2月のはじめに福島第一原発を視察し、内部まで入った。産経新聞大阪版『複眼鏡』はその報告をした唯一のアウトプット。生原稿を張り付けておく。
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2月の初めに福島第一原発を視察した。
筆者は2002年に戦後の日本社会が原子力技術といかなる関係を結んできたか論じた著書『核論』(勁草書房)を上梓。一時、入手不能になっていたが3・11直後に『私たちはこうして原発大国を選んだ』(中公新書ラクレ)と書名を変えて復刻した。
そんな経歴ゆえに福島第一原発も既に何度も視察しているのではと思われがちなのだが、実は3・11後は今回が始めてだった。
後回しになったのにはそれなりに理由があった。かねてより筆者が専門的に取材・考察してきたのは原発を受容/拒絶する日本社会の姿であり、原発技術自体を論じていたわけではない。前掲書を書いた時期には核関係施設を幾つも訪問しているが、それも主題である周辺地域調査を行ううえで必要だったからだ。
3・11後もかつての仕事の延長上に事故の社会的影響の考察に注力してきた。そのため原発そのものへの視察はむしろ後回しにされ、3・11から5年目を迎える直前の時期にようやく縁あって実現したのだ。
ところが、そんな筆者の遅ればせながらの視察とほぼ同時期に月刊誌「DAYS JAPAN」2015年12月号に載った写真の誤用が発覚する事件が起きた。「どこが収束か 事故5年目を迎える福島 原発事故が奪った村」と題された記事には生い茂る草むらの中に放置された大量の自動車を俯瞰した写真が使われ、「人々が乗り捨てて逃げた車が、4年半の歳月を経て草に覆われていた」との説明が添えられていた。
雑誌発売後、この写真は原発事故前に撮影されたものではないかという指摘がネットでなされていた。今回、編集部もそれを認め、「『人々が乗り捨てて逃げた車』とあるのは誤りで、正しくは『投棄 された車』でした」と訂正した。そこに「原発事故の収束は困難」との思い込みが先行し、写真内容を早合点させ、現地確認を省略してしまうなどのミスを誘った事情があったとはいえないか。
時期的に重なったので改めて現場取材の重要性について思った。今回の視察ではまず事故の現地対応拠点の一つであるJビレッジに集合、普段着のまま第一原発に向い、入退域管理棟で靴にカバーをし、綿手袋と普通のマスクを着ける。免震重要棟まで移動し、いよいよ防護服と半面マスクを着用。これも線量の比較的高い建屋近くを含めて要所要所でバスから降りて視察するための装備であり、移動中に車窓から構内の様子をみていると比較的軽装の作業員の姿も見られる。構内の除染もだいぶ進んで、作業の場所と内容によっては防護服が不要というケースもあるという。暖かい食事が用意される食堂を設置した大型休憩棟が完成したこともあり、作業員の働く環境はずいぶんと「普通」に近づいた。一日に働く作業員数は約7000人にまで増え、収束に向けた作業が着々と進んでいる手応えは確かに感じられた。構内でここまで出来るのなら周辺地域でも、とも思わせた。
もちろんまだまだ「道遠し」のところもある。溶け落ちた核燃料には手付かずで、建屋は遠回しに視察するしかない。汚染水対策の決め手と東電が期待する凍土壁は土を凍らせる設備こそ完成したが、規制委員会の安全確認に至らず、本格運用できずにいる。
だがそれらにしてもお手上げと決まったわけではない。核技術を語る時、未来への責任という言葉がしばしば引かれる。確かに放射性物質の中には何万年も放射能が残るものもあり、処分の仕方は議論を深める必要がある。だが何もせずに未来への責任を果たせるわけではないのも当然だ。できることから進め、技術開発や社会的な合意形成で突破口を少しずつ広げてゆく以外に道は開けない。
写真誤用事件は象徴的だった。私たちの社会は核のゴミどころか自動車すら不法投棄して責任の先送りをしてきたのだ。そんな欠点を直視し、今度こそ未来への責任を果たせる社会作りを心がける。3・11から5年目を機に覚悟を新たにしたいと思う。