって、強者男性と強者女性、そして弱者女性までが平等となる。では、残る弱者男性はどうすればいいのか。答えはもちろん。

4、「強者男性(仕事+ 家事-)」=「強者女性(仕事+ 家事-)」=「弱者女性(仕事- 家事+)」=「弱者男性(仕事- 家事+)」

 男性の家事労働を正当な仕事として認めれば、ここに真の男女平等が実現する。
 この説明を見た時に「それは今までの男女平等主義者の主張と全く同じではないか」と思うかもしれない。
 ハッキリいえばその通りで、男女平等論者の主張は別に間違ってなどいない。
 しかし、実際に行われる男女平等の方法論と主張する方法論の間はズレまくっている。

 ウーマンリブは女性を仕事に駆り立て、社会参加を主張することによって、男女平等を実現しようとした。しかし、正社員の立場が利権でしかない現代において、それは「仕事をしているから偉いのだ」と主張する強者男性とまったく同じ論理をウーマンリブ側が持つことを意味する。
 「お茶を汲むために会社に入ったのではない!!」と主張しながら数十万の月給を得る強者女性に対し、繁雑な作業を時給数百円でやらされる弱者男女は苛立つのである。
 そして、数十万の月給を得る強者男性は、近くにいる強者女性(共働き)、もしくは近くにいる弱者女性(専業主婦)と結婚するのに対し、数十万の月給を得る強者女性は、近くにいる強者男性とは結婚するだろうが、じゃあ弱者男性と結婚するかといえば、そのモデルはまったく見いだすことはできない。
 先程の「「生きやすさ」のトランプ的非対称構造」の図の3と4を再び見返して欲しいのだが、この「弱者男性の家事スキルを評価するか」というわずか1点の違いしかないこの両者の間には、実はとてつもなく絶望的な距離感が横たわっている。そしてウーマンリブにかまけたフェミニズムは、誰も「弱者男性を専業主夫として扶養しよう」などとは決して言い出さないのである。
 男というのは、よくも悪くも「仕事をして、家族を養う」ということを目標に仕事をしている。それは弱者男性も同じことだ。いつかは仕事をして、家族を養いたいと思っている。だから苦しい。
 しかしその一方で、仕事をする強者女性は、本当に「仕事をして、家族を養う」ことを目標にしているのだろうか? むしろ「男に養われる」加護対象としての女性性と、ウーマンリブ的な男女平等論を、セコく使い分けているのが実態ではないか。

 私はバックラッシュに限らず、男女平等を語る時に「女性が家族を養うことについて、本当に真剣に考えているのか」この視点を忘れてはならない。
 既に各種ウーマンリブ運動によって、強者同志での平等感がかなり強くなった現在、そうして女性たちが受け取った権利に対して、ちゃんと義務が果たされていないのではないか。それが現在日本の男女平等論者が自省的に語らなければならないことなのだと、私は考える。


 こう考えると、八木秀次あたりがどう言ったの言わないのなんて、些細な問題でしかないことに気がつくはずだ。そしてそうした些細な論点で書かれた『バックラッシュ!』の本を男女平等論の叩き台にしてしまえば、そこから導き出される結論も些細なものでしかない。だから私は『バックラッシュ!』を批評ではなくて、非難する。

*1 といってもせいぜい戦後数十年間の話。
 それ以前になってしまうと『バックラッシュ!』で瀬口典子が述べているように、現在の性的役割をなんの疑問もなく当てはめてしまう(「現代社会では、男性が仕事をし、女性が家事をしている。ならば原始時代においても当然、男性が狩りをして、女性は子を育て、家の仕事をしていたハズだ(「マン・ザ・ハンター」モデル)」)ために、本来の行動様式と異なったイメージを持つことになりかねない。
 多分戦前や江戸時代だって、我々が考えるほど明確に当時の人々の生活や意識が分かっているわけでもなかろう。

