産経新聞大阪版「複眼鏡」6月分生原稿です。
******
先月27日、米国の大統領による初の広島訪問が実現した。広島市の平和記念公園で献花をしたオバマ大統領は自国が投下した原爆の凄惨な破壊力を伝える「原爆ドーム」を正面に見据えたはずだ。
それは偶然の結果ではない。慰霊に訪れた者が慰霊碑のアーチ越しに必ず原爆ドームを遠望するように公園自体が作られている。オバマ大統領を原爆ドームと向き合わせたのは67年前に平和記念公園を設計した丹下健三だった。
広島高校(現在の広島大学)で学び、建築家を志望した丹下は、戦後46年に東大助教授となった後に広島の復興計画への参画を願った。そして49年に広島市平和記念公園設計のコンペに参加し、勝利した。丹下の案の特徴は公園予定地の外にあった原爆ドームに向けて一直線に視界を開き、核の脅威を感じつつ犠牲者を慰霊する空間を作り出そうとしたことだった。
こうして広島平和記念公園で採用された空間デザイン手法には、実は前例があった。大学院時代の丹下は1942年に「大東亜建設記念営造計画」コンペに応募し、優勝している。それは富士山麓な巨大な戦没者慰霊空間である「忠霊神域」を作り出す案で、二等辺三角形の底辺の位置に記念ホールや展示室を建て、底辺中央の建物からは三角形の頂点に位置する記念モニュメントを眺める配置となっていた。この記念モニュメントの位置に原爆ドームが置かれたと考えれば確かに平和記念公園には実際に作られることのなかった「大東亜忠霊神域」計画との連続性がうかがえる。
こうした経緯があるため平和記念公園は戦争に協力した戦前の建築史を引きずっていると評されることもある。だが、ここでは「大東亜忠霊神域」計画自体が丹下なりに「近代の超克」を試みたポストモダニズムの産物だったと考える井上章一『戦時下日本の建築家』の説を踏まえてみたい。
近代を超えようとするその意志こそ広島平和公園に引き継がれたのではなかったか。というのも広島で丹下は国家主義との戦いを強いられている。当初、丹下は慰霊碑のデザインをイサム・ノグチに依頼した。日米混血の彫刻家の作品こそ国家・国籍を超えて平和を祈念する施設に相応しいと彼は考えたが、米国籍のノグチの起用には国内で反対が強く、結局、丹下は自分で慰霊碑を設計せざるを得なかった。「過ちは繰り返しませぬから」と刻まれた慰霊碑の碑文も、それ自体は丹下の作ではないものの主語がないことで物議をかもした。過ちを犯したのは原子爆弾を投下した米国なのか、戦争に突入した日本なのかが曖昧だと。そこでも戦争と破壊の責任が国家のレベルで問われている。
しかし戦争を政治の手段として国家同士が駆け引きし続ける近代社会で、平和は逃げ水のようにいつも遠ざかる。そこで原爆ドームを目の当たりにしつつ戦没者を慰霊する行為を通じて、核兵器まで作り出して自らを破滅の淵に追い込んだ近代国家の限界を思い知り、それを超えて平和を目指すスタートラインに立つ。丹下が平和記念公園を「平和を創り出す工場」と呼んだのはそんな思いを込めてではなかったか。
だとすれば、広島でオバマ大統領が語った「核なき世界」の実現を人類の課題とするスピーチは丹下の思いを言葉にしたものだったとも解釈できる。もちろん現実を踏まえない理想論は夢物語に終わろう。広島訪問中もオバマ大統領一行が核兵器を操るリモコン端末を携えていたことが報道されている。核保有国の核削減は進まず、一方で核不拡散条約も空文化しつつある。それが現代世界の現実だ。だが、そんな状況の中で世界最大の核保有国の元首が原爆ドームを背景にスピーチをした。丹下が仕込んだ空間設計の中で実現したこの組み合わせのインパクトは、写真や動画で世界に配信され、近現代史に楔を打ち込んだことも確かだろう。この一歩を次の一歩へどう繋げるか。国際社会の中で日本が果たせる役割もあるはずだ。