新潮社の読書誌『波』に書いた新著の自著解説です。新著と合わせて読んでもらいたい内容ですので、早めに公開します。本来であれば『波』の発売期間の終わりを待つべきですが、出版社側としてはこの自著解説が広く読まれ、そこから更に本自体に関心を持つ人が増えることをなにより望んでいるはずなので、ナマ原稿を上げておきます。
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風光明媚な観光地に行けば、皆がビューポイントに立って同じように満足気な表情を浮かべている。ところが日常生活に戻ってしまえば誰も「風景」を気にしなくなる。そうした行動様式から推測すると、多くの人が観光地ではそこで見るべき「風景」を眺め、普段の生活では代わり映えのしない「風景」について特に意識しないで暮らしているようで、「風景」に向き合うおおよその共通の姿勢がありそうだ。
だが、同じように「風景」に接していながら、隣にいる人は本当に自分と同じ「風景」を見ているのだろうか。
マクルーハンの『グーテンベルクの銀河系』に興味深いエピソードが紹介されていた。アフリカのとある部落に衛生監視官が乗り込み、教育映画を上映した。水たまりを掻き出し、空き缶に溜まった水を捨てるといった内容が延々と続く映画だった。上映会の後、監視官が原住民たちに内容について尋ねるとみな「鶏が出ていた」と述べた。鶏を登場させた覚えのなかった監視官がコマ送りでフィルムを確認してゆくと、確かに一瞬、鶏が画面を横切っていた。文明社会からの使者たる衛生監視官と原住民は同じ映画を見ても違うものをみてしまう。
ことほどさように何を見るかは出自や経歴に束縛されるが、こうして見ている「風景」の違いは殆ど意識されない。その人にしてみれば、自分が見ている「風景」こそが世界の姿なのであり、そこに疑いを差し挟む機会は滅多に訪れない。
しかし、311後に私たちが経験したことは、そうした「風景」への無垢な信頼が日常生活を生きづらいものにしてしまう事態だったのではないか。原発事故後、沖縄など遠くに避難した人、瓦礫の受け入れを徹底的に拒否しようとした人には被爆リスクに満ちた「風景」が見えている。その行動に科学的根拠がないとか言っても通じない。彼らには世界が被爆リスクが溢れるものとしか見えないのだから。一方で彼らを諭そうとする側も自分たちの見ている科学的常識の世界に佇み、自分が見ている「風景」を唯一のものと信じて疑わないので論争は噛み合わない。かくして311後の不毛な議論状況は「風景」のせいだとも言える。
たとえば悪魔が見えてしまう人がいて、悪魔と戦うために刀を振り回す。悪魔が見えていない人には彼が何と戦っているか理解できず、危なっかしくて困るのでその人を施設に隔離する制度を作り出す。そこに「風景」が暴力を生み出し、その暴力を管理するための排除の制度というもう一つの「暴力」が覆い重なる連鎖が生じる。ベンヤミンは『暴力批判論』の中で法を作り出す超法規的な暴力を神話的暴力(die mythologische Rechtsgewalt)と呼んだが、「風景」もまた暴力と法を生み出す源泉となるのだ。
拙著『暴力的風景論』では、こうした「風景」と「暴力」のつながりについて考えてみた。仲間を粛清して殺し、浅間山荘に立てこもった連合赤軍兵士はどんな「風景」を見ていたのか。宮崎勤や麻原彰晃には、酒鬼薔薇聖斗や加藤智大には世界がどのように「風景」を形成していたのか。世間はどのような「風景」の中で、彼らの携えた銃、毒ガス入りのポリ袋や振り回したナイフを「凶器」として取り締まったのか。あるいは彼らのような異物を生み出しては排除し、歪みや亀裂をかろうじて糊塗しつつ高度経済成長の夢と幻を強引に実現していった戦後日本の「風景」こそ、実は暴力に満ちたものではなかったのか。社会の均質性が高まれば、見ている「風景」も均質に傾くが、均質になればなるほどそこに馴染まないものが厳しく排除される構図も生じる。本書では戦後日本において排除の結果起きた象徴的な事件の現場を訪ね、当事者たちと、彼らを包囲する世間が見ていただろう「風景」を再現し、「風景」と「風景」の狭間に芽吹き育つ暴力の輪郭を描いてみた。
再びベンヤミンを引こう。法制度はそれを生み出した神話的暴力の暴力性を引き継ぐ。そんな暴力を否定したければ法制度自体を解体する超法規的な暴力が再び必要となる。それをベンヤミンは神的暴力(die göttliche Gewalt)と呼んだ。本書では、「彼ら」「彼らは」「私たちは」と主語を入れ替えながら、それぞれが見ていただろう複数の「風景」を多少強引に、つまり暴力的に突き合わせ、世界そのものと錯覚されている「風景」の唯一絶対の擬制を解体し、「風景」と「暴力」の靭帯を解きほぐそうと試みた。風光明媚を愛でる景観本と印象の異なる書名にはそんな意図が込められている。