*2 この時点で、私がこの話をどのような展開に持っていくか、分かる人は分かると思う。何度も使っている言い回しだし。

上記の話題に続いて。
 ここで大切なお知らせ。

 私は男女平等の実践として「私を養ってくれるお嫁さん」を募集します。

 いやいや、冗談じゃなくて、ある程度は本気です。現在彼女もいない立場ですので、本気にしてもいいですよ。
 ……つまり、強者女性が弱者男性を養う覚悟をもつことでしか男女平等を実現できないと考えている私は、自分自身をエサにして、本当に強者女性が弱者男性を養う意識はあるのかということを実験してみたいと思います。

 特典もいろいろあります。

 1、「仕事を辞めろ」とか絶対に言わない。 
 共働きで結婚するとなると、じゃあ仕事を続けるのか辞めるのかという話でゴタゴタしがちです。しかし、私が弱者男性である以上、稼ぎ手は女性であるあなたであることは明確ですから、当然仕事を続けていただくことになり、ゴタゴタがありません。

 2、「名字を変えなくていい」
 私は夫婦別姓マンセー論者なので、「俺の家に入れ」とか言いません。仕事にとっても名前は大切ですからね。
 なんなら、私がそちらの名字に変えてもいいです。

 3、「子供も特にいらない」
 女性にとって子供を産むことは、仕事にとって大きなマイナスとなります。時間のかかることですし、肉体的負担も大きいですからね。
 私は「子供がいなければ夫婦じゃない」なんて考え方はありませんので、自由に仕事をしてください。
 また、子供が欲しい場合でも、それは対応します。ただ、大家族だけは勘弁してください。2人以内で。

 4、「あなたの住んでいるところへ引っ越します」
 別に家にこだわりはありませんので、こっちがそちらへ引っ越します。
 ただ、できれば都市部、もしくは都市部にアクセスのいい場所がいいです。田舎より街が好き。

 いきなり結婚もあれですので、とりあえず結婚を前々々々々前提ぐらいに、お付き合いをしましょう。
 メールアドレスはトップページにありますので、よろしくお願いします。

 まぁ、もし本当に応募があって、俺が結婚できれば私も男女平等論についての認識を改めますし、応募がなければないで、「男女平等なんて言ったって、本当に平等にしようなんて誰も考えていないじゃないか」ということを実証したことになります。どちらに転んでも、私にとっておもしろい展開と言えましょう。

 おっ気軽にっ!!! さあどうぞ!!!(って、誰のギャグだっけ?) 俺を養えるもんなら養ってみろ!!!

伊集院光のジャンクに、ネタに扮して「男女同室着替え」の新聞記事を投稿した人間がおり、それが放送されてしまいました。
 バラエティー番組に対してまで、このような政治的な活動が露骨に行われる時代になりました。

たらこキューピー大人気!CM曲がCD化
 そうそう、そういえばこれ上野耕路の作曲なんだよな。

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 そうだ、はてなはリンク貼らないとTB送れないんだった。

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2006年06月14日
 ■ “格差問題”問題

『太田光の私が総理大臣になったら』、「ニート対策禁止法案」
 爆笑問題は、1990年に太田プロから独立した。
 しかし、そのために仕事を干され、田中はコンビニでバイト。太田は奥さんに食わせてもらっていた時代があった。
 前に「石田衣良」のところで書いたけど、バブル崩壊前の裕福なフリーターやニートは、現在のフリーターやニートの現状を、自分たちの経験から考えてしまうところがある。しかし、かつての「適当にやってても金が稼げ、いくらでも仕事を選べた」フリーターやニートと、現在の「仕事を選べず、正社員に近いレベルの仕事を押しつけられる。もちろん時給は安い」フリーターやニートとは、まったく別の存在なのです。
 結局、我々はバブル以前のフリーターやニートのいいかげんなイメージを押しつけられ、さらにはその当事者にまで批難される。つまり二重の意味で彼らに苦しめられているのです。


