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1匹と99匹と文系大学の明日

by 武田 徹 • 2015/07/23 • 1匹と99匹と文系大学の明日 はコメントを受け付けていません

 7月8日大学礼拝用の口述原稿です。1年間礼拝から遠ざかっていましたが、再開。いつ最後になってもいいと思いつつ。

*****
 7月8日の大学礼拝を始めます。
まず賛美歌21、451をみなさんで歌いたいと思います。差し障りのないかたはご起立ください。
ご着席ください。聖書をお読みします。本日の聖書箇所はルカによる福音書15章 4から6です。新約聖書139ページです。

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。」 

 学生のみなさんは文系の大学がなくなるという話を聞いたことがあるのではないでしょうか。
 恵泉は文系の大学ですから、そうだとしたら大変なことです。なくなってしまいます。
 こうした話が出た震源地になったのは、ちょうど1か月前の6月8日、文武科学省が全国の国立大学法人に向けて出した通達です。
 その通達は「教員養成系や人文社会科学系の学部・大学院の廃止や転換に取り組むこと」という内容を含んでいました。
こうした内容の通達を文部科学省が出したので、国立大学から文系がなくなると大騒ぎになりました。
 しかし実際に通達の文面を読むと、そうした廃止や転換に「積極的に取り組むよう努めることとする」と表現されており、巷で言われるように強制的かつ即座に文系学部の廃止を求めるものではないようでした。
 何だ、国立のことか、しかも、そうなるとしても先の話なのかと思ったかもしれません。ですが、今、考えておくべきことはあるのだと思います。大学は抽象的で原理的な学問ではなく、もっと実用的な教育を行う場になるべきだとする要望は、実は何度も政財界から出されています。
 昨年10月7日に開かれた文科省の有識者会議で、経営共創基盤CEO冨山和彦さん、富山さんはカネボーやダイエーといった経営不振に陥った大企業再建や精算を請け負って成功させた人です。その富山さんが「グローバルに競争力のある一部のトップ校(G型大学)を除いて、ほとんどの大学(ローカル=L型大学)は職業訓練校になるべき」と述べたことも話題になりました。富山さんによればL型大学では経済格差の問題ではなく、会計ソフトの弥生の使い方を教えるべきだし、憲法の理念ではなく、道路交通法を教えて大型第二種免許を取得させるべきだとされていました、
G型大学というのは世界の大学ランキングで上位に入る東大京大など一部の大学院大学であり、それ以外はほとんどがL型大学になります。つまりほとんどの大学は大型二種自動車免許がとれるような職業訓練学校になれというわけです。

