2007年秋に大学礼拝で話した話の口述用原稿です。某宗教団体系サークルが学園祭に出展しようとして大学側に拒絶されていたのを見るに見かねて顧問役を買って出た経験を語っています。「寛容は~」は本文中にあるように渡辺一夫のエッセーの言葉。これを再掲したのはもちろんシャルリーエブドの事件に接して。この礼拝で話した内容をもう一度、2015年の時制で書き直したいと思っているので、オリジナルを載せてみました。
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今から一ヶ月前の、多摩フェスティバルで経験したことから今日はお話しを始めたいと思います。多摩フェスティバルは原則的に誰でも出展が出来ますが、出展に際して、ひとつだけ新たな条件が今年から設けられました。それは、出展団体は教員の顧問をつけるということです。ところがこの顧問制度が出来たために、参加の意志を表明していながら参加できずにいる団体がありました。それはキリスト教ではない宗教に属する学生の任意団体でした。
この団体は、学内サークルでもなく、ゼミでもないので、特定の教員との関係があらかじめ存在しているわけではなく、出展申請の期間内に顧問の先生をみつけられずにいました。
私は多摩フェスティバル担当教員でしたので、そうした経緯を刻々と知る立場におり、これは困ったなぁと思っていました。これは宗教が違うので出展が拒まれたのではありません。単純に改めて教員のどなたかに顧問を頼むための物理的な時間が単純に足りなかった、私はそう理解しています。しかし、そうであっても、このままでは型のうえでキリスト教主義の大学が、他の宗教の学園祭での出展を拒んだかのように見えかねません。となると大学紹介などにも頻出する恵泉のキーワードのひとつ「多文化共生」が、危うく揺らいで外から見えてしまうのではいないか。これは困ったなと思った私は、自分が多摩フェスティバル担当教員だったこともあり、でしゃばりと思われることを覚悟のうえで一肌脱ごうと思いました。私自身がその団体の展示の顧問になったのです。
もちろん顧問になったからにはきちんと指導しなければなりません。そこで彼女たちとは夏休みから勉強会を始めました。そうして一緒に勉強会をする中で、私が彼女たちに求めたのは、歴史学的に評価の確定した事実のみを今回は発表しようということです。
歴史とは実は厄介で、特定の価値観に基づいて後世から逆に、過去に遡る形で構成されがちです。そのため歴史にはそれぞれのイデオロギーや価値観が投影され、神話と事実との境界も曖昧になる。そんな神話と地続きの歴史を踏まえていては、異文化同士の対話はかみ合いません。歴史像が一致しないままでの対話は、まさに悪い意味での神学論争になり、時として相互間の緊張を高め、諍いにもなります。
そうした不幸な展開を避けるために、私は歴史観の相違を乗り越えて合意可能な事実を摘出し、それに基づいて対話し、相互理解可能な領域を少しずつ増やしてゆく必要があると思っています。異なる宗教を信じる者同士の対話もひとつの異文化間コミュニケーションです。学園祭での展示が宗教の違いを越えた対話のきっかけになるには、やはり歴史像の共有が何より大事だと思い、私はその団体の指導に当たりました。これは、巡り合わせの良さだったのかも知れませんが、今年、私が指導した学生たちは私の考えを理解し、よくそれに応えてくれました。そんな学生たちを付き合いながら、私は改めて多文化共生、あるいは異文化に対する寛容さについて考えていました。
今日の礼拝の題目である「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という言葉はラブレーの翻訳でも有名なフランス文学者の渡辺一夫さんのエッセーの題名です。このエッセーで「寛容は自らを守るために不寛容に対して不寛容になるべきか」という疑問に対して渡辺氏の答えはノーです。「寛容は寛容によってのみ護られ、決して不寛容によって守られるべきではないのだ」と渡辺氏は結論づけています。そしてその決意は時に悲壮な色彩すら帯びます。「寛容を貫いたために我々の生命が燃されてもやむを得ぬし、むしろ快いと思わねばなるまい」と渡辺氏は書きます。
私は「寛容は寛容によってのみ護られ、決して不寛容によって守られるべきではない」という考えには全面的に賛成です。しかしこの種の悲壮な決意の表明にまで至ると多少の抵抗感を感じます。寛容の理念の下に自己犠牲も止むなしとする精神は尊いと思いますが、一国の自衛権の問題にまでに論理の射程を広げるとなると、それはもはや個人の犠牲を超えて同胞をも巻き込みます。となると、そこには犠牲を他者に強制してしまう可能性が生じ、それは、もはや寛容とは言えないのではないか。こうした逆説に気付かないところに、残念ながら戦後リベラル系知識人の限界を感じないわけでもない。己の信じるものを守るために一億玉砕も辞さないという彼等の決意は実は戦前日本の国策と同型的でもあるのです。
そんな事情を思えば、寛容を何より重視するなら尚更のこと、自分も生き残り、他者をも生き残らせる努力を私たちは忘れてはならない。では、そのためにどうすればいいのか。渡辺氏のエッセーは書かれてから約20年後の70年に単行本に収められていますが、その時に付記が添えられました。そこでは「寛容」の言葉を時の佐藤栄作首相が述べたと書かれ、「寛容」が耳触りの良い政治的スローガンになってしまったことに渡辺氏は強く警戒しています。実は私たちも同じような警戒が必要な事態を迎えています。安倍晋三の突然の辞任で誕生した福田政権は「自立と共生」をスローガンにしました。
「共生」の言葉もまた右派政権がスローガンに使うほど軽くなりかけています。私たちは今度こそ「共生」という言葉の形骸化を止めなければならない。そして、こうした時代の中で「共生」とは何なのか、改めて襟を正して考える必要があるのだと思います
本当の共生とは理解すらできない相手との「共生」でしょう。それは本当の寛容が理解すらできない相手への寛容であるのと同じです。理解可能性からではなく、むしろ理解の不可能性から、あるいはコミュニケーションの可能性からではなく、その不可能性から始める共生への模索があってこそ、「多文化共生」という言葉は虚しいスローガンではなく、実質を伴うものになるのではないでしょうか。
本当の多文化共生は出会い頭では成りたたない。理解できない者同士の共生のためには時間をかけて共通の理解を少しずつ広げてゆく、しんどく、泥臭い手続きがそこでは必要なのだと私は考えています。そして、そうした地道な作業を、研究を通じて実践する場にこそ、これからの大学はなるべきではないか。特に人文科学や社会科学の地道な研究の営みは、多文化共生を実現する礎を作るという社会的使命を与えられているのではないか。それは、異文化に帰属する者が互いに寛容を守りつつ、ともに生き残れる社会を作るためのインフラ整備としての意味を持つのではないでしょうかーー。キリスト教以外の宗教団体の学園祭出展の指導をしながら、そんなことを私は考えていたのでした。