8月23日から28日まで中国東北部を旅してきた。
家族の関係で最近は長く留守しにくく、たった5泊ではあるが、今の自分にとっては例外的な長旅だ。
原武史氏が日本中国文化交流協会の理事をしていて企画した訪問事業(という呼び方でいいのか?)に誘って下さった。その話に乗ったのは、東北地方の旅だったからに他ならない。
『偽満州国論』を書くために1992、3年に二度現地を訪れ、その後、長春だけ21世紀になってからもう一度訪れている。日本国内であれば取材テーマによっては複数回同じ場所を訪ねることも少なくないが、さすがに海外では珍しい。それもロンドンやニューヨーク、上海、香港といった色々な用事で訪ねることがありえる場所とは異質だろう、ハルピン、長春、瀋陽、大連という四都市を急ぎ足ながら周る旅なのだ。
『偽満州国論』を書こうとしていたときには傀儡国家=植民地だからこそ具現する近代日本という国家の統治力を見たいと思っていた。語弊ある言い方だが、民主主義は様々な障壁になる。世論はバターを固くしてバターナイフの切れ味が悪くする。その点、満州国は暖められたバターだ。ナイフは存分にその空間を切り刻めるのだ。
具体的には日本人はどんな都市を作りたいのか、どんな(言語)文化を育みたいのか、ということが主要な関心事だった。そのために旧満州国エリアを訪ねた。二度の現地取材に国内での資料調査を加えた『偽満州国論』は自分にとっては連載をまとめるような仕事ではなく、ひとつのテーマを追う、最初の本格的な著作となった。だからこそその取材も懐かしい。
年齢を重ねるとはこういうことだったのだと思う一つが、若い頃の仕事を、肯定はできないけれど不十分だったり未熟だったりするところも含めて許せるような心境になることだった。『偽満州国論』の頃も、そうした寛容=許容モードに入りつつあった。失敗も含めて若い頃だからこそできたことがたくさんあったことを今にして確認できるかもしれない。そんな気持ちになって、当時の滞在先をもう一度訪ねることに惹かれたのが、すっかり国内型になっていた生活を続けていたところで、誘蛾灯に誘われるように、海外視察旅行に誘い出された理由だった。
もちろん昔と同じことは出来ない。取材や調査といえば結構下調べをし、現地のことを何でも記録しようとカメラなどの準備に事欠かなかったが、今回は書泉グランデで中国鉄道や満鉄関係の比較的新刊らしき書籍を旅の前日に買っただけ。カメラは待たずスマホで済ませてしまおうとしていた。
23日
成田エクスプレスに乗って成田空港に向かう。成田空港は311の時以来だ。311の日に出かけたトルコへの旅もそうだったが、自分の車で出掛けて駐車場に置いてゆくようになっていたのでNEXはもっと久しぶりだ。成田はメインが格安航空会社の利用客でコストコンシャスなのだろう、京成に客を奪われたのか車内はガラガラだ。
第一ターミナル北ウィングで原使節団のメンバーと落ち合ってまずハルピンへ。前にハルピンに行ったときは北京経由だったのが今は曜日を選べば直行便で入れる。東京を深夜に出るエア・フランス便は機内から北朝鮮の発射したICBMの軌跡が見えたというが、できれば見たくないものだ。日本を留守中に何かあると、遠く離れておろおろと心配するばかりで、決していなかったからラッキーだとはとても思えないことは311のときも経験した。
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以前にもハルピンは空路で入っている。飛行機機内から松花江が見えたのは季節が違いこそすれ同じだったが、あのときは雪が積もり、凍った大地に泥色の川が蛇がのたうつように走っていて慄然としたが、今回は畑と水田?の緑が悠然と広がる。季節が違うと印象がずいぶん違うものだ。
