産経新聞大阪版複眼鏡7月掲載分の生原稿です。LLCの障害者対応問題について。
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鹿児島県奄美島の空港で障害男性が車いすに乗ったままの搭乗を拒否され、タラップの階段を腕力で登って乗機したという。
この件が報じられるとネットを中心に議論が沸騰した。報道に添えられたイラストでタラップを這い上る障害者の姿があまりに衝撃的に描かれていたため、そんな対応を強いたバニラ・エアを厳しく糾弾する声があげられたが、一方では障害者が航空会社と何度もトラブルを起こしてきた名うてのクレーマーだとの指摘もあった。
こうして非難の応酬に明け暮れる風潮に今更ながらうんざりしつつ、思い出したことがあった。以前、キリスト教主義の大学で教えていた時のことだ。障害学生の受け入れはキリスト教主義校こそ率先して行うべきだというのが筆者の持論であり、入試関係の役職に就いた機会にそれを実行に移そうとしていた。
すると反対する教職員が現れる。彼らの言い分はこうだ。自分たちの受け入れ能力を超えて障害学生を入学させると十分な教育やキャンパスライフを提供できなくなる。だから障害学生の受け入れ上限数を設けるべきだというのだ。そうした主張をする人は「学生のためを思って」「責任が果たせないのに受け入れるのは無責任」という。
航空会社が障害者の搭乗を拒否するとしたらやはり同じ論理を用いるのだろう。だが、それは本当に学生や乗客のことを思った責任ある対応といえるだろうか。
障害者差別解消法では障害のある人に対して不当な差別的取り扱いを禁止し、「合理的配慮」を役所や企業、民間事業者に義務づけている。「合理的配慮」とは障害者の意向を尊重しながら、障害の特徴や状況を踏まえた判断をすること。もちろん対応する側の負担が重くなりすぎ、対応が困難な場合もあろう。その場合にはどんな工夫ができるか、障害者と対話を重ねていくことが求められる。
いつの場合も問われるのはこうした合理的配慮がなされていたかだろう。学生や旅行者と十分に話しあって、もしも他により良い解決策が見出せればそちらを勧めることもありえよう。それは対話もせずに入学や搭乗を拒否するのとは全く異なる。たとえば他に障害者を受け入れる大学がないとか、他に帰路の方法がないといった事情を聴くこともなく、入学や登場を拒否していたら、それを「学生のため」「搭乗者のため」などとはとても言えないはずだ。その場合は限られた条件の中で学生や旅行者の望みをできるだけ叶えられるように工夫する必要が間違いなくあるのだから。
以前、自身も障害者である野崎泰伸氏の著した『「共倒れ」社会を超えて』という書籍を読んで感銘を受けたことがあった。氏は「沈没しつつある船の救命ボートの定員が全員を救助するのに足りない場合に誰を選ぶか」を考えるような、サンデルの「白熱教室」以来、流行気味の思考ゲームを批判する。そこでは全員が乗れる救命ボートを用意するという選択肢があらかじめ排除され、ボートに乗れない犠牲者をどう選ぶかの議論になっている、と。そうではなく、全員が救命ボートに乗れる理想をあくまでも目指す姿勢の中でどのような応答(レスポンス)すればよいかを考えることこそ責任(レスポンシビリティ)を果たすことになるのだと氏は書いていた。その通りだと思う。
冒頭の件では第一報の後に航空会社も障害者にも発言の機会があり、犠牲を出さない理想に向かって歩み寄る対話の可能性を感じさせる展開となっている。それに対して航空会社が悪い、いや障害者がクレーマーだと善悪を決めつけることばかりに躍起となる議論は、障害者との共生の問題から遊離した、あまりに無責任な「空中戦」となっているように感じられた。むしろそのことが障害者差別解消への道はまだ遠いと筆者には思わせたのだ。