小熊英二さんの書いた『1968』という本を授業に使ったことがあります。60年代末に始まる学生運動を取り上げたこの本の表紙には、ヘルメット姿の女子学生の写真が使われています。この68年当時の女子大生の姿をみて、今の学生諸君は本当に驚きます。それもそうでしょう。今の学生はヘルメットなんかかぶらない。せっかくきれいなブロンドに染めたのにヘルメットなんかかぶったら台無しになる。ですので自分と同年代の女子大生が大学でヘルメットをかぶっていたと聞くと驚くし、大学当局と真正面から戦っていたと聞くと更に驚く。これは一種のショック療法で、そんな違和感から歴史に興味を持ってもらえればいいと当時は思っていました。
そんな写真を紹介したとしても「大学生だったらヘルメットかぶってゲバ棒を振り回せ」と無責任な檄を飛ばしたいわけではありません。ただ、時代は変わっても戦うべき相手はきちんと見定めて欲しい。それは学生だけでなく、教職員にも期待したいことであります。
大学は、教育や研究を通じて未来を拓く場です。そうである以上、現在の、現実社会に対しては批評的な緊張感をもって向き合わざるをえない。現在における問題点を認識し、それと戦かってこそ豊かな未来が開かれるはずだからです。
では今、大学は何と戦うべきなのでしょうか。
先日、大学入試改革を巡るニュースが報道されていました。政府の、というよりも安倍首相の肝いりで作られた諮問機関である教育再生実行会議が改革の案をまとめているのですが、それによると大学入試センター試験を衣替えし、一点刻みではなく段階ランク表示で成績を示すようにする。そして大学側はこれでおよその学力をみた後は、面接などで「人物本位」の選抜を行うとされていました。
「人物本位」というと聞こえがいいのですが、それとは裏腹に、この素案が報道されると反発の声がにわかに高まりました。その反発は多くが安倍首相の性格、戦前の愛国心教育に回帰しようとする復古的、反動的な指向性に向けられたものだったように思います。
確かにこの改革案は人物本位といいつつ、学生をかたにはめてしまうでしょう。入試の面接で安倍晋三首相の意を汲んで「愛国心」が高く評価されるとなれば、試験前から入試面接官の視線を意識し、教師は生徒に愛国心を持つように教えますし、生徒も合格するためにそれを身に付けるでしょう。こうして入試を通じて若者を型にはめることになりかねない。そこに危うさを感じる人が今回の改革案に猛反対します。
確かにそうしたイデオロギー的偏りはを教育に持ち込むのは問題だと思います。しかし私はそうした内容以前に形式の問題も意識したい。型にはめる教育を行い、型にはまった、つまり同じ型の学生だけを入試で合格させる。それは偏差値で輪切りにするのと同じく均質な集団を作る方法です。私は内容の如何以前に、均質な集団を作るという発想こそが大学教育の敵なのだと思っています。
昔話しをさせてください。筆者は学生時代に経済史家・大塚久雄氏の最晩年の講義に出たことがあります。なにしろ戦後の社会科学者の大物で、その退官まで秒読み状態だった時期の授業ですから、教室で大塚先生の話しを聞いていたのはうちの大学の学生だけではなかった。もぐりがたくさんいた。他の大学の教員や著名な評論家、在野の研究者までそれこそ雑多な人が、うちの大学側に許可も取らずに聴講していました。普通の授業のように学生と教師だけでなく、様々な立場の聴講生を交えた議論は実に刺激的でした。こんなふうに問題を見られるのか、こんな考え方があるのかと感心し、今までの自分の考え方、感じ方の殻を破れました。
そんな講義に触れた経験は、私に、現状を打破するような本当に新しく、強いアイディアは、予定調和を超えた多彩な出会いや、シナリオの書けない偶然の交わりからしか生まれないと思い知らせました。
そんな経験を踏まえて、私は、大学は「自由と偶然の府」であり続けるべきだと考えています。しかし、多くの大学は今その逆を行こうとしているのが現実ではないか。
たとえば最近では履修登録をコンピュータで行うようになりました。たしかにそうすれば人間がチェックするよりも確実に間違いははじかれます。こうしたIT技術を用いる方法をもっと推し進めれば、校門や教室の出入口に学生証や教職員証に仕込んだICタグをタッチさせないと開かないゲートを設置するようになるかもしれない。こうすれば部外者は排除されます。正規の学生だけが教室に入れるということで不純物抜きの授業ができる。セキュリティは万全ですが、果たしてこれは大学のためになるシステムなのでしょうか。聞いておきたい授業だから単位とは無関係に聞いてみるとか、面白そうだから、その大学の学生ではないけど教室に潜り込んでみるとかいうことはもはやありえなくなります。結果として予想しない出会いはなくなってゆく。
入試もそうです。政府の教育再生会議は面接を型にはまった均質な学生を入学させることに使おうとしている。いかに多様な学生を集められるかが、新しい未来を開くことに繋がるというのに、やっていることがまるであべこべだと思います。