満員だったとはいえ、機体はA321で小さく、ジャンボの時代に比べればそう多くの人数が乗っていたわけではないが、なぜか着陸後もあるセキュリティのX線透視装置の前で並ぶなど空港を出るまでに結構時間がかかった。
日差しは傾きかけていてもまだ強かったが、東京のうだるような空気と違って秋を先取りしている感じ。中日友好教会のマイクロバスで高速道路を市内に向かう。
記憶を辿っても、以前には高速道路はまだできていなかったように思う。宿泊地は川沿いのシャングリラホテル。部屋に入るとリバービューで、カーテンを開けると夕焼空だ。しかし川に夕日が沈む直前に集合時間が来てしまい、絶景を見逃す。マイクロバスに乗って出かけた食事会場はまたシャングリラホテル。ハルピンには二つあるらしい。川の対岸ではあるが、間に大きな中洲があるし、更に町の中心より離れた郊外だが、施設自体はより新しく、綺麗で大きい。
24日
翌日はお決まりの731部隊犯跡陳列館へ。ここも前に来ているので期待していなかったが館の前にクルマがついて驚いた。以前は広大な畑の中にある施設で、中学校にも使っていたが、今や平房の生活圏の中に入る全く別の巨大な施設になっていた。展示内容も前の20倍ぐらいあるのではないか。質量だけでなく、展示方法も、まるで博物館デモンストレーションの見本市のように次々と変わってゆく。学芸員志望者にみせてやりたいようだ。
分量が多いわりにスローガン的な展示が減っているのも印象的だった。根拠資料の展示が徹底しており、予想を超えて実証的だった。非常に論争的な箇所なのでかえって気をつかっているのか。昨晩会食時に黒竜江省のスタッフが「事実を踏まえるべきだ」と言っていたこととも符合する。ネトウヨに見せてやりたい感じ。ここまで圧倒的な内容を示されると相当めげるのではないか。こうした実証の上に反論も含めて議論があれば有意義だと思う。
市内に戻って昼食は餃子。前に来たときは夜に食べた。マルコポーロで一緒にいった時には、藤原作弥さんが食べ方の説明をしてくれたのが懐かしい。ロシア系らしいが、パンの味がする飲み物を飲む。「パンの味」と聞いて比喩だと思ったが本当にパンを飲んでいるようなのだ。格瓦斯とかいったが、ほんのり甘く酸っぱく、案外とおいしかった。アルコールは入っていないそうだ。
黒龍江省博物館を見てから午後遅めにソフィア教会をみてからキタイスカヤを散策。松花江まで歩いてみたが、街路が整備され、大きな地下道もあってきれいになっていた。前に来たときは白系ロシア人なのか、日本人の眼には白人に見える人が、多くないなりにも目についたように思うが、今回は全く姿を見なかった。で、夜は(たぶん)漢人の提供するロシア料理。
25日
8時の列車に乗るので渋滞を警戒し、相当早くホテルを出て駅に向かう。原団長期待の鉄道の旅が始まる。前に来たときはひまわりの種を食べながら在来線をのんびり移動していたが、今回は新幹線だ。改札も自動になった(客が多くて機械ではさばききれず駅員が改札していたが)。
車両は時速380キロを目指す第2世代の高鉄GA380のICE系のものだった。新幹線がルーツの車両もあるのだが数が少ないようだ。一等だったので座席は2人がけ2つの4列。長春まで約一時間。前は移動だけでほぼ一日使っていたので浦島太郎の気分だ。
長春に近づくと車窓に見覚えがあるのは気のせいだろうか。加速側はそうでもないのだが中国新幹線は減速を駅のかなり手前から始める。しかし在来線時代はその比ではなく、今にも止まってしまいそうな速度でゆっくりゆっくり市街地を走り、駅に入ってゆく。もう下りるのだからと入れ替えた気持ちがなかなか叶えられずに宙吊り状態になって、動力機関のない客車で静かなこともあって、ゆっくり流れてゆく車窓をみているうちについうとうとしてしまい、不思議な半覚半睡の境地になったものだ。
10時には駅に着いてしまった。駅構内には携帯電話VIVOのポスターがあちこちにある。昔だったらVAIOだったのかもしれない。
