番外編;イタリアジャーナリズム報告
「コースが始まった」を書いていたが、ちょっと休んでここでは番外編としてイタリアジャーナリズム報告をアップする。これはぼくが出掛けた唯一の海外出張(一度いって伝票処理の面倒くささに呆れてもうやめた)の内部向け報告書である。コースをどうしようか考えていた時期に、かつての「お師匠(しかも末期ガン!)に教えを請いにゆくのが主目的だった出張だったので、参考になる部分もあるのでは。昼食をごちそうになった時にテルザーニ氏はもう自分でご飯をとりわけられないほど弱っていたが、温かく迎えてくれた(その3ヶ月後に亡くなった)。ジャーナリストコースはぼくなりの弔い合戦でもあるので。なお情報的には『反戦の手紙』訳者の飯田さんのWEBに依っている部分が多い。ぼくはプロフィールの正確なところは知らなかったので。他にもイタリアのメディア状況についてもいくつもの資料に依存し、参考にさせていただいてる。出自が内部向けの報告書なので引用の記載方法とかが結構曖昧で、どうしようかと思ったけれど、ずいぶん前に書いたのでどこが何を参考にしているか記憶も薄れてしまったので修正していません。そこはお許しを。
イタリア出張報告 2004年3月20日ー25日 武田徹
●出張の目的
1.元・独誌『デア・シュピーゲル』アジア特派員チチアーノ・テルザーニ氏との面会
2.ベルルスコーニ政権下のイタリアのジャーナリズム調査。
●チチアーノ・テルザーニ氏について
1938年フィレンツェ生まれ。65年、企業研修の講師としてオリヴェッティ社により日本に派遣されたのが初のアジア訪問。71年に妻(ドイツ人作家Angela Staude)と共にシンガポールに移り住み、ドイツ週刊誌『デル・シュピーゲル』海外特派員として働き始める。
73年、ベトナム戦争を描いた処女作『Pelle di leopardo(豹の毛皮)』を上梓。75年、サイゴン陥落に立ち会ったジャーナリストの一人として『Giai Phong! La liberazione di Saigon(サイゴン解放)』を執筆。四年間の香港生活を経て79年に北京に本拠を移す。81年、ベトナム軍のカンボジアへの軍事介入を取材し、『Holocaust in Kambodscha(カンボジアの大虐殺)』を出版。その後、中国では「反革命活動罪」により逮捕、国外退去処分となる。そんな幕引きとなった中国特派員時代を描いた『La porta proibita(禁断の扉)』を85年に刊行。85年から90年まで東京駐在。以後、バンコクに。91年、ゴルバチョフ政権に対するクーデター勃発の知らせを聞き、モスクワ取材。『Buonanotte, Signor Lenin(おやすみなさい、レーニン)』(92)刊行。
93年にデリーに居を移す。97年、「ルイージ・バルツィーニ賞/特派員部門賞」を授与される。30年間アジア特派員としてシュピーゲルに書き送った記事をまとめたアンソロジー『In Asia(アジアにて)』を98年に出版。この刊行を最後に『シュピーゲル』との契約を終了、インドに暮らし、ヒマラヤ山脈のふもとの小屋で晴れれば太陽電池でパソコンを動かし原稿を書く生活に入る。その後、911直後からイタリアの新聞への寄稿を始め、2002年3月に『Lettere contro la guerra(反戦の手紙)』を出版する。
●筆者との関係
筆者は彼の日本滞在中の86-90年に親交を交わした。当時のテルザーニの取材テーマの設定について筆者がアドバイスし、彼が取材中に抱いた疑問について筆者がコメントするするという関係だったが、同時に筆者はこの時にヨーロッパのジャーナリズムについてテルザーニ氏の流儀から大いに学んだ。ジャーナリス教育を正式に受けていない筆者にとってジャーナリズムにおける唯一の師と言える存在である。
●面会
テルザーニ氏は現在末期癌におかされている。抗癌剤治療を拒否し、緩和ケアだけ受けて自宅療養中と聞いており、実際、現地入りしても「今日は体調がすぐないので翌日にしてくれ」という連絡が入るなど、予断を許さない状況であったが、翌日昼に会ってみると、声に張りもあり、東京時代を彷彿させる印象であった。ただし、フィレンツェ郊外の丘の斜面に建つ三階建ての家の中で、階段の上り下りはもう出来ない様子だった。
昼食を挟んでの数時間の会見となったが「今やジャーナリズムを嫌っている」という言葉が印象的だった。その理由として「ジャーナリズムは事実しか相手にしない。事実の背後にある真実をみようとしないから」だと説明する。英語によるコミュニケーションゆえに隔靴掻痒感が否めないが、様々な含みを持つ表現のように感じられた。
