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Good-Bye

by 武田 徹 • 2017/03/14 • Good-Bye はコメントを受け付けていません。

1月11日の大学礼拝を始めたいと思います。
初めに、お集まりのみなさんと賛美歌21の450番を賛美したいと思います。さしつかえなければご起立ください。
聖書をお読みします。詩篇23編4節です。旧約聖書854ページです

死の陰の谷を行くときも、わたしは災いをおそれない。
あなたがわたしとともにいてくださる。
あなたのむち、あなたの杖、それがわたしを力づける。

3月末で退職をするので今日は私にとって専任教員としての最後の大学礼拝になります。
最後ですので、最初に大学礼拝を担当したのはいつだったのかが気になりました。
調べてみたら2006年の11月21日でした。依頼を受けてお引き受けしたものの、私はクリスチャンではないので、場違いではないのかと、おどおどしながらこの場に立ったことを思い出します。今もおどおどしていますが。
今からほぼ10年前のその礼拝で、私はデビッド・ハルバースタムというアメリカ人ジャーナリストの話をしました。ハルバースタムはベトナム戦争の取材を経験して、敵・味方の区別を超え、愛するものを残して死んでゆかざるを得なかった人に涙を流したいと思うようになったとエッセーに書いています。その内容を、東海村の臨界被曝事故の犠牲者に涙を流すことと重ねて紹介したのが、私の人生最初の礼拝でした。
 その話をしたのは、ハルバースタムの姿勢が私のジャーナリストとしてのモットーとも重なり、自己紹介にもなると思ったからです。ジャーナリズムの公共性とは、中立性を守ろうとしたり、両論併記を心がけることではない。私もハルバースタムと同じで、立場の如何をこえて、その時々に最も弱い人の側に立ち続けることでこそ、ジャーナリズムは公共的なものになるのだと考えていました。戦争取材経験は私はありませんが、豊かになったように見える社会の中で、豊かさに置いてきぼりにされた弱者の存在を意識して記事を書こうとしてきました。
そんな仕事をしていた私に、大学で教えないかと声をかけてくださる人がいて、誘われたのが、ここ恵泉でした。
実は恵泉に来る前からここで教えている教員を二人知っていました。二人とも亡くなってしまいましたが、荒井英子先生と新妻昭夫先生です。特に荒井先生は、私自身もハンセン病のことを本を書いていたのでお仕事ぶりをよく存じ上げていました。
荒井先生の書いた本の中には恵泉女学園も登場します。恵泉女学園の学生組織である信和会は、寄付を集めてハンセン病療養所の中の住宅建設に協力しています。当時の療養所の住宅状況は劣悪だったので、恵泉女学園の寄付で恵泉寮と命名された住宅ができたことで暮らしやすくなったとはいえる。しかし本当にすべきだったのは、募金と寄付の活動よりも、人権を侵害する隔離医療制度自体を批判し、やめさせることだった。ハンセン病者の置かれた逆境を深く知ろうとせず、救う側の論理で完結し、結果的に隔離医療制度を支えてしまった恵泉女学園の歴史や、河井道というキリスト者の思想的限界について、つまり自分の勤め先である団体や創立者を、荒井先生は批判的に検証しました。「愛の鞭」という言葉がこれほど似合う文章にわたしははじめて出会ったように思いました。
そうした身内も特別扱いしない批判的検証の力をもった研究者がいるし、そうした研究者を受け入れている大学だということが、私が恵泉で教えようと決断する理由になりました。新妻先生もMr.生物多様性みたいな方で、小さな命でも差別することなく愛しむ人でしたから、そんなお二人がいる大学でなら、弱者の側に軸足をおいて社会を変えてゆく活動に関われるのではないかと思ったのです。
 そう思って恵泉で専任教員として教え始めて、今年でちょうど10年目になります。間違いなく私も10年分歳を取ったわけで、お前は自分のやるべき仕事をしているのかと悩む機会も増え始めました。遺された人生の時間を思うと、あまり悠長に構えているわけにはゆかないという焦りもあり、もっと直接的に社会に働きかけられる仕事、つまりもう一度、ジャーナリズムの実践や研究教育活動を自分の生活の中心に据えて生きようと思いました。