日本が高度成長できた大きな理由は厚い消費人口だ。厚い国内人口を主要な消費者と見込んで、安かろう悪かろうの非難に耐えつつ新技術の開発に勤しみ、世界的に競争力をある民生品を作った。人口の暑さは町を渋滞させる原因でもあるが、それが成長の原動力でもあるのだ。中国の経済成長は、もちろん政治体制の違いはあるが、よりマクロに観てしまえば、日本と同じことを遥かに大きなスケールで繰り返しているといえよう。とんでもない数の国内人口を市場として相手にできるので国際的に競争力のない機器が商品として成立した。その時点で必要なのはまだ経済力の十分ではない国内の人々でも購買可能な安い機器なのだ。そこで市場を確保したうえで技術開発に投資し、世界でも通用する民生品を作ってゆく。最近評判が良くなったVIVOやOPPOのスマホはそうして出来ている。
民生品の世界でもはや日本は中国に勝てない。それは同じ土俵の上にいて、同じ方法をより大きなスケールで採用している相手だから。日本から民生品メーカーが消えてゆくのは平家物語ではないが、栄枯盛衰の一種の必然だろう。25年ぶりに訪ねた中国で日本メーカーの宣伝が消えていた。東芝が原子力を残したことに批判が集まったが、民生品では勝負にならないという認識を経営陣は持っていたのではないか。東芝は組んだ相手が悪かったが、三菱や日立は東芝を反面教師としつつ、やはりBtoB、というかBtoG(overnment政府)とでもいえる産業部分、たとえば鉄道とか原子力に舵を切ってゆくように思う。最近、話題の軍民デュアルユースの問題も、そうした産業史の中で観る必要があるのかもしれない。
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到着したのは新幹線と一緒に作られた新駅である長春西駅。周辺の開発がまだなのでガラガラだ。そこからマイクロバスに乗って、かつて満州国建国十周年式典をしたというスタジアムに向かう。ここは歴史好きの中国側もノーチェックだったようで何の展示もない。ただ普通のスタジアムだった。スポーツ競技的にはハイシーズンだろうが、全館閉鎖して改修中で、おりしも強くなっていた風に土埃が盛んに舞っている。
長春ではハイアット。日本のパークハイアット級のかなりらぐじゅありぃなホテルだった。米国外資系ホテルはほとんど来ている印象だ。しかし米国人は殆ど見ない。新しいコロニアリズム様式だと思うが、大きなインスタレーションなどが置かれ、清潔な中にアジア風味を感じさせるロビーでチェックインし、そのまま昼にホテルの中の中華料理店で吉林省のスタッフと会食。午後から旧満映の敷地に作られた長春電影の博物館へ。旧満映の建物をそのまま使っており、甘粕が自決した理事長室前の玄関もそのまま。玄関前の毛沢東像も前に来たときのままあった。ただ造作なく白塗りされており、正直、気を使って大事にされている印象はなかった。
展示は殆どが戦後の長春電影のもので、ここは731記念館とか逆に満映時代は殆ど言及されていない。左翼活動家も多く働いていて敗戦後にも相当数が居残って長映の立ち上げに関わった満映の評価はこちらでも揺れているのかもしれない。
旧満州国中央銀行や旧満州電々のビルを観たりしながら、市電に乗ってみたりしながら南湖へ。溥儀が欲しがった三種の神器の複製品が彼が新京から逃亡する時にここに捨てられたとして原団長が見たがった場所。渋滞で到着がすごく遅くなったが、着いたらにわか雨があがって虹が出るドラマティックな展開になる。最初に長春に来たときは滞在時間に余裕があって結構丁寧に取材した。しかし中華料理の油が悪かったのか余り体調が良くなかった。そんな中、南湖に来たときは景色がよく、気が晴れてずいぶん救われた印象がある。今回も変わらずきれいな公園だった。湖面をわたる夏の風が心地よい。