まず最近の彼の超自然的な関心が、特に末期癌によって増幅されていることが考えられる。バンコク時代の彼には『Un indovino mi disse(占い師は言った)』(93)という作品があり、これはかつて香港で占い師に「92年は飛んではならない」と言われた言葉を敢えて「真に受けて」一年間、飛行機に乗ることを自分に禁じた一年間の記録だった。飛行機を使わずにアジア特派員としての業務をこなす過程でまみえたエピソードの中にはバンコクからドイツまで陸路で往復する途中でタイ北部のいわゆる「ゴールデントライアングル」で麻薬王クンサーと遭遇、カラオケを一緒に歌うという珍事も書かれている。
そんな同書はもう一つ特徴があり、テルザーニ氏は旅の途中で、そのつど現地で最高の評判を得ている占い師に未来を占ってもらう。ジャーナリズムの対象になりにくい「占い」を扱ったあたりに、超自然的なテーマへの関心が現れていたといえる。そして特派員契約を終了させてからのヒマラヤ生活は明らかに脱世俗的な指向性がが踏まえられていたといえよう。
しかし「ジャーナリズムは事実の背後にある真実をみようとしないから」という発言は単にそうした指向に留まらないニュアンスも込められていたように思われる。たとえば9・11同時多発テロ後の作品”Lettere contro la guerra”は現地ではチョムスキーやサイード的な アンチ・ブッシュの文脈で受け入れられ方をしている。それを読むと特派員時代に目撃してきた戦争を踏まえた、実経験から演繹された非戦論が、文学的なイメージ豊かな魅力的な文体で綴られており、単に反物質主義、霊性礼賛の単純な内容ではない。それは以前からの彼の記事の書き方にも見られた傾向であり、彼自身が単に事実を短信的に配信する通信社系のジャーナリストではなく、事実をどう見るか、どう感じるかを含めて報じるコラムニストとして長く署名原稿を書いてきた。「事実を報じるだけのジャーナリズムではないもの」を求めて来たのは、脱俗的な指向とは別に彼の以前からの仕事の仕方だったようにも思う。ちなみに筆者は『戦争報道』の中でベトナム戦争報道において事実のみを報道するジャーナリズムを補完するものとして事実と事実を繋ぐ世界観、歴史観の供給源としての戦争文学、戦争映画の機能に言及しており、これももとを糺せばテルザーニ氏のコラムニスト的資質に影響を受けての発想だったのかもしれない。
●ジャーナリスト教育について
彼自身は以上のように基本的にはジャーナリスト不信が強いので、ジャーナリズム教育に期待はしていない。イタリアでも教育の機会はあるが、うまく機能していないという(このあたりもう少し突っ込んで聞ければ良かったのだが、時間がなかった。具体的事例の説明を求める雰囲気ではなかった)。筆者が「事実を事実と信じる」ことの再検討するために「信じることの科学」としての宗教学などの講義をジャーナリストコースでは加えたいと考えていることを伝えると、それには賛同を得た(ちょっと誤解もあったかもしれない)。個人的には自分のジャーナリズムのルーツを改めて確認する機会になり、自分が担当する教育プログラムも、自分の良かれと信じるジャーナリズムを追求するしかないという覚悟が出来た点では収穫があったと思う。
●イタリアのジャーナリズムについて
*以下に現地でテルザーニ夫妻をインフォマントとして『コリエレ・デッラ・セラ』『レパブリカ』のWEB、『ルモンド・ディプロマティーク』のジャーナリズム関係記事などの情報と総合してイタリアのジャーナリズム状況を概説する。
現在イタリアのメディアはシルビオ・ベルルスコーニ現首相の支配下にあると言われる。メディア関係の資本の9割が彼自身かその関連企業の所有という説もある。
ベルルスコーニ氏は現在66歳。20 代で建設会社を起こし、ミラノ郊外に「ミラノ 2」や「ミラノ 3」(今でも多くの在留邦人が居住している)といった新興住宅やコマーシャルセンター「ひまわり」などの設計・開発で成功をおさめる。
78 年からは地元民放テレビ局を開局、放送事業へ乗り出し、84 年までに全国民放テレビ局 3 局を築き上げた。また 83 年にはイタリア最大発行部数を誇る週刊誌『ソッリーズィ・エ・カンツォーネ』を買収。93 年には最大大手出版社「モンダドーリ」を傘下において出版業界に足場を築き、『イル・ジョルナーレ紙』と大手週刊誌『パノラマ』も系列下におく。