たとえば恵泉のキリスト教センターには多様な学生が集まります。選んだわけではない。その門を叩く人を受け入れてきた結果、沢山の学生が集まってしまったのです。元気一杯の学生もいれば、彼女たちの中には礼拝で生い立ちを話してくれる学生もいて、聞けば中には、幼いころに心に傷を受ける経験をして、長く自分の殻に閉じこもっていた学生もいたようですし、身体の障害をもった学生もいる。しかし、そうして様々な経験をした学生たちが、たとえばタイのワークキャンプにいったり、聖歌隊に参加したり、ハンドベルで演奏したりし、同じ場を共有し、同じ経験を共にすることによって、互いに影響し合い、入学時とは比べ物にならないほど成長して社会に出てゆく。いろいろに異なる、多様な学生が集まっているからこそ、そうして大きく育ってゆけるのだと思います。多様な学生が集まり、初めはバラバラであっても、それこそ合唱のようにだんだんに声を合わせられるようになってゆく。それぞれの声が違っているからこそ合唱は豊かな調べになる。声を合わせてゆく経験を積むことで、学生は成長し、社会に力強く巣立って行ける。
キリスト教センターの話しをしましたが、本当は大学全体がそうした場であるべきなのではないでしょうか。それは大学を卒業して育って行く先の社会もまた多様だからでもあります。今まで日本社会は大学も会社も横並びの均質集団でやっていましたが、グローバル時代はそんな甘ったれたものではなくなります。多様な価値観と向き合い、違いを受け入れつつそこから大きな実りを生み出してゆかなければならない。そうした多様な社会で活躍できる人材を育てるためには、大学自体が、多様性を受け入れられる場になる必要があるのではないでしょうか。
多様性を守るために、どう選べばいいのか考える。それは再生会議の目指す方向とは逆でしょう。極端にいえば、選ぶという発想自体を捨ててしまったほうがいいのかもしれない。選ぶのをやめてどうするのか、偶然にまかせるということもひとつの重要な選択肢なのだと思います。
偶然にませるというのはなげやりになることではない。たとえばアメリカのオレゴン大学にドーズ(Robin Mason Dawes)という教育心理学者がいます。彼は入試設計の専門家で、受験生の経歴や資質など複数の要素を数値化し、優秀な学生を選んでゆく、非常に優れた方法を編み出しました。
しかしドーズはそれでもなお慢心せず、入学定員のうち一定の割合を、入試を経ずにランダムに合格させ、入学後に入試で選別された学生と、ランダムに入学を許可された学生の学力を密かに追跡調査し、前者が後者を下回るようであれば選別方法自体を再検討することをあらかじめ入試制度に含める提案をしたそうです。
自分たちが最良と思う方法であってもそこで慢心しない。それは人間が限界を持っていることを知っている人の謙虚さです。自分の小ささ、無力さを知るからこそ彼は強力な入試選別方式を作ってなおそれが偶然に勝てないかもしれないと考えた。自分の力の限界を知るからこそ偶然の前に謙虚になる。それは信仰と何処かで通じている姿勢なのではないかと思っています。
しかし比較する目的ですから当然ですが、ドーズは偶然に委せて入学させた学生と試験で選別した学生を同じ教育をしようとしています。もし偶然にまかせたがゆえに受け入れることができた多様な学生を、その多様さを活かすような教育ができてれば、つまりうちのキリスト教センターのようなことが出来ればどうだったか・同じように教育してもドーズは偶然に負けるかもしれないと思っていたわけですから、そうした多様性を活かす教育方法が編み出されれば多様性が相互に刺激しあう環境を作り上げ、共助と同時に共に学び教える関係が作られ、小賢しい人間が選別した結果としての均質な集団をはるかに上回る優秀な人材を輩出できたのではないでしょうか。
それぞれに違っていることがわたしたちの存在価値であり、それぞれの違いこそが財産です。違いが相互作用を発揮し、一人では到達できなかった遠くまで人を運んでくれます。未来をひらく教育とはそうした力に身を委ねられる教育なのだと思います。
なぜそれをしないのか。残念ないいかたになるけれど、多様な学生を受けいれてきちんと育てる能力がないから、教育してゆく自信がないからではないでしょうか。そんな自分たちの小ささ、無力さを認められないほど私たちは臆病になっているのではないでしょうか。あるいは逆に自分で選んだ結果が最善なのだと信じる傲慢に至っているのかもしれません。
しかし、それでは本当に新しい時代は切り開いてゆけない。自分の小賢しい価値観で優れていると思える人とだけつきあいたい。似たもの同士で和んでいたい、ついそう願ってしまう自分自身の甘えや、弱さと私たちは戦わなければならない。むしろ自分とは違う人こそを歓迎し、受け入れる。そして違いから生み出される力こそ未来を切り開くのだと信じて、そこに賭ける。そんなことが出来る場に大学を変えてゆかなければならないと私は考えています。
今日は、大学で学んでいたり、働いているみなさんに、ぜひ自分が本当に戦うべき相手を見つけていただきたいと思います。豊かな未来を切り開く大学作りを邪魔しているものは何か。今、本当に自分たちが戦うべきものが何なのか、静かに考えていただきたい、そのために最後に黙祷をしたいと思います。
(中央公論2013年12月号 ハフィントン・ポストなどに寄稿した文章を元に話しています。中央公論の掲載号の発売期が終わったのでここに出しておきます)