渋滞に関しては『偽満州国論』でも指摘していたこと。長春(新京)の都市計画を本格的なヨーロッパ都市を実現した理想的なもの、東京にあっては様々な生涯に阻まれて実力を発揮できなかった東京の都市計画関係者の底力がいかんなく発揮された傑作都市と讃える向きもあるが、この作りでは後背の農業用地から流入する大量の労働者たちのよって人口爆発を経験するアジア都市では耐えられないだろうと書いた。92,3年ではまだまだ渋滞はひどくなかったが03年は結構な渋滞が発生しており、今回はまさに『偽満州国論』の予言が的中したような状態だった。
東京では都市計画が実践できなかったために露呈しなかった問題を満州の都市計画は秘めていた。その問題が「爆発」するのは満州国の存在期間ではなく、中国の経済発展後だったと考えればいいのだろう。
たとえばロータリーは交通容量が少ないときには信号がないスムーズな流れを実現するが一定以上にクルマが増えると渋滞の発生源となる。まさに四方の放射状の道から鼻を突っ込んでくるクルマでにっちもさっちもゆかなくなっていた。しかし自分の予言が的中して自分が渋滞の中で喘いでいるのだから皮肉な巡り合わせだ。
夜は北朝鮮料理。東京には延辺料理があってそれを北朝鮮系の料理だと思っていたが、延辺は今は親韓国の地域であり、たとえばこの店で延辺冷麺を頼むと韓国風でり、北朝鮮の冷麺を食べたければ平壌冷麺をオーダーしないといけないという。「喜び組」ではないが、民族衣装を着た若い女性の歌と踊りがある。昔の日本の歌謡曲のような音楽に、どこかAKB的な振り付けで、時空が歪んでいる感じがする。
26日
翌朝起きると北朝鮮がミサイルを撃っていた。7時にNHKNewsWEB速報がケータイに入り、「韓国通信社からの情報によると」とするニュースをWEBで確認。次いで部屋のテレビでNHKを見るが映っている総合では言及せず。45分に日本政府筋の報道速報もWEBのみ。放送ではおはよう日本の最後に言及。8時半過ぎにもう一度報じていた。
米韓演習があればなんらかの示威行為も必要なのだろうから何かあるとは思っていたが、昨晩、北朝鮮料理を食べて明けた朝にミサイルの洗礼を受けるとはなんとも皮肉な巡り合わせだ。米国が一切反応していないようなので安堵する。
午前中、偽皇居博物館へ。ここも前に来た時とは比べ物にならないほどチケット売り場が大きくなっていたし、前は見せていなかったのだろう、勤民楼以外の施設の見学もできるようになっていた。
防空壕に入れたのも始めてで、自由に入れる見学施設なので完全に締め切ることはないが、それでも分厚い扉は威圧的で、密閉感が強いだろうことは想像に難くない。閉所恐怖症であればかなりしんどい経験をすることになりそうだ。朝鮮半島で戦争が始まったら案外使われたりするのだろうか。
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偽皇居見学を終え、土曜のせいか大混雑の駅周辺の人混みをかき分けかき分け長春駅から高鉄に乗って瀋陽へ向かう。
今度もパソコンを開く気にもならないほどあっという間だ。
瀋陽では最初に918記念館を見にゆくが整備中で入れなかった。市のスタッフが案内しているのにこういうことがありえるのがさすがに中国人は大人である。ホンタイジの陵墓「清昭墓」の方は見学できてその後に遼寧省の友好協会へ。民国時代の要人邸をそのまま使う施設の中で中日友好協会の代表者と面会してから、一緒に外に出て張学良のお世辞にもうまいとはいえない書が壁に掛かっている部屋で食事をする。この書を張っているのはもちろん学良が歴史上の重要人物であり、瀋陽とこの店にゆかりがあるからだろうが、書がそのものとして伝える含意もあるのだろう。学良は教養人ではない。
