産経新聞大阪版「複眼鏡」7月11日夕刊掲載分の生原稿です。6月下旬に公開が始まった『帰ってきたヒットラー』をみて。
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現代に蘇ったヒトラーが物まね芸人と誤解されながらテレビのスターになってしまうーー。そんな際どい内容で話題となった小説を映画化した『帰ってきたヒトラー』が日本でも公開された。
原作小説はヒトラーの一人称で書かれていたが、映画はヒトラーを役者が演じる。そうした設定を敢えて利用し、ヒトラーそっくりメイクの俳優が実際にドイツ各地を訪ね歩くシーンがドキュメンタリー映画の手法で撮影され、本編内各所に挿入されている。
「ヒトラー」を前に現代のドイツ人はどう振る舞うか。彼らは一瞬驚くが、すぐに大笑いしつつスマホで総統との記念撮影を試みる。中には戦後ドイツの移民受け入れ政策への反対意見を、ヒトラーなら理解してくれるだろうとばかりに話しかける男も現れる。
このシーンは映画後半でユダヤ人老女が「ヒトラー」の訪問を受けるシーンに繋がる。彼女は言うのだ。「昔と同じだね。みんな最初は笑っていた」。ナチスの過激な言動は当時も嘲笑の対象だった。だが密かにユダヤ人への反感を募らせていた人々は笑い、冗談めかしつつ、ナチスのユダヤ人排斥に共感を寄せた。それがホロコーストの虐殺に至る道を開いたのだ。
社会学者の大澤眞幸が「アイロニカルな没入」という概念を提唱している。それは意識と客観的な行動との間の逆立の関係を示す。意識のレベルでは「ほんとうは信じてはいない」と思っている。しかし、行動から判断すれば、その対象に没入しているに等しい状態にあり、実際には信じているのと同じになる。信じていないはずなのに信じてしまっている。そこがアイロニカル(反語的)だ。
ナチズムが台頭した時代、人々は笑いながらそれを支持した。そこでも意識の上ではその正しさを信じてなんかいないと思っていた。しかし行動レベルにおいてはナチズムに熱狂的支持を寄せていた。まさにアイロニカルな没入だ。同じ構図が偽物のヒトラーを前に成立する。笑いながら記念撮影をすることはヒトラーに支持を表明するのとどこが違うのか。
そして、この映画はただ過去と現在の類似を示すのではない。そこに優れたメディア社会批評がある。
蘇ったヒトラーはインターネッツ(−−−ドイツ語風発音が強調されている)の存在を知って大いに喜ぶ。それはユダヤ資本に牛耳られているとヒトラーが考えていたマスメディアに頼らずに個人が情報発信力を確保できるからだけではない。ドイツの移民政策批判を語った男は「敢えて」本物と信じるポーズを取ったが、それはそうしなければ彼の本音が言えないからだ。
そうした発言をタブーとして禁じる「リベラル」な風潮に彼は内心で反発しており、内に秘めていた本音を言うために敢えてヒトラーを信じるポーズを取る。
それはソーシャルメディア上でしばしば行われている作法に通じる。たとえば排外主義的言説を述べたいために外国人犯罪が多発しているという事実に依拠しない俗説を信じるふりをして振る舞う。ソーシャルメディアは匿名性が確保できるし、日常の文脈から遊離した極端な言動が取れるので、信じるふりがし易い。そして自らの内に秘めた暴力や排除の願望を満たそうとする。
そんなソーシャルメディアの時代にヒトラーが蘇ったらどうなるか。ヒトラーと一緒に撮影された写真は、面白おかしい「ネタ」だと言い訳できるかたちでソーシャルメディアにアップされ、大量に共有されるだろう。しかしそれはヒトラーへの支持を拡散させているのと同じなのだ。ヒトラーを信じるふりをしているだけだと言い訳しつつ暴力による他者排斥の主張を広めてゆけるメディアを現代社会は手に入れたのだ。
この映画が新しいメディア社会の宿す危うさに警鐘がならしていることに気づくべきだろう。ファシズムはそよ風にのってやってくるという警句があったが、ファシズムは「ネタ」としてやってくると言い換えるべきなのかもしれない。