産経新聞「複眼鏡」8月掲載分生原稿
「大山鳴動して鼠一匹」。築地市場移転問題の決着に対してよく用いられた表現だ。確かに豊洲新市場予定地の危険性を散々強調しておきながら、最終的には「科学的には安全」の評価委員会の答申を受け入れて移転を決定。築地も再開発後に市場機能を持たせると含みは残したが、あの大騒ぎは何だったのかと思わざるをえない。それは小池都知事の問題だけではなく、自前で安全性、危険性を調べ切れないジャーナリズムの問題でもあろう。
他にも騒動は大きく広がったが、真相究明に至らないアンバランスを感じる機会が増えている。そんな印象を持っていたので岩波書店の『世界』9月号のジャーナリズム特集を興味深く読んだ。特集巻頭は花田達郎・早稲田大学教授の『ジャーナリズムと市民社会の再接続』。アカデミズム=大学がジャーナリズムの担い手になるべきだという主張がなされ、早大ジャーナリズム研究所発行のWEB媒体「ワセダクロニクル」が紹介される。
筆者も研究者が担うアカデミック・ジャーナリズムの可能性を提唱してきた経緯があったので論文には共感できる箇所が多かったが、多少の抵抗も覚えた。
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たとえば「メディア組織内部における『忖度』や自主規制という名の自己検閲」が働くのでジャーナリズムが権力監視の機能を発揮し得ないという論文の指摘をメディア関係者は襟を糺して傾聴すべきだろう。
だが、権力監視機能を失ったマスメディアは信頼を失い、市民社会と断絶しているから市民社会とジャーナリズムの「再接続」が必要だと論旨は展開する。確かに最近のマスメディア批判は激しいが、それは即座にジャーナリズムとの断絶を意味するのだろうか。
そこで注目したいのソーシャルメディアなのだ。日本のツイッターの月間アクティブユーザー数は4000万、フェイスブックは2700万人に達した。親しい同士のコミュニケーションにも使われるが、話題のフェイクニュースを含め、「ニュース」の拡散においてソーシャルメディアの役割はもはや無視できない。つまりソーシャルメディアの時代にジャーナリズムは市民社会と断絶するどころか、むしろ市民社会に浸潤し始めており、そこにこそ問題があるのではないか。
というのもソーシャルメディアは当事者発言や支持者の主張の場になり、現象の一面のみを一方的に伝えやすい。そこでは善悪や正誤をあらかじめ定めて単純化された対立の構図が作られがちだ。たとえば小池百合子都知事VS都議会のドン。官邸VS前川喜平元文科省事務次官…。ソーシャルメディア上でそれぞれのアクターの言動が伝えられ、贔屓筋が拡散する。
リツイート数や「いいね」の数は注目度を示すひとつのバロメータだからマスメディアも無視できない面があるのだろう。結果としてソーシャルメディアと共振共鳴して事件をドラマチックに報じることに力が削がれ、一向に真相究明は深まらない。それがソーシャルメディア時代のジャーナリズムが陥りやすい陥穽ではないか。
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実は大学もまた許認可官庁などの意向を「忖度」したり、志願者数確保のために様々な自主規制をしたりする恐れがある。それを思えば、ただ大学にジャーナリズムの実施主体を移すだけで真相究明を目指す調査報道が確立されるわけではないのは言うまでもない。
ジャーナリズムを担う組織、立場には当然それぞれに強み弱みがある。だからこそそれぞれに調査と報道が確かに実現できる環境整備に務める臨機応変さが必要となる。ただ劇場化=スペクタクル(見世物)化に抗うことは、立場を横断してジャーナリズムに要請される共通の課題となるのではないか。ソーシャルメディアの時代に至った今、求められているのはジャーナリズムと市民社会の関係「再構築」ではないかとも思うのだ。