遼寧省の職員によると遼寧省は国営企業が多く、職員に遵法を強く求めてきたため出生率が低く、高齢化が早いのだという。確かに人口増加率も鈍っていると聴くし、調べてみると遼寧省はいち早くマイナス成長となっているらしい。中国のスケールビジネスの先行きに翳りを感じさせる話だ。どこまで飛行距離を伸ばして失速するか、他のライバルが出てくるかによって着地場所は変わってゆくのだろうが。
27日
翌日は今回の旅程のハイライトのひとつである鉄路陳列館へ。まだオープン前で他に客がない中で見学。夕日の満州の大地を高速で走ったアジア号機関車が目玉だが、機関車が牽引する特急の最後尾につながれていた展望席付きの車両も陳列されており、こちらは車内にも入れた。当時、この個室で満州国を移動していたような人たちに思いをはせる。満州国13年間、自分が前任校にいた時間とほぼ同じだ。たったそれだけの時間内で国家の興亡を経験するとはどのような人生だったのか。
やはり高速鉄道用でまだガラガラの瀋陽南駅で乗車し、大連を目指す。ハルピンから大連までを結ぶのではなく、瀋陽と大連の短い区間を運転する便で「こだま」的なもののようだ。停車駅もいくつかある。8両の基本編成を二つつなげて16両。座席が多いわりには乗客が少なく、つめて座る必要がない程度に空いている。
大連は雨だった。海側に向かって開発が進み、もともと傾斜の多い街でもあり、霜柱のように高層ビルが建ち並ぶ香港島のような景色になっていたのには驚かされた。夕食を視スタッフと会食し、全行事終了。明日は早朝に出て帰国だ。
28日
夜に一度雨が上がったタイミングで少し街に出たが、また降り出した容ようで朝起きるとホテルのガラス窓に水滴がついており、日が昇っても外は暗い。ただ、今日はクルマで空港にゆくだけなので特に問題もない。
西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」という歌が大連を歌ったというのは都市伝説で、こちらは実は60年安保反対運動の時の歌。清岡卓行の『アカシアの大連』と混じってしまっている。もっとも自分だって満州のことを書いていたときのBGMは加藤登紀子の「時には昔の話を」だったのだから笑えない。こっちは全共闘運動だ。しかし挑戦の挫折ということでは三者に共通性もある。
ちなみに歌にまつわる都市伝説もあるが、大連のアカシアというのも都市伝説で、実は種が違ってニセアカシアなのだという。アカシアの偽物ということではないが、葉の形がにているのでアカシアと間違えられる。清岡もそうだったし、読者もそうだった。
大連は遼寧省の経済の3割程度を担ってきたが、省内でも落ち込みが激しいという。依存していた日本企業が振るわないのが原因だとか。確かに町中でも日本人の姿を見ることが殆どなかった。湾岸地区に高層マンションを林立させ、香港島のような景色となっているが空室も多いらしい。日本企業の進出によって作られたバブルははじけつつあるということか。
「偽満州国論」はタイトーのミヒャエル・コーガンを取り上げて終わる。虚実を入り混じる興行の世界を生きた白ロシア人の彼もハルピンから大連を通って日本に渡ったはずだ。25年後の旅もまたニセアカシアの町で終わるのだとしたら偽なる国家の興亡、幻想国家の明滅を描いた作品の二週目のエンディングにふさわしいともいえよう。
最後に。結局、中国でずっと考えていたのはバターとバラーナイフの問題だった。長春の都市計画を「理想的」にした、植民地ゆえの統治者側の自由度の高さは確かに褒められたものではないが、ノージックがアナーキズムを否定したのと同じ意味合いで、十把一からげに統治権力が否定されるべきものでもないとは思う。民主主義はバターバイフの切れ味を悪くする。そこにはいい意味での保守性、大衆性の一方で自らを自分の力で救えない衆愚性のようなものが混じっている。間違った切り方をしない範囲でバターナイフの切れ味をよくするための工夫の必要は満州国の時代から今に至るまで、そして日本と中国を横断するかたちであるのではないか。なんでも切れるナイフも問題だが、なにがなんでも切れないバターも問題だ。