 こうした主張に対しては反発も当然あり、大学はどうあるべきか、大学はどう改革されてゆくべきかを巡る議論が白熱化しつつあります。
さて、そんな状況を目の当たりにして私が思い出したのは、英文学者で文芸評論家の福田恆存のことでした。学生のみなさんは知らないかもしれませんが、福田はかつては論壇雑誌に必ず寄稿しているような売れっ子評論家でした。若いころの私は保守的文化人と呼ばれる福田のことを、古臭いことをいうどこか胡散臭い人と感じていましたが、最近、彼の仕事を読み返すと、目からウロコが落ちると言いましょうか、右や左といったイデオロギーに偏ることなく、しっかり現実に足をおろした議論を多くしていたことに改めて気付くことが多いです。
 今回、思い出したというのは福田恆存が終戦まもない1947年に、当時、発行されていた『思索』という雑誌へ寄稿した「一匹と九十九匹と」と題した論考でした。
「一匹と九十九匹」は先程読んだ新約聖書のルカ伝に登場する喩えです
 この聖書のくだりを福田は「政治」と「文学」の関係として読み取ろうとします。「優れた政治は九十九人を救うが、どうしても救いきれない一人がいる。文学はその一人を救うべき」。福田はそう書いていました。
 福田が「一匹と九十九匹と」を書いた戦後復興期は、傾斜生産方式などの政策が採られて経済再建が目指されていた時期です。しかし即効的な経済性を最優先する社会が犠牲にするものもあろう。福田はそうして経済を優先する政治に置き去りにされるものを守るために文学は働くべきだとと書いていました。
 歴史は繰り返すということかもしれません。バブル崩壊以後の「失われた20年」、リーマンショック以後の世界的な不況、そして東日本大震災…、日本経済は長く低迷を極めていました。政財界はそこからの復興を戦後70年目にして目指しているようです。二度目の敗戦からの復興というような言い回しもしばしば耳にします。
大学はもっと役に立つ教育をしろというのも、まさに復興を目指す姿勢の中で求められているものでしょう。L型大学では大型自動車免許を取らせろといった富山さんは、まさに復興請負人なのです。
 こうして時代的要請が反復する中で、私は、かつて福田が聖書のくだりを政治と文学の関係におきかえて読んだのを、実用教育を行う職業訓練的な大学と、それによって取って代われと言われている、どうもすぐに役に立たない、教養教育的な文系学部に置き換えて読んだらどうかと思うのです。
福田は99匹の側、つまり政治にも善き政治と悪しき政治があるといいます。善き政治は己の分をわきまえている政治です。「善き政治はおのれの限界を意識して、失せたる一匹の救ひを文学に期待する」と書いていました。確かにこうして己の限界を知り、文学との協働を求める政治を福田は「善き」ものと観ていました。その考えを大学に適応するならば、効率的な実学志向の教育を行えば、多くの学生を即戦力として育成できるかもしれない。しかし、そうした教育で才能を十分に伸ばせられない学生が必ずいるでしょう。社会の在りようをまるごと変革する大きな仕事を遠い将来に成し遂げるのはむしろそうした学生であるかもしれない。だからこそ「今、役に立つ」と考える価値観で全てを覆わない。そうした分をわきまえた考え方が必要のはずです。
しかし、その一方で福田は文学の側にも自戒を求めていました。
「文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいったいなにによって救われようか」「文学者たるものはおのれ自身のうちにこの一匹の失意と疑惑と苦痛を迷ひとを体感してゐなければならない」。
 この福田の言葉は、文系大学に向けられたものと考えるべきではないでしょうか。「役に立たない」とされた学問領域の中に、有用性を急ぎ目指す社会に馴染めずにいる若者と心情を共有し、手を携えて新たな可能性を開こうとする動きが果たして十分にあったでしょうか。いろいろ自問自答してみるべきことがあるように思います。
 みなさんと一緒に読んだルカによる福音書の箇所ですが、恵泉の学長もなされた新約学者の荒井献先生が『イエスキリストの言葉』という本の中でここについて言及されていました。
 荒井先生は同じく迷った羊の話が出てくるマタイによる福音書や、いわゆる外典であるトマスの福音書の同じエピソードの登場する箇所を比較検討され、ルカの、今日読んだ最初のところの4節がもっとも古いものだと考えています。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか」の箇所です。ルカ福音書ではその後に迷った羊を無事見つけ出して連れて帰る話が続き、その先の今日読まなかった7節では、はぐれた一匹を罪人だったが悔い改めた者とみなし、悔い改めたからより多く祝福を受けるという解釈が述べられるのですが、荒井先生はそれらは後から加えられたものだと考えられています。
 つまりキリスト教精神の最も原初的なありかたをつたえている最も古い伝承では、はぐれた羊と羊飼いは帰ってこない。はぐれた羊ははぐれざるをえない理由があったのではぐれたのであり、羊飼いはそんなはぐれた羊の方に真理があると考え、どこまでもそのはぐれた一匹の羊と一緒にどこまでも行こうとしていたのです。
こうした羊飼いのあり方を荒井先生は「批評的同行者」と呼んでいます。99匹の群れの在り方に違和感を覚え、むしろはぐれた1匹のほうに真理は体現されていると考え、どこまでもその一匹と 一緒に行こうとする。それが荒井先生のお書きになった批評的同行者の意味でしょう。
 福田が「文学にしてなほこの失せたる一匹を無視するとしたならば、その一匹はいったいなにによって救われようか」と文学に問いかけるのも、社会に違和感を持ってそこからはぐれた一匹と、どこまでも共にゆこうとする気概を、文学に求めるものでした。
 そして、なくなってしまえと一部から言われている文系大学も、こうした批評的同行者であるべきなのではないかと思います。99匹の犠牲になる一匹の側にあくまでもたち、その一匹とどこまでも一緒に行く。そうした批判的同行者になれてこそ、99匹の側に立つ大学にはなしえない教育を行う文系大学として生き残る価値が生じるのだと思うのです。
 では、私達の大学、恵泉はどうなのでしょう。
 学生はよくやっていると思います。ノートテイクのボランティアは誇るべき活躍をしています。
キリスト教センターもがんばっていると思います。先生がたも、ああ、あの先生は一匹の側にたつひとだなととすぐに思い浮かびます。
しかし大学としてはどうでしょう。異分子を切り捨て、犠牲を出すことを恥じなくなっている世間に対して批評的に向き合い、あくまでもはぐれた一匹のかたわらに立ち、どこまでもその一匹と共に行く、そんな批評的同行者としての大学たりえているでしょうか。
 大学改革論が喧しい中で、そのことを改めて考えてみたいと思います。
最後に黙祷をします。

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プロフィール

武田徹(たけだとおる)

東京都出身。国際基督教大学教養学部人文科学科、同大学大学院比較文化研究科修了。ジャーナリスト、評論家、専修大学文学部人文ジャーナリズム学科教授。

著書に『流行人類学クロニクル』(日経BP社。サントリー学芸賞受賞)、『産業の礎』(新宿書房)、『偽満州国論』(河出書房新社→中公文庫)、『隔離という病』(講談社メチエ→中公文庫)、『核論』(勁草書房→中公文庫→『私たちはこうして原発大国を選んだ』と改題して中公新書ラクレ)、『戦争報道』(ちくま新書)、『NHK問題』(ちくま新書→amazonKndleでセルフパブリッシング)、『殺して忘れる社会』(河出書房新社)、『暴力的風景論』(新潮社)などがある。

法政大学社会学部、東京都立大学法学部、国際基督教大学教養学部、明治大学情報コミュニケーション学部、専修大学文学部などで非常勤兼任講師、東京大学先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大学人文学部、人間社会学部教授、グッドデザイン賞審査委員、BPO放送と人権委員会委員など歴任。
 

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