毎日新聞連載『メディアの風景』2月用に用意していた原稿でしたが、締め切り直前になって私自身の気まぐれでテーマをアップルとFBIの争いに変えたため、日の目をみなかったものです。タイミング的に古くなってしまったのでどこかに出すことはないでしょうが、ほとんど仕上げていたので、記事では分量的に収容できなかったプラットフォーム論を加えてここにあげておきます。
******
小保方晴子・元理研研究員の手記『あの日』が出版されたのは先月28日。その日、榎木英介・近大医学部講師が「小保方さんは何を語っているのか」をヤフー・ニュースで配信したのが、一般的な書店が開く前の午前8時3分。手記の内容にまで目を通した記事としては最速だった。
今回の手記は版元でも限られた人しか知らない極秘出版だった。出版が明らかになった前々日から新聞などに記事が出始めるが、刊行を予告するだけだった。
榎木氏も事前に手記が入手できたわけではなかった。ただ電子版は発売日の午前0時に販売開始されたのでそれをダウンロード購買し、一晩で記事を書き上げてネット公開したのだという。
この記事はネット時代の速報のあり方について改めて考えさせる。ネット上で公開される情報へのアクセスにおいうてマスメディアの記者と一般のネットユーザーの差はなくなり、誰もがその気になれば速報記事を書けるようになった。そして膨大なアクセス数があるポータルサイトにその記事が掲載されれば多くの読者に届けることも可能だ。
しかし速報には危険も伴い、不確実な内容や誤報によって報道被害をもたらすこともある。速く、広く伝えたいという焦りが過去に多くの報道事故を起こしてきた轍をネット時代に踏むのは愚かだ。だがそうした指向を断ち切りがたい磁力が働いている。それはYahoo Newsというプラットホームが発するものだ。ネットで話題を集める最強の手法はYahooNewsに載ること。さらにヤフートピックスに選ばれることだ。独占的なプラットホームが存在し、ランキング方式で掲載順位を変えるとき、その訴求力は強い。古くはiModeアプリの掲載方式がそうだった。ランキング上位に入ることが売り上げに直結したので、アプリ制作会社は値段を下げてでも上位になることを望み、数多くダウンロードされて値下げ分を補う利益を得ることを求めた。最近ではAmazonのMarketPlaceもそうだ。値段の安い順の掲載なので値下げを競った結果、1円販売にまで行くついた。ジャーナリズムでそれと同じことがYahooNewsで起きている。そこでは組織ジャーナリズムも個人も同じ土俵で競っているので特にヤフー個人の側に速報へのこだわりを感じる。こんなに早く、こんなに記事を書いてしまうのかと驚くことが多い。
もっとも榎木氏の記事は速さに驚かされたが、実は単純な速報ではない。研究不正の問題を長く追ってきた氏ならでの論点の絞込みがあり、チェックが行き届いている。速報での報道被害を防ぐには、急ぎつつも事実関係の検証が必要だが、それがなされている点では単なる速報ではない。
ニュース報道に対して論説や解説もまた報道の仕事である。イギリスではニュースではなくビューズ(見方・意見)を示すことこそ自分たちの使命と宣言する新聞もあった。論評は時間をかけた思考の蓄積であるべきだが、榎木氏の記事はそうしたビューズの条件も備えている。
ネットの普及はメディアの時間的すみ分けを混乱させた。しかし速報に検証力や論評に必要な思考の蓄積が必要な事情は変わらない。そのための時間をどうやって蓄積するかはいろいろなケースがあり、今回の榎木記事は論評が速報にもなった珍しいケースだが、だからこそそこからニュースとビュースのそれぞれに求められるものがなにかを考えるきっかけにすることもできるのではないか。