図書新聞2013年5月18日号に掲載された東京新聞こちら特報部編『非原発--福島からゼロへ』書評の元原稿です。
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本書は東京新聞の人気連載「こちら特報部」が展開した脱原発キャンペーン記事を一冊にまとめたものだ。「こちら特報部」は1968年に始まった同紙の人気コーナーで、見開き構成でひとつのテーマを扱い、週刊誌よりも早く、深い記事を目指して来た。311以後、その連載の殆どが原発関連記事で占められて今に至っている。本書はその最初の一年分を集めただけだが、それでも書籍として群を抜いた厚さになり、新聞報道の圧倒的な情報量を感じさせる。
もちろん量だけが突出しているわけではない。特報部は今、福島第一原発で何が起きているのか、なぜ原発事故は起きたのかを取材で堀り下げる。取材は福島以外の原発にも及び、「日本原発紀行」の副題がつけられたシリーズ内シリーズにも分化した。記者クラブ経由で発表される政府や電力会社の公式発表に対する不信感の高まりを背景に311以後には、多くの調査報道が実施されたが、東京新聞特報部も確かな成果を上げた。その結果として「こちら特報部」は日本ジャーナリスト会議大賞、菊池寛賞などを受賞したが、確かに国や電力会社のような強敵相手によく立ち回った印象がある。
しかし…、その報道は編集後記に書かれるように「非原発社会の実現」を目指す「息の長い戦い」へと日本社会を導くことができたのだろうか。本書刊行直前に結果が出た衆院選では、脱原発運動は国政に影響を与えられなかったことが明らかに示された。圧勝した自民党はやがて従来の原子力政策への回帰へと舵を切るだろう。
そして新聞メディアにとっても実は「この道はいつか来た道」なのだ。別件を調べていて知ったのだが、1955年の新聞週間に採用された標語は「新聞は世界平和の原子力」だったそうだ。ヒロシマ、ナガサキから10年目を数える節目ではあるが、被曝の記憶が遠くなったわけではない。前年にはビキニ環礁での水爆実験によって第五福龍丸が被曝する事件も起きている。それでも新聞界は世界平和と並んでで「原子力」の言葉をスローガンに選んだ。
この標語について福田恒存がエッセーを書いている(「素顔のないものが風潮を作る」『新聞協會報』10月1日号)。福田が主に批判しているのは猫も杓子も世界平和を唱える当時の風潮で、その形成に新聞がいかに関わったかを指摘しているのだが、原子力に関しても事情は同じだ。核廃絶を謳いつつ、一方で原子力平和利用の推進を求めた風潮の形成に新聞メディアの寄与は大きかった。だが、そうした関与の記憶すら薄れて久しい。「この標語を作つた方も、採用した方も、風潮に乗るかりそめの心しか持つてはいなかつただらう。いや、それが「かりそめ」のものといふ自覚もあつたかどうか」と書く福田の言葉を前に今の新聞人たちはぐうの音も出まい。
東京新聞の記者たちは原子力を推進した過去の新聞史を反省している。本書に悔恨の情は確かに刻まれており、その真摯さを評価したい。だが、その反省は「かりそめの風潮」を作ってきたことについても及んでいるのか。311から2年目の中間評価として、今のところ「脱原発」も結局は一時の「風潮」でしかなく、息の長い戦いは始まらずに終わってしまうのではないかとの危惧を抱く。
なぜ、そんな結果になったのか。連載最初のインタビュー相手は広瀬隆であり、以後、反原発運動の文脈で発言する識者が揃う。そうした反原発論者の意見を新聞メディアが取り上げること自体今までは例にないことだった。こうして従来、表面にでていなかった原発の危険性に関する情報が露呈し始めたのは確かだが、それだけでは脱原発はできない。いかに安全に原発から離れてゆくか具体的な手段を策定してゆく議論が必要で、そのためには原子炉工学の専門家などの知見を集約し、整理し、確実な方法にまとめてゆかなけえばならないし、立地地元に原発関係の交付金で経済を維持してきた構図から離陸する方向を示す必要もある。
そうした総合的な議論の場を東京新聞が提供できたかといえば本書の時点ではまだ不十分な印象だ。逆に核技術というだけでアレルギー反応を示し、理屈を越えて被曝をひたすら忌避しようとする読者の感情的部分との共鳴、大西巨人にいわせれば「俗情との結託」に終始していると感じないでもない。
福田は新聞が自らの影響力に陶酔し、自身を正義の使者と錯覚しがちなことを諫めていたが、確かにそんな姿勢では社会を本当の意味で変えてゆく力を持った言論活動はできない。脱原発をかりそめの風潮に終わらせないために、更に先へと踏み出すことができる報道がなされ、本書の続編にまとめられることが切実に求められる。