こうしてベルルスコーニが今日、マスメディア業界に君臨することができた背景にはイタリアの特殊事情を考える必要がある。70 年代の経済斜陽化の中、イタリア新聞産業界は深刻な状況に陥っていた。そもそもイタリアでは当時1000 人当たりに 113 部(1975)しか新聞普及率はなく、これはヨーロッパの中で最も低いクラスに属していた。新聞を読まないわけではないのだが日々新聞を買う習慣がなくバーや美容院などの「ついでに」読むことが多かったのだ。そして経営悪化の原因のもうひとつの理由がテレビの出現である。イタリアでは民間放送局だけでなく、国営放送RAI も広告放送事業を行う。これが新聞の広告収入を圧迫しはじめていた。こうした経営難を乗り切るために新聞各社は企業や政党の支援を受けるのが当然となっていた。ミラノ・ローマで発行された共産党系機関紙『ユニタ』は発行部数45 万部を売り上げ、イタリア中で読まれて全国紙的な役割を果たしたすようになる。『ラ・ナチオネ』(フィレンチェ)、『イル・レスト・デル・かラリーノ』(ボロニア)、『イル・ジオルナ・デ・イタリア』(ローマ)などの新聞は石油・砂糖産業実業家アティリオ・モンティの支配、『ラ・スタンパ』『ラ・カゼッタ・デロ・スポルト』(イタリア最大のスポーツ紙)や名門『コリエレ・デッラ・セラ』などは自動車産業フィアット、『イル・メ・セジュロ』は化学工業モンテディルソンの支配下に置かれた。
こうした流れを更に加速させるものとして81 年に「出版業の規律及び出版者に対する助成に関する法律」が制定される。これによりフィアット系のRCSが大手新聞とTVを垂直的に支配する構造が生まれ、更に非メディア大企業によるメディア企業所有が進行する。そしてそんな企業家の中でもベルルスコーニが一頭地ぬきんでて多くのメディアを所有する構図が生まれる。
そしてベルルスコーニはメディアを政界進出に利用した。政界再編さなかの94 年、新党「フォルツァ・イタリア」を創設し、右派連合リーダーとして勝利をおさめ、初当選で見事首相の座を射止めた。その背景にベルルスコーニのメディアの活用がある。イタリア・プロサッカーリーグ「セリエA」の「ACミラン」が1994年の総選挙では、ベルルスコーニの政党「フォルツァ・イタリア」の応援に参加し、「ACミラン」のファンクラブを運営するフィニンベスト傘下のPR会社が全国1万3千か所に党支部を設け、チームの人気選手や監督がベルルスコーニの宣伝に駆り出され、選挙期間中には、傘下のテレビが1日何10回とベルルスコーニのCMを流した。
これが94年の勝利に繋がったわけだが、この政権は長続きせず、ベルルスコーニ財閥と言える「フィニンベスト(現メディアセット)」の贈賄疑惑発覚で与党連合から北部同盟が離反したためわずか9 ヶ月の短命におわる。
そして2001 年にベルルスコーニは再び返り咲きを目指す。傘下の広告代理店に市場調査をさせて、有権者のニーズをはじきだし、そのデータをもとに自分の所有する3大民放ネットワークを通じて大衆のニーズに応えて行く作戦をとった。この時は政敵{オリーブ木」側も同じように放送を利用しており、国営放送RAI はベルルスコーニが第一次政権のときに失脚した蓄財疑惑やマフィアとの黒い関係を示唆する風刺番組を放映した。ベルルスコーニ側は「公共放送の政治的リンチだ」と反論したが、マスメディアの政治利用は更にエスカレートし、選挙の終盤3月から1ヶ月間のバルルスコ-ニが傘下にしているテレビのニュース番組で取り上げられた総時間数は「オリーブの木」の首相候補ルテッリ前ローマ市長が13分間に過ぎなかったのに対して、ベルルスコーニは147分に及んだ。ちなみにベルルスコーニは政権をとってから自分を攻撃対象としたRAI のジャーナリスト3 人Michele Santoro、Enzo Biagi、Daniele Luttazziを解雇し、RAIを実質的な支配下に置いている。
