産経新聞複眼鏡4月掲載用元原稿です。自主避難補償問題を論じて国分氏の新刊書で展開された「中動態」の概念を使ってみた。ちなみに読売新聞連載の「論壇キーワード」の同じく4月掲載分では中動態の解説をもっと詳しくしています。
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311から6年目を迎えた先月、「自主避難者」を巡ってひと悶着があった。自主避難者とは福島第一原発事故に際して国が避難指示を出した原発から半径20キロ圏内と放射線量が年20ミリシーベルト以上と見込まれる地域の外に住んでいたが、不安を感じて自主的に避難した人たちのこと。除染が進んで避難指定が解除されてなお避難を続ける人もそこに加わる。
こうした自主的避難者への住宅保障を国と福島県は先の3月で打ち切った。十分に安全なのに避難を続けるのは自発的な意志によるのだから、自己負担の原則が適用される。そんな考えが踏まえられていただろうことは、今村雅弘復興相が4月4日の記者会見で述べた「自主避難は本人の責任」という発言が物語る。
しかし自主的避難者の中には政府が安全と言っても信じられない、とてもではないがまだ帰れないと考える人が少なくない。事故がなければそもそも避難自体がありえなかったのだから、それは自主的ではなく、強いられたものだとの想いがあり、今村大臣への発言にも激しく反発した。
そうしたやりとりを見ていて思い出したのは『暇と退屈の倫理学』(朝日出版社)が話題となった気鋭の哲学者・国分巧一郎氏の新刊『中動態の世界』(医学書院)である。
中動態とは何か。私達が英語の文法などで習う態(voice)は能動態と受動態だけだが、かつてインド・ヨーロッパ語には中動態という態が広く存在しており、能動態と対立していたという。中動態の特徴は、動詞で示される過程の中に主語が含まれること。たとえば「私は生まれる」という場合、出産という過程の中に「私」自身がいる、つまり生まれるのは「私」自身なので中動態となる(受け身なのではない)。
こうした「私は生まれる」という中動態が、やがて「母が私を産んだ」という能動態に対応する形で「母によって私は生み落とされた」という受け身表現をとる受動態を成立させる。こうして受動態は中動態能動態に続いて後から作られたものだが、ひとたび受動態が登場してしまうと「する」能動態と「される」受動態との対立が重視されるようになり、中動態という概念そのものが消滅してゆく。。
そんな失われた態である中動態に改めて注目して世界を論じ直す可能性を示した国分氏の力作はぜひ一読をお勧めしたい。ここで意識したいのは自主避難者についてもやはり能動か、受動か、つまり自発的意志で「する」か、強制「される」かの二分法でしか論じられていないことだ。自発的か、強制か、両者の議論は平行線をたどり、強引に解決しようとするとしこりが残る。今村大臣は激しい避難を受けて発言撤回と謝罪に追い込まれた。
しかし誰をどのように補償するか、どこかで一線を引かなければならない事情がある。その点、前橋地方裁判所で3月17日に判決が出された原発事故に関する集団訴訟は興味深かった。判決では原発事故に対する国と東電の責任を認めたことがクローズアップされているが、個人的には裁判長が自主避難とそれ以外を、能動か受動かで二分せず、賠償の有無や金額の多寡については、性別、職業、避難に至った時期及び経緯などを「個別に検討することが適切」とした点が印象的だった。
能動か受動か、つまり「する」のか「される」のかは現実において必ずしも自明ではない。選択「する」幅が与えられた環境の中で受動的に決められていたり、逆に強制「される」ことを受け入れるかどうかはその人の能動的選択だったりする。
そこで失われた中動態を想起することで、能動か受動かで二分する思考の硬直から距離を置き、能動と受動の混じり合った現実を丁寧に読み解いてゆく。そうした姿勢を取ることが白黒つけようと急ぐよりも、むしろ問題解決や和解への近道になるのではないか。