読売新聞で2015年4月から論壇キーワードの欄を交替で書いています(偶数月最終月曜日)。この連載はネットにあがっていないようなのでこちらに置いておきます。
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4月末は統一地方選の後半戦だった。筆者の家の周辺でも投票前日まで選挙カーが走り回っていた。
こうした都市部では当たり前の選挙風景が当たり前ではない地域がある。今回、町村議選で2割超が無投票となり、候補者数が定数に達さない町村もあった。財政難で行政運営の自由度が乏しいことが議員のなり手を減らした一因だという。
地方はどうしてそこまでに至ったのか。たとえば一九六二年に発表された全国総合開発計画(全総)は「国土の均衡ある発展」を謳った。田中角栄は過密と過疎を同時に解決する列島改造論を唱えて首相となった。
これらは一見すると国内全域を平等に発展させようとする、いわゆる「空間ケインズ主義」的政策だが、実態は印象と異なる。池田勇人政権が太平洋ベルトラインへの重点投資を進める時にそれ以外の地方への懐柔策として打ち出されたのが全総であり、それは結果的に地方からの流出人口が太平洋側の重工業の発展を支える流れを止めなかった。
田中の政策も原発のようなリスク施設を過疎地に建設する補償として交付金を還流させる電源三法が典型的で過疎と過密を前提とし、むしろ固定化する。
つまり空間ケインズ主義的政策は戦後日本では建前に留まり、実は都市部中心の開発が行われてきた。その傾向は平成になって一段と強まり、地方分権推進のために税源の一部を中央から地方に移したが、同時に地方交付税等のカットを進めた結果、財政難に苦しむ地域が出て、「地方消滅論」すら出るようになった。
こうした状況の中で第二次安倍政権は地方創生を政策に掲げ、新型交付金を導入するなどの手を打った。しかしそうした施策が選挙対策以上の効果をもたらすかは未知数だ。
今、必要なのは地方自身が「国土の均衡ある発展」幻想から自らを解放することではないか。というのも地域が生き残るためにはその地が本来秘めている力を見直し、動員する必要があるからだ。結果として地方はそれぞれ個性的となる。つまり国土の均衡なき発展こそ目指されるべきなのだ。
国の提供する枠組みの下での地域内の世話役に留まる限り地方議会の魅力は回復すまい。そうではなく、個性溢れる内発的発展のエンジンになると自らを規定する。そうすれば地方議会のイメージは変わり、議員の新しいなり手も現れるのではないか。