テルザーニ氏によるとイタリアでは言論機関による権力監視機能は殆ど望めない状況だという。これは行政が政治権力を用いて言論統制を行ったり、法制度によって世論を制御するのではなく、ベルルスコーニ陣営がメディアの経営を握っているためにメディア企業内の人事や待遇面を通じて言論操作が可能であること、栄達を望めば反ベルルスコーニ、反与党報道は自粛した方が良いとジャーナリストが考えるように仕向けたことが大きい。既にテレビメディアが全てベルルスコーニ側となった現状では『レパブリカ』が唯一、ベルルスコーニ傘下ではない新聞だが、こちらは逆に反ベルルスコーニ陣営の政治勢力の御用メディアと化しており、ジャーナリズムの中立へのこだわりはいずれにせよ失われているとテルザーニ氏は言う。これは選挙戦でTV局が二分された流れの延長上にあるが、こうした状況において新聞の読者離れは激しく、部数的にも漸減状態だ。イタリアはクオリティペーパーである『コリエレ・デッラ・セラ』、『レパブリカ』が全国紙でもある、日本と似ている状況にあるがにもかかわらず、前者が70万部、後者が60万部の部数に過ぎない。いずれもニューススタンドでは本体よりも分厚い雑誌のおまけをつけて売って、かろうじて部数を確保している状態だという。
そしてTVに至っては、選挙戦でもない時期だったせいか報道系は極めて弱くーー朝生的な討論番組があったが、イタリア語で意味が分からなかったが、日本以上にくだけた感じだったーー、テレビショッピング番組を延々と流し続けるなど、極端に脱政治化、娯楽メディア化している感じだった。
●日本のジャーナリズムを省みて
ベルルスコーニ体制の下ではさらにメディア規制緩和が進んでいる。デジタル放送などの新たな環境に適応するという名目の下で、メディアの寡占的経営に対する規制緩和、同一人物がテレビと新聞を同時に所有することを(建前上は)禁じていた現行規定の廃止、国営放送RAIの分割、民間資本導入などが進められる予定だ。この「ガスパリ法案」はすでに03年7月22日に下院での決議を経て、03年12月2日にイタリア上院が賛成多数で可決され、承認された。これによりベルルスコーニはもはや何の気兼ねもなく、ラジオ、出版など他のメディア分野へ更に進出するとみられている。
ベルルスコーニの動きをイタリア新聞協会のロンギ事務局長はメディアを利用したファシズムの始まりとして「歴史的汚点」と非難している。ジャーナリストの中には「ムッソリーニより悪い、現代のムッソリーニが再来した」と非難する向きもある。しかしそうした批判勢力の存在にも関わらず、ベルルスコーニは君臨し続ける。政治的にメディアを操り、メディアを使うことで政治を支配する構図は、再び大きなスキャンダルが表面化したり、スペインのように大規模なテロの勃発で国民が現政権へ不安を募らせることでもない限り、安泰なのだろう。
こうしたイタリアのメディア状況から翻って日本のメディア状況を見ると何か考えられるのだろうか。
ベルルスコーニの登場は正力松太郎が読売新聞を買収して登場した経緯を彷彿させる。しかし正力は野望こそ持っていたが総理にはならなかたし、戦後、読売新聞は日本テレビ、ニッポン放送とメディアグループを形成するが、日本の場合は他にも複数のメディア企業グループが存在し、ベルルスコーニほどメディアを一元的に支配するメディア企業家は登場しなかった。
これは日本の場合、商法などの規定で外部者によるメディア企業株の取得が困難になっていることが奏功している。実際、最近でもITバブルの時期には、孫正義を初めとして多くのベンチャー起業家がマスメディアの所有願望を抱いたが、孫が旺文社をトンネル企業として利用することで外資と共にテレ朝経営への参入に一時的に成功した以外は未然に阻まれている。この外部資本の参入が困難な商法の規定は、既存のメディア関係経営者にとって買収などを気にする必要がなくなるという意味で一種の特権であり、この既得権益の堅持のためにメディアが「筆を折っている」事情は問題があるが、それがイタリア的な企業寡頭支配への防波堤になっているのは事実である。
とはいえ、こうした「問題ある制度」が「問題ある展開」を防いでいるダブルバインド状況を放置するわけにはもちろんゆかない。第二のベルルスコーニは生み出していないが、テレビショッピングと時事娯楽番組にTVが席巻され、権力監視能力を失って行く傾向は日本でも見られる。メディアの第三者性の担保、批評機能の確保のためにどのような制度作りが必要か、どのようなジャーナリスト教育が必要か、イタリアのメディア状況を一つの鏡として映しながら検討するに値する。
●安全安心について
ウンリッヒ・ベックの『危険社会』が書店で平積みになっていたのは、もはやどの国でも見られる光景であったが、イタリアはいち早くイラクへ派兵し、いち早く犠牲者を出してもいる。テロはより身近な感覚で捉えられているのかもしれない。ちなみに空港で上記直前にもパスポートで本人確認をしていた。ちなみにルフトハンザは成田でもフランクフルトでも本人確認をしておらず、イタリアのほうがドイツより安全管理が厳しくなっているというのは意外であった。