『民間放送』への寄稿の生原稿です。
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6月5日付け『毎日新聞』によれば衆院決算行政監視委員会で安倍晋三首相は1時間の間に5回も「印象操作」の語を繰り返し用いたという。それを取り上げる記事も多くみかけ、「忖度」に続いて「印象操作」がバズワード化している。
しかし、これは単なる流行語の世代交代ではない。忖度だけでなく、フェイクニュースやオルタナティブ・ファクトなど最近話題となってきた語彙はすべてが同じ現象に根差している。それは言葉が現実を指示し、伝達するのではなく、印象や感情の共有がコミュニケーションの実質になっているという傾向だ。
忖度は言わずして了解を求める超=言語的コミュニケーションである。この忖度を、安倍政治を象徴する特殊な概念として取り上げ、批判して済ませるわけにはゆかない。というのもフェイクニュースやオルタナティブ・ファクトでも情報の事実性が確かめられずに、「面白い」「ありえるかもしれない」「そうなればいい」といった感情やら願望が共有されてソーシャルメディアを中心に拡散していた。印象操作にしてもイメージや感情が影響力を持っているからこそ、それを自分の望む方向で操作しようとするのだ。
要するに言葉が事実から遊離する傾向が強まっている。おそらくそれは社会全体が「急いで」いるのだ。だから言葉を超えたイメージや感情の共有を求める段階でコミュニケーションが留まり、丁寧な実証や説明が省かれてしまう。最近のバズワードはいずれもそうした傾向を象徴するものなのだ。
そうした傾向にジャーナリズムも流されている。そこには対症療法が必要とされる。フェイクニュースが英国のEU離脱を巡る国民投票やアメリカの大統領選の結果を左右するほどの影響力を持ったとされる状況を憂いて先日、BBCの国際放送と電子版の編集責任者であるジェイミー・アンガスはデータ分析やニュースの解説に力点を置く戦略を取ると述べた。その際にアンガスが「スローニュース」の言葉を用いたのは印象的だった。
受け手の知る権利にいち早く答える責務を果たすべく、ジャーナリズムは速報を追求してきた。だが速報主義の過熱が乱暴な取材を横行させて取材先とのトラブルが発生させたり、検証や分析を軽視した結果が誤報に繋がったりしてジャーナリズムの信頼性を失墜している。そうした不信感の蓄積がマスメディアのニュースよりもフェイクニュースを信頼してしまうという逆転状況を生んだと考えてアンガスは丁寧な検証や分析に時間をかける姿勢を重視しようとしている。
筆者としては、そうしたスローニュースが言葉の印象喚起力にいたずらに頼ることを自らに戒めるものでもあるべきだと考える。
たとえば忖度に対する批判も丁寧な実証的手続きを踏むべきだ。「阿吽の呼吸」の語があるように言葉を超えて心情を共有し、行動することがよしとされる場合もある。しかし行政においては正確な理解を広め、後世の検証に耐えるために政策決定過程を可能な限り透明化しておくべきだ。そうした原則論を示したうえで、忖度で何が明示されずに隠されたか。それはどのような理由と方法で隠蔽されたのか。その隠蔽はいかなる結果をもたらし、その結果のどこが、どのように問題なのか、言葉を尽くして論じてゆく必要がある。
印象操作についても同じだ。安倍首相がその語を多用することに対して、「首相こそ<自分への批判が印象操作に過ぎない>と印象づける印象操作をしている」という反論が述べられる。しかし印象操作に印象操作の語彙を重ねることは、依然として言葉を超えたイメージの領域で空中戦をしていることになる。結局、実証的な議論は成立せず、互いに「印象操作だ」と相手を罵り合う、親安倍派と反安倍派の党派的な対立を深めるだけに終わるだろう。それは親トランプ派と反トランプ派が互いに「フェイク」と述べて相手陣営の主張を貶めようとするのとまったく同じ構図なのだ。
医学ではエヴィデンス・ベースド・メディシン(実証に基づいた医学)と言うが、エヴィデンス・ベースド・ジャーナリズムと言わない。それは実証に基づかないジャーナリズムはそもそもありえないからだが、そこは初心に還って「印象操作だ!」と互いに罵り合う膠着状態から逃れるために手間と時間は多少かかっても実証的なジャーナリズムを心掛ける必要が今更ながらにあるのではないか。速報指向のジャーナリズムだが、急ぐと同時に自省する、ラテン語の諺であるフェスティナレンテ(ゆっくり急ぐ)姿勢が求められているように思う。