たとえば中国だとネット遮断がよく話題になる。実際、行ってみたらグーグル系は全滅だったし、それ以外にもCGM系では政府がまさに狙った結果なのか、機構的な問題か、接続できないサイトが結構あった。ソーシャルを恐れる社会主義国というのも皮肉な話だ。しかし一方でグーグルに象徴されるネット社会のあり方が、日本を含めた「言論の自由先進国」で果たして健全なのかについては、慣れや利便性に麻痺して問題意識をなくすべきではない。公共サービスのかなりの部分が米国私企業によって担われている状態をデフォルトスランダードとしていいものか。しかし、こちらも一方で国際検索エンジン作りの試みがまず技術的にもうまくゆかないし、これまた日本ファースト的な内向きなものであることも認識している。どっちにいっても行き止まりなのだが、行き止まりと行き止まりの間のスペースをどうするか。
辻田真佐憲『文部省の研究』では文部科学省が一貫してナショナリズムとグローバリズムの間で揺らいできたと指摘しており、読んだときはそのとおりだと思ったが、今回、満州国から今に至る時間の広がりで中国をみて翻って日本を考え、ナショナリズムとグローバリズムを両立させられない問題は、おおげさにいえば近代社会全体にまで裾野を広げるもののようにも思えた。
先にソニーのことを書いたが、電気メーカーはある時期は国内市場を相手に研究開発体力を養いつつ、国際的にも評価される商品を作った。今は量を相手取るビジネスのシステムそのものが破綻しているが、、たとえば同じ高度成長期の日本企業でも全く内向きのままで我が世の春を謳歌し、外資系が入ってくるとひとたまりもないファッション企業などもある。そこにもナショナルとグローバルの両立の難しさを感じさせる。
英国のEU離脱やトランプ政権の誕生、都民ファースト、日本ファーストの動きなど、世界的に内向きを感じさせるものが多いが、離婚されてしまったEUだって決してグローバリズムの理想であったわけではない。グローバルに開かないナショナルは意味がないが、ナショナルを犠牲にするグローバルも問題だ。まさにその間をどうゆうか。『偽満州国論』では都市共同性と国家共同体という言葉を使った。都市共同体はバターで国家共同体はバターナイフだ。両者を調停するのは「隔離という病」で書いたノージック流の最小国家か 「NHK問題」で書いたローティのリベラルアイロニーの公共性か…。おや、結局、25年の時間をもう一度おさらいしてやりなおせということか。公的な世界にはまだまだいろいろやるべきことは残っているし、ワタクシ的にも今まで書いてきたことをもう一度やり直すことも含めて書くべきことがまだまだ残っているということなのだろう。
この言葉は、若い頃にお世話になったイタリア人ジャーナストのテルザー二氏がコルカタの町を訪ねて記事に書いた「ここは神などいないことの証明か、神にはまだ仕事が残っていることの証明だ」という表現をパクっている。テルザーニ氏は長く中国特派員を務め、「名誉の」国外退去処分となり、日本で活動していた80年代に知己を得た。亡くなる直前にフィレンツェの自宅を訪ねたのはちょうど10年ぐらい前のことだった。あの時もフィレンツェで虹を見た。そんなことまで思い出したのも中国の旅が記憶を引きずり出してくれたおかげかもしれない。
長い時を隔てて同じ場所を訪ねると変化に驚かされる。その感覚はそこに暮らす人にはない。少しずつ変わってゆくとひとはそれに気づけないから。微分してしまうと見えなくなってしまう時代の微小な角度のようなものを積分的な視点で見るので、その方向性に気づく。そんな「気づく人」になれたとしたら今回の視察旅行にも意味があったことになるのだろう。その気づきを持って帰って、こちらは日々微分された時間の中に暮らす東京を観るまなざしに生かす。そんな往復運動ができるといい。