 ここから雑談。

 太田はビートたけしになりたいんだろうなぁ。
 太田は確実に、たけしのシニカルな態度を真似している。
 たけしのシニカルさというのは、かつて精強を誇りながら、既に弱り切った旧来左翼イデオロギーという記憶を逆手に取るものであって、強い記憶があればこそ、反左翼的なことをちらっと呟くだけでシニカル足り得た。
 しかし、現代では既に左翼が精強であった記憶などなく、たけしレベルのシニカルさを演じようとすれば、それは自ずと声高で高圧的なものになってしまう。
 ましてや、右傾化傾向の強い現在において、たけしと同じ立場をとれば、それはシニカルにはならない。

 かつて人気絶頂を誇ったビートたけしのオールナイトニッポンが放送されてた頃、何らかの原因でたけしが出られなくなって、その代役として、当時太田プロ所属だった爆笑問題が出演して、太田は同じ太田プロの若手だった浅草キッドに対して「ざまーみろ! バカクサキッド」などと罵倒したことがある。それだけ嬉しくて舞い上がったんだろう。
 しかし、太田はもう若手じゃない。そういうことをしても許される立場だった時代は終った。
 TVというマスメディアを利用できる特権階級なら、それに対する自制が必要なのだ。俺もかつては爆笑問題のファンだったのだから、せめて失望させないで欲しい。


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「ニートってどうよ。」
 「正社員層」にコメントしてみた。反応待ち。

「ニートの話」
 本当はこういう企業を労基がガンガン指導して、労働者からの搾取をやめさせなければならないのです。言うなれば就職界の「都1」
 労基はこれを放置し、正社員層はそういう現実を直視しない。直視すれば自分たちの取り分が減らされるからね。

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 ずーっと言っているが、格差問題のクリティカルな点は、「富裕層が金を儲けること」ではなく「人間としての尊厳を確立することのできない貧困層が生まれている」ことである。
 こう書くと「貧困層は富裕層に略取されている」という簡単な構図(古くさい「ブルジョアジー VS プロレタリアート」という考え方)を思い浮かべてしまう場合が多いのだが、それは全くの間違いだ。

 簡単に解説する。
 もし日本が100人の村だったら、と、どこかで聞いたような屁理屈で、日本経済を適当にモデル化してみる。
 1人の富裕層が5000万を得、69人の正社員層が500万。そして、30人の貧困層が100万を得ているとしよう。
 このとき社会における給料の総額は42500万。これを100で割ると、一人頭425万である。つまり、貧困層が325万を奪われている状況である。
 しかし、その犯人を富裕層に求めれば、おかしなことになる。
 富裕層と貧困層を平等にするために、31人で平等に均等割りしても、8000*31=約258万にしかならない。まだ正社員層と貧困層の間には2倍弱の格差が存在することになる。
 一方で、正社員層と貧困層の99人で均等割りすると、(500*69 + 100*30) / 99 =約378万になる。しかもこれならば正社員層の所得も減るのだから、貧困層が貧困では無くなる。
 私が指向する社会は、貧困が消滅する後者であって、貧困の存続を許す前者ではない。だから富裕層の逸脱など問題ではないと言っているのだ。

 まぁ、上記のモデルはかなり適当なので信じなくていい。
 けれども、少なくとも経済成長を当然のものとしてその意味を考えもせず、低成長に切り替わればそれをさも貧困層のせいだと言わんばかりの正社員層の罪を糾弾し、正すことが必要だ。貧困の撲滅はそこから始まる。

 世の中は富裕層と正社員層の間でばかり格差を論じたがる。
 そしてジャーナリズムは無理矢理「富裕層の悪」という嗜好品を庶民(=正社員層)という名の略奪犯のために絶え間なく提供し、「貧困層の発生」というクリティカルな問題から目を逸らし続ける。
 その根っこは、不審者というミニマムリスクばかりに注視し、親や交通事故といった根源的なリスク要因を無視する子供の安全論議と同じものである。

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