それが今年度いっぱいで恵泉を離れる決意をした経緯です。
今日の礼拝の題名に「グッドバイ」という言葉を入れたのは、もちろん退職に至るこうした経緯を話そうと思ったからですが、もうひとつ、いいたいことがあって、グッド・バイとはGod be with youの短縮形だという説があるそうです。つまり神があなたともにいますように、あなたに神の御加護がありますようにと、という意味なのだそうです。
こちらの意味での話を、今日はハルバースタムとか新妻先生とか荒井先生とか、死んだ人のことばかり話したので、ここからは学生さんにもわかる生きている、若い人の話をしたいと思います。
急にトーンが変わりますが、星野源という俳優というか、ミュージシャンがいますよね。 紅白歌合戦でも「恋ダンス」を踊っていましたが、彼は小学生のころひきこもりだったそうです。そして、中学から埼玉県の自由の森学園に通っている。自由の森学園は、数学者の遠山啓(ひらく)の教育理論に従って教育をしているそうです。遠山は
「競争心を刺激する教育法は手っ取り早く人間をふるい立たせる力を持っている。しかし、その反面、目標を他人に置くために自分自身を見失うという欠陥をもっている」
と考えていました。そんな遠山の考えに従う自由の森学園では、試験はしない、成績は点数でつけず担当教員が文章でつけるという方法を取っているそうです。
こうした教育方針が、ひきこもってる子供にも門戸を開き、自信を与えて社会に送り出すうえで役立ったのではないでしょうか。実際、星野源は演劇や音楽の才能を伸ばして、ドラマや紅白に出るところまで行くわけで、尖った学校故にいろいろ毀誉褒貶もあるようですが、ひきこもっていた才能をそこまで伸ばした事実だけでも私は素朴に敬意を表したいと思います。
ただし、自由を礼賛するだけでは足りない、そんなふうにも思うことがあります。これは自森の教育から離れて、遠山の思想に対して私が感じたことですが、他人に評価の軸を置くと自分を見失うというのは確かにその通りでしょう。しかし、自分にだけに評価の軸をおく問題も一方にあるのではないか。自分にだけ評価の軸を置くと今度は自分の自由の追求に対する歯止めを失いかねない。たとえば遠山は競争に対して自由を対置しているが、自由が競争をむしろ過熱させてしまうこともあるのではないか。自由が暴走した典型が、最近の世界的風潮である新自由主義だと思います。新自由主義社会は、効率化を極限まで推し進めようとしててすべてを数値化しようとし、競争に励み、その結果、障害者を殺したり、人工透析患者のような弱者を切り捨ててゆきます。
そうした暴走に歯止めをかけるためには、他者の自由を自分の自由と同じように尊重し、互いに「共生」を図る必要がある。つまり自由を「競争」の側に走らせず、自由と「共生」とを両立させる必要があるのだと思います。
そうした自由と共生の両立を実現する人材を育成する大学に、恵泉ならなれると私は思います。
 たとえば今日オルガンを弾いてくれたのは私の3年ゼミ生で、自分のゼミ生のオルガン演奏で礼拝ができるというのは人生最大の幸福のひとつだと思いますが、彼女も所属している3年ゼミでは今年、少し長めのビデオ作品を作りました。その作品を見るとインタビュー相手の話がほぼベタ起こしでテロップ表示されている。私はマスコミ業界標準で考える悪い癖があるで、そのテロップは少し文字数が多すぎるな、うるさいなと思った。
ですが、聞いてみると、どうも彼女たちは聴覚に障害がある人もいることを意識して字幕を作ったらしいんですね。要するに彼女たちは制作を指導していた私よりも、弱い立場に置かれやすい、障害をもった人のことを配慮していたわけです。
そういう、優しい、他者との共生を実践できる資質をもった学生がここにはいる。そうした良い部分を伸ばせる大学になれば、それこそ、新自由主義化を進める社会のなかで独自の価値を持つ大学になれるのではないか。そんな大学こそ社会の中で必要とされるのではないでしょうか。
そうした共生を求める姿勢を育む教育を21世紀のキリスト教主義教育をと呼んでいいのではないかと私は思っています。キリスト教の思想という言い方をするのを許していただけるなら、それは「共生」の思想ではないか。今日読んだ聖書は、やはりベトナム戦争を取材していた小説家の開高健がよく引いていた箇所だったそうです。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いをおそれない。あなたがわたしとともにいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」。
ここにも「神がわたしとともにいる」という表現が含まれています。グッドバイのバリエイションです。恵泉もまた神とともあって、弱く、小さな命に寄り添うことを自らの使命として真っ先に掲げるような大学になってほしいです。その日が来れば、私はまたこのキャンパスに立ちたいと思っています。
 ということで今日、話したかった内容は話しました。
 礼拝では最後にお祈りをしますが、私はクリスチャンではないので、今までお祈りはしないで黙祷にかえさせてもらってきました。そういうことはきちんとけじめをつけないといけないと思う考えは今も変わりません。しかし、今日はもしかしたら人生最後の礼拝になるかもしれないので、一度だけ、お許しを勝手にいただいたことにして、お祈りを捧げたいと思います。

一言お祈りします。
今日このような礼拝の機会を持たせていただいたことに感謝します。
この大学で学んだもの、この大学で働いたものの誰もが、キャンパスにいる間のみならず、キャンパスを離れた後にも、ここで過ごした日々の記憶が、弱きもの、小さきものためにこれからも働く勇気の源泉になりますよう、お導きください。
この感謝と祈りを、主イエス・キリストの御名を通して御前にお捧げします。

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プロフィール

武田徹(たけだとおる)

東京都出身。国際基督教大学教養学部人文科学科、同大学大学院比較文化研究科修了。ジャーナリスト、評論家、専修大学文学部人文ジャーナリズム学科教授。

著書に『流行人類学クロニクル』(日経BP社。サントリー学芸賞受賞)、『産業の礎』(新宿書房)、『偽満州国論』(河出書房新社→中公文庫)、『隔離という病』(講談社メチエ→中公文庫)、『核論』(勁草書房→中公文庫→『私たちはこうして原発大国を選んだ』と改題して中公新書ラクレ)、『戦争報道』(ちくま新書)、『NHK問題』(ちくま新書→amazonKndleでセルフパブリッシング)、『殺して忘れる社会』(河出書房新社)、『暴力的風景論』(新潮社)などがある。

法政大学社会学部、東京都立大学法学部、国際基督教大学教養学部、明治大学情報コミュニケーション学部、専修大学文学部などで非常勤兼任講師、東京大学先端科学技術研究センター特任教授、恵泉女学園大学人文学部、人間社会学部教授、グッドデザイン賞審査委員、BPO放送と人権委員会委員など